因美線 全線全駅完乗の旅 3日目(河原〜用瀬)

旅の路線図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年1月6日、朝から小雨のぱらつく空模様だった。旅先の雨は嫌うどころかむしろ好んでいるので悪くない。傘という余計な荷物が増えるし、時にはずぶ濡れにもなるけど、そんなことはどうでも良くなるほど雨の景色は魅力的に映る。

目的地が遠くなってきたので早い時間に発つ予定が、もたもた支度をしていたら遅くなり宿を出たのは7時半。鳥取駅のホームに上がると8時発の智頭行きがいたので、その足で乗り込み、結果的に前回と同じ列車での出発となった。

鳥取駅で発車を待つ、普通列車の智頭行き 631D。
普通 智頭行き 631D

鳥取発車時には学生で混み合っていたけど、途中の郡家までにほとんど降りてしまい、車内には老人と旅行者がわずかばかり残された。雨脚は時間とともに強くなり、窓ガラスには雨粒が勢いよく流れていく。

前回訪れた河原を過ぎると鳥取を出てから初となるトンネルが現れた。短いもので入るとすぐに出てしまう。景色にも変化はなく山間の農村風景が続く。そのまま街らしい街もないままに列車は速度を落としはじめた。

国英くにふさ

  • 所在地 鳥取県鳥取市河原町釜口
  • 開業 1919年(大正8年)12月20日
  • ホーム 1面1線
路線図(国英)。
国英駅舎。
国英駅舎

中国山地から伸びてきた山々が広がる中に、千代川の作り出した大きな谷があり、その谷底で流れに沿うようにして伸びる平地である。住宅や田畑が肩を寄せ、土地を求めて集まってきた国道と鉄道が通り抜け、置き土産のようにして駅がある。鳥取を出てから比較的に開けた所を走ってきた因美線は、この辺りから山間を縫うようになる。

乗降客は私だけで、列車が去ると雨音しか聞こえないほどの静けさ、わずかな住宅と田んぼや果樹園に囲まれた様子は、山間のひなびた集落という印象である。9時近いというのに明け方のように薄暗く、冬枯れの景色と相まって物寂しい。

そんな立地の1面1線という小さな駅ながら、開業が大正時代と古いせいか木造駅舎を備えている。駅舎は不自然に幅が狭いバランスの悪い外観をしており、どうやら待合室の部分を残して取り壊したようである。ホームに接して待合室があるせいかホーム上に待合所はなく、思えばホームに待合所がない駅というのは因美線で初めてだ。

国英駅ホーム。
国英駅ホーム

誰もいないと思いきや待合室には爺さんがひとり座っていた。今の列車に乗らなかったのだから鳥取行きを待っているのだろう。そこに駅裏から線路を越えてホームに上がってきた爺さんが合流して、終日禁煙の文字もむなしくふかしながら話し込んでいた。壁には家庭ごみを持ち込む輩がいるため、ゴミ箱を撤去したとの貼り紙があり何だか考えさせられる。

ほどなくして鳥取行きがゆっくり入線してきた。それを見ながら慌てる風もなく高校生くらいの若者が悠然と自転車でやってきた。降りる人はないため駅には私だけが残された。

何があるという訳ではないこの駅で存在感を放っているのが、待合室でも出入口の真上という一等地に掲げられた肖像画だ。場違いとも思えるこの絵は一体何だろう。駅に関係のある方が描いたのか、はたまた被写体の方が関係あるのか、それとも不用品を置いていったのか、思いを巡らせるが分からない。先ほどの爺さんに聞いておけばよかったと思う。

肖像画が目をひく待合室。
肖像画が目をひく待合室

駅舎の隣りには大きな駐輪場がある。きっちり収めれば100台くらい並べられそうにも見えるが、大半が荒れていて肝心の自転車は2台しか止まっていない。昔は利用者が多かったことを想起させる。

