目次
プロローグ
2017年1月4日の早朝、まだ日の出前の薄暗い熊本駅にやってきた。
三角線の起点である宇土ではなく熊本なのは、三角線の全列車が熊本まで乗り入れているからで、せっかくだから列車の起点ともいうべき熊本から旅を始めようという訳だ。そして早朝なのは今日で熊本を離れる都合から、残った未乗区間を一気に完乗するためである。
こうして熊本駅前に立つのは随分と久しぶりで懐かしい。最後に訪れたのは九州新幹線など影も形もなくブルートレインが走っていた時代だ。すっかり走る列車は変わってしまったが駅舎だけは変わりない。もっとも駅は高架化工事の真っ最中で、そう遠くない日にこの駅舎も消えてしまうそうだ。
駅舎に入るとまずは不要な荷物をコインロッカーに詰め込み、三角線の列車が待つホームに向かった。構内は新しい高架ホームと古い地平ホームが共存して、いかにも高架化の途中といった様子。おかげでそれらを結ぶ通路も長くごちゃごちゃしている。そんな中を向かったのは地平にある0A番という面白い名前のホームだ。
発車まで20分ほどあったが列車は既に入線していたので車内で待つ。車両は見慣れた2両編成のディーゼルカーで、車内は発車まで時間があるせいか空席が目立つ。ここはやはり海が見えて一人がけの進行右側席に腰を下ろした。これだけ空いていて時間もあると改札近くのパン屋で朝食でも買ってくればよかったかと考えていると、しだいに乗客が増えてきて発車間際にはほぼ満席となった。
熊本を発車すると複線電化の鹿児島本線で市街地を走り抜け、宇土から単線非電化の三角線に入り見覚えのある平野部や海岸線を眺めながら進む。今朝はかなり冷え込んだらしく霜が降りて白くなった草木が目立つ。そこへ赤みを帯びた朝日が差し込みはじめ、清々しい朝らしい光景であった。
網田
- 所在地 熊本県宇土市下網田町
- 開業 1899年(明治32年)12月25日
- ホーム 2面2線
開業当時から残るという古い木造駅舎が特徴的な駅。構内は2面2線で三角線内では最後の交換可能駅だ。この辺りの線路は海岸線に沿うように敷かれるが、当駅の前後だけは海沿いにある山を避け少しだけ内陸部に入っている。そのため海が近いにも関わらず小高い山に囲まれ、どこか山間の小駅といった雰囲気がした。
列車は駅舎とは反対側の山側にあるホームに到着した。列車を降りると空は快晴だが山影で日の当たらないホームは寒い。ここで私の他にも5人ほど降りたのが意外で、一緒に降りる人が居たのは三角線の旅では初めてかも。都市部に向かうならともかく逆に都市部から、しかもこんな朝早くにやってくるとは一体何の用事があるのだろう。
そんな一団の最後尾を歩いて駅舎に向かう。跨線橋はないので昔ながらの構内踏切で線路を横断し、駅舎側のホームに移動する。さすが明治時代の開業と歴史ある駅だけに長いレンガ積みのホームが残る。おかげでホーム端にある構内踏切まで無駄に長く歩かされた気もする。
足元は霜が降りて凍ったように艶々と光り、何だか滑りそうな気がして恐る恐る歩く。特に構内踏切は踏み板が木製で地熱がなく溶けにくいのか、まるで冷凍庫から取り出したかのように真っ白だ。これは間違いなく滑るだろうと特に慎重に渡った。
そしてやってきた駅舎は明治32年の三角線開業時から残る木造駅舎。熊本県で最古にして全国的に見ても現役駅舎としては最古級だろう。そんな貴重な駅舎だけあってか国の有形文化財にも登録されている。ただ見た目にはそこまで古く感じなかった。よくある木造駅舎のデザインに加えて、あちこち後年になり手が入っているせいかな。
待合室に入ると木製ベンチがいくつも並んでいた。そしてローカル線では定番の閉鎖された窓口、と思いきやまだ使用されている窓口が残っていた。どうやら委託駅らしく正月はお休みの張り紙が貼られ人の気配はない。かつての駅務室は「網田レトロ館」というカフェに改装されていたが、こちらも残念ながら正月休みであった。
駅前に出ると宇土から並走している国道57号線が相変わらず横切っている。そんな国道沿いには住宅や商店が建ち並ぶ。ここまで駅と集落が離れている所が多かったせいか、珍しく駅前らしさのある所だ。もっとも営業してなさそうな店が多い…。
