飯田線 全線全駅完乗の旅 2日目(下地〜豊川)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2023年3月7日、豊橋9時8分発の本長篠行きで旅をはじめる。もうすこし早い列車に乗るつもりだったけど、豊橋から豊川にかけての区間は利用者が多いので通勤通学ラッシュを避けようと、ゆっくり8時半にやってきたら9時過ぎのこの列車までなかった。

普通列車の本長篠行き515G。
普通 本長篠行き 515G

ほどよく座席が埋まったところで出発、市街地を抜けて豊川を渡り、下地駅を過ぎると間もなく駅でもないのに線路が左手に分かれていく。平井信号場と呼ばれるところで、分岐したのは名古屋方面に向かう名鉄の線路だ。これにより豊橋からつづいてきた飯田線と名鉄線との共用区間は終わり、終点まで飯田線のひとり旅となる。

平井信号場で左に去っていく名鉄線。
分岐する名鉄線

平井信号場から小坂井駅までは数百メートルしかないので、名鉄線の行方に目をやっているとすぐに着いてしまい慌ただしく席を立った。

小坂井こざかい

  • 所在地 愛知県豊川市小坂井町
  • 開業 1898年(明治31年)3月13日
  • ホーム 2面2線
路線図(小坂井)。
小坂井駅舎。
小坂井駅舎

豊川が運んできた堆積物によって生み出された豊橋平野は、豊川沿いに広がる低地と、それを両側から挟みこむ台地とに大きく分かれている。両者は数メートルから数十メートルほどある段差でくっきり隔てられている。豊川の流れが削り出した河岸段丘である。当駅は豊橋から伸びてきた線路が、低地から台地へとこの段差を駆け上がったところにある。辺りの道路にも等しく坂道があり、小坂井という地名はこうした小さな坂に由来するという。

列車から降りたところにあったのは、上下線を挟んで向かい合うホームと、それを結びつける跨線橋というありふれた姿の駅だった。これまで飯田線で訪ねてきた豊橋・船町・下地の各駅は立地や構造に特色のある駅だったので、平凡な姿には落ちつくものがある。

小坂井駅ホーム。
小坂井駅ホーム

もっとも歴史を紐解けばここもまた特色のある駅で、近くを走る名鉄線とを結ぶ小坂井支線というものが存在した時代がある。当時はこれを利用して名鉄の名古屋方面と飯田線の豊川方面を直通する列車も運行されていたという。それは1954年(昭和29年)に名鉄単独で豊川に至る、豊川線が全通したことで廃止されている。それから70年近くが経過したいまでは、本当に存在したのかと思えるほど痕跡は見当たらない。

下りホームのレールと木材で作られた上屋。
下りホームの古めかしい上屋

いかにも平成生まれという佇まいの小さく清潔なコンクリート造りの駅舎は、トンボを真上から見たようなデザインをしている。近くには多種のトンボが生育できるよう小川や池を整備したという「とんぼ公園」なるものもあり、詳しいことは知らないけどトンボと縁のある町なのだろう。近年は画一的デザインの箱を置いただけのような駅舎が増えているだけに、地域色を出している駅舎は新旧大小を問わず好感が持てる。

壁伝いにぐるりと木製ベンチの配された待合室に入ると、ご自由にお持ちくださいと書かれた紙袋が置いてあった。覗いてみると折込広告で作られた小箱がたくさん入っていた。

待合室に置かれた紙袋。
小坂井駅待合室

駅前に出ると狭く曲りくねる道路沿いに新旧の家屋が並び、古くからの集落にある小さな駅といった風情である。駅舎と向かい合うように理髪店があるけど下ろされたシャッターには閉店の張り紙がしてある。活気はないけど自転車は大量に並べてあり、ぽつりぽつりと駅利用者がやってくるなど、1日を通しての生活利用者は多そうな駅である。

