山陰本線 全線全駅完乗の旅 11日目(上夜久野〜和田山)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2019年12月23日、日の出時刻が近づいてきたところで宿を出ると、明るいだろうという予想に反して夜のように暗かった。どうやら立ちこめた霧が光を遮っているらしい。にじんだ街灯が幻想的に並び、耳をふさがれたかのように物音がしない。不気味なほどの冷たい静寂のなかを福知山駅に向かって歩きはじめた。

いつでも行けるところは、いつまでも行かないという言葉があるが、私にとっての山陰本線がまさにそれだ。未訪問駅が130駅もあり、幾度も訪れる機会がありながら、気づけば前回訪問から1年以上の時が流れていた。さすがにこれ以上は放置できないと、ようやく重い腰を上げてここまでやってきた。

乗車するのは7時1分発の豊岡行き。本来であれば東の空が輝きはじめているころだが、相変わらず霧が漂っていて薄暗い。

普通列車の豊岡行き 425M。
普通 豊岡行き 425M

数えるほどの乗客を載せた列車は、定刻通り福知山駅を抜け出すと、足もとを確かめるように静々と進んでいく。日の出時刻をまわり刻々と景色は明るくなっていくが、霧の濃さに変化はなく、取り巻く山並みは水墨画のように淡く浮かんでいた。

府県境の峠に向けてじりじり標高を上げながら、上川口、下夜久野、上夜久野とこまめに停車していく。ホームには学生を中心にたくさんの人が待ち受けていたけど、待っているのは福知山行きらしく、こちらには誰も乗ってこない。

霧に包まれた車窓。
霧に包まれた車窓

谷を上り詰めたところにある上夜久野を出るとすぐ、全長1,529mの夜久野トンネルに突入した。暗闇のなかで京都府から兵庫県へ、丹波国から但馬国へと変わり、峠を越した線路は下り坂に変わった。

霧というのは峠を越えたら快晴ということが往々にしてあり、今回もまたトンネルを抜けたら眩しい朝日に照りつけられることを想像していた。ところが抜け出した先も霧で真っ白、それどころかより濃度を増したようですらあった。

梁瀬やなせ

  • 所在地 兵庫県朝来市山東町滝田
  • 開業 1911年(明治44年)10月25日
  • ホーム 1面2線
路線図(梁瀬)。
梁瀬駅舎。
梁瀬駅舎

律令時代に畿内と山陰諸国を結んでいた、古代山陰道が通っていたといわれる山東盆地の一隅にあり、江戸時代には福知山経由で京に至る山陰街道と、篠山経由で京に至る篠山街道の分岐点となっていた町である。この辺りは町村合併により明治時代には梁瀬村、大正時代には梁瀬町、昭和の半ばには山東町となり、現在では朝来市と移り変わっている。当駅は梁瀬村から山東町の時代まで長く町の代表駅であった。

列車を降りるとホームには30人くらいの高校生が待ち受けていた。跨線橋を駆け下りてくる姿もある。高校のない町だけに通学需要が旺盛のようだ。

学生たちを見送ってからホームに置かれた大柄な木造待合室に入る。冬の厳しさを物語るように引き戸できっちり密閉できる室内には、ぐるりと木製のベンチが作り付けられていて、先ほどの学生が全員座れそうなほどの余裕があった。

梁瀬駅ホーム。
梁瀬駅ホーム

霧が深くて景色どころではないホームは早々と切り上げ、跨線橋を渡り、古めかしい木造駅舎の改札口を通り抜けた。すると意外なことに灯りのこぼれる窓口があった。地方の小さな駅では駅員がいないことが当たり前になっているので、ここもまた無人だろうと半ば決めつけていたのだ。窓口の奥に目をやると委託らしき初老の駅員が机に向かっていた。

建物には化粧でもするように、あちこち手が加えられているけど、積み重なった歴史は隠しきれるものではなく、方々から古色がにじみ出してきている。いつの時代のものかと取り付けられた財産標を探すと、そこには明治43年2月と記されていた。驚くべきことに開業当時から立ちつづける古老であった。

梁瀬駅窓口。
梁瀬駅窓口

駅前を横切る狭い通りはかつての山陰街道だろうか、民家がずらりと並んでいて、商店だったことが偲ばれる間口をした建物もある。国道は駅裏を通っているため車は通らず、列車が出たばかりとあって人も通らず、霧だけが静かに幻想的に漂っていた。

