山陰本線 全線全駅完乗の旅 4日目(亀岡〜吉富)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2017年3月28日、久しぶりに山陰本線の旅をしようと早朝の京都駅にやってきた。在来線として日本最長の路線だというのに、たまに思い出したように訪れるこんな状態では、完乗までに10年くらいはかかりそうだ。考えただけで気が遠くなるほど山口県は遠い。

空は雲ひとつない快晴で、昇ったばかりの太陽がビルの谷間から顔を出し、赤みを帯びた光が差し込んできて眩しい。見た目には暖かいけど春とはいえ早朝の冷え込みは厳しく、手や頬が痛いくらいに冷える。早く暖房の効いた車内に逃げ込もうと足早に改札に向かった。

京都駅舎。
京都駅舎

最初に乗車するのは胡麻行きの快速列車で、亀岡の隣りにある並河という駅を目指す。ホームは早くも混雑していて通勤ラッシュの様相を呈していた。車内に入るともう窓側の席はことごとく埋まっていて、辛うじて通路側に空席を見つけた。

普通列車の胡麻行き 2201M。
普通 胡麻行き 2201M

混雑はしていても座ることさえできれば楽なもので、あとは高架線の上から見慣れた京都の市街地や、日陰で青々とした保津峡の急流を眺めつつゆったりと先に進む。渓谷を抜けて住宅と農地が広がる穏やかな亀岡盆地に入ると、程なくして並河に到着した。この辺りは目まぐるしく景色が変わるから面白い。

並河なみかわ

  • 所在地 京都府亀岡市大井町土田
  • 開業 1935年(昭和10年)7月20日
  • ホーム 2面2線
路線図(並河)。
並河駅舎。
並河駅舎

盆地の中ほどで新しい住宅やアパートに囲まれるようにしてある駅だった。この様子だと朝は通勤通学で出ていく人ばかりで、降りる人は少なそうだと思ったが、意外にも大勢が降りて改札前には人だかりができていた。その後も到着する列車から続々と降りてきて、一体何があるのかと地図を確認すると、宅地の向こうには工場や大型店がいくつもあった。

街並みだけでなく駅の設備も新しく、駅舎・ホーム・跨線橋、どこを見ても作られてそう間がなさそうな姿をしていた。周辺の宅地開発に合わせて開業したようにも見えるが、調べてみると戦前の開業で、既に80年以上の歴史を有していた。それを感じさせないのは平成元年に駅が移転したということが大きいようだ。

並河駅ホーム。
並河駅ホーム

構内に興味を惹かれるような物はなかったけど、駅のすぐ裏手に展示してある、若干色あせた朱色のディーゼル機関車と、切断されて前頭部分だけとなった新幹線が目を引く。気になる存在ではあるが、駅裏に出入口がないので目の前にありながら手が届かない。

とりあえず駅を出ようと改札に向かうと、駅舎は小さいが有人駅で、みどりの窓口から自動改札機まで取り揃えられていた。必要なものをコンパクトにまとめた見本のような駅舎だ。

よくできてはいるが狭いことだけはどうしようもないようで、休憩スペースに関してはベンチが申し訳程度に置いてあるだけとやる気がない。まあ忙しく通り抜けていく人ばかりで、休もうという人は全然見かけないけど。

並河駅舎内。
並河駅舎内

駅前に出ると小さなロータリーを広い歩道や街路樹が囲み、車の行き交う道路を挟んだ向こうには宅地が広がる。全体的に歴史の浅そうな街並みで、少し前までは農地が広がっていたが、近年になり開発が進んできたという印象だった。

鉄道歴史公園てつどうれきしこうえん

まずは駅裏に展示されていた車両を見に行くと、鉄道歴史公園と名付けられた公園になっていた。説明板によるとかつての並河駅はこの場所にあり、複線化に併せて現在地に移転したのだという。移転したとはいっても線路の向こう側、目と鼻の先に移動しただけで、大まかな位置としてはほとんど変わっていない。

説明板には桜に囲まれた趣ある木造駅舎のイラストが載っていて、公園入口にはその名残りか大きな桜の木が佇んでいた。それを横目に園内に進むと、駅跡だけに線路に沿うようにして細長い敷地が伸びている。元々の駅舎やホームを複線化用地に転用して、余った部分を公園にしたという感じだろうか。