駅前からは先の見通せない狭い道路が伸びていて住宅が数軒並んでいる。さすがにこの立地では商店どころか商店だったらしき建物すら見当たらない。雨は相変わらず降り続いていて傘がなければ数分でずぶ濡れになってしまいそうな降り方だ。

善南寺

地図を穴が空くほど見つめても近場には何もない。少し歩くなら2kmほど離れた千代川の対岸にある大義寺に、戦国時代の一時期に因幡の実権を握るも、謎の死を遂げた武田高信の墓があるという。そのあたりでも散策してみるかと傘を開いた。

歩くとすぐに宅地を抜けて田んぼが広がる。なにげなく因美線の背後で雨に煙る山並みに目をやると、中腹に明かりがぽつんと灯っている。地図によると寺院があるらしい。人里から離れたあんな所にどういう寺だろうか。明かりがあるということは住職が居るようだし、妙に気になり訪ねてみることにした。

濡れない程度の小降りになってきたので傘を片付けつつ歩く。沿道には刈り終わった田んぼと柿の実が目立ち、何だか晩秋を旅しているように錯覚してしまう。途中の神社には何台もの車が並んでいて、まるで秋祭りの準備のようにも見えたが、正月の後片付けらしきことを町内総出といった様子でやっていた。よそ者の入り込む余地はなく横目に眺めて通り過ぎた。

線路沿いに寺を目指す。
線路沿いに寺を目指す

寺のふもと辺りまでやってきたが登り口が分からない。寺など存在しないかの如く標識のひとつすらなくて困惑する。右往左往とした結果これしかないだろうと、入口に小さな石仏が安置された山道に足を踏み入れた。周囲は墓地になっていて薄暗い雨と相まって気分がよいものではない。しかし正解らしく道は墓地を抜けると山上に向けて伸びていた。

雑木や竹に囲まれた薄暗い山道はつづら折りに山を登っていく。風がないので木々からしたたり落ちる水音が方々から聞こえてくる。ほとんど往来はないらしく足元は落ち葉に埋もれていた。所々に石が顔を出していて元々は石段があったのかもしれない。

本当に寺があるのかと思うような所だけど、点々と石仏が安置されていて参道である事は確かなようだ。石仏は随分と風化しているけどよく見ると氏名に加え、安政や明治といった年号が刻まれていた。江戸末期から明治初期にかけて奉納されたものらしい。冬だというのにまだ新しい花が供えられていて信仰が息づいていることを感じさせた。

点々と石仏の安置された参道。
石仏が点在する参道

車でも上がれるような道があるだろうという想像とまるで違う展開に、どんな寺なのか期待と不安が入り交じる。視線の先に瓦屋根が見えてくると石段らしい石段が少しだけ現れた。傾いたりして半ば崩れかけていたけど、この寺の雰囲気には何だかしっくりきた。

そうしてたどり着いたこの寺は善南寺という名前で、山の中腹に辛うじてあるような狭い平場にあった。その狭さに合わせるように小さな本堂と庫裏、それに鐘楼などが肩を寄せ合うように並んでいた。歩いてしかたどり着けないこのような寺にどんな住職が居るのだろう。などと思いきや無住らしく生活感も人の気配もまるで感じられなかった。

善南寺。
善南寺

本堂のすぐ前に立てば木々の隙間から下界の景色が見えた。千代川を挟んだ対岸にある集落まで望むことができ、絶景とまではいかないけど眺めは良かった。時々列車がレールを刻む音が響いてくる。唐突に静かになるのでトンネルに入ったのだろうかと、そんなことを考えていたら雨脚が激しさを増してきて景色が白く染まっていった。

冬とはいえ雪ではなく雨というだけあって寒くはない。そこはやはり雪ではなく雨なのだ。でも寺の方は無住なだけに雰囲気が寒々しい。人気のない神社は落ち着くのに、人気のない寺は落ち着かないのはなぜだろう。