粟鹿神社あわがじんじゃ

梁瀬駅の置かれた山東盆地の界隈には、大規模な古墳、由緒ある寺社、街道や宿場町など歴史的なあれこれが点在している。その中から豊岡市にある出石神社と並び、但馬国の一宮とされる粟鹿神社に目的地を定めた。

駅があるのは盆地の北西部だが、神社があるのは南東部なので、盆地を斜めに横切るように向かうことになる。直線距離にすると約3kmだが、まっすぐ向かう道はないので、実際歩く距離としては4〜5kmくらいになるだろう。

出発してすぐに線路やホームの下をくぐり抜ける、石材やレンガを積み上げた狭小なトンネルが目に留まった。駅舎がそうであったように明治時代からあるものにちがいない。職人が丹念に積み上げたのだろう美しく重厚な佇まいに思わず足を向けた。

薄暗くひんやりした内部はすれちがうのに肩が触れ合うような狭さで、点々と蛍光灯で照らされた壁面は、上部がアーチ状のレンガ積み、下部が垂直な石積みになっていた。出口の向こうは深い霧に包まれていて、異世界にでも通じてそうな雰囲気が漂う。なにがあるのか通り抜けてみると、そこにあったのは何の変哲もない駅裏の小路であった。

線路下のトンネル。
線路下のトンネル

寄り道を終えたら街道筋に戻り、矢名瀬とよばれたかつての宿場町に入り込んでいく。目に映るのは昭和を思わせる建物がほとんどだけど、狭い道筋に軒を連ねる佇まいや、点在する寺院に造り酒屋などが、長い歴史のある町であることを教えてくれる。

過去に栄えていた地方の町ではよくある光景だけど、現役の商店よりも、商いの名残を留める民家のほうが多くある。そしてそこを歩いている人というのがまったくいない。表札のかかる建物はたくさんあるし、空き家や空き地が目立つという訳でもないけど、こうなると否が応でも寂れた空気を感じてしまう。

梁瀬の町並み。
梁瀬の町並み

やがて道がゆったりと分かれる三叉路に出た。角の部分には曰くありげな太く短い石柱が立ててあり、沿道には大きな塀や門に囲われた豪壮な屋敷があるなど、歴史的に特別な一角であることを匂わせる。答えとなりそうな石柱に刻まれた文字は風化して薄れているが、じっくり見つめていると道路元標と浮かび上がってきた。

幸いにして近くに説明板を見つけたのでその助けを借りると、やはりこの石柱は梁瀬村の道路元標だという。さらにどちらが本道というでもなく分かれていく道は、それぞれ山陰街道と篠山街道であることも判明。いまの静けさからは想像もつかないが、かつては両街道を行き交う人々で殷賑とした、地域のなかでも中心的なところだったと思われる。

梁瀬村道路元標。
梁瀬村道路元標

町外れから粟鹿神社にかけては田園地帯が広がり、そのなかを緩やかにうねるように小川が流れている。そこを国道や県道が貫くように通り、農道が碁盤目に敷き詰められ、よりどりみどりに歩くことが可能だ。しかし前者は騒がしそうだし、後者は単調なので、静かで変化もありそうな小川沿いの小路をゆくことにした。

静々と流れる水面を見下ろしながら上流へと足を進めていく。盆地のなかをとろとろ流れるこの小さな川は、粟鹿川という名前で、ちょうど粟鹿神社をかすめるように流れるため、川沿いを歩きさえすれば迷う心配はない。

周囲は大きく開けているはずだが霧ですっかり包み隠され、シルエットのように浮かぶ護岸の桜並木と、近くの田んぼくらいしか見通せない。駅を出てからというもの人の姿を目にすることすらなく、幻影のなかを歩いているような気分であった。

粟鹿川の桜並木。
粟鹿川の桜並木

白く薄ぼんやりとした景色の先に大きな石鳥居が浮かんできた。背後に黒々とした鎮守の森を従えているため、それがより白い鳥居の存在を強調させている。鳥居の奥には大柄な門が置かれていて、いかにも格式の高そうな厳かな佇まいに、文字で確認するまでもなく粟鹿神社であることはすぐに分かった。

