越美北線 全線全駅完乗の旅 6日目(越前大野〜越前富田)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年7月30日、約1年ぶりとなる越美北線の旅は、1日5往復しか列車の走らない、越前大野から先の閑散区間に足を踏み入れる。これまでと比べて車内や沿線がどう変化するのか楽しみなところだ。

始発列車に乗るため訪れた早朝の福井駅は、雲ひとつない青空から、眩しいほどの朝日が差し込んでいた。越美北線の旅ではかつてないほどの快晴である。早くも汗を浮かべながら券売機に向かい越前大野までの切符を購入。目的地はさらに先だが残念ながら始発列車は越前大野止まりなのである。後続の九頭竜湖行きを待っても結果は同じだが、越前大野での待ち時間を利用して、名物の朝市を見学することにした。

設置中の自動改札機を横目に有人改札を通り抜け、足早に高架ホームに駆け上がると、昨年同様に単行の小さなディーゼルカーが発車を待っていた。車体のラッピングは恐竜の図案に変わり「太古のロマン 恐竜と化石号」と名付けられていた。驚いたのが手動だったドアが自動ドアに改良されていたことで、1年で随分進化したものである。

福井駅で発車を待つ、越前大野行きの普通列車 723D。
普通 越前大野行き 723D

乗り込むと乗客は壮年男性ひとりだけと貸し切り一歩手前である。そこから発車時刻が迫るにつれ少しずつ増えていき、最終的には用務客らしい中高年を中心に、高校生も加えた10人ほどになった。よそ者というか旅行者は私くらいのものだ。

屋根と壁に囲まれた薄暗い福井駅を抜け出すと、真横から太陽が照りつけてきて眩しい。線路脇の空き地では子供たちがラジオ体操をしている。市街地は10分もせず抜け出し、空には一面の青、地上には一面の緑が広がった。それを冷房のよく効いた車内から眺めるというのは何とも贅沢な時間である。

福井平野から山間に入ると少しずつ乗客が減っていく。このままでは私だけになるのではないかと思われたが、美山を過ぎると逆に少しずつ増えはじめた。そしてまもなく終点という北大野では学生がどっと乗り込んできて、立ち客まで出た状態で越前大野に到着した。

車窓を横切る足羽川。
車窓を横切る足羽川

越前大野では予定通り七間朝市に直行する。高山や輪島の朝市を幾度も見てきたので、同じような賑わいを想像していたら、予想に反して驚くほど閑散としていた。数人の老婆が路上に商品を並べているが、立ち寄る人どころか通りを歩く人すら見当たらない。並べてあるのは野菜が中心で、今の私にはあまり関係がないこともあり、眺めながら通り抜けてしまった。

すっかり時間が余ってしまったので街を見下ろす大野城に上がり、これから向かう大野盆地を眺めてみることにした。朝だというのに異様なまでに暑く、そこかしこに湧き出ている冷水を空になったペットボトルに詰めていく。大野は至る所に湧水があるから夏場は助かる。

城山のふもとから山頂に至る遊歩道に入ると、木陰に包まれると同時に、猛烈なセミの声にも包まれた。汗をだらだら流しながら風のない坂道を上がり切ると、山頂にはまだ朝らしい冷たい風が吹き抜けていて心地よい。あちこちに配されたベンチでは、朝の散歩途中といった老人が話に花を咲かせている。

入場料を支払いコンクリート造りの天守に上がると、平日の開館直後ながらカメラを手にした先客が数人いた。ここからは大野盆地に広がる市街地から、背後にそびえる経ヶ岳や荒島岳の山稜までを見渡すことができる。広大な盆地上にある線路は探しても分かりにくいが、線路の向かう九頭竜川の流れる谷間ははっきりと分かる。

大野市街と荒島岳。
大野市街と荒島岳

城山を降りたところには民俗資料館があり、何気なく通り過ぎようとしたとき「昭和43年を振り返る企画展」の看板が目に止まり、吸い込まれるように立ちよる。今年は福井国体が開催されるのだが、ちょうど50年前の昭和43年にも開催されたことから、その年を振り返ろうという趣旨のようだ。