忘れ去られつつある寺のようにも思えたが管理はなされていて、最初に目に留まった明かりは本堂のものだが、裸電球が似合いそうなこの寺にして意外にもLEDが利用されていた。足元の山腹では治山工事をしていて真新しいコンクリートに覆われ、工事用らしきモノレールの姿も見られた。

善南寺境内からの眺め。
善南寺境内からの眺め

次は先ほどの神社に行こうかと思ったけど相変わらず賑わっていたので、予定を変えて近くを流れる千代川を見に行くことにした。途中なく振り返って寺を見ると誰か潜んでいた訳でもあるまい、いつの間にか本堂の明かりが消えていた。

道すがら大きな石碑が立っているのを見つけ、耕地整理とか土地改良の類かと近づくと、村岡範為馳という方の顕彰碑だった。あの村岡氏かと分かれよいが全然ピンとこない。それ以前に名前の読み方すら分からない。碑文に頼るとドイツ留学から東大の医学部や理学部教授といった経歴が並び、京大教授をしていた明治29年に国内初となるX線写真の撮影に成功したという方だった。ちなみに名前は「はんいち」と読むそうである。

村岡氏はこの地の出身で当時は釜口村といった。それが明治の合併により国英村、昭和には河原町、平成に入り鳥取市と変ぼうしていく。鳥取市河原町釜口という住所にその名残りを留めるが、駅名の元にもなった国英の名前だけ完全に消えている。おかげで地名でもない難読な駅名はどこからやって来たのかという感じだ。

村岡範為馳の顕彰碑。
村岡範為馳 顕彰碑

千代川にかかる橋の上までやってくると水の流れる音が怖いくらいに響いていた。まだまだ川幅は広く100mくらいありそうだ。昔はここを人や物資を乗せた舟が往来していたという。結構流れが早いので下るには都合が良さそうだけど上るのはどうしてたんだろ。遠くの方には雨の降りしきる中で川に入って何かを採っている人の姿があった。

駅に戻ってくると急に雨は小降りになってきて薄日まで差してきた。まずやってきた鳥取行きを見送るが乗降客はない。続いて乗車する大原行きがやってきた。大原は智頭急行にある駅なので予想通り智頭急行の車両で現れた。こちらの乗降客も私の他には誰もいない。

国英駅に入線する、大原行き普通列車 633D。
普通 大原行き 633D

単行列車にも関わらず車内はボックス席すらいくつか空いていた。日中のローカル線らしい光景ともいえるが寂しい乗車率である。暖かな車内とすっかり曇って景色の見えない窓が眠気を誘う。そこにどういう気まぐれか急に日が差し込んできたものだから、ただ眩しかったということだけを覚えている。

鷹狩たかがり

  • 所在地 鳥取県鳥取市用瀬町鷹狩
  • 開業 1961年(昭和36年)8月1日
  • ホーム 1面1線
路線図(鷹狩)。
鷹狩駅ホーム。
鷹狩駅ホーム

山々に囲まれた中にある1km四方ほどの開けた土地である。千代川と支流の赤波川の出会いの地で、両者が山を削り谷を埋め、長い歳月をかけて生み出したものだろう。東側には入り組んで歴史ありげな宅地が置かれ、西側には田んぼが広がり、両者の間に国道と鉄道が敷かれている。そこに戦後になって開設された県内の因美線ではもっとも新しい駅である。

降り立ったホームには孫らしき子供を連れた爺さんが立っていた。列車の見学に来ていたようですぐに去っていく。線路に並走する国道は往来が激しく、沿道にはコンビニやスタンドなどが並ぶので、路線開業時からある河原や国英より賑やかに映る。

線路脇にホームを置いただけの簡素な駅で、載せられた待合所が木造ではなくブロック積みというのが、昭和30年代の開設を実感させる。ベンチには座布団が置いてあり、掃除や除雪道具は豊富に用意され、壁には部落ごとの清掃当番表が掲げてある。国英ではマナーの悪さから撤去されていたゴミ箱も健在。随分大事にされた駅だなと思う。