鳥居を抜けると社殿との間に白壁の塀があり、古色のたっぷり染み込んだ、勅使門と随身門が並ぶように備えられていた。

天皇の使者が通るための勅使門は当然のように締め切られている。それは両開きの扉があるだけの文字通りの門であるが、以前は檜皮葺だったという流造の大柄な屋根を載せ、扉には鳳凰が刻まれているなど荘厳さが漂う。はたして使用されたことはあるのだろうかと思うが、記録によると過去4回の勅使参向があったと記されていた。

粟鹿神社。
粟鹿神社

閉ざされた勅使門の隣りでは随身門が口を開けている。向こうに比べると直線的で目立った装飾もないが、中央の通路を挟んだ両側には、弓や太刀を手に睨みをきかせる木造の随身倚像が安置されている。本来は全体に彩色が施されていたようだけど、いまでは所々に色が残るのみとなり、代わりに長い時の流れをまとっている。

随身の視線を感じながら門をくぐると、反対側には木造の狛犬が収められていて、こちらもまた見応えのあるものであった。江戸時代前期の作と推定されるそうで、やはり彩色が施されていたようだが、磨かれるでもなく塗られるでもなく、片鱗もないほどに剥落して黒ずんだ木肌を見せている。しかしそれがかえって狛犬に荒々しさと迫力を備えさせていて、見入ってしまうようないい面構えであった。

随身門の狛犬。
随身門の狛犬

霧の漂う苔むした境内にはひときわ大柄な拝殿のほか、それぞれが趣ある佇まいをした境内社の小さな祠が点在し、奉納相撲の土俵も置かれていた。他に参拝者もないので動きもなければ音もなく静謐さに満ちていた。

境内をひとめぐりして参拝を終えたら、再び随身門と鳥居をくぐり、表の道路脇にある御神木という気になる標識の指すほうに向かっていく。境内から向かう道はないらしく、神社を包みこむ社叢に外から回りこんでいく。

そこにあったのは幹周り6mというスギの巨樹であった。しめ縄をまとった太い幹が枝分かれしながら悠然と立ち上がっている。その力強い姿を前にただ見上げるのみであった。

粟鹿神社の御神木。
粟鹿神社の御神木

粟鹿神社をあとにしたら、盆地の縁をなす山々の懐に入り込むように、谷間の緩やかな傾斜地を上がっていく。田畑や住宅に山林が混じり合うように広がり、これまでの広く単調な盆地から雰囲気が変わってきた。足を進めるごとに霧は散っていき、同時に眩しい日差しがそそぎはじめ、瑞々しく輝く景色がなんともいえず美しい。

正面には標高962mの粟鹿山がそびえている。この辺りでひときわ高い山だからだろう、頂にアンテナ施設が並べられている。あそこまで登れば格別な眺めが楽しめそうだが、目的地はそのふもと、およそ1km先にある當勝まさかつ神社だ。

その社殿には豪華な彫刻が施されているというので、近くまできたことだし目にしておこうという訳である。それに當という文字には成功や当選などの意味があり、そこに勝つときたものだ、このなんとも縁起のいい名前に惹かれた部分も少なからずある。

行く手にそびえる粟鹿山。
行く手にそびえる粟鹿山

ここまで歩いてきた切り開かれた土地と、粟鹿山の山頂から下りてきた樹林が、ぶつかるところに當勝神社は置かれていた。境内は黒々とした森のなかにあり、粟鹿神社の白い鳥居と対をなすかのような、朱色の鳥居が口を開けていた。

大小いくつかの鳥居をくぐりながら、落ち葉の敷き詰められた細い参道をゆくと、小ぶりな随身門が見えてくる。これが唐破風に彫刻などを備えた思いのほか見応えのある造作で、小さくても手は抜かないという仕事ぶりに、否が応でもこの先にあるものに期待が膨らむ。

門の向こうは絵馬殿や境内社、御神木などの集まる平坦地になっていて、そのまた奥の一段高いところに拝殿が構えていた。それほど大きな建物ではないが、立派な唐破風を擁する複雑で重厚感のある屋根が目を奪う。そして見つめていると只者ならぬすごい彫刻が施されていることに気がついた。

