飯田線 全線全駅完乗の旅 1日目(豊橋〜下地)

旅の地図。

目次

プロローグ

2023年3月6日、名古屋駅で6時43分発の豊橋行きに乗車した。車内は通勤利用者で混んでいたけど辛うじて座ることができた。目指すは豊橋を起点とする飯田線である。

朝焼けに染まる名古屋駅。
早朝の名古屋駅

飯田線は潮風の感じられる東海道沿いの豊橋から、農山村をめぐり、信州は諏訪湖を目前にした辰野までを結ぶ路線だ。全長は195.7km、駅数は94、海から山に向かうため両端の標高差は700mを超えている。沿線には古墳・街道・宿場・城跡・寺社・古戦場などが点在し、線路は重畳たる山並みや深い渓谷などで彩られ、日本の屋根ともいえる中央アルプスに抱かれている。歴史と自然に恵まれた長大なローカル線である。

もともとは豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道という4つの私鉄が、明治時代からこつこつ作り上げたもので、太平洋戦争中にまとめて国有化されたことで飯田線というひとつの路線になったものだ。

小さな私鉄らしく国鉄なら見向きもしないような小集落にも丹念に駅を設置しており、山間をゆく路線でありながら平均駅間距離は約2.1kmと短い。それらのいくつかは過疎化やマイカーの普及などにより、利用者などいるのかと思えるような秘境駅と化しているが、それが結果的にこの路線の魅力のひとつになっている。

飯田線の全体図。
飯田線の全体図

私の好物を盛り合わせたような路線で、いつかじっくり全駅をめぐる旅をしてみたいと思っていた。いっぽうでローカル線とは思えない駅の多さに、完乗までいったい何十日かかるのかと考えると、手をつけるのに腰が引けていた路線でもある。今回の旅はいま一番行きたいところにしようと思い、とうとうこの大物に手をつけることに決めた。

豊橋とよはし

  • 所在地 愛知県豊橋市花田町
  • 開業 1888年(明治21年)9月1日
  • ホーム 5面8線(在来線・名鉄線)
路線図(豊橋)。
豊橋駅舎と路面電車。
豊橋駅舎と路面電車

愛知県でもっとも東に位置する東三河地方、そのなかで中心的な都市とされる豊橋市の代表駅である。JR東海の東海道新幹線・東海道本線・飯田線に、名鉄の名古屋本線が乗り入れるほか、隣接して豊橋鉄道や路面電車の駅もあるなど交通の要衝となっている。

名古屋から揺られてきた列車は定刻通り7時39分に到着し、急いではいないけど人波に引きずられるように慌ただしくホームに降り立った。主要駅の朝とあっていくつも並んだホームには頻繁に列車が発着していて、到着すれば駅舎に向けての列ができ、発車待ちの車両には続々と乗り込んでいく姿がある。

ホームは1〜13番のりばまであり、基本的には飯田線が1〜2番、名鉄線が3番、東海道本線が4〜8番、東海道新幹線が11〜13番を利用している。9〜10番は2駅隣りの新所原から伸びる二俣線の列車が利用していたものだが、第三セクターの天竜浜名湖鉄道となり直通運転がなくなったことで欠番となっている。

東海道線ホーム。
東海道本線ホーム

旅の主目的である飯田線の1〜2番のりばに向かうと、駅ビルの横腹で行き止まりとなった2本の線路を、両側から2面のホームが挟むという始発駅らしい姿をしていた。それぞれのホームは途切れた線路の先でつながっていて、頭端式や櫛形などといわれるコの字をしている。コの字の縦線のところには売店が置いてあった。

飯田線の2番のりばと同じホームの反対側、3番のりばは名鉄が利用している。豊橋から約4km先にある平井信号場までは、飯田線と名鉄名古屋本線の共用区間になっているため、競合関係にあるJRと名鉄の列車が、同じ線路とホームを利用するという面白いことになっている。

これはもともと単線の豊川鉄道があったところに、名鉄の前身となる愛知電気鉄道がもうひとつ単線を敷いて、共用することで複線としたことに由来する。当時はここに吉田駅があり国鉄と私鉄ではっきり分かれていたという。やがて豊川鉄道が国有化されて飯田線になると、吉田駅は豊橋駅に統合され、結果として現在の形になっている。