鷹狩駅の待合所。
待合所

木製の電柱が残るホームを行ったり来たりしていると、待合所の脇に鷹狩駅と刻まれた小さな石碑があるのに気がつく。開業記念に設置したのかなと裏面を確認すると、総工費221万円に大村財産区とあった。もしかしてこの駅はこの地区で設置管理しているのだろうか。そう考えると清掃当番が割り当てられているのも納得である。

線路の向こうには見上げるほど大きな石碑が立っていて、裏面にびっしりと文字が刻まれているのが見える。国英でのこともあり有名な方の顕彰碑だろうかと行ってみると、横谷美賀之助という方の顕彰碑だった。誰だろうかと碑文に目を通すと、長年この地で議員や農協協会長を努めた方らしい。実績として鷹狩駅の新設が挙げられていて、駅を見守るような位置にあるのはそのためかもしれない。

線路脇に立つ顕彰碑。
線路脇に立つ顕彰碑

駅前には駐輪場があるだけで駅舎どころかトイレすらなく、駅前らしさというものは感じられない。戦後開業の小さな駅ともなると大体こんなものである。斜め向いには焼き立てパンの店があり空腹感にさいなまれた。

鷹狩神社

駅前を横切る道路には「赤波川おう穴群」なる興味深い看板が立っていて、いいかもしれないと思ったが、6km先という文字に足が止まる。向かえば日没までに帰ってこれるかどうか怪しいものがある。それに川だと雨による増水も心配だ。とりあえず頭の片隅に置いておくことにして、近くにある神社に向けて周辺を散策してみることにした。

歩いてみると歴史を感じさせる家並みが、そこらかしこに残っていて悪くない。狭く蛇行した道路沿いに、板壁や土壁の古びた建物が軒を連ね、豊かな水が滔々と流れる水路が寄りそう。お地蔵様や大きな常夜灯もさりげなく座っている。この辺りは参勤交代にも使われた因幡街道なのだろうか。

駅周辺は昭和30年まで存在した旧大村の中心地らしく、何気なく目をやった石碑に大村役場跡と刻まれていた。鷹狩駅が開業したのは昭和38年だから、線路が役場のすぐ近くを通っていながら、最後まで駅のない村だったのだ。隣りの用瀬駅までわずか1.3kmしか離れていないのに新設された鷹狩駅は、長年の請願が叶ったものなのかもしれない。

駅近くの通り。
駅近くの通り

家並みが途切れて田んぼの広がる景色になる頃、山すそに小さな神社が見えてきた。駅と同じ名前の鷹狩神社で、特にどうということのない神社だけど、降りしきる雨と木々から落ちる雨だれの音に包まれた境内は神秘的なものを感じさせた。由緒書きによると創建年代は不明ながら少なくとも江戸初期には存在していたとある。

正月ということもあってか手入れの行き届いた拝殿の前には、どんど焼きに備えて置いていくのだろうか、しめ飾りがいくつも並んでいた。

印象に残るのが誰の手によるものか竹を活用した手水舎で、裏山の湧水だろうか勢い良く水の流れ出る水口から柄杓、さらには柄杓をかけておく所まで全てが竹で作られていた。安上がりなだけでなく見た目にも素朴で美しい。うまく作ったものだと感心してしまう。

雨音に包まれた鷹狩神社。
雨音に包まれた鷹狩神社

駅に向かっていると空は明るくなり雨も上がった。次の列車まで30分以上あるので、昼飯にしようかと考えたが肝心の店がない。焼き立てパンやコンビニはあるけど、旅の食事として少々物足りない。どうしようか迷ったが次の用瀬で食べることにする。

代わりに時間つぶしがてら近くを流れる千代川まで足を伸ばす。鮎釣りで有名らしいが冬とあって人の気配すら感じられない。そのまま橋を渡り対岸までやってくると美成という集落があり、蔵や六地蔵の見られるなかなか絵になる所だったが、こちらもまた人の気配どころか猫の姿すら見かけなかった。皆こたつで丸くなっているのだろう。