片隅にはまだ作られて間がなさそうな「網田散策マップ」なる大きな観光案内板が立つ。こういうローカルな案内板はガイドブックに載らないどころか、誰が調べたのか地元民すら知らないような場所が載っていたりして見るだけでも楽しめる。
そこには、ここに行けとばかりに
歴史ある土地らしく他にも城跡に神社、網田焼資料館とよりどりみどり。網田焼きとは初めて聞いたが、駅舎に掲げられた駅名板が陶板なのと関係があるのだろうか。
そうこうしていると、ようやく駅のある山間にも日が差し込みはじめた。日の当たった霜はみるみる溶けて蒸発していき、周囲にはもうもうと湯気のような朝もやが立ち昇っていた。
干潟景勝の地
どこに向かうかだが今日は終点の三角まで5駅を巡りたいので、しょっぱなから長居をしては後にしわ寄せが及ぶ。そこで程々の距離で良さそうな場所ということで干潟景勝の地に行ってみる。場所は駅のすぐ正面にそびえる標高100メートルにも満たない山の中腹だ。
まずは駅前を横切る国道や網田川を越え、海と山に挟まれた小さな集落に入っていく。瓦屋根の住宅が密集し車一台がやっとで通れるような道路が入り組む。道端には漁具が転がっていたりして、いかにも海沿いにある古くからの集落といった佇まいだ。
ただ道が狭いだけに通り抜ける車を避けたり、リードを外され散歩していた犬がこっちに走ってきたりと何だか落ち着かない。さらに適当に歩いていたら案の定おかしな方向へ行ってしまい、行きつ戻りつ迷走しつつ山の上り口までやってきた。
ここから集落を見下ろすように徐々に標高を上げていく。途中分岐もあるがしっかり標識が設置されていて迷うことはない。斜面上には黄色っぽい大きな実のなる木があちこち植えてあり一体何なのか気になる。駅前の案内板には網田ネーブルが特産品とあったがこれがそうだろうか? 柑橘類は種類が豊富すぎて何が何だか全然わからない。
10分ほど坂道を進むともう干潟景勝の地が見えてきて予想以上に近かった。ちょっとした観光地らしく駐車場が整備され、周囲には木造の展望台にトイレや案内板などが並ぶ。もっとも観光客には最初から最後まで出会うこともなく、せいぜい農作業の軽トラックとすれ違った程度である。
その名の通りここからは御輿来海岸の干潟を一望できる。干潮と夕焼けが重なる時などまさに絶景だろうが、残念ながら今はどちらでもない。辛うじて三日月型に波打つ不思議な形をした干潟が少しだけ顔を出す。対岸には普賢岳が見えるらしいが快晴だというのに完全に姿を隠していた。
どうも全体に膜が張ったようにモヤモヤしていて、眺めの良い場所だけにこのスッキリしない感じがもどかしい。さらに急に暗くなったかと思えばまた明るくなり、どうなっているのかと空を見上げるとすごい勢いで雲が流れていた。小さな雲なので一瞬太陽を隠すがまたすぐに照ってくるというのを繰り返している。
この駐車場から下に向けての斜面は一面に開けてサッパリしていて、かつては何かを栽培していたらしく石積みが残る。下っていく小道があるので行ってみると、そこかしこにロープが張られて私有地や協力金のお願い、熊本地震による崩落で立入禁止といった色々な看板が立つ。遠景の優美さとは対象的に近景はどこか雑然としていて、きっと干潮の日没時ともなると相当な人出で色々とあるのだろうなあと想像。
この干潟景勝の地とは道路を挟んだ山側に
駅に戻ってくると先ほどは山影で青々して寒そうだったのに、すっかり日が照りつけ暖かそうな雰囲気に変わっていた。三角方面は向かい側のホームなのでまた構内踏切を渡る。あの足を滑らしそうだった踏み板の霜はきれいに溶けていた。空気はまだ冷えていて息を吐くと白くなるが、日の当たる場所に立てば心地よい暖かさだ。
このホームは長いのにワンマン乗車口の案内が見当たらず、いったいどこに立っていればいいのか迷う。ドア位置を推測して待つこと10分、三角行きの普通列車527Dは見慣れたいつもの車両でやってきた。先ほどは混雑していたから座れるかどうかと思ったが、車内はパラパラと空席もあり、通勤通学時間を過ぎればこんなものか。