飯田線ホームの駅名板。
飯田線ホーム。
飯田線ホーム

ちょうど飯田線の列車が止まっているので、さっそく乗り込みたいところだけど、まずは豊橋の街歩きをしたいので背を向ける。エスカレーターで橋上駅舎に上がり、そば屋や売店を横目に改札口を抜けた。

橋上駅舎の改札口。
橋上駅舎の改札口

ごった返す自由通路を通って駅裏にあたる西口に出てみると、小さなロータリーを細かなビルや住宅が囲み、自転車預かり所があるなどいかにもな雰囲気。折り返して東口に向かうと橋上駅舎から下りることもないまま、駅前に築かれたペデストリアンデッキの上に出た。ゆったりした空間に花壇やベンチが備えられ、暖かな日差しと涼やかな風もあって居心地がいい。

急ぐ旅ではないのでベンチのひとつで少し休んでいく。駅ビルや雑居ビルに見下され、会社を目指すといった人たちが途切れることなく行き交い、地上では東海地方で唯一となった路面電車が往来している。活気あふれる地方都市の朝という感じだった。

ペデストリアンデッキ下にある路面電車のりば。
駅前の路面電車のりば

吉田宿よしだじゅく

豊橋は明治時代はじめに改名されるまでは吉田とよばれたところで、吉田藩の城下町であると同時に、豊川や三河湾を利用した船運の湊町、そして東海道34番目の宿場町であった。宿場町としては本陣2軒に脇本陣1軒を備え、旅籠は65軒ほどがあったという。飛躍的な発展と戦災によってそんな時代の面影はまったく残されていないと聞くが、消しきれない匂いのようなものは残されていると思うので、めぐってみることにした。

鉄道というのは広大な土地のある町外れに敷設されることが多く、豊橋駅もまたそんな立地にあるため、城や宿場町のあった中心市街に向けて歩くことからはじまる。路面電車に乗り込めばそこまで運んでくれるけど、町とじっくり向き合うには歩くのが一番だ。

路面電車の走る駅前通り。
路面電車の走る駅前通り

駅から歩くこと十数分で東海道に出会った。すでに吉田宿の一角だと思われるが、街路樹のある歩道沿いに住宅や中小のビルが建ち並び、人の姿はまるでなく車だけがまばらに走り抜けていく。往時は大動脈の宿場町として商家や旅籠が軒を連ね、往来する人々でざわめいていたのだろうが、想起すらできないほど現代的かつ静かな通りである。

ともかく町の中心部ともいえる吉田城のあった江戸方面に足を進める。点在する本陣跡や問屋場跡などと記された標柱だけが、ここが確かに宿場町であったことを教えてくれる。当時と変わらないのは唐突に左右に折れる道筋くらいのものかもしれない。それでもそうした小さな気づきをもとに想像をめぐらせながら歩くのもまた楽しいものだ。

吉田宿本陣跡。
東海道吉田宿の街並み。
東海道吉田宿。
東海道 吉田宿

東海道は角を曲がるたびに細くなり、いつしか歩道やセンターラインは消え去り、静けさだけが増していく。沿道には古めかしい家屋や商店が目立つようになり、いい雰囲気になってきたなと思っていると、騒々しさの極みともいえる国道1号線にぶつかった。大小の車に路面電車までが走っていて、まさに現代の大動脈である。

路面電車の走る国道1号線。
国道1号線

国道脇には吉田城下への入口ともいえる東惣門が復元されていた。当時は傍らに番所や駒寄せ場があり、6時から22時まで開放されていたとのこと。実際より相当に小さく作られた子ども向けのような門だけど、ようやく往時の姿に触れることができた。

国道を歩道橋で越えたところでは秋葉山と刻まれた巨大な常夜灯に出会う。吉田城下における度重なる大火に対する安全祈願として建てられたもので、高さは5mもあり、吉田名物のひとつであったという。こちらは場所の移動や修復などで完全にそのものではないが、そのほとんどが1805年(文化2年)に建てられたままという歴史の生き証人であった。