高台にある神社に上がっていくと、参道には川原から集めたような丸みを帯びた石が敷き詰められていて、それが雨に濡れてつやつやと輝いている。雨の日に訪れたからこその光景といえよう。その先には一升瓶と鏡餅が供えられた拝殿が鎮座していた。言葉にはできないが先ほどの鷹狩神社とは随分雰囲気が異なる。隣り合うよく似た集落同士でも、神社だけは別世界のように異なるから面白くもあり不思議でもある。

駅近くを流れる千代川。
駅近くを流れる千代川

慌ただしく駅に戻ってくると再び雨がこぼれはじめた。空の方も随分と慌ただしく一体どうなっているのかと空を見上げれば面白いように雲が形を変えていた。雨が収まるたびに濡れた傘を吸水カバーに片付けていたら、いよいよ吸水しきれなくなり、吸水カバーを収める吸水カバーが欲しいような状態になってきた。

次に乗車するのは智頭行きの普通列車で、見えてきた車両が乗り慣れた智頭急行のそれではなく、初日に乗って以来となるたらこ色をした国鉄型車両だったのが嬉しい。智頭急行の車両に不満がある訳ではないが、色々と走っている路線なので色々と乗りたいのである。

鷹狩駅に入線する、普通列車の智頭行き 657D。
普通 智頭行き 657D

車内は混雑している訳ではないが空いているという程でもない、ほどほどの乗車率という感じだった。景色の眺めやすいボックス席に陣取ってはみたものの、発車したと思ったらもう到着する駅間距離の短さで、景色については何の記憶にも残っていない。

用瀬もちがせ

  • 所在地 鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
  • 開業 1919年(大正8年)12月20日
  • ホーム 1面2線
路線図(用瀬)。
用瀬駅舎。
用瀬駅舎

平成の大合併で鳥取市に編入されるまで存在した用瀬町の代表駅、それだけに郡家以来ともいえる街らしい街にある駅らしい駅だった。乗る人はなかったけど私の他にも高校生くらいの男女や、小さな女の子を連れた婆さんなど数人が降りた。はしゃぎながら駅を去っていく女の子と、それを追いかける婆さんの姿がどこか懐かしい。

構内は1面2線の島式ホームで開業当時からの木造駅舎が残されていた。改札脇には「流しびなの里用瀬」の文字と共に、等身大のような特大の流しびなが飾られているのが見える。実際の流しびなは片手に乗せられるような紙びなで、旧暦3月3日に無病息災を祈り千代川に流す行事は有名だ。その日だけはこの駅にも特急が停車する。

雨が降ったり止んだりしているホーム上には、駅舎とは対照的な新しく簡素なプレハブ感のある待合所が建つ。その近くには大きな庭石のようなものが大小2つ置いてあり、飾っているようにも撤去が面倒だから放置しているようにも見えた。

用瀬駅ホーム。
用瀬駅ホーム

構内踏切を渡り駅舎に入ると無人駅ながら古びた窓口と小荷物扱い所が並んでいた。使われなくなりカーテンや板で塞がれているが、現役当時の姿をよく残していた。あちこちリフォームされつつも木製の作り付けベンチなどに歴史を感じさせる。よく見るとちょっとした木材にも細工が施してあったりして、建設当時の力の入りようが伝わってくる。

壁には白黒写真が何枚も飾られていて、見ればまだ開業前の工事中の様子から、小さな客車を連ねた蒸気機関車の牽引する列車、それに出征の見送りなど用瀬駅にまつわる貴重な写真ばかりだった。これを見ると今では空き地になっている場所には側線や、上屋のある貨物ホームが存在したことが伺える。

開業当時の様子も記されていて、行楽客から用事もないのに乗る人まであり、列車は連日混雑したという。今からでは想像もできないような賑わいようである。

待合室に残された古びた窓口。
待合室に残された古びた窓口

駅前に出ると小雨のぱらつく人気のない静かな通りが伸びていた。周辺は家々が隙間なく建ち並んでいるが商店はまるで見当たらない。かつてはそうだったらしき建物が点在しているくらいのものだ。駅前食堂で昼食をという計画は早くも頓挫してしまった。