菟足神社うたりじんじゃ

国土地理院の地図を開くと小坂井駅から東に約250m、台地の縁のようなところに菟足神社の文字がある。地図における神社といえば鳥居マークがあるだけなのが普通だが、神宮や一宮といった特に大きいものや有名なものは、こうして名前で記されている。菟足神社の名前は現在の飯田線や名鉄線など影も形もない、東海道本線の線路がようやく敷かれたばかりの明治時代の地図でも確認でき、古くから知られた存在だったことがうかがえる。これは行ってみなければなるまい。

目的地は菟足神社としたが、駅から豊川方面を見やると隣接する踏切脇に、お堂のような木造瓦葺きの小さな建物が確認できる。地図には名称どころか寺院や神社のマークすら存在していない。気になったのでまずはそちらを先に訪ねてみる。

駅前から線路沿いの小路を進み、駅の外れで踏切を渡り、気になる建物の前に立つ。見上げれば天神社という扁額が掲げてあり、周囲には天満宮と記された奉納のぼりが風にはためき、どうやら菅原道真を祀る神社のようである。もっとも由緒書きのようなものは見当たらないし、それ以上のことは何も分からなかった。

小坂井駅に隣接する踏切。
こじんまりした天神社。
踏切脇の天神社

再び踏切を渡って駅まで戻ってきたら、菟足神社を目指して家並みのなかに進む。細い道路や路地に沿って真新しい住宅から、古めかしい家屋、廃墟のようなものまでが集っている。青空に映える満開のウメに足を止めれば甘い香りに包まれる。物音に目をやれば小さな畑を婆さんが耕している。往来はほとんどなく穏やかさの漂う集落である。

駅近くに掲げられた手書き地図。
駅前の家並み。
町内にある社と御神木。
小坂井の町

江戸時代には殷賑としていたであろう東海道を横断したところに、菟足神社の小ぶりな鳥居が立っていた。説明板に目を通すと江戸時代前期に吉田城主が寄進したものであった。傍らには弁慶松なるものもあり、東行のおり大雨でこの地に滞留した弁慶が植えたという伝説が残るという。もっとも本当のそれは枯れたらしく目の前にあるのは近年植えたものであった。

境内では日なたで爺さんたちが座りこんで歓談している。自転車でやってきているあたり近所の人たちだろう。通りがかりに鳥居の前で手を合わせていく人もいた。

奥に進んで二の鳥居をくぐると正面に大きな拝殿が構えていた。見回せば社務所や神楽殿などが建ち並び、緑深いクスノキが枝葉を広げている。参拝者の姿はなく静けさと清涼な空気が立ちこめていて、自ずと清々しい気持ちになっていく。

菟足神社二の鳥居。
菟足神社の鳥居

創建は飛鳥時代にまでさかのぼり、平安時代に書き写された大般若経や、室町時代の梵鐘などを所蔵しているという。境内の案内板を見ていると縄文時代の貝塚があったり、徐福渡来地といわれる徐福伝説があったり、深い歴史に彩られたところである。

賽銭箱の前までくると薄明かりに照らされた拝殿内に、こちらを見つめる巨大な白ウサギがいてどきりとする。よく見れば張り子で作られた神輿のようなものだった。いかにも作り物ではあるけど目があると見つめられている気がする。いまにも飛びかかってきそうだ。

菟足神社の拝殿。
菟足神社の拝殿

菟足神社の「菟」というのは卯や兎などいくつかあるウサギを表す漢字のひとつだ。ウサギの足の神社とは高く飛躍できそうな縁起のいい名である。そのためか境内はウサギにあふれている。そのものの形をした張り子や木彫りのほか、賽銭箱や石灯籠に鬼瓦などあれこれにウサギの紋様が施されている。ウサギに関連した授与品や御朱印もあるようだ。今年は卯年だし初詣はさぞかし賑わったことだろうと思う。