発車するとまもなく今しがた眺めてきた御輿来海岸が車窓を横切る。ここまで宇土半島の北側を海に沿うように走ってきた三角線だが、次の赤瀬から先で半島を横断して南側を目指す。そのため山越えに備えて徐々に高度を上げていき、海面が下の方に遠ざかっていく。
赤瀬
- 所在地 熊本県宇土市赤瀬町
- 開業 1907年(明治40年)8月5日
- ホーム 1面1線
山の中腹にあるこの駅は海が近いにも関わらず人里離れた山奥のような雰囲気を漂わせる。それというのもカーブで先が見通せない上に木々に囲まれ薄暗く、前方にはレンガ積みの古いトンネルが口を開けてと、秘境感を演出する道具が揃っているせいだろう。
列車を降りるとすぐ目の前にあるトンネルに目が行き、ここまでのどの駅とも違う雰囲気に気分も高揚する。周辺には何の木なのか大きな葉が茂りいかにも南国らしい。すぐに出発した列車は煤煙を残してトンネルに吸い込まれていき、あとはひっそり静まり返った。
山に沿ってカーブするホームが1面あるだけの簡素な駅で、辺りを見回しても建物らしいものは待合所しか見当たらない。その待合室に行ってみるとベンチが一脚と掃除道具が並び、壁には三角線の駅では初めて見かける駅ノートが吊り下げられていた。開くと思いのほかたくさんの書込みがあり、秘境駅として訪れる人が多いようだ。
見るからに何もなさそうな場所ながら名所案内板が立ち「赤瀬海水浴場」と大きく書かれている。これまでのどの駅よりも海と無縁そうな顔をしながら海水浴場とは面白い。そしてこれが明治時代からここに駅がある理由で、元々海水浴客のために開設された駅なのだそう。きっと当時は夏になると賑わったのだろう。
ホーム端から駅前に出ると車を何台か停められるくらいの広場がある。住宅など人の気配を感じさせるものは見当たらず、自販機すらない自然に囲まれた場所だ。それでも足元を見ればコンクリートの基礎らしき跡が残り、かつては駅舎が建っていたようである。
駅前から延びる道路沿いには見るからに古そうな石碑が立ち、駅しかないこんな場所に立っているあたり鉄道と関係がありそう。興味を惹かれて近づいてみるが、表面がすっかり風化して何が刻まれているのか全然読み取れなかった。
赤瀬海水浴場
ここでは当然の如く名所案内にあった赤瀬海水浴場に向かう。冬に行く場所ではない気もするが他に行く宛もない。駅から海までは真っ直ぐに道路が延びており、これがなかなかの急勾配で遥か下に見える海に吸い込まれていくような気分。急坂なのをいいことに小走りに軽快に下っていくが、帰りのことを考えると少し気が重くなるような延々と続く坂道である。
坂道を下るに従い徐々に住宅が現れはじめ、海岸を走る国道まで降りてくると周辺は小さな集落になっていた。海水浴場の定番ともいえる民宿の姿も見える。ただ空き家や空き地も目につき、営業してなさそうな赤瀬鉱泉という大きな年季の入った建物も。昔はもっと賑わいがあったのだろうと想像される。
国道から駅へと上がっていく坂道の出入口には、赤青黄色と原色のペンキで描かれた赤瀬駅への標識が立ち、これがなかったらまさかこの先に駅があるとは思わないだろう。
さて海水浴場はどこかなと海辺を眺めると、予想外にもそれらしい大きな浜が全く見当たらない。案内板もなく困ったなあと歩いていると、数層の漁船が係留される小さな港に出た。歴史を感じさせる石積みの防波堤と、その上で吊るされた干物が風情ある眺めだ。そんな傍らに砂浜がありこれかなと降りてみるがピンとこない。
これはどうしたものかと海辺を歩くと、あちこちに面白い形をした岩が転がっていた。遠浅で穏やかな海には波らしい波もなく大きな水たまりのよう。波打ち際ギリギリを歩いても波をかぶる心配を感じさせない静かな海だった。
海上は相変わらず霧でも立ち込めているかのようにモヤモヤし、太陽も周りに薄い雲がかかっているのかボヤけて見える。そんな状況とあって空と海の境目ははっきりせず、対岸の普賢岳は辛うじて輪郭が見えるという程度だった。それでも見えるだけ網田よりはマシになってきているのかな。