鉄道歴史公園入口。
鉄道歴史公園入口

奥にはホームから見えた0系新幹線の前頭部と、少し前まで日本各地で客車や貨車を牽引する姿を見かけた、DD51形ディーゼル機関車が縦列に並んでいた。これが蒸気機関車だと懐かしさは微塵も感じないけど、現役時代を知るこれらの車両には懐かしさを感じる。車両は申し訳程度の柵に囲まれただけで屋根もなく、まるで駅の側線に停車しているかのような開放的な展示で眺めやすい。

管理はきちんとされているようで、雨ざらしで手も触れられるような展示にしては、比較的きれいな姿を維持していた。近くで見ると破損や劣化も見受けられたけど、屋外だと保存と言いながら朽ち果てているものも多く、それを考えるとよく維持されている方である。

展示車両。
展示車両

車両のすぐ脇にはホームを模したらしき高台があり、待合所のような小さな休憩施設が作られていた。ここに腰掛けて車両を眺めるくらいしか過ごしようのない狭い公園で、滞在中も通路代わりに通り抜けていく人を見かけただけだった。

夜苗神社よなえじんじゃ

周辺にはこれといって見どころはなく、次の駅に向かおうかとも考えたけど、二度と訪れることのないだろう駅だから街並みも少しは見てみようと思い直し、駅前を適当な方向に向けて歩きはじめた。

新しい住宅や商業施設が多いため、これといって興味を惹かれることもなく黙々と足を進めていく。やがて国道に出ると交通量が激しく渡ろうに渡れず難儀する。見つけた信号を長々と待ってようやく渡ることができた。こんな調子なのでいまいち気分は盛り上がらない。

どうしたものかと考えていると鎮守の森のような緑の塊に気が付き、近づいてみると思った通り小さな神社が鎮座していた。頭をぶつけるような小さな石造りの鳥居には、文政11年という江戸時代後期の年号が刻まれていた。きっと当時は農地や原野に囲まれた神社だったのだろうが、今では建物に取り囲まれてここだけ時代の波から取り残されたようでもある。

竹林の中にある夜苗神社。
夜苗神社

扁額は見当たらないが由緒書きから夜苗神社という名前が判明した。一夜にして稲の苗が竹になっていたという伝承があるそうで、夜苗という何か物語を感じさせる詩的な名前はそこから来ているようだ。伝承に出てきた竹とはこれのことなのか、境内には神社によくある杉や楠ではなく竹が生い茂っていた。

再び駅に戻ってくると混み合うほどではないが、次から次にどこからともなく乗客が現れてきて賑わっていた。ホームに向かうとすぐに園部行きの普通列車がやってきた。この辺りは列車本数が多いので時刻を確認しなくてもすぐ乗れる。車内は空いていたけどすぐ降りるのだからとドア横に立った。

普通列車の園部行き 235M。
普通 園部行き 235M

列車は亀岡盆地を真っ直ぐに進んでいき、車窓には田畑の中に新しい住宅が散見される単調ともいえる景色が流れていく。その様子にほとんど変化がないままに列車は速度を落とし、千代川駅に滑り込むと、珍しいことに木造駅舎が車窓を横切った。

千代川ちよかわ

  • 所在地 京都府亀岡市千代川町今津
  • 開業 1935年(昭和10年)7月20日
  • ホーム 2面2線
路線図(千代川)。
千代川駅舎。
千代川駅舎

周辺には整然と住宅が建ち並び、先ほどの並河で感じたのと同じ、新興住宅地を思わせる景色が広がっていた。とはいえ駅自体の雰囲気は大きく異なり、並河では跡形もなく取り壊されていた、開業当時からあると思われる古びた木造駅舎やホームが残されていた。

列車を降りてホーム上に目をやると思いのほかまとまった下車があり、1人ずつしか通れない小さな改札口の前にはたちまち行列ができていた。京都を出てからというもの昭和初期の木造駅舎に遭遇したのは初めてで、こういう取り残されたような駅は往々にして無人駅であることが多いが、改札脇では女性駅員が切符の回収をしていた。