賽銭箱に施されたウサギの意匠。
賽銭箱のウサギ

時刻は10時半とまだ早いので、菟足神社とは国道1号線を挟んで隣り合うようにしてある、五社稲荷社まで足を伸ばす。その道中で目的地よりさらに先に巨大な赤い大鳥居がそびえているのがちらりと見え、ただものではない存在感に思わず五社稲荷社を素通りして、そちらにまで足を進めてしまった。

大鳥居は五社稲荷社に通じる道路をまたぐように立っていた。高さは20mくらいあるだろうか、くぐり抜ける車がおもちゃのように小さく映る。周辺には新しく近代的な道路や建物があるばかりで、およそ神社とは縁のなさそうな景色が広がっていることもあり、あるはずのないものが忽然と現れたような不思議な光景であった。

五社稲荷社の大鳥居。
五社稲荷社の大鳥居

改めてやってきた五社稲荷社は、広々とした駐車場や大きな社務所を備えていて、想像していたよりずっと大きな神社だった。由緒によると江戸時代後期に伏見稲荷大社から勧請したそうだが、神聖な土地としての歴史はずっと長いようで、社殿の下には古墳時代中期の築造と推定される古墳が眠っているという。

ちょうど台地の縁をなす段差上でもあるため、どこまでが古墳でどこまでが自然の地形なのか判然としないけど、ともかく低地にある鳥居をくぐり、高台にある拝殿に向けて階段を上がっていく。赤い鳥居や赤い前掛けをした狐の石像がいかにもな雰囲気を醸し出している。人々が求めているのは商売繁盛のようで、静謐だった菟足神社と比べると、続々と参拝者がやってきて賑わいがあった。

石段から見上げる五社稲荷社の拝殿。
五社稲荷社の拝殿

拝殿裏手にあった奥の院まで参拝してから駅を目指していると、折しも駅前まできたところで列車が入線してきた。跨線橋を駆け上がれば乗れないこともなさそうだったけど、走ったあげくに乗り遅れるのは悔しいし、すっ転んでは目も当てられないので足を止めた。

列車を見送ってから時刻表を確認するため待合室に入ると、ご自由にお持ちくださいの紙袋が消えていた。ご自由に持っていった人がいるのか、それとも置いた人が片付けたか、ちょうど駅の清掃員がきているので忘れ物として回収でもしたのだろうか。

次の列車は30分後までなかったので、ゆっくり跨線橋を渡り、暖かく静かなホームのベンチに腰を下ろした。名鉄線だろうか遠く列車や踏切の音が柔らかな風に運ばれてくる。ぼんやり耳を傾けていると眠くなってくる。

発車時刻が近づいてきたところで立ち上がり、待つほどもなく現れた11時36分発の豊川行きに乗りこむ。私のほかに若者や中年の男女など数人が乗車した。

普通列車の豊川行き419G。
普通 豊川行き 419G

台地上をゆく車窓にはどこまでも新旧の住宅が流れていく。多少農地もあるけど宅地化されるのは時間の問題といった様子だ。面白い景色ではないけど、これまで目にしてきた豊橋市街地や田園地帯とも異なる景色で、駅ごとに変化があるのは楽しい。

牛久保うしくぼ

  • 所在地 愛知県豊川市牛久保町
  • 開業 1897年(明治30年)7月15日
  • ホーム 2面2線
路線図(牛久保)。
牛久保駅舎。
牛久保駅舎

東海道と信州を結ぶ交易路として栄えた伊那街道沿いの歴史ある町で、台地上にぎっしり家屋が詰めこまれ寺社が点在している。線路はそんな過密地を避けるためか台地の縁をなぞるように敷いてあり、駅前には台地上の家並みが広がるいっぽう、駅裏は台地から平野へと落ちこむ傾斜地になっている。平野側からすると天然の城壁のようなもので、戦国時代には牛久保城があったところだという。

駅舎に面したホームに降り立つと、工事用フェンスが立ち上がっていて、狭いうえに圧迫感がある。もともと幅のあるホームなのだが、改札口に面した半面を閉鎖して、ホーム上に新しい駅舎を建設中なのだ。概ね完成しているそれをフェンス越しに眺めると、屋根の下に券売機を置いただけのようなのような簡素な代物だった。