それにしても海水浴場とやらはどこにあるのかと歩き回る。砂利っぽい浜が国道沿いにあるのが何だかそれっぽいが、結局どこからどこまでが赤瀬海水浴場なのかよくわからなかった。まあ泳ぎに来た訳でなし別にいいのだが、空模様と同じで何だかスッキリしない。
海岸をひと通り歩いたところで駅に戻る。予想はしていたが帰りの急勾配が厳しく、加えて列車に乗り遅れたら大変と、つい気が急いて急ぎ足に進むものだから息が切れるのなんの。ぜいぜいと駅まで戻ってきた。海水浴で遊び疲れた最後にこの坂道が待っているとか大変だ。
次の列車は三角行きの普通列車529Dで、当然乗り慣れたキハ31が来ると思いきや、カーブの先から顔を出したのは真っ赤な車体のキハ200だった。それ以上に意外だったのは乗車する私と入れ替わりに、女の子がひとり下車したことである。
車内の方は数えるほどの乗客数で余裕で座れる。ふかふか座席のキハ31と違い固い座席で随分と座り心地が違う。発車するとすぐにトンネルに入り、出たかと思うとすぐに石打ダムに到着した。この駅間距離の短さには景色を楽しむ余裕すらない。これだけ車内が空いていると、ゆっくり景色を楽しみたいところで少し名残惜しい。
石打 ダム
- 所在地 熊本県宇城市三角町中村
- 開業 1989年(平成元年)3月11日
- ホーム 1面1線
起点の宇土から続いてきた宇土市が終わり、宇城市に入ってすぐの場所にある駅。ここは宇土半島を横断する途中にあるため、平野部と海沿いの駅ばかりの三角線にしては珍しく山間部に位置する。平成に入ってからの開業と三角線では最も新しい駅で、ホームが1面あるだけの簡素な構造をしている。
列車を降りるとその山に囲まれた立地が新鮮に映る。周辺は住宅や農地が点在する小高い山々が広がり、のどかな里山の駅という感じ。開けて明るいだけに、海が近いのに薄暗い赤瀬の方がよほど山奥に思える。ここは日差しを遮るものもなく日当たり抜群で、ホームに立っているだけで汗ばんでくる。
乗降客は私だけで列車が去り静かになったホームにひとり佇む。ここにはベンチと屋根が一体になった待合所があるだけで他には何もない。ただ新しい駅だけあってレンガや石積みの類いは見当たらず、待合所も座れれば文句はないだろうという無骨なものから少しだけ小洒落たデザインに変わり、これまでの駅とは趣が違う。
道路は線路より一段低い場所を通っていてホーム端の階段から下りる。小さな駐輪場があるが自転車は1台も見当たらず利用者は少なそう。そういえばこの駅にはトイレもないんだなと思ったが、すぐ目の前にある公民館のトイレが駅のトイレも兼ねている様子。
駅前には「石打ダム駅記念碑」なるものが立ち、駅の設置経緯が刻まれていた。それによると三角港築港百周年記念事業の一環として、町民と町出身者からの寄付金1700万円で設置されたそう。町民というだけあって当時はまだ宇城市ではなく三角町である。
何だか石碑の多い所で、公民館の隣にも相当に古そうな石碑が並ぶ。こちらは道路や電灯などの開通記念碑のようで鉄道とは関係なかった。
石打ダムと八柳湖
ここでは考えるまでもなく駅名の由来ともなった石打ダムに向かう。ただ周囲を見回したところでダムなど影も形もなく、まるで目の前にあるかのような紛らわしい駅名である。幸いにして駅前には案内板があり、それによると石打ダムとその資料館が1.4kmの場所にあるそう。駅だけでなく資料館まで設置するとは相当な力の入りようである。
早速ダムに向けて住宅や農地の点在するのどかな景色の中を進んでいく。ここは九州自然歩道の一部になっているらしく、歩いているとあちこちに標柱や案内板が立っている。案内板には先ほどの赤瀬海水浴場や網田の文字があり、知り合いにでも会ったような親近感を感じる。
こういう山間は古びた家が定番だが意外と新しい家も建つ。もっとも数分も歩くと建物は姿を消してしまい、辛うじてあった人の気配も完全に消えてしまう。道路は小さな川沿いに細々と延び、聞こえてくるのは川のせせらぎだけ。頭上まで覆う木々の木漏れ日の下を歩いていると気分はすっかりハイキングである。