秋葉山常夜灯。
秋葉山常夜灯

東海道はここから国道1号線をたどることになるが、騒音と排気ガスを浴びるのはごめんなので、街道歩きは切り上げて近くの吉田城跡に向かう。この城は戦国時代に築かれたことにはじまり、酒井忠次や池田輝政といった城主により大きく改築され、江戸時代には吉田藩の中枢としての役割を担ったところだ。明治時代になると歩兵第18連隊が置かれ、太平洋戦争後に豊橋公園として整備され現在に至っている。

豊橋公園までくると街の喧騒が遠ざかっていく。クスノキのような常緑樹が豊富にあるため緑が目にやさしく、木々のざわめきと鳥のさえずりが耳に心地いい。ウォーキングやラジオ体操に興じる中高年が散見される程度と、人がまばらなこともあって安らぐものがある。城らしさはないけど市内中心部にこのような空間があるのは城があったおかげである。

木々の茂る豊橋公園。
木々の茂る豊橋公園

徳川家康の腰かけ松跡という年季の入った石碑を眺め、公園沿いを流れる豊川に面した散策路を下っていくと、本丸や櫓を支える大がかりな石垣が見えてきた。このなかに池田輝政の築いた古いものも残されているそうだが、どこも野面積みで古めかしく、どれがそうなのか見た目からはよく分からない。当時は船を利用して豊川から出入りすることもできたらしく、石垣なかほどには本丸に通じる石段が設けられていた。

豊川と本丸を結ぶ石段。
吉田城の石垣。
吉田城跡の石垣

石段を上がっていくと北多門跡があり、その向こうは石垣に囲まれた草木の茂る広場になっていた。もともとは取り巻く石垣の四隅に櫓があり、天守はないが本丸御殿がここに建っていたという。御殿は宝永地震で倒壊してしまい、財政的な問題から再建されることはなかったそうで、ある意味ではこの状態が江戸時代の姿といえるのかもしれない。

失われた櫓のなかで三層の鉄櫓だけが再建されていて、公園のシンボルともいえる目立つ存在になっていた。内部は資料館になっているそうだが月曜休館で見学はできなかった。平日の旅は空いているのと引き換えに、こういうことが往々にしてある。

吉田城鉄櫓。
復元された鉄櫓

鉄櫓の傍らには眺めのいい休憩所があり、眼下を流れる豊川から、遠く三河富士ともよばれる本宮山までを望むことができた。飯田線の旅ではこれから約50kmにわたり、豊川とその支流の宇連川沿いをさかのぼることになる。長い付き合いになる川である。

のんびり眺めていると城跡ではここくらいしかない展望地だけに、朝の散歩といった手ぶらの人からリュックを背負った団体まで、入れ代わり立ち代わりやってくる。月曜日の午前中ということもあるが古希を過ぎたような人が目立つ。

吉田城跡から眺める豊川と本宮山。
城跡から眺める豊川

宿場町と城をめぐって満足したので豊橋駅に戻ることにする。同じ道を歩いても時間と体力を消費するばかりで収穫は乏しいので、路面電車を利用してみようと最寄りの停留所に向かう。東海地方ではここでしか利用できない貴重な乗りものだ。

城跡のある公園から路面電車の走る国道1号線まで出てくると、思わず足を止めてしまうほど荘厳なロマネスク様式の建物があった。大階段の先にある列柱の並べられた出入口、その両脇にはいまにも飛び立ちそうな鷲の彫像に守られた半球ドーム、中近東から持ってきたような異国情緒を漂わせている。正体は1931年(昭和6年)に竣工したという豊橋市公会堂だそうで、昭和初期の地方都市にあったとは思えない見事なものである。

豊橋市公会堂。
地上に降ろされた竣工当時の鷲。
豊橋市公会堂

公会堂のすぐ前に見つけた停留所で婆さんと電車を待つ。反対方面の停留所にも数名が待っていて市民の足として機能していることが見て取れる。日中はおよそ7〜8分間隔で走っているのですぐにやってきた。

運賃はどこまで乗っても180円の前払いだったので、前側のドアから乗りこみ運賃箱に投入して席につく。停留所に記された乗車方法に目を通しておいたから、乗りなれてるような顔をしてスムーズにいったけど、そうでなければ当然のごとく後乗り後払いで行動してしまい、いまごろ慌てて財布を取り出していたところだ。