牛久保駅ホーム。
牛久保駅ホームの駅名板。
牛久保駅ホーム

建設中の新駅舎によって改札口をふさがれた古い駅舎には、仮設通路を通り、側壁に作られた出入口から入る。駅員がいて改札業務もしているけど、そちらは移動することなく閉鎖された改札口の脇にいるため、降車客は待合室に入ったのち改札口に出向くという、順序が逆のような面白いことになっていた。

まもなく使命を終えるであろう駅舎は木造モルタル造りの大柄なもので、汚れや痛みでくたびれているものの、高い天井に大きな三角屋根を載せ、タイル張りの列柱からなる車寄せを備えるなど瀟洒な姿をしている。建てられたのは1943年(昭和18年)のことで、風雲急を告げる時代のローカル駅とは思えない造作なのは、最盛期には5万人余りもの工員を擁し、東洋一の規模ともいわれた豊川海軍工廠の最寄り駅のひとつであったからだという。

牛久保駅窓口。
窓口と券売機

有人駅で窓口もあるけど来週のダイヤ改正で営業終了との張り紙がしてある。同時にホームで目にした建設中の小さな新駅舎に切り替わり、この貫禄ある木造駅舎は取り壊されることになるようだ。もう二度と私がこの窓口を利用することはないと思うので、訪問記念と惜別の意味をこめて入場券を購入しておいた。

牛久保駅入場券と豊川までの乗車券。
入場券と乗車券

閑散とした駅前広場からは往来のない通りが延びている。豊川海軍工廠があったのは2kmほど進んだところで、戦時中の朝晩には工員が列をなしていたのだろう。

駅前広場の一隅には絶滅危惧種ともいえる駅前食堂がのれんを出している。営業している店舗はこれしか見当たらないが、商店の構えを残した家屋はいくつか残されていて、ちょっとした商店街だった時代もあるようだ。もうすぐ駅舎が姿を消すとそんな昔日の賑わいを伝える生き証人はこの食堂だけになりそうである。

牛久保のナギうしくぼのなぎ

近くには桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元の胴塚や、武田信玄に仕えた軍師として知られる山本勘助の墓所など、歴史上の著名人に関する見どころがある。とはいえ墓というのはその人を主題とした旅であったり、思い入れがある人でもないと、脈絡もなく訪ねるのは気が引けるので、もうひとつの見どころである牛久保のナギを見学することにした。駅から300mほどの熊野神社にある国指定天然記念物のナギの木である。

閑静な駅前通りを進んですぐ左に折れ、二宮金次郎像を見上げながら小学校の校庭脇をすり抜けると、飯田線の下をくぐり抜けて南北に延びる往来激しい県道に出た。道路の向こう側には目指す熊野神社の社叢が黒々と茂っている。

静かな駅前通り。
静かな駅前通り

境内は河岸段丘の上から下へと細長く200mほどあり、台地の縁に沿うように敷かれた飯田線が中央を横切っているため、社殿のある北側とナギがある南側に分断されている。線路の北側にいた私は迷うことなく眼前にある県道を利用して南側に移り、見つけた小路から薄暗い社叢に入りこんでいく。

そこは樹林や竹林のざわめく傾斜地で、市杵島姫神社・龍神社・稲荷社といった小さな境内社が点在していた。散らばる枝葉や枯れた池など荒れ気味ではあるけど、強い日差しによる暑さや、県道を行き交う車列の騒々しさが和らぎ、気持ちとしては安らぐものがあった。

境内を彩るツバキ。
境内を彩るツバキ

牛久保のナギは幹周が3.5mと想像より随分ほっそりしていた。天然記念物に指定された木というと、幹周が10〜20mにも達するクスノキやイチョウの大木を目にしてきたので、自ずとそのような姿を思い描いていたのだ。柵に囲われて案内板も立てられているので、すぐにそれと分かったけど、さりげなく道ばたにあればどうだったかと思う。