宇土から延々と並走してきた騒々しい国道は遠く離れ、車さえも滅多に通らない静けさに意気揚々と進んでいく。ところが徐々に上り勾配になりそんな気分も薄らいでくる。春を思わせる暖かな陽気に照りつける日差し、そこを足早に進むから汗だくになってきたのだ。喉が乾くが自販機などあるわけもなくダムはまだかと進んでいく。
時々道端の藪からガサガサと何かが動き回る音が聞こえてくるのが不気味だ。こんな所でイノシシにでも遭遇したらと想像するだけで冷やりとする。
やがて前方に立ちふさがるように大きなコンクリートの壁が見えてくる。どうやらこれが石打ダムの堤体のようだ。まだそんな堤体を見上げるような場所に居るので坂道が続く。乗り越えた先に広がるだろうダム湖に向けて汗をにじませながら上がっていく。
そしてようやく堤体の上までやってくると、その傍らに石打ダム資料館があった。カクカクした建物に円筒形の展望台がくっついた面白い形をした建物だ。ただ残念ながら土日祝日のみ開館ということで外から眺めるだけ。
案内板を見るとこのダム湖は八柳湖と呼ぶらしい。周囲はぐるりと散策路が取り囲み、要所要所に広場やトイレも整備されている。広場もそれぞれに特徴を持っているようで、水生植物を観察できる水草広場や、魚釣りができる魚釣広場なんて所も。のんびり一周したら面白そうだが平日とあってか人の気配はない。
一周する時間はないが目の前にある石打ダムの堤体上を歩いてみる。中央部には展望広場がありベンチまで設置されていた。ここからは八柳湖が視界いっぱいに広がる。手すりから下を覗き込むと引っ張り込まれそうでゾクゾクして顔を引っ込める。高い所は好きだが高い所は苦手なのである。
よく整備された公園や遊歩道だが手入れの方が追いついていないらしく、雑草があちこち伸び放題で、設備の破損箇所もちらほら目についた。これだけ広い場所に誰もいないこともあり、一人歩いていると何だか寂しさも覚える。
帰り道は下り坂ということもあり小走りに駅まで戻ってくる。そしてホームで列車を待っているとどこからともなく爺ちゃんが現れた。まさかここで私以外の利用者に出会うとは思わなかった。ここで携帯の具合が悪いと相談され、見ると何の事はないバッテリー切れである。これは原因は分かれど、ここではどうしようもない…。
次に乗車するのは三角行きの普通列車531Dで、やってきたのは半ば想像していた通り乗り慣れたキハ31の2両編成だった。ついさっき網田から赤瀬まで乗車したのと同じ車両でもある。
ここから先は山間に広がる田畑を縫うように進み、どこまで行ってものどかな景色が続く。やがて赤瀬駅にあったようなレンガ積みの古いトンネルを抜けると波多浦に到着だ。
波多浦
- 所在地 熊本県宇城市三角町波多
- 開業 1959年(昭和34年)12月25日
- ホーム 1面1線
波の多い浦とはいかにも海沿いにありそうな駅名だが、海ではなく建物に囲まれた街らしい場所にある。山側には住宅や商店が密集していかにも古くからの集落という感じ。その一方で海側は広々とした干拓地に大きな建物や空き地が点在して対照的だ。干拓前は駅名にふさわしく線路際まで海が迫っていたそう。
列車を降りると香水でもぶちまけたかと思うほど甘い香りがホームに漂う。一体何の匂いだろうかと見回すと、ホーム上の大きなサザンカの木が目が留まる。上から下まで全体に濃いピンク色をした花が数え切れないほど咲く。時々その花びらがパラパラと散って足元はピンク色に染まっていた。
ここはそんなサザンカの咲くホームが1面あるだけの小さな駅。小さいとは言ってもホーム上にはなぜか待合所が2つも並ぶ。
片方は屋根があるだけの簡単な造りで開業時からありそうな古さだが、券売機が置いてあるのが三角線にしては珍しい。もう片方は比較的新しそうでしっかり壁で囲われている。中を覗くと珍しいというか変わってるというか水飲み場があった。これが屈んで使わなければならないような低さ、足をぶつけるような位置と、なぜここにあるのか不思議な存在だった。
待合室の脇には5〜6段のちょっとした階段がありホーム裏手に下りられる。何があるのか下りてみると駅の開業時に植えたのか大きな桜の並木があった。足元は桜の根元を残してきれいに舗装されていて、まるでちょっとした花壇か公園かという感じだが、そのままホーム裏手を通り抜けて道路まで続く単なる通路のようだ。