構内は2面2線でどっしりとした土盛りのホームがあり、それに沿うように植えられた桜の中には、開業時に植えたのではないかと思える巨木の姿もあった。

千代川駅ホーム。
千代川駅ホーム

ひと通り乗客が居なくなると駅員は奥に引っ込んでしまい、窓口内にも見当たらないので、まるで無人駅のように勝手に改札を通り抜けていく。

待合室に入ると外観から想像したより狭く感じた。改札口に大きな自動改札機が鎮座し、ただでさえ狭い待合室を一段と狭くしている。室内にはベンチやゴミ箱の他に、券売機や運行情報ディスプレイといった機器類、それに様々な掲示物にパンフレットなどが所狭しと取り囲むように並ぶ。さらに時代とともに改装や改良が繰り返されたようで、統一感のないどこか雑然とした雰囲気が漂っていた。

千代川駅待合室。
千代川駅待合室

古びた駅舎には古びた街を期待するが、駅前に出ると新しい住宅やアパートが、街路樹の並ぶロータリーを取り囲むように並んでいた。屋根付きのバスやタクシー乗り場まであり、なんだか駅舎だけが開発の波に乗り損ねたようにも見える。駅前広場の片隅には大型バスが止まっていて、遠足に出かけるような格好の親子連れが続々と乗り込んでいた。

新御殿門しんごてんもん

案内板を見ると意外と歴史ある街のようで寺社が多数存在していた。近くの山にはハイキングコースもある。だがそれより気になったのが近くにある小学校の校門で、これがなんと亀山城から移築された門だという。以前城跡を訪ねた時には石垣しか残されていなかったが、こんな所に建築物が生き残っていたとは、旅先で知り合いに出会ったような親しみを感じる。

早速向かうと見るからに校舎という飾り気のない鉄筋コンクリートの建物に隣接して、黒ずんだ柱と白壁のコントラストも美しい木造瓦屋根の古びた門が佇んでいた。どちらの建物を中心に見ても不釣り合いな対照的な姿をしている。門の方が後から来たのだが、城跡に学校を建てた結果として門だけが残されたようにも見える。

貴重な建築物とはいえ観光資源として門だけでは厳しいようで、周辺で観光客を見かけることはなく、春休み中だけに子供の姿も見当たらず、たまに前の道路を車が通り過ぎて行くだけの静かな所だった。

新御殿門と校舎。
新御殿門と校舎

近づいてみると「旧亀山城新御殿門遺跡」と刻まれた石柱が立ち、簡単な案内板も設置されていた。元々は亀山城内に江戸末期に建てられた新御殿の門で、そこは藩庁や京都府の支庁などに利用されていたという。明治13年に移築とあるから、この地での歴史は軽く100年を超えていて、新御殿門とは言っても校門として過ごした時間のほうがずっと長い。

平の沢池ひらのさわいけ

一旦駅に戻ると次は北東3kmほどの所にある平の沢池に向かうことにした。似たような距離に丹波国一宮の出雲大神宮や国分寺跡もあるが、この時は街歩きが続いたので自然を欲していたというか、妙にこの池に惹かれるものがあり、一宮や国分寺にに行こうとは思わなかった。

駅から数分も歩くと鏡のような水面をした大きな川に出た。水面には青空に浮かぶ雲がくっきりと映り込んでいる。この辺りでは大堰川おおいがわと呼ばれる桂川だ。川幅はざっと200mはあるだろうか。大河のごとく悠々と流れていて、すぐ下流で荒々しい保津峡を作り出しているとは思えないほどだ。広々とした河川敷ではゴルフ練習をするおっちゃんの姿があった。

長い橋を渡り対岸までやってくると山々に囲まれた広大な農地が広がり、亀岡盆地の真ん中に来たという思いを強くする。農道には人も車も滅多に通らずとても静かで、近くからは鳥のさえずり、遠くからは高校の部活と思しきかけ声が聞こえてくる。

駅対岸には農地が広がる。
駅対岸には農地が広がる

盆地の縁ともいえる山すそにある集落を目指して早歩きに進んでいく。そのすぐ近くに目的の平の沢池があるのだ。気温は上がり日差しを遮るものは何もなく、徐々にじっとりと汗ばんできた。今朝は冬を思わせる寒さだったのにいつの間にか春の陽気である。

やがて曲がりくねった道路沿いに古びた住宅や土蔵の散見される、いかにも歴史の有りそうな集落に入り込んでいく。思わず通り抜けてみたくなるような趣のある路地も見られた。水害を避けるためか山すその軽い高台のような所には古い建物が目立ち、河川近くの平坦な土地には新しい建物が目立つ。