資料館の一室には当時の家電製品や写真、大野市における出来事を報じた新聞記事などが並べられ、今しがた上がってきた大野城天守閣完成という記事もあった。それ以外にも古物屋かと思うほど大量の古民具が所狭しと並べられ、じっくり見ていたら時間がいくらあっても足りないほどだった。

再び清水でペットボトルに冷水を詰めてから、相変わらず人通りのない七間朝市を通り抜けて駅に戻ってきた。券売機で越前田野までの切符を購入してホームに向かうと、時を同じくして九頭竜湖行きの列車が入線してきた。車両は今朝と同じに見えたが微妙に違う。ラッピングが恐竜ではなく城に変わり「天空の城 越前大野城号」と名付けられていた。

福井から当駅までの利用者は多く、ホーム上は列車を降りた人と乗る人でごった返す。さらに列車の切り離し作業も始まった。2両編成でやってきた列車はここで分割され、前より車両はそのまま九頭竜湖行きのままだが、後より車両は福井行きとなり折り返していくのだ。

越前大野駅に停車中の、九頭竜湖行き普通列車 725D。
普通 九頭竜湖行き 725D

ホーム上に並んでいた乗客は全て福井行きに収まり、九頭竜湖行きに乗り込む人の姿は見当たらない。これは貸し切りかもしれないと思いつつ車内に入ると、予想に反して10人ほどが既に席に着いていた。どうやら福井から乗り通しているようだ。しかし生活利用者と思しき姿はなく、リュックを持った若者から中高年までの男性旅行者ばかりである。

10時17分、軽快なエンジン音を上げて発車。すぐに住宅の連なる市街地を抜け出し、はるかに広がる田園地帯に出た。間もなく大野盆地を二分するように流れる真名川を渡ると、列車が減速しはじめたので席を立つ。前方には田んぼが広がるばかりだが、驚くほど短いホームが近づいてくるののに気がついた。

越前田野えちぜんたの

  • 所在地 福井県大野市田野
  • 開業 1964年(昭和39年)4月20日
  • ホーム 1面1線
路線図(越前田野)。
越前田野駅ホーム。
越前田野駅ホーム

駅名通りに前を見ても後ろを見ても田んぼが広がり、遠く四方を山並みに囲まれ、大野盆地の中ほどであることを感じさせた。周囲には商店はおろか住宅すらなく、辛うじて小さな墓地があるだけと、どうしてここに駅がと思うような景色が広がっていた。当然のように乗降客は私だけで、列車が去ってしまうと後はどこからともなくセミの鳴き声が聞こえてくるだけの静かな、そして猛烈に暑い駅だった。

駅は短いホームが1面あるだけ、それもどう見ても2両分の長さしかない代物だ。越前大野までの各駅も相当に短いホームだと思ったが、それに輪をかけて短い。もちろん駅舎はなく待合所があるのみで、じりじり照りつける日差しから逃れるように中に入ると、熱気が籠もっていてムッとするような暑さだった。涼める所も自販機もなく暑さから逃れようのない駅である。

越前田野駅の待合所。
待合所

ホーム端の階段を降りるとそのまま道路に出るだけだが、ホームと道路の間には詰めれば10台くらい止められそうな駐輪場が設置してあった。駅前こそ田んぼしかないが広範囲を見渡せばかなりの家が点在しており、ここまで自転車で来ることを想定しているのだろうか。ただ夏休み中ということもあるかもしれないが、肝心の自転車は1台もなかった。

専福寺せんぷくじの大ケヤキ

見回しても名所などありそうにないが、そう遠くない場所にある真宗高田派の専福寺には、国の天然記念物にも指定された大ケヤキがあるという。直線距離にして約3kmと、散策がてら歩くには程よく離れている。もっとも間に真名川が流れているため、橋を求めて迂回することになるから、実際に歩く距離は4kmくらいになりそうだ。

駅を出ると歩いても歩いても、田んぼのなかに住宅が点在する景色がつづく。1日5往復という鉄道の状況だけを見ると人口希薄な土地のようだがそんなことはない。住宅が広範囲に点在している上に、列車本数が少なすぎて、誰もがマイカーを利用しているのだろう。買い物も遠くの大型店に向かうらしく、暑いから何か冷たいものが欲しいと思うが、それが手に入りそうな店は見当たらない。ひたすら田んぼと住宅がつづく。