他にもこの通路からさらに一段低い場所にある駐車場に下りる階段や、ホーム端から直接道路に下りるスロープがあったり、あちこちから出入りできる。駅舎がないのでどこが駅前という感じでもなさそうで、どこから駅を出ようか少し迷う。
こうして見ていると後から設備をどんどん追加していった感じのする駅だ。それだけ利用者が多いということか。実際こうしている間にも続々と人が集まってくる。どうやら今しがた降りた列車の折り返し、熊本行きを待っているようである。
岬神社と戸馳大橋
ここは地元利用者のための駅という感じで名所案内もなければ観光案内板もなく、どうしたものか困りもの。とりあえず近くの集落を歩いてみると小さな神社を見つけた。扁額を見ると岬神社とあるが全然岬ではない場所にある。ただ干拓地らしき平地に突き出した山裾にあるので、昔は本当に岬のような場所だったのかもしれない。
赤瀬に石打ダムとどこにも自販機すらなく喉が渇いていたが、近くの商店でついに自販機を発見し喉を潤しつつ近くの海に向かう。このあたりは干拓地らしく広く真っ直ぐな道路沿いに工場や駐車場などが並ぶ。そんな中を数分も歩けば海沿いの道路に出て、ほんの500mほど対岸には
そんな海沿いを歩き回っても特に何があるわけでもなく、近くにあるものといえばマリーナくらいだが関係者以外は立入禁止だ。仕方がないので目の前にある戸馳島へと渡る戸馳大橋に行ってみる。黄色いトラス橋で何だか古そうに見える。実際古いらしく老朽化で重量制限の看板が出ていて、すぐ隣では新しい橋の建設工事中だった。
ここまで来たなら対岸の戸馳島に渡ってみようと思ったが、橋の入口までやってきて歩道がないことに気がつく。この長い橋でしかも交通量が多いのに歩道なしとか、とてもゆっくり景色を楽しむ状況ではない。一気に渡る気が失せてしまい、これはだめだと橋を眺めただけでそそくさと駅に引き返した。
まだ次の列車まで時間があったので、駅のすぐ宇土側で口を開けているレンガ積みのトンネルを近くで眺める。同時期のものだけに赤瀬で見たのとそっくりなトンネルだが、ここは日当り良好で開放的なせいか赤瀬のような何か出そうな暗い感じはしない。
ホームに戻って列車を待っているとまたポツポツと乗客が集まりはじめた。やってきたのは三角行きの533Dで、次が終点なので三角線の下り列車に乗るのもこれが最後だ。こんな短距離でも利用者が居るんだなあと思ったが乗車したのは私だけ、どうやら先ほどと同じようにこの列車の折り返しとなる熊本行きを待つ人たちだった。
車内に入るとこれがまあ見事に空気を運んでいるような状態。乗り込んだ1両目には数えると僅か3名しか居ない。これまで乗車した三角線の列車では最高に空いていた。
波多浦を発車すると赤瀬から続いた半島横断が終わり車窓左手に海が現れる。三角線から眺める海は大半が半島北側の有明海なので、南側の不知火海とも呼ばれる八代海が拝めるのはこの僅かな区間だけである。もっともそんな景色を楽しむ間もなく終点三角に到着だ。
三角
- 所在地 熊本県宇城市三角町三角浦
- 開業 1899年(明治32年)12月25日
- ホーム 1面1線
三角線の終点にして目の前が三角港という陸と海の要衝といった場所にある駅。三角線はこの港を目指して建設された路線だ。もっとも駅から先に延びていた貨物線や貨物列車はとうの昔に廃止され、旅客にしても駅前にフェリーターミナルはあれど肝心のフェリーの方が次々廃止されて随分と寂れたようだ。
いよいよ三角線の旅も最後の下車駅だ。大きな洋風木造駅舎や上屋のある広いホームは終着駅らしい貫禄を持っている。ただ構内の方は錆びついた側線が1本あるだけでホームも1面しかない。レールも列車の前方を少し進んだ所でぷっつり途切れていて、かつて貨物列車で賑わっていた面影はなく小じんまりとしていた。
乗ってきた列車はすぐに熊本行きとして折り返すので、僅かな乗客が降りると入れ替わりに大勢の乗客が乗り込んでいく。がら空きだった車内はどんどん埋まっていき、この時間帯は熊本方面への需要の方がずっと大きいらしい。