大きな石を積み上げた石垣や白塗りの塀に囲まれ、神社というより城を想起させる池尻天満宮に立ち寄ると、手入れの行き届いた清々しい境内には梅の花が咲き、中にはオガタマノキという聞いたことのない樹木もあった。どこにでもありそうな常緑樹で立札がなければ気が付かないくらいだが、魔除けとして植えられた御神木だという。

池尻天満宮のオガタマノキ。
池尻天満宮のオガタマノキ

平の沢池が見えてきたのは駅から1時間以上も歩いた頃だった。亀岡盆地の片隅で緑に囲まれるようにして佇む自然豊かな池で、上池・中池・下池という3つの池に分かれていた。土手に上がると数えきれないほどのカモが遊ぶ水面が視界に広がった。

土手には両手でも抱えきれない大きな桜の木が並び、枝には開花間近のつぼみを多数付けていて、もう10日ほど遅く訪れればと少し残念な気持ちになる。

周辺には散策路や東屋などが整備され、自然観察やウォーキングでもするには良さそうな所だが、親子連れが散歩をしている程度でほとんど人気はない。上空では近くの山から飛び立ったパラグライダーがゆっくりと旋回していて、静かでのんびりとした所である。

かつては巨大な葉を広げるオニバスで覆い尽くされていたという水面を眺めながら、下池と中池を仕切る枯れ草に覆われた土手の上を歩いていると、草むらからがさがさ物音がするのに気がついた。何気なく視線をやると黒っぽいものがもっさりと動いている。何だこいつはとよく見るとヌートリアではないか。近づいても我関せずといった様子で草をもぐもぐやっていた。

平の沢池。
平の沢池

下池を一周したところで駅に向かう。中池や上池もあるけど基本的には同じような自然環境のようなので、今回はこれでいいかという感じだ。今日は多くの列車が終点としていて、旅の区切りにちょうど良さそうな3駅先の園部まで行きたいと思っていて、既に昼近くと時間的に厳しくなってきているのもある。

腹が減るので食堂でもないかと、往路と違いできるだけ賑やかそうな道を進んでいると、道端に小さな蒸気機関車と半ば朽ちかけた腕木式信号機を見つけた。ヌートリアには驚いたけどこれにもまた驚いた。説明板まであるので一応展示してあるらしい。劣化の進んだ説明板に目を凝らすと「コッペル C型機関車」と読み取れる。ただそれ以上の詳しいことは書いてなく、観賞用の機関車モニュメントという程度しか分からなかった。

道端で見つけたコッペルC型機関車。
コッペルC型機関車

ここまで快調に歩いてきたが、朝からの歩き通しが祟ったか、足の裏に痛みを感じるようになってきた。冬場はほとんど冬眠状態で長時間歩くことがなかったから、すっかり体がなまっている。おまけにカメラバッグで肩が凝り、気持ち悪さが出てきてどうも具合が良くない。

ようやく駅に戻るとすぐにやってきた園部行きの快速列車に乗り込んだ。通勤通学時間も終わり車内はすっかり空いていて、一緒に乗車したのも2〜3人程度のことだった。

普通列車の園部行き 2209M。
普通 園部行き 2209M

発車するとすぐに左手から山が、右手からは桂川が迫ってきて進路を塞がれ、両者に挟まれた隙間を国道9号線と共に北上していく。対岸にはまだ平野が広がっているが、それが終わるのも時間の問題であり、亀岡盆地の最上流部にやってきたという雰囲気が出てきた。

八木やぎ

  • 所在地 京都府南丹市八木町八木
  • 開業 1899年(明治32年)8月15日
  • ホーム 2面2線
路線図(八木)。
八木駅舎。
八木駅舎

山間を流れてきた桂川が亀岡盆地に流れ込む辺りにある駅で、周辺は山と川に挟まれた小さな平地に、家々が密集するように固まり、見るからに歴史のありそうな町である。駅の方もなかなかと歴史があり、開業から軽く100年以上が経過している。今でこそ優等列車は素通りするが、かつては一部の急行列車も停車した旧八木町の中心駅だ。