當勝神社の拝殿。
當勝神社拝殿

拝殿にはいまにも動き出しそうな迫力と立体感を備えた、龍・鳳凰・獅子といった彫刻が、これでもかと詰め込まれていて、見れば見るほど引き込まれていく。近くには合格祈願の絵馬に彩られた當勝天神という境内社があり、こちらもまた手の込んだ彫刻や細工が施されている。これらの社殿はいずれも江戸時代に建てられたそうで、当時の人々の並々ならぬ拘りと技術には感服させられるばかりである。

拝殿に施された龍の彫刻。
拝殿に施された彫刻

いつしか霧はすっかり消え去り、快晴の眩しさと暖かさのなかを駅に向かう。ここまで出歩く住民にはまるで出会わなかったのだが、ここにきて冬眠から目覚めたかのようにウォーキングや犬の散歩をする老人によく出会うようになった。

駅まで戻ってきて待合室に入ると、今朝と変わらず窓口が開いていて、今朝と変わらず初老の駅員が座っていたので、和田山までの切符を所望する。慣れた手付きで素早く発券された切符を手にホームに向かい、11時54分発の豊岡行きを待つ。

窓口で購入した、梁瀬から和田山までの乗車券。
窓口で購入した乗車券

やってきたのは昭和の時代から走りつづける国鉄型車両だった。古い車両だけにドアの開閉や動きはじめる所作などに、よっこらしょっという重々しさがある。この時代の車両は数え切れないほど利用してきたけど、気がつけばめっきり出会うことが減っていて、車内の造作から種々の動作音までがなんとも懐かしい。

普通列車の豊岡行き 431M。
普通 豊岡行き 431M

福知山から梁瀬までの各駅は人家のまばらな山間ということもあり、駅間が6〜7kmほど離れていたけど、梁瀬から和田山までは町とあって3.4kmしか離れていない。そのため景色を楽しむ間もなく和田山に到着した。

和田山わだやま

  • 所在地 兵庫県朝来市和田山町東谷
  • 開業 1906年(明治39年)4月1日
  • ホーム 2面4線
路線図(和田山)。
和田山駅舎。
和田山駅舎

江戸時代には東西に延びる山陰街道と、南北に延びる但馬街道の追分であり、両者の後釜ともいえる鉄道や国道に高速道路もまた分岐点とするなど、交通の要衝として栄えてきた土地である。駅前に広がるのは朝来市の中心市街で、古くは宿場町であったところだ。

近くに高校があるらしくホームには大勢の学生が待ち受けていた。隣りに停車する播但線の列車も学生で混み合っている。若々しい活気に満ちた駅だと思ったのも束の間、両列車が去っていくと、あとには私ひとりが残された。

山陰本線と播但線の交わる広い構内には、木造上屋を連ねた長いホームが置いてあり、国鉄の主要駅を思い起こさせる貫禄のようなものがある。眺めていると新大阪と城崎温泉に向かう上下の特急列車が滑り込んできた。

和田山駅ホーム。
和田山駅ホーム

駅裏手にはたくさんの列車がたむろしていたであろう敷地があるが、線路はさっぱり剥がされて空虚な草地が広がっている。蒸気機関車のための大きな給水塔や、レンガ造りの重厚な機関庫もあるけど、そこに通ずる線路もまた取り払われ、荒れるに任せているといった様子。栄枯盛衰を思わずにはいられない淋しい光景であった。

駅裏に眠る機関庫
駅裏に眠る機関庫

向かった駅舎は新しくはないけど古くもない、地方都市の玄関口らしい鉄筋コンクリート造りの小ぶりな高架駅であった。有人改札を抜けると、みどりの窓口と暖房の効いた大きな待合室があり、売店があったらしき跡地には自販機が並んでいる。ひと通りのものは揃っているが利用者はまばらでひっそりしていた。

高架駅なので階段を下りて駅前広場に出ると、バスやタクシー乗り場があり、正面には中小のビルや家屋が広がっていた。道路を挟んだ向かい側の、駅弁というのぼりが立てられた建物が目を引くほかは、見覚えのある地方の街並みである。

赤淵神社あかぶちじんじゃ

地図からおおよその道順を頭に叩き込んだら駅前通りに足を踏み入れる。往来まばらであまり活気はないけど、左右にゆらめく道路沿いに家屋が連なり、宿場町や商店街として栄えていた時代が偲ばれる。路地や脇道のひとつひとつを散策すれば楽しそうだけど、まだ正午になったばかりと早いので、うまくすれば次の養父駅にも行けそうだと足早に先を急ぐ。向かうは南に2〜3kmほどの町外れにある、県下最古級の本殿があるという赤淵神社だ。