宇土以来となる有人改札を抜けて駅舎に入ると、高い天井を持った広々とした待合室があり、板張りの壁面や格子状になった天井が美しい。その天井からは丸いぼんぼりのような照明がいくつも吊り下げられていて、なかなかと良い雰囲気を演出している。外観の方も和洋折衷といった感じで、どこか四国の琴平駅を思い起こさせるのであった。
片隅にはみどりの窓口と近距離用の券売機があり、観光地らしく観光案内所やコインロッカーも整備されている。駅舎の雰囲気に配慮してか、コインロッカーや自販機、それにゴミ箱にいたるまで茶系統の塗装で統一されていて好印象。
駅を出るとすぐ目の前を赤瀬で別れた国道57号線が横切っており、宇土半島の反対側を経由して再びここで出会ったという訳だ。道路の向こうには白い三角形の大きな建物が目を引く広々とした広場、そしてその背後には海が広がり何とも開放感ある眺めだ。ここでバスや船に乗り継げば天草諸島に行くこともできる。
時計を見ればまだ14時前と早く、これなら16時19分発の特急「A列車で行こう6号」に乗って熊本に戻れそう。問題は空席があるかどうかで駅舎に引き返して窓口に向かう。ちょうど列車が出たばかりで先ほどまで賑わっていた駅舎内には人っ子ひとり居なかった。窓口に居た中年の駅員に尋ねると空いていますよと、特に指定もしなかったがしっかり海側かつ窓側という席を取ってくれよく分かっている。
これで半ば自動的というか強制的に、三角の滞在時間は2時間半ということになった。
三角西港
ここでは明治時代に開港した当時の姿が現存するという、世界遺産の三角西港を目指すことにした。三角港は駅のすぐ目の前にあるがこれは三角東港で、明治三大築港のひとつ三角西港はここから2.5kmほど離れた場所にある。そして駅から離れていたがために東港の発展とは対象的に西港は衰退したそう。幸か不幸か結果として明治の佇まいのまま今に残ることになり世界遺産となったのである。
普通ならここでタクシーかバスとなるのだろうが私の場合は当然徒歩だ。まあタクシーは論外としても、バスにしなかったのは単にちょうど良いバスがなかったからだけど。三角駅から三角西港は宇土以来おなじみの国道57号線で結ばれているので迷う心配はない。
駅を出発すると三角線の線路終端を横目に駅裏にある小高い山へ上がっていく。この山を上りきったあたりが天草五橋への入口で、そちらへ進めば橋を渡って天草諸島に渡ることもできる。そして再び山を下りると道路は海沿いに出て景色は良い。ただ例によって交通量が多すぎで歩いていて楽しい道ではなかった。
時間的に余裕がないせいもあり寄り道もなく足早にどんどん進んでいく。空は青空が広がり日は照りつけて自然と汗ばんでくる。冬場だからこの程度で済んでいるが夏場だったらもう全身汗だくになっている頃だ。そして駅からは25分ほどで三角西港が見えてきた。
到着した港は石積みの埠頭が延々と続き、それもただ無骨に並べたものではなく美しく曲線を描いた優美な姿をしている。その上では釣りや散歩をする人がそこかしこに見られ世界遺産というより近所の公園的な親しみやすい雰囲気だ。海を挟んだすぐ目の前には天草諸島のひとつ大矢野島あり、こちら側と結ぶ天草五橋の1号橋がよく見える。
埠頭は美しいがその周辺もよく整備され明治時代の建物や倉庫が今も残る。当時は役所や裁判所まであり繁栄したそうだ。そんな中から公会堂や図書館として利用されたという
右往左往と歩き回っていただけだが思いのほか見どころが多く、気がつけば到着してから1時間近く経過していた。そろそろ列車の時間が気になり始め、後どれくらい滞在できるか考えながら歩く。背後に迫る山には展望台もありあそこから眺めが気になるが、あそこへ行ったら確実に列車に乗り遅れるだろう。ここは半日くらいの余裕を持って全体を周りたいと思った。
帰りの列車まであと1時間となったところで三角西港を後にする。駅までは30分も歩けば到着するだろうから時間的には余裕だ。ただ国道の交通量の多さや途中にある坂道を考えると、朝から歩き回ったせいもありあまり歩きたくない気分である。