列車を降りてまず目を奪われたのが跨線橋で、細い鋼材を組み合わせた骨組みに、木材を隙間なく並べて壁とした古めかしいものだ。そして列車が去ると線路の向こうには、これまた年季の入った木造駅舎が現れた。隣りの千代川駅舎といい、京都から離れれば離れるほどに、国鉄を想起させるものが増えていく。

駅の表側には小さな商店や住宅が所狭しと並んでいるが、線路が市街地の広がりを抑え込んでいるのか、裏手には緑あふれる農地と山並みが迫る。表側とは対照的なほど自然豊かな土地が広がっていた。

八木駅ホーム。
八木駅ホーム

構内は上下線それぞれにホームがある2面2線で、以前は上下線の間にもう1本線路があったらしく、ホーム同士は妙に離れていて広々として見える。利用者が少ない時間帯ということもあるだろうが、列車から降りた数人が去ってしまうと人気はなくなり、急速に空を覆いはじめた暗い雲と相まって、どことなく物寂しげな雰囲気が漂っていた。

駅舎に向かおうと跨線橋に上がると、幅の狭い通路沿いに板張りの壁が続き、外観同様に内部も趣ある代物だった。外部は白系の明るいペンキが塗られているのに、なぜか内部は黒系のペンキで塗られていて薄暗く感じる。

改札を抜けて待合室に入るとかなり広くて天井も高い。幅広の大きな窓口に、券売機を設置しただけでは場所を持て余し気味な、幅のある小荷物扱い所の跡、今では自販機置場と化しているキヨスク跡など、かつての賑わいが想像される空間だ。

八木駅改札口。
八木駅改札口

駅前に出るとタクシーが数台暇そうに客待ちをしていた。その向こうには駅前広場を挟んで昔ながらの商店街が伸びていて、傍らには広告や観光案内地図の描かれた案内板が立つ。京都を出てから続いてきた、有名観光地やベッドタウンを思わせる近代的な駅前とは対照的な、昭和を感じさせるひなびた駅前風景である。

八木城跡やぎじょうあと

八木は亀岡盆地の中でも上流部に位置する町であり、線路はこれより徐々に山間部に入っていく。そこで盆地の見納めがてら全体を見渡せそうな眺めの良い所に行きたいと思い、駅裏にそびえる山の頂にあるという八木城跡を目指すことにした。キリシタン武将の内藤如安も城主を務めた、中世でも有数の規模を誇ったという山城だ。

城に向かうにあたり腹が減っては戦は出来ぬという訳で、食堂でもないかと駅前の商店街に足を踏み入れる。すると難なく見つけたものの昼時とあって混み合っている様子。他には見当たらないし、仕方がないので後回しにして先を急ぐ。

近くの踏切から駅裏に回り込むと、農地の中に住宅の点在するのどかな景色が広がる。城跡の登山口は麓にある春日神社付近にあるというので、まずは神社を目指して進んでいく。つい先ほどまでは快晴だったというのに、空はすっかり厚い雲に覆われ、それどころか小雨までぱらつきはじめた。

見えてきた神社は想像していたよりずっと大きな規模で、手入れの行き届いた広い境内を進むと、それに見合うだけの大きな拝殿が姿を表した。厳かな雰囲気を漂わせる拝殿には橙色の明かりが灯り、何やら人の気配もするけど姿は見当たらない神社だった。

城山の麓に鎮座する春日神社。
城山の麓に鎮座する春日神社

次はいよいよ目的の八木城跡に向かうが、どこにも案内板の類は見当たらないので、とりあえず神社前にあった道路を山中に向けて進んでいく。これが予想に反して行き止まりで、どうしたものか少し焦りながら右往左往していると、神社のすぐ裏手で城山周辺の案内板や、城山登山道入口と書かれた標識を発見した。

登山道に入ると薄暗い杉木立の中を進んでいく。人気はないがよく踏み固められていて訪れる人は多そうだ。谷底のような所で水は流れていないが、雨が降ると荒れるのだろうか、途中には砂防堰堤や大きくえぐられた山肌も見られた。しばらくして2合目の標識が現れ、よく整備された登山道だと安心感を感じる反面、まだ2合目でしかないのかという何とも言えない気持ちも湧いてくる。