ほどなく市街地を抜け出すと、但馬国における最大の河川、円山川沿いをさかのぼっていく。年末だというのに良好な日当たりと、休みのない足の動きに汗が浮かび、朝から快適に着ていたジャケットを脱ぐ。

和田山の町並み。
和田山の町並み

記憶の地図を頼りに円山川と小山に挟まれた集落に分け入ると、小山のふもとに鳥居を見つけた。傍らに立つ石柱に神社名と共に刻まれた式内の文字が、千年以上の歴史を持つ式内社であることを誇示しているかのようだ。背後には石段が伸びていて社殿が高台にあることは分かるが、樹林に包まれて姿は知れない。

ゆったりした幅広の石段を上がっていく。樹林のなかを緩やかに左に曲がっているため先が見通せず、足を上げるごとに奥から新たな景色が現れてくる。

やがて小ぶりながら手の込んだ楼門がじわりと見えてきて、思いがけない役者の登場にぞくりとする。神社というより山間の古寺に訪れたような気分だと思っていると、案内板でその理由が分かった、これはかつて赤淵神社の神宮寺だった神淵寺の山門だったのだ。さらに境内には堂宇や三重塔の礎石もあり、神仏習合の名残りが色濃く残されていた。

赤渕神社参道。
赤渕神社参道

山上の傾斜地に築かれた神社のため階段状に平坦地があり、石段を上がったり門をくぐったりを繰り返しながら、もっとも奥にある本殿に近づいていく。途中には鳳凰の透かし彫りが施された勅使門まであり、格式の高さがうかがえる。

境内を彩るサザンカ。
境内を彩るサザンカ

最後に十数段の石段を上がったところに拝殿がある。直線を主体とした端正な佇まいで、傍らには同じように端正な大小の境内社が整然と並んでいる。辺りはさっぱりと掃き清められ、背筋の伸びるような森厳とした空気に包まれていた。

気になるのは県内最古級ともいわれる本殿だ。建てられたのは鎌倉時代末期とも室町時代初期ともいわれ、国の重要文化財にも指定されている。はたしてどのような姿形をしているのかと期待が膨らむが、拝殿の背後にあるそれは覆屋のなかにあり、外からはまったくといっていいほど見えないのであった。

赤渕神社拝殿。
赤渕神社拝殿

駅に戻ってきたのは14時30分だった。これなら次の養父に行けそうだと思ったけど、時刻表を確認すると下り列車は15時48分までなく、それで向かったのでは1時間ほどで日没となってしまい、十分に楽しめそうにないことから断念。

しかし上り列車も15時38分と随分先までないので、昼飯と時間つぶしを兼ねて駅弁を買ってみることにした。時刻表には駅弁を扱う駅に「弁」のマークが付けられているのだが、それによると和田山は京都を出てから初となる駅弁販売駅になっている。

駅の売店は閉鎖されていたので、駅前で目にした駅弁ののぼりが立つ建物に入ると、店舗というより直接工場に買いに来たような雰囲気の空間で面食らう。事務所のようなところから出てきた男性に所望すると、奥からひとつ持ってきてくれた。駅での販売からは撤退したそうで、駅弁は全国的にも減るばかりだけど、ここもまた風前の灯火といった感じだ。

のんびり鈍行に揺られながら食べたいけど、時間的に混んでいそうなので、ちょうど誰もいなかった待合室で包みを開いた。

和牛弁当。
和牛弁当

橙色に染まりはじめた光を受けながら福知山行きが滑り込んできた。気温は下がりはじめ影は長く伸び、16時前だというのに夕方の気配が漂っている。

車内は家路を急ぐといった人たちで混み合っていたけど、幸いにしてまとまった下車があったおかげで楽々と窓側に座ることができた。駅弁はここで食べるべきだったかと思う。

普通列車の福知山行き 438M。
普通 福知山行き 438M

今朝の車窓は白いばかりだったので、帰りはしっかり景色を目に焼き付けていこうと外を見つめる。しかし暖房のぬくもりと疲労の相乗効果でとろとろしてしまい、景色などほとんど記憶にないまま福知山に到着してしまった。

(2019年12月23日)

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