そこでバスはどうだろうかと近くにあるバス停を探して時刻表を確認すると、うまい具合に15時22分発がまもなくやってくる。これ幸いとバスで帰ることにした。ところが待てど暮らせどバスは現れず、このままいくと結局歩くことになる上に列車には乗り遅れるという最悪のパターンではないか。時計と道路を交互に見てヤキモキしているとようやく現れた。
助かったとばかりに乗り込むと、車内は空いているどころか乗客は私だけだった。途中のバス停にも人影はなく、僅か220円の貸切バスで三角駅に戻ってきた。あの30分近くかけて歩いたのは何だったのかと思うような快適さである。
海のピラミッド
バスを利用したおかげで帰りの列車までたっぷり30分以上の余裕ができた。そこで駅前で何より存在感を放っている大きな白い三角形をした建物へ行ってみる。
この外観にこの立地とくれば何かの観光施設だろうと中に入って驚いた。内部は何階かに区切られていると思ったら三角形のひとつの空間で、しかも何の施設もなく全体をコンクリートに囲まれているだけ。見上げればその壁面には三角形の頂点を目指してぐるぐる延びるスロープがある不思議な光景だった。
何でも海のピラミッドと名付けられたこの建物、元々はフェリーターミナルの待合室として造られたそう。今では肝心のフェリーが廃止されてこんな状態のようだが…。
この建物は内側と外側の両方に巻き貝のようにらせん構造のスロープがあり、どちらからでも最上部まで上がれる面白い構造になっている。せっかくなので上がってみようと、賑やかな観光客のおばちゃん達と一緒にぐるぐる進む。これが思いのほか高さがあって眺めがよく、歩くほどに視界が広がっていくのはなかなかと楽しい。
そしてやってきたピラミッドの先端には…。これまた特に何があるわけでもなく単なる展望台といった感じである。ここからは三角東港に停泊する貨物船や海を一望でき、山側に周れば三角駅とその周辺を見渡せる。
駅前広場にある芝生には少し見えにくいが「ガンバル県熊本」というメッセージと共に、くまモンがデザインされている。下から見ては全然気が付かなかったこの絵、なんと枯れた芝生をガスバーナーで焼いて描いたそうである。
エピローグ
いよいよ三角線の旅も最後となる列車、熊本行きの特急「A列車で行こう6号」に乗り込む。駅には発車の30分ほど前にやってきたが、徐々に観光客が集まり、ツアーと思しき団体客も現れ無駄に広々していたように感じた待合室は人でいっぱいだった。
列車は2両編成で指定された2号車の座席に腰を下ろす。車両自体は30年も前の古さだがそれを感じさせない木目調のクラシックな内装で、よくこれだけ改装したものである。
隣の1号車にはバーが設置されており行ってみるともう行列ができていた。ここにはハイボールサーバーがあり、せっかくなので私も並んでデコポン風味のAハイボールを購入。混雑しているものだから席に戻ったころには今朝の御輿来海岸の辺りまで来ていた。
列車交換も兼ねて網田に停車すると明治駅舎の案内放送が流れた。そんな駅舎を肴にハイボールを飲むとこれが実にサッパリしていて飲みやすい。もう1杯欲しくなるところだがそれはさすがに我慢した。すきっ腹にアルコールが効いてきて、すっかりいい気分である。
特急とはいってもローカル線だけあって小刻みにレールを刻む音と振動が伝わってくる。これが車内にBGMとして流れるジャズの音色とよくマッチしていてむしろ心地よかった。熊本までの42分はあっという間に過ぎてしまい、このまましばらく乗っていたい気分である。
熊本では今朝の古びた地平ホームとは対照的な、新しい高架ホームに到着。工事中の構内を右へ左へと歩かされて駅前に出ると、すっかり夕焼けで空は赤く染まっていた。
これで2日かけての三角線の旅は終わり。ただ余韻に浸っているような暇はなく、慌ただしく今朝のコインロッカーから荷物を取り出すと次の目的地に向かった。
(2017年1月4日)
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