八木城跡へと続く登山道。
八木城跡へと続く登山道

やがて登山道は谷底を離れ、斜面上をうねるようにして標高を稼いでいく。整備されていて歩きやすいとはいえ、進めば進むほどに険しさが増してきて、汗が流れ息はきれる。3合目、4合目と少しずつ増えていく看板の数字に励まされつつ足を進め、7合目や8合目まで来ると、あと一息とばかり力が湧いてくる。

そして登り続けること約30分、見るからに山頂ですという眺めの良い開けた空間に出た。周囲を取り巻くように桜の木が植えられ、複数のベンチや八木城の地図や沿革などを記した説明板も配されている。それによるとこの場所はかつての本丸跡だという。

縁に立てば期待通り亀岡盆地を一望でき、中央を流れる桂川から、遠く亀岡市街まで見渡すことができた。これで晴れていれば一段と映えるのだが、私の頭上だけは相変わらず曇り空が広がり、一旦は収まっていた雨までこぼれはじめた。そんな時のためなのか忘れ物なのか、傘が1本地面に突き差すようにして立ててあった。

八木城跡から眺める亀岡盆地。
八木城跡から眺める亀岡盆地

周辺の山中を歩けば石垣や曲輪など多数の遺構が残され、中腹まで下った辺りには妙見宮なる神社もあるようだが、既にかなりの疲労と空腹感により歩きまわろうという気力はなく、しばらく山頂からの景色を楽しんだところで下山した。この眺望のために訪れたのだら、とりあえずは目的達成といえよう。

帰り道はひたすら下り坂なので楽には楽なのだが、登山靴ではないため、つま先が痛くて仕方がなかった。

麓まで戻ってくると、道路脇に十字架の形をした石碑があるのに気が付く。目立つものだが往路は登山道を探すことで頭が一杯でまるで視界に入っていなかった。近づいてみると内藤如安ゆかりの地とある。八木城で生まれ国内における活動の後、徳川家康の禁教令でマニラに追放され、その地で没するまでの生涯が簡潔に記されていた。

内藤如安の碑。
内藤如安の碑

駅に戻ってきて時刻を確認すると15時を迎えるところだった。かなり疲れたので今日はこれまでにしたい気持ちもあるが、宿に帰るにはまだ少し早い。かといって昼食を取るには時すでに遅しともいえる何とも半端な時刻である。結局次の吉富駅に向かうしか手はなさそうで、とりあえずは行ってみることにした。

乗り込んだ園部行きの普通列車は、帰宅時間の始まる前ということもあり、空席の目立つがら空き状態だった。わずかな時間とはいえ楽に座っていけるのはありがたい。

普通列車の園部行き 249M。
普通 園部行き 249M

八木を発車すると車窓から盆地らしさが姿を消し、山間の農村風景とでもいった景色に変わっていく。そのまま町らしい町もないままに列車は速度を落とし、なぜここに駅があるのだろうというような場所に吉富駅が現れた。

吉富よしとみ

  • 所在地 京都府南丹市八木町木原
  • 開業 1935年(昭和10年)7月20日
  • ホーム 2面2線
路線図(吉富)。
吉富駅舎。
吉富駅舎

近くを見れば農地が目立ち、遠くを見れば山並みが目立つ。並河や千代川のような新興住宅地のような印象とも、八木のような歴史ある町という印象ともまた違う、のどかな農村という印象の眺めだった。人家も見られるけど町というよりは集落という方が正しそうだ。利用者は少なそうだけど、私のほかにもぱらぱらと数人が降りた。

縁起の良い名前の駅だが、構内にそれをアピールするような物は見当たらない。飾り気のない簡素なホームの2面2線で、それほど年数の経っていない新しい作りをしている。開業は昭和10年なので明らかに開業当時のホームではない。これは今朝の千代川駅と同じく移転によるもので、以前のホームはもう少し園部寄りにあったという。

特に見るべきもののないホームを離れ駅舎に向かうと、場違いに感じられるほど大きな建物をしている。なぜこんなに大きいのかと改札を抜けると納得で、およそ半分のスペースは郵便局になっていて、もう半分のスペースはコミュニティセンターになっているのだ。そして肝心の駅は両者に挟まれた通路部分という、まるで軒下を借りているような状態だった。

吉富駅ホーム。
吉富駅ホーム

駅舎より局舎と言った方がよさそうな建物には、簡易な自動改札機と券売機が設置されているだけの無人駅だった。改札脇には小さな窓口があり有人駅だった時代もあるのだろうか。今は薄汚れたシャッターが降りていて、路地裏の景品交換所を思わせる姿をしていた。