路面電車には古びた車両が唸りをあげながら、車体を揺らしてごとごと進むイメージがあるのだが、乗車したのは平成生まれの新しい車両で静かにするする進んでいく。乗り心地や垢抜けた内装に感心しているうちに豊橋駅前に到着してしまった。

路面電車。
路面電車に乗車
マンホールの蓋に描かれた公会堂と路面電車。
マンホールに描かれた公会堂と路面電車

まもなく昼になろうとしているので、列車に乗るまえに腹を満たしておこうと、駅前の片隅で見つけた小さな食堂に向かう。食堂といえば駅の大小によらず駅前にはつきもので、旅の食事としては駅弁と並ぶ好物だけど、近年急速に姿を消していて見つけただけでも嬉しくなる。

のれんをくぐると手狭な店内は混んでいて、ひとつだけ空いていたテーブル席に座ることができた。適当な定食にするつもりだったけど、壁に掲げられたメニューにあった、うどんと海鮮丼という変わった組み合わせが目にとまり、ちょうど店員がやってきたので思わずそれが口から出てしまった。

駅前食堂のランチ。
駅前食堂

ローカル線の飯田線といえど豊橋近郊は本数が多いので、時刻表を確認することもせずホームに向かうと、思ったとおり客待ちをする列車がいたので乗り込む。12時27分発の豊川行きだった。通勤通学客のいない時間帯なので空いていて、数えるほどしかいない乗客が、思い思いにボックス席を専有している。

普通列車の豊川行き423G。
ボックスシートが並ぶ豊川行きの車内。
普通 豊川行き 423G

列車は定刻通りに動きはじめて飯田線の旅がはじまった。静かに滑るように豊橋駅を抜け出すと、右手に飯田線の車両がたむろする豊橋運輸区をかすめ、左手にある東海道本線と並走しながら市街地のなかを進んでいく。ゆっくりしたいけど船町駅までは1.5kmしかないので早々と到着がアナウンスされた。

船町ふなまち

  • 所在地 愛知県豊橋市北島町
  • 開業 1927年(昭和2年)6月1日
  • ホーム 1面2線
路線図(船町)。
船町駅舎。
船町駅舎

豊橋から伸びてきた線路が、東三河地方最大の河川である豊川を渡る直前、岸辺近くに置かれた駅である。船町という駅名が示すように江戸時代に船運で栄えた吉田湊があったところに近い。隣接して貨物駅があるなど今も昔も物流に縁のある土地である。

列車から降りるとホームの狭さが印象的だった。点字ブロックの内側は両足でまたげるほどしかない。辛うじて小さな屋根はあるけどベンチはない。日に数本しかこない山間の秘境駅ならまだしも、日に数えきれないほどが行き交う市街地の駅とは思えないものがある。路線開業時に当駅はなかったので、あとから無理やりホームを置いたという感じだ。

傍らを東海道本線の電車が走り抜ける船町駅ホーム。
東海道本線と下地駅ホーム

当駅に停車するのは飯田線の普通列車のみで、時刻表によると1時間に上下合わせて4本が基本になっている。静かそうなものだけど線路を名鉄と共用しているため続々と名鉄の列車が通過していく。ここはJRの駅なので名鉄は見向きもしない。西隣には東海道本線が並走しているけど駅がないので普通列車から貨物列車までが勢いよく走り抜けていく。さらに西に100mほどのところには東海道新幹線があるため風を切るごう音が響いてくる。時刻表から想像するよりはるかに多くの列車が行き交い賑々しい。

築堤上のホームからは東隣の平地にある貨物駅が一望できる。線路は敷かれているけど錆と雑草に包まれて廃線状態だ。それでいてコンテナは山積みにされていてトラックが頻繁に出入りしている。現役の貨物駅ではあるけどトラック輸送のみを行う、オフレールステーションになっているのだ。

船町駅ホームを名鉄の電車が通過。
上下線を名鉄電車が通過

豊橋寄りのホーム端から階段を下りていき、左に折れて上り線をくぐると、バスの切符売り場のような小さな駅舎のなかに出た。室内は後ろから人がきたら否応なく外に押し出されてしまいそうなほど狭い。当然ながらベンチのひとつすらない。こんなところにも駅員がいた時代があるらしく窓口の痕跡が残されていた。