瀬戸川

この用瀬で有名なのは流しびなで、その名を冠した流しびなの館に行こうかと思ったけど、待合室に並ぶ観光地らしきパネルの中にある瀬戸川という1枚に視線が留まった。幅が2〜3mほどある石積みの水路に沿うようにして板壁の古い建物が並んでいる。思わず行ってみたいと思ったが、肝心の場所についての記載がないのだから片手落ちである。

どうしたものかと駅前通りを歩き始めた途端にそれらしい水路が横切っていた。これが瀬戸川かどうか知らないけど、風情ある光景を目の当たりにして気分が高揚してきた。変に観光化されておらず生活感にあふれているのが魅力的に映った。

上流と下流のどちらも良さそうで迷うところだけど、上流側を指して流しびなの館の標識が出ていたので、これは好都合とばかり上流に向けて足を進めた。さらさら流れる水面をのぞき込むと梅花藻が揺れていて水の美しさを感じさせる。

駅前を横切る水路。
駅前を横切る水路

向こうから歩いてきたおばさんを捕まえて尋ねるとこれが瀬戸川だという。そこから「良い所でしょう」を何度も口にしながら、テレビ取材が来た話などが延々と続く。割り込むようにして板壁のある場所を尋ねると駅よりずっと下流だという。流しびなに釣られて逆方向に来てしまったらしい。徐々に暗くなってきていて時間が気になるので、まだ話し足りなそうなおばさんに礼をして足早に引き返した。

水路の上には対岸の家に向けて無数の橋が架けられ、それが小洒落た木造などではなく適当さの感じられるいびつな形のコンクリート製なのが良い。中には水路に覆いかぶさるようにせり出した家もあり、狭い土地をうまく利用しようとした痕跡を見ているようで面白い。

そんな雑然とした景色も良かったけど板張りの建物が並ぶ一角までくると、それらとはまた違った風情が残りこちらも捨てがたい。説明板によるとこの瀬戸川は生活用水であると同時に、17基もの水車が回る貴重な動力源でもあったという。残念ながら水車は残されていないというが、残っていたら観光客が押し寄せそうだからこれで良いのかもしれない。

瀬戸川沿いに板壁の残る一角。
瀬戸川沿いに板壁の残る一角

堪能したところで流しびなの館に向かうべく引き返す。最初の選択を間違えたばかりに行ったり来たりとすっかり不審者である。駅から上流側には水路を渡って出入りする病院や、参勤交代の大名が休憩に使用したというお茶屋本陣跡、江戸時代から残るという石橋などが現れてくる。景色としては下流が良いかもしれないけど雰囲気としては上流が良い。そんな目の前の眺めに気を取られていたら後ろから自転車のベルを鳴らされた。

流しびなの館

標識に導かれて千代川のほとりに出た。対岸には目指す流しびなの館が見えている。金閣寺を模したという木造建築は立派なものだ。それだけに最上部に大柄なパラボラアンテナを載せているのはいただけない。もう少し景観を考えてはどうかと思ったが、それは近くで見ると駅にあったのと同じく、流しびなを模した大きな飾りなのであった。

流しびなの館に向けては太鼓橋というほどではないが、軽く弧を描いた赤い欄干の橋を渡っていく。ひいな橋という名前はひなの古い呼び方から付けられたという。昔は日本海に注ぐ河口からこの辺りまで舟運があったそうで、どこに船着き場があったのか痕跡すら見当たらないけど、陸運と水運の接点として大いに賑わっていたことは想像がつく。