駅前に出ると国道9号線が横切り、その向こうには京都縦貫自動車道も横切っている。ちょうどインターにもなっているので、人の姿はないけど車は嫌になるほど多く、普通車から大型車に至るまでひっきりなしに行き交っていた。その他は広々とした駐車場を持つコンビニがある程度でこれといって何もない。

西光寺さいこうじ

空腹と足の痛みであまり歩く気にはならないが、下車しただけで立ち去るのはもったいないので、どこかに行こうと思う。一見するとどこに向かえばいいのか迷うような所だが、幸いにして駅前には「やぎマップ」という、見どころの記された簡単な案内板が設置されていた。その中から最も近くにある西光寺という寺に向かうことにした。

駅前こそ交通量が多くて騒々しいが、少し歩いて国道と自動車道から離れると、川の音くらいしか聞こえなくなった。山間を流れる川沿いには田んぼが広がり、所々に住宅が固まるように建て込んでいる。茅葺きだったと思しき古びた家や、自家用の小さな畑で作業するおばちゃんの姿も見られた。駅前こそ寂れていたけど全体ではかなりの人家があるようだ。

そんな集落のひとつで見かけた荒井神社に立ち寄ると、板張りの簡素な作りをした社殿があった。一見するとそう古くもなさそうだが、近くの説明板を見ると京都府の文化財に登録されていて、なんと室町時代後期の建立だという。約500年前の建物ということになる。とてもそうは見えないよなあと思ったが、何のことはない社殿を風雨から守るための覆屋で、隙間からは意匠を凝らした檜皮葺の建物がちらりと見えていた。

荒井神社。
荒井神社

当初の目的だった西光寺は荒井神社のすぐ隣りにあった。正面に立てば中腹にある本堂に向けて、長く緩やかな参道が真っ直ぐに伸びていて、途中には竜宮城を思わせる朱色の鐘楼門があり、その向こうからより傾斜がきつくなり坂道が石段に変わっている。

中ほどまで上がると庫裏などが建ち並ぶ平場があり、ばあちゃんが1人掃除をしていたが他にはまるで人気はなかった。石段はさらに高台に向けて伸び、両脇には石灯籠がずらりと並んでいる。周囲には広葉樹が茂り秋に訪れれば美しい光景が見られそうだ。石段の先を見上げれば入母屋破風の下に唐破風のある屋根が印象的な本堂が、こちらを見下ろすように佇んでいた。

本堂は南丹市の文化財に登録されていて、説明板によると上棟されたのは江戸時代後期の文化元年だという。荒井神社の本殿に比べるとかなり新しいが、それでも軽く200年以上が経過している。さらに寺自体は奈良時代の756年に創建という古刹で、この辺り駅は新しいけど人の営む土地としては長い歴史を持っていそうである。

西光寺本堂から見下ろす石段。
西光寺本堂から見下ろす石段

西光寺からさらに先に進むと京都帝釈天があるのだが、さすがにこれ以上歩く元気はなく、参拝を済ませると迷うことなく駅に向かった。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

ホームにはスーツ姿の会社員らしき人など3人ほどの姿があり、一体どこからやってきたのか不思議に感じる。帰宅時間ということもあり車内はそこそこに乗ってはいたけど、空席も十分にある状態なので、駅前のコンビニで買い込んだ食料品を食べていく。

普通列車の京都行き 258M。
普通 京都行き 258M

八木、千代川、並河と各駅ごとに少しずつ乗客が増えていくが、思ったほどの混雑ではなく全員が座れる程度にしかならない。亀岡までくると先ほどまで雨がパラついていたとは思えないほどの快晴に変わった。どうやら南丹市だけが天気が悪かったらしい。それにしても意外と混んでこないと思っていたら、馬堀でこれでもかという大量の乗車があり超満員となった。

保津峡や京都市街をウトウトしながら眺めているとあっというまに京都に到着した。駅は足の踏み場もないほどに混雑している。少し眠ったからかどことなくあった頭痛感や気持ちの悪さは楽になっていて、また具合が悪くなる前にさっさと布団に入ろうと宿に急いだ。

(2017年3月28日)

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