封鎖されて運賃表が掲げられた窓口跡。
封鎖された窓口

駅舎から一歩出るとそこは歩道すらない場末感のある狭い道路であった。右側は飯田線と東海道本線をくぐり抜ける薄暗いガード下で、天井は頭がぶつかりそうなほど低い。左側は先ほど見下ろした貨物駅につづく錆びついた線路とその踏切がある。猫の額ほどの土地に強引にねじ込まれたような駅で、東海地方でも指折りの利用者数を誇る、豊橋駅のすぐ隣りとは信じられないような光景の連続である。

吉田大橋よしだおおはし

江戸時代には駅のすぐ脇を流れる豊川に、長さ約200mという巨大な木造の橋が架けられていた。東海道の橋であったそれは明治時代に豊橋と定められるまでは、吉田大橋・豊橋・豊川橋など様々によばれていたという。矢作橋や瀬田唐橋と並ぶ東海道の三大大橋として広く知られた存在で、歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。

この橋というのが豊橋市にとっては特別なもので、江戸時代に吉田とよばれていたこの町であるが、明治時代を迎えると同名の町が多くて紛らわしいと改名を求められ、いくつか出された候補から選ばれたのが、橋の呼称のひとつであった豊橋だという。

当時の橋そのものは現存しないが、子孫ともいえる橋は現役なので、そこを目的地として駅を出発した。線路沿いに広がる住宅地のなかに分け入っていく。

頭をぶつけそうなガード下の駅前通り。
ガード下の駅前通り

数分もすると見晴らしのいい豊川の堤防道路に出た。見下ろす水面はどちらに流れているのか判然としないほど穏やかだ。草地の広がる河川敷や往来の少ない路上では、ウォーキングをする中年男性、犬の散歩をする老人、小さな子どもと遊ぶ女性などを目にする。遠くを見やれば三河富士の本宮山が青白く浮かんでいる。穏やかな昼下がりの景色が展開する。

歩いていると日差しが強いせいか、それとも気温が高いせいか、暖かいを通り越して汗がにじみはじめた。海からさかのぼってくる強くひんやりした風が気持ちよかった。

豊川と本宮山。
豊川河口から5kmの標識。
豊川をさかのぼる

堤防道路の傍らに小さな公園があり、その中央を占有するように巨漢のごとく大きな親柱と、そこから両翼に広がる立派な袖高欄が保存されている。これは1986年(昭和61年)に現在の橋に架け替えられるまで使用されていた旧豊橋のものだという。親柱は単なる長方形のような石材であるが、人力では微動だにしないような大きさと深く刻まれた達筆な文字により、衛兵さながらの圧を発する見ごたえのあるものに仕上がっていた。

旧豊橋は三連アーチ式のトラス橋だったそうで、前後左右を4つの親柱に囲まれるようにして、切り出された鋼材の一部が保存してあった。

この公園の辺りは旧豊橋のさらに先祖にあたる木造の吉田大橋が架かっていたところで、豊川上流や伊勢・江戸などを結ぶ船が発着するなど、物資の集散地として栄えた吉田湊があったところでもあるという。東海道を往来する人々が利用した吉田大橋に、物資のみならず伊勢参りに向かう旅人なども利用したという吉田湊、当時は活気にあふれていたにちがいない。いまはそれを想像することすら難しいほど痕跡も賑わいもなく、片隅に建てられた「初凪や伊勢より船町へ旅役者」という句碑に、当時の情景を思い浮かべるのみである。

旧豊橋の親柱。
旧豊橋の親柱

吉田湊跡から100mほどで吉田大橋の流れをつぐ豊橋に到着。片側2車線の大きな橋で、車が引きも切らず行き交っている。外観といえば江戸から明治にかけての壮大な木造橋や、大正から昭和にかけての威厳ある親柱を備えたトラス橋と比べると、目立った特色のないどこにでもあるような橋である。道幅は広くて歩道もあるので利用するには快適そうだけど、眺めて楽しいという部類のものではなかった。

目的地まできたので引き返すことも考えたけど、なんだか消化不良なので、橋から数分ばかり東海道を進んで湊神明社の鳥居をくぐった。地図で見ると小島をふたつ浮かべた大きな池という、気になるものを脇に抱えている神社だ。