いわゆる巨樹としては目を見張るような大きさではないが、ナギとしてはかなりの規模であるうえ、ナギは本州南部から台湾など暖帯から亜熱帯にかけて分布するもので、自生北限に近いこのような場所でこれだけ成長するのは稀だという。樹齢は見た目よりずっと大きく400年以上と推定されていた。

貴重さから天然記念物に指定されたようだが、度肝を抜くような大きさがないと見向きもされないのだろう、訪れる人は少ないようで辺りには落ち葉が積もっていた。

牛久保のナギ。
牛久保のナギ

せっかくなので線路の向こう側にある熊野神社にも参拝していく。実はナギと拝殿は近くにある踏切で簡単に行き来できるのだが、それに気づかなかった私は来た道を引き返し、再び県道で線路下をくぐり抜け、神社をひとまわりする形で10分ほどかけてたどり着いた。そこでようやく踏切の存在に気がつき自らの間抜けさに呆れてしまった。

拝殿のある北側は台地上の平坦地で、木々に囲まれた開けたところに端正な拝殿が置かれていた。手を合わせてから振り向けば、境内を横切る線路に向けて狛犬・石灯籠・鳥居といったものが整然と並び、鳥居の向こうを電車が走り抜けていく。

境内を横切る飯田線。
境内を横切る飯田線

13時をすぎて腹が減ってきたので駅前にあった食堂に入る。そこはかとなく雑然とした小さな店内には、テーブル席と座敷席が詰めこまれていて、うまそうにビールを傾ける先客を見やりながら、手近なテーブル席の丸椅子に腰を下ろした。ビニールクロスの上に並べられた新聞と灰皿のコンビがどこか懐かしい。

黄ばんだ壁にぎっしりと並べられたメニューからエビフライ定食を選び、愛想のいい店員のおばさんと客の歓談に耳を傾けながら口に運ぶ。雰囲気も味も期待通りのもので、腹だけでなく気分までも満たされるいい店であった。

駅前食堂のエビフライ定食。
駅前食堂

食堂を出るとそれを見計らったかのように乗りたかった下り列車がやってきた。駅前で列車を見送るこのパターンは船町と小坂井につづいて3回目だ。飯田線とはどうも相性が悪い。幸いにして次の列車はわずか12分後で、13時51分発の本長篠行きに収まった。

車内は12分前に列車があったばかりのローカル線としては盛況だが、空席は十分にあったので楽々と座ることができた。

普通列車の本長篠行き521Gの車内。
普通 本長篠行き 521G

牛久保駅をあとにした列車は、今川義元の胴塚がある大聖寺をかすめ、新しい住宅の目立つなかを進む。やがて左手から名鉄豊川線が近づいてきて豊川駅に到着した。

豊川とよかわ

  • 所在地 愛知県豊川市豊川町
  • 開業 1897年(明治30年)7月15日
  • ホーム 2面3線
路線図(豊川)。
豊川駅舎。
豊川駅舎

豊川稲荷の門前町として発展してきたところで、いまでは18万の人口を擁する豊川市の市街地に組みこまれている。参詣者から生活利用者までが集う当駅には、特急を含むすべての列車が停車するほか、起終点とする列車も多数運転され、利用者数は飯田線の単独駅としては頭抜けて多い。豊橋からつづいてきた複線区間がここで終わっているあたりからも、行き交う列車の多さがうかがえる。

飯田線の線路は明治から昭和にかけて少しずつ伸ばされたものだが、最初に開業したのは豊橋から当駅までの区間で125年も昔のことである。歴史の香りにあふれた駅を期待するが、列車を降りたところに待ち受けていたのは、若々しい金属とコンクリートからなる景色であった。歴史がありすぎて設備はすっかり更新されてしまったらしい。