田野地区の家並み。
田野地区の家並み

アスファルトに囲まれた国道に出ると体感温度は一段と上昇し、目眩がするほどの厳しい暑さに襲われた。次々と走り抜ける大型車が熱風と騒音を浴びせかけてくるのがまた堪える。近くの工場からの騒音も入り混じり、とても気分よく歩けるような状態ではない。静かな脇道に逃れたい気分だが、真名川を越えるには国道の橋に頼るしかないのが辛いところ。

ようやく橋の上までくれば涼し気なせせらぎの音に少しだけ癒やされた。背後には荒島岳から連なる山並みが壁のように立ちはだかっている。水の流れは幅にして20〜30m程度だろうか、水量は少なく歩いて渡れそうなほどでしかない。しかし河川敷まで入れた川幅はその10倍はありそうで、時として表情を一変させることを感じさせた。

頭をよぎるのが、かつて上流の山間部に存在した西谷村のことで、昭和40年の奥越豪雨により壊滅的被害を受け、最終的には集団離村で廃村になったという。災害が引き金となり村自体が消滅したという話は強烈で印象に残っている。先ほどの民俗資料館には西谷村という札が付けられた古民具があり、これを使用していた日常が突然奪われたかと思うと、何か締め付けられるものがあった。

真名川と荒島岳。
真名川と荒島岳

国道を脱出するとじきに交通量は激減し、再び田んぼの中に住宅が点在する静かで落ちついた景色に変わった。聞こえるのはセミの声と側溝を流れる水の音くらいのものだ。しかし日陰も風もまるでないため暑さだけは相変わらず厳しい。こんな酷暑の中を歩いている物好きは私だけで、猫の子一匹見かけなかった。

やがて前方には木立に囲まれた大きな屋根が見えてきて、すぐに専福寺だと気がついた。あそこには木陰があり、あわよくば飲み物もあるかもしれないかと思うと、砂漠でオアシスを見つけたような気分で足取りは軽い。

専福寺に到着して木陰に入るとそれだけで涼しく命拾いをした気分である。落ちついてみると天然記念物に指定されるような巨樹が見当たらないことに気がつく。どういうことかと歩いていると、突如として壁を思わせる太い幹が現れた。見上げると幹は途中ですっぱり切られ、腐食防止と思しき屋根がかけてある。いかに巨樹とはいえ上部がないのだから遠くから見えないのは道理で、太く短いを体現したような姿をしていた。

専福寺の大ケヤキ。
専福寺の大ケヤキ

傍らには「天然記念物」の文字も誇らしげな石柱や説明板が立てられ、それによると根回り約15m、幹周り約11m、気になる樹齢は約800年以上とある。幹の上部は枯れたことから昭和59年に切断されたとのこと。記念物指定は昭和10年と戦前にまでさかのぼり、専福寺はこのケヤキを目当てにこの地に建立されたと伝わるそうで、古くから巨樹として知られた存在だったことが伺える。

隣り合うようにして釣鐘の形をした火灯窓の印象的な山門、それに鐘楼門が並び、寺の方が後から建てられたというだけにケヤキによく馴染む姿をしていた。そのおかげか幹は切断されても寺も含めた全体として眺めると絵になるケヤキである。

小山こやま城跡

木陰でしばらく休息してから専福寺を出発したのは昼近くだった。食堂でもあれば駆け込むところだが見渡す限りどこにもない。かといって駅に直行しても、列車は2時間近く先までないので、少し寄り道をして近くにある小山城跡に向かうことにした。

越前守護の斯波氏が室町時代に築いた城で、名前通りに高さ20〜30m程度という小山に築かれていた。海に浮かぶ小島のように平野の中にぽつんとあるため、探すまでもなく自然と視界に飛び込んできてそれと分かる。専福寺からは1km程度しか離れていないが、気温はますます上昇していて軽い熱中症気味となり力が出ない。日陰など何もない田畑の中を歩いていると、はてしなく遠く感じられた。

平野に浮かぶ城山。
平野に浮かぶ城山

小山を目印にふもとに位置する集落までやってくると、六地蔵が鎮座していて古くからの集落であることを思わせる。傍らには「城山小学校跡」と刻まれた石柱が立っていて、目の前にあるのが城跡なのは間違いなさそうだ。