湊神明社は東海道沿いにずらり並んだ家屋の裏手にあり、街道に面した参道こそ一軒分を抜いたような狭さだったけど、奥までくると広い空間に拝殿が座していた。社殿の背後にはさらに広々とした豊川があるせいだろうか、風当たりが強くて境内の木々がざわめいていた。

湊神明社前の東海道。
湊神明社前の東海道
湊神明社。
湊神明社

境内の東隣には地図上で存在感を放っていた大きな池がある。そこにあったのは湊築島弁天社で、名前通り池のなかに人工的に造られた築島に、琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天が祀られているという。小ぶりな社殿は1795年(寛政7年)に造営されたもので、国の登録有形文化財に指定されていた。

橋が架けてあったので島に渡り弁天社に手を合わせ、思いのほか浅い池を窮屈そうに泳ぐ鯉を眺めたりしていると、松尾芭蕉の句碑があるのに気がついた。芭蕉は11月の寒空のした同行人と吉田で宿泊している。その夜を詠んだとされるのが「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」というもので、読んで字のごとくのような作品だけど、ひとり旅をする身としてはその心情に共感できるものがある。

湊築島弁天社。
湊築島弁天社

再び豊川の堤防道路を歩いて駅に戻っていると、いよいよ駅が見えてきたというタイミングで14時発の豊川行きが入線してきた。これが数時間に1本しかないような路線なら全力で走るところだけど、幸いこの辺りは30分間隔で走っているので見送る。

駅は内外ともに狭すぎてベンチのひとつすらないので、ホームに立って行き交う列車を眺めて時間をつぶし、14時30分発の豊川行きに乗車した。車内は程よく埋まる程度の乗車率で楽に座ることができた。

普通列車の豊川行き431G。
普通 豊川行き 431G

船町から次の下地までは0.7kmしかなく、ドアが閉まり動きはじめるとほぼ同時に「まもなく下地です」と案内放送が流れた。首都圏の通勤路線も顔負けの近さだ。統合してもいいのではと思えるほどだけど、両駅間には豊川が横たわっているため、歩けば先ほどの豊橋まで大回りすることになり3km近くも要することになる。近くて遠い隣駅なのである。

駅を抜け出した列車は豊川の長い鉄橋に差しかかり、ゆっくり渡り終えると、下地駅のホームに滑りこんだ。時刻表における所要時間は1分となっている。

車窓から眺める豊川。
豊川を渡る

下地しもじ

  • 所在地 愛知県豊橋市横須賀町
  • 開業 1925年(大正14年)12月23日
  • ホーム 2面2線
路線図(下地)。
上下線ホームに挟まれた下地駅舎。
下地駅舎

豊川に架かる鉄橋のたもとに置かれた駅である。対岸には豊橋市街地が広がっているが、こちらには田んぼが当たり前のようにあり、豊橋側からくると町外れにきたことを感じさせる景色が広がっている。路線が開業した明治時代は今以上に田んぼしかなかったのだろう、当駅が開設されたのは大正時代も終わり近くになってからのことだ。

ひとり降り立ったホームは変わった構造をしていた。この辺りは上下線の線路が少々離れているのだが島式ホームにするには間隔が広すぎるのだろう、中央を空き地として上下線のホームが背中合わせに配置されている。ところどころに互いを結ぶ通路があるため、真上からみると「月」の字のような形になっている。そして月のもっとも下にある空間には、ホームに挟まれる形で駅舎が建っている。

下地駅の下り線ホーム。
東海道本線に面した下りホーム

隣りの船町駅もそうだったが目の前に東海道本線が通っているけど向こうに駅はなく、飯田線は名鉄との共用区間なので、そられの列車が次から次へと通過してゆき賑わしい。当駅に停車するのは飯田線の普通列車のみだが、それすら一部には通過するものがあるという、目にする列車は豊富だけど乗降できる列車は少ないという駅である。

下地駅上り線ホーム。
上りホームを名鉄電車が通過

上下線のホームに挟まれた駅舎はその立地にしては大柄で、しっかりした待合室にトイレも備え、有人駅だった時代があるらしく窓口や事務室の跡も残されていた。鉄骨に壁と屋根を貼り付けただけのような合理的な造りで、格別に古くはないが格別に新しくもない。実年齢は知らないけど昭和中期の国鉄駅の香りを漂わせている。