近くまでくると建物は暗く静まりかえり休館日を思わせる。不安にかられるが開館中で、訪問者がなく明かりを落としていた結果、暗く静まりかえっていただけなのであった。

千代川と流しびなの館。
千代川と流しびなの館

館内は木造の暖かみを感じさせる内装で、歩くと床板がごとごとぎしぎし音を立てる。静けさの中でかすかに聞こえる雨音と若干の薄暗さが落ち着く。

展示室に一歩足を踏み入れると、見るからに歴史のあるひな飾りがずらりと並んでいた。よくある段飾りだけでなく絢爛豪華な御殿風もあり、思わず顔を寄せて見入ってしまう手の込んだ代物である。一方で私でも作れそうな簡素なひな人形もある。初めて目にする形態の数々とその由来を読んでいると、ひな飾りにそれほど興味を持ったことのなかった私ですら、すっかりその世界に引き込まれてしまった。

流しびなの館というだけあり当然流しびなの展示もあるが、竹田人形や市松人形まで並んでいて見応え十分である。市松人形のような日常生活の中で実際に使われていたものを目にすると、思わず足を止めてどんな経緯を辿ってきた人形なのかと想像をめぐらしてしまう。

外は荒れているらしく雷鳴が館内にまで響き、屋根を叩く激しい雨音が聞こえる。無事に帰れるか不安を感じながら展示室をめぐり、最後にらせん階段で最上部に設けられた展望室に上がると、雷雨どころか薄日が差し込んでいて驚かされた。ここからは用瀬の街並みから、背後にそびえる洗足山までが見渡せ、雨に濡れた景色が薄日でしっとり輝いていた。

展望室からは市街から洗足山まで一望できる。
展望室からの眺め

受付に戻ってきたところで、ひと声かけて駅に向かおうと思ったら、奥に日本庭園や売店がありますからどうぞと案内された。なかなか充実した施設である。裏口のようなところから外にでると、そこには広々とした回遊式庭園が待っていた。中央に配された大きな池をのぞきこむと、雨が作る無数の波紋越しに、色鮮やかな鯉がたむろしているのが見える。しかし寒いからか置き物ではないかと思うほど動きがなかった。

建物が金閣寺を模しているということは、この庭園もまた金閣寺のそれを模しているのだろうか。思えば本物の金閣寺を見たことがないので、そう言われたても本当に似てるかどうかすら分からない。これは金閣寺にも行ってみなければと思う。

流しびなの館に併設された庭園。
併設された庭園

日没が迫り刻々と景色の暗くなる中、瀬戸川沿いに駅を目指す。先ほど出会ったおばさんではないけど、何度歩いても風情ある良い所だなと思う。先ほどの薄日が幻に思えるほどの激しい雨に襲われるが、それもまたこの景色には似合っていて悪くない。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

本日最後となる列車はこんな場所と時間だけあって空いていたので、私の他にも何人か乗車したけど思い思いの場所に収まった。あとはゆっくりと過ぎ去る景色に今日の出来事を思い起こしつつ足を伸ばす。1日の最後に訪れるこの時間がとても楽しい。

用瀬駅に入線する、普通列車の鳥取行き 638D。
普通 鳥取行き 638D

途中駅で数人ずつ乗せながら河原までやってくると、路面に薄っすらと雪が積もっているのに気がついた。雨が雪に変わりはじめている。ここの待合所のベンチには昨日降りた時に1つ、帰る時には2つの空き缶が放置されていたのを思い出し、あれは一体どうなったかと過ぎゆく待合所の中に目を凝らすと3つに増えていた。

今夜は積もるかと思ったけど次の郡家ではもう路面から雪は消え失せていた。わずかな距離なのに不思議なものである。ここでは15分以上も停車したが降りたのは1人だけ、残った人たちは流しびなの館で見た鯉のようにじっと静かに発車の時を待つ。

辛うじて残照の残る鳥取駅では素早く改札を抜けて駅弁屋に向かった。朝から何も食べていないこともあり蟹めしを入手するとホテルに急いだ。これから中国山地に進んでいくと食事難民になる事も増えていくのだろうなあ。

(2018年1月6日)

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