山裾には熊野神社があり境内の木陰に導かれるように立ち寄ると、社殿の背後に迫る城山の斜面上に人の踏み跡を見つけた。これはまさに城跡に向かう小道に違いない。暑さにやられて力の出ない体にむち打ち上がっていく。滅多に人は通らないらしく右も左も蜘蛛の巣だらけだった。それは良いとして問題は踏み跡で、徐々に消えていき藪が行く手を阻みはじめた。そしてついには身動きが取れなくなり登頂を断念するに至った。

残り少ない体力を無駄に消耗したばかりか汗だくになり、思わせぶりな踏み跡を付けた人に文句のひとつでも言いたい気分で神社まで戻ってきた。

城山に接する熊野神社。
城山に接する熊野神社

城跡はもう十分だとばかり城山沿いから駅に向かっていると、何やら看板のようなものが立っているのに気がついた。もしやと足早に近寄ると思った通り小山城跡の説明板で、その歴史と共に写真や鳥瞰図まで載せられたしっかりした物だった。

その脇には今しがた道なき道で四苦八苦した私をあざ笑うかのように、山中へと続く遊歩道が整備されていた。ここを辿れば手軽に山頂にたどり着けそうである。熱中症気味であまり気乗りはしないが、見つけたからには素通りする訳にもいかず、有り難迷惑とはこういうことを言うのだろう。なんとか気力で足を踏み入れ、ほんの20〜30mの高さしかない山を、3000m級の山にでも登るかの如く、一歩ずつゆっくりと上がっていく。

城山遊歩道の入口。
城山遊歩道の入口

遠目には木々に覆われた丸い小山でしかないが、中に入ると山肌は随分と人為的な形に加工されていた。そこらかしこに土塁や堀と思われる遺構を見て取れる。山頂は小さな平場になっていて、平野の中にある高台だけに眺望を期待したが、残念ながら木々に阻まれて視界は開けなかった。遺構を眺めかつての姿やその歴史に思いを馳せる所という感じである

遊歩道は途中で分岐もあり城山全体に及んでいるようだが、とても隅々まで足を伸ばそうという元気はなく、手近な頂を征したところで下山した。

炎天下を40分ほどかけて駅に戻ってくると、そのまま待合所のベンチにへたりこんだ。窓を全開にしても風はほとんどなく猛烈なまでの暑さだ。何か飲みたいところだが自販機はどこにも見当たらない。ひたすら耐えることおよそ30分、遠くに九頭竜湖行きのヘッドライトが見えはじめ、焦らすようにゆっくりゆっくりと近づいてきた。

越前田野駅に入線する、普通列車の九頭竜湖行き 727D。
普通 九頭竜湖行き 727D

車内に入ると冷房がよく効いていて気持ちいい。やれやれと車内を見渡せば14〜15人は乗っているだろうか。例によって大半は越美北線の乗車だけを目的としたような人たちで、地元利用者は高校生の1人くらいしか見当たらなかった。

越前富田えちぜんとみだ

  • 所在地 福井県大野市上野
  • 開業 1960年(昭和35年)12月15日
  • ホーム 1面1線
路線図(越前富田)。
越前田野駅ホーム。
越前富田駅ホーム

ここはもう大野盆地の外縁部に近い。前方には標高1625mの経ヶ岳から連なる山並みが迫ってきていた。豊かな穀倉地帯を想起させる駅名ながら、周辺には住宅が目立つのみならず小中学校まである。目の前には駅にまとわりつくようにして、線路を跨ぐための道路橋が通り、色々なものがありすぎてどこか雑然としていた。

隣りに座っていた高校生と一緒に降り立つと、短いホームと待合所があるだけの越美北線ではおなじみの姿をした駅だった。周辺には樹木が豊富にあるためセミが賑やかだ。列車が発車すると同時に高校生は迎えの車で去っていき、駅には私だけが残された。

軽い熱中症気味なので少し休もうと引戸を開けて待合所に入ると、この暑い最中に締め切られていただけに、思わず足が止まるような熱気に満ちていた。外気温との差を考えたら軽く40度はありそうだ。窓を開けてみるが焼け石に水で、こんな所で休んでいたら本格的に熱中症になりかねないと逃げ出した。