窓口は閉鎖されているしホームには屋根付きのベンチがあったので、いまでは必要とする人のない実質通路のような駅舎だなと思っていると、おじさんが入ってきてベンチに腰を下ろした。まったく無用な代物という訳でもないらしい。

窓口跡が残る待合室。
窓口跡が残る待合室

室内を観察しているとおじさんが不審そうな視線を向けてくるので駅前に出た。そこは平面的にみると、前方を豊川が横切り、左右に線路が走り、背後が駅舎という八方塞がりのようなところだった。もっとも駅前がすぐ階段になっていて、下っていくと線路下を横切る道路に出ることができる。船町駅に負けず劣らずの強引に設置した感のある駅だった。

瓜郷遺跡うりごういせき

下地駅が置かれているのは海岸から4〜5kmのところであるが、さかのぼること約2千年の弥生時代には、わずか1kmほどの辺りまで波が寄せていたという。近くではそれを示すように貝塚のある集落跡が発見されている。町名を冠して瓜郷遺跡と名付けられたそこからは、農耕や漁撈で生活をしていた弥生時代の暮らしを伝えるものも多数発掘されている。

国指定史跡でもあるこの遺跡を訪ねてみることにして、田畑と住宅が散らばる穏やかな平野のなかをゆく。乾いた土地を風が吹き抜けてなんだかほこりっぽい。風はあるけど日差しが強いのでのどが渇いてくる。草花の彩りには乏しいけど陽気から春を感じる。

豊川を渡る飯田線電車。
田園地帯のなかに住宅が点在する。
田んぼに映る自分の影。
遺跡への道のり

のんびり歩くこと約15分、豊橋と船町につづいて三度目の出会いとなる東海道を横断して、さらに100mほど進んだところに瓜郷遺跡はあった。国指定史跡の集落跡ということで大規模なものかと思いきや、敷地は田んぼ1枚か2枚分という程度で、周囲には民家が目立つなど、街中の公園のようなところで少し拍子抜けした。当時の集落はずっと広範囲にあったそうなので、ほんの一部を遺跡として整備したようだ。

大きなサクラに囲まれた広場には、復元された竪穴式住居がひとつ置いてある。重厚な茅葺き屋根を地面にどすんと置いたその姿は、縄文遺跡でよく目にするそれに似ているけど、全体的に直線的で切妻になっているなど洗練された印象を受ける。しっかり作られた本格的なものなので見応えは十分だ。とはいえ現状では弥生時代の一軒家なので、できればもう何軒か建てて集落を再現してほしいものだと思う。

見回せば瓜郷遺跡と刻まれた太い石柱が立ち、説明板や公衆トイレも用意されている。小さな高床式倉庫の模型が置いてあるので、建物の紹介だろうかと近づくと、発見や発掘の経緯から出土品などを説明する瓜郷遺跡の小冊子入れになっていた。

瓜郷遺跡。
復元住居の茅葺き屋根。
瓜郷遺跡と復元住居

竪穴式住居は目を引く存在だけど、あくまで想像から復元されたものであり、真に見るべきは出土品のほうだろう。瓜郷遺跡では1947年(昭和22年)から5回にわたり発掘調査が行われていて、住居跡や貝塚のほか、土器・石器・木製品などが多数発見されている。残念なのはそれらが収蔵されているのが3kmばかり離れた豊橋市美術博物館ということで、現地ではなにも目にすることはできなかった。

出土品はないけどバス停があったので時刻表に目をやると、あと30分もしないうちに1日3本しかない豊橋駅行きがやってくる。変わっているのが同じバスが15時51分と15時59分の2回停車することで、どうやら近隣をぐるりとまわる都合上そうなるらしい。これを利用すれば8分間だけ遺跡を見学したのち、同じバスで去るという面白いことができそうだ。

瓜郷遺跡のバス停。
遺跡前のバス停

国指定史跡だけあって想像以上に整備が行き届いていたけど、敷地が小さいうえに出土品もないので、復元住居を眺めて説明板とバス停に目を通したらもうやることがなくなった。次の駅に向かうには日が傾きすぎているので、駅に戻った足で15時59分発の豊橋行きに乗り込み、飯田線の旅の初日を終えた。

(2023年3月6日)

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