越前富田駅の待合所。
待合所

ホームはやたらと短く、先ほどの越前田野でも短いと思ったけど、ここはそれ以上に短く感じた。実際どうなのか知らないけど2両編成の列車ですらはみ出しそうに見えた。昭和35年の開業時からこんなに短いのであれば、よほど利用者が見込めない区間だったのだろう。過疎化の進む現在の利用者数など推して知るべしである。

駅前には広い空き地があり通常であれば日当たり抜群なのだが、頭上を横切る道路橋のおかげで、多少の圧迫感こそあれ日陰になっていて助かる。雨や日差しが遮られるから不要なのか駐輪場は見当たらない。そして駐車場代わりに何台もの車が止められていた。

橋脚は九頭竜川と四季をイメージしたと思われる絵や、こちらも九頭竜川の竜から取ったのか竜の絵などで彩られていた。原画は地元小中学校の生徒が描いたという。明るいデザインのおかげで、道路橋の下にありがちな暗さと圧迫感が和らいでいた。単にペンキで描かれているのかと思ったけど、表面は左官職人の描く鏝絵さながらに立体的で、随分と手の込んだ造作をしていた。

駅前に並ぶ橋脚。
駅前に並ぶ橋脚

少し休みたいけど待合所は暑く、駅前は日陰だけど座るところがない、付け加えるなら喫茶店の類もない。どうしようかと思うところだが駅前広場の片隅に東屋があり、これ幸いとベンチに横になった。壁がないので熱気がこもることはなく、屋根は真上付近から照りつける太陽をうまく遮ってくれる。ここで30分ほど休んだら随分体調が回復した。

雑草に覆われていて全然気が付かなかったが、東屋から見下ろせる所にはビオトープが造成されていて、小さな池を取り囲むように草花が植えられていた。ホタルの観察棟なるものまである。駅前があれこれ整備されているのは近くに小中学校があることが大きそうだ。

春日神社の大イチョウ

大野市の巨樹といえば「専福寺の大ケヤキ」と「白山神社の大カツラ」が特に有名で、どちらも幹周りは10mを超えている。それぞれ国と県の天然記念物だ。そしてこの近くには市の天然記念物に指定されている「春日神社の大イチョウ」がある。巨樹とあれば体調がどうあれ見ないで帰る訳にはいかない。場所は近くを流れる九頭竜川の対岸、経ヶ峰の山麓にある不動堂という地区で、およそ3kmの道のりである。

出発するとまずは九頭竜川に向けて歩いていく。駅前通りには建物が並んでいたので食事でもできればと思ったけど、せいぜい理髪店があった程度で家並みは途絶えた。

右手からは河岸段丘と思われる段差が迫り、左手には田んぼを中心とした平野が広がる。どちらも遠い昔に九頭竜川が作り出した地形だろう。段丘上には小さな神社があり参道の石段が伸びていたが、段丘の裾をなぞるように線路が通るため、参道入口は線路で寸断されていた。各地で見かける光景だけど、線路の方が後から通ったのに踏切がないとは理不尽な話である。

線路で寸断された八幡神社参道。
線路で寸断された八幡神社参道

やがて盆地と山麓を区切るように流れる九頭竜川が見えてきた。対岸には山が迫るが振り返れば平地が広がる。川幅は軽く200mはあるだろう。福井県を代表する河川だが水量はさほど多くはない。ゆったりと竿を振る姿が見られる穏やかな流れだ。しかし広大な河川敷には暴れ川の片鱗を見せつけるように、人の背丈を超えるような巨岩がごろごろしていた。

対岸に向けてまだ新しい大きな橋が架かるが、隣りには半ば歩道として残る先代の古びた橋が残る。当然そちらに進む。親柱からは阪谷橋と昭和38年竣工の文字が読み取れた。表面の風化したコンクリート橋と、離合もできないほど狭いトラス橋を組み合わせ、凸凹した路面には草や苔を携えた趣のある姿をしていた。足を止めて川面や釣り人を眺めていると、あれほど晴れ渡っていた空に急速に雲が広がりはじめた。

九頭竜川。
九頭竜川

九頭竜川を過ぎると樹林帯の迫る傾斜地に変わり、道路は背後にそびえる経ヶ岳を水源とする唐谷からたに川沿いをさかのぼっていく。ようやく気温が下がり始めたのか山林からはヒグラシの鳴き声が聞こえはじめた。道路は通学路なのか歩道付きで歩きやすいが、延々坂道なのでじわじわと足に堪えてくるものがあった。

視界が開けてくると不動堂は目前だ。広い谷間は緩やかな傾斜地で、数えきれないほどの田んぼが階段状に並んでいた。階段の上には十数軒はありそうな集落が見え、そのまた背後から全体を見下ろすように標高1000mを超える稜線が連なっていた。明るい山間の景色はどこか高原を連想させる。実際この谷をさらに進めば六呂師高原に行き当たるという。

経ヶ岳山麓に広がる不動堂地区。
経ヶ岳山麓に広がる不動堂地区

田んぼを眺めながら坂道を上り、集落を通り抜けたところで、杉木立に囲まれるようにして春日神社は鎮座していた。数十年前に訪れても何も変化がなさそうな姿を見せる境内は、木陰とセミの鳴き声に包まれ、心地よい風が吹き抜けていた。今では遊ぶ子供もなさそうな遊具がどこか寂しげに見えた。

何はともあれ参拝しようと拝殿に向かうと、仏教の信仰対象である「不動明王」という扁額が掲げられていた。もしかすると神仏習合の時代には不動明王の祀られたお堂で、それ故に不動堂という地名なのかもしれない。ふとそんなことが頭をよぎった。

社殿脇には見上げるように大きな岩があり、小さな祠が載せられていた。祠の正体はよく分からないけど、岩自体は経ヶ岳周辺から崩れ落ちてきたものだろう。こういう巨岩がこの辺りにはあちこちに転がっているのだ。

不動明王の扁額が掲げられた拝殿。
春日神社の拝殿

境内には件の大イチョウが均整の取れた姿ですっくと立っていた。樹齢は約400年で幹周りは5.7mあるという。大きいとはいえどちらも専福寺の大ケヤキの約半分ほどでしかない。向こうを先に目にしたこともありほっそりとして見えた。この辺りが同じ天然記念物でも、国や県ではなく市指定となっているゆえんだろうか。

地区民からは「初雪を知らせるイチョウ」と言われているそうで、周囲の木々よりも紅葉が遅いため、晩秋になり色づくとまもなく初雪が降るのだという。この話で思い出すのが飛騨高山の国分寺にある樹齢千年を超える大イチョウで、晩秋に全ての葉が散ると初雪が降ると言われていた。こうした云われのある木というのは大きさとは違う意味での存在感を感じさせる。

春日神社の大イチョウ。
春日神社の大イチョウ

駅に戻ってくると18時近かった。次の列車までたっぷり1時間以上ある。日が長い季節だけにまだ明るく、なにか訪ねることもできるが疲労困憊でそんな気にはなれない。待合所は熱気が籠もっていたので駅前の東屋に座りこむ。あとは近くのグラウンドから聞こえてくる少年野球の掛け声を聞きながら、ぼんやりと列車を待った。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

18時56分、日没迫る薄暗いなかを福井行きがやってきた。福井と越前田野で乗車したのと同じ車両である。先ほどの九頭竜湖行きが混み合っていたのだから、九頭竜湖から福井方面への最終となるこの列車はさぞ混雑しているだろうと思ったが、車内にいたのは旅行者風の男性が2人だけで拍子抜けした。

往路は混雑していて景色どころではなかったので、景色の見やすいボックス席に収まり、残照に浮かぶ荒島岳や真名川の姿をしっかり目に焼き付けていく。

10分としないうちに越前大野の1番線に滑りこんだ。この駅ではいつも2番線ばかり利用していたし、1番線に列車が入る姿すら見たことがなかったので新鮮に映る。今夜は大野市内に宿を確保してあるので下車する。

越前大野に到着した734D。
越前大野に到着した734D

乗降客は私だけでホームは閑散としていた。通票のやり取りをする乗務員の姿を見ながら駅舎を通り抜け、明日もつづく越美北線の旅に備えて宿に急ぐ。暑さと空腹ですっかりバテてしまい、早く食べて寝たいばかりである。

(2018年7月30日)

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