豊川駅ホーム。
豊川駅ホーム

乗車してきた下り列車が去り、入れ替わりにやってきた上り列車も去ると、ホーム上には私と掃除のおばさんだけが残された。ほうきの音だけがよく聞こえる。

この駅は豊橋から延びてきた複線区間が終わるところであるが、新城方面にはまだ2本の線路が並んでいる。ひとつはもともと豊川海軍工廠に通じていた支線で、戦中戦後の短い期間ながら旅客輸送をしていたこともある。現在は工廠跡にできた日本車輌製造の専用線となり、製造された鉄道車両の搬出などに利用されているという。

ホームの駅名板。
ホーム駅名板

ホームから階段を伝って頭上に横たわる橋上駅舎に入る。この近代的駅舎になる以前は、豊川鉄道が昭和初期に建てたモダンな3階建ての駅舎で、往時は物産館や劇場などを備えた駅ビルの走りのような建物だったという。その姿は微塵も残されていないが幼少期になにかの鉄道の本で目にしたことをおぼろげに覚えている。

改札口を抜けると駅の東西を結ぶゆったり広い自由通路に出た。朝晩は通勤通学客が足早に行き交い、正月ともなれば豊川稲荷の参拝者で混み合うのだろうが、なんでもない平日の昼下がりとあって人はまばらで、設備を持て余しているようだった。

券売機・窓口・改札口と並ぶ。
改札前で出迎える狐の置物。
橋上駅舎と自由通路

駅舎内は特に見るべきものはなかったので、自由通路のおかげで出入口のできた東口に出てみた。地上駅時代は日の当たらない駅裏だったところで、大きなマンションや広い駐車場が目立ち、開発が進みはじめたばかりといった様子。無味乾燥とした景色でこれまた特に見るべきものはなかったので早々と引き返す。

自由通路を通り抜けて開業当時からの駅前である西口に出た。こちらは細かなビルに見下された駅前広場から、押し合うように店舗の並ぶアーケード商店街が延び、傍らには名鉄の豊川稲荷駅が置かれている。建物の薄汚れや店舗のシャッターも目立つけど、歴史の染みこんだ雑多な景色はいいものだ。見るべきものは西口にあった。

豊川稲荷とよかわいなり

豊川といえば日本三大稲荷のひとつに数えられる豊川稲荷が思い浮かぶ。愛知県民に「豊川といえば?」とインタビューしている番組を見たことがあるが、異口同音に迷うことなく豊川稲荷と答え、それ以外を問われると言葉に詰まっていたのが印象に残る。そのくらい豊川稲荷が図抜けて有名なのだ。駅の名所案内版には三明寺や赤塚山公園というものもあるが、ここはやはり豊川稲荷に行こうと思う。

西口から豊川稲荷までは300〜400mほどの道のりで、幅5〜6mほどの狭い通りに観光客向けの店舗が並ぶ表参道商店街をゆく。平日はこんなものか往来はまばらだ。人出の少なさにさじを投げたか、それとも火曜休みなのか、ほとんどの店が閉まっている。わずかに開いた土産物店や名物の稲荷寿しを扱う店も退屈そうにしていた。

表参道に並べられたホーロー看板。
豊川稲荷表参道。
表参道の狐を題材としたシャッターアート。
総門前の稲荷寿司店。
表参道商店街

表参道の先には妙厳寺の総門が口を開けている。豊川稲荷はこの曹洞宗寺院の境内に置かれた鎮守で、神仏習合思想においては稲荷神と同一視された、仏教の神である荼枳尼天だきにてんを祀っている。豊川稲荷というといかにも稲荷神を祀る神社のようだけど寺院なのである。

とにかく広い境内なのでどうめぐるか迷うが、見透かしたように参拝案内図なるものが用意してあった。それによると中央手前にある総門から、左奥にある豊川稲荷、右奥にある奥の院といった具合に、時計回りに進むように矢印で示されていた。

総門。
総門

総門から豊川稲荷に向けて幅広い石畳の参道をゆく。行く手には大きな鳥居や狐の像が並んでいて神社を思わせる。稲荷神社では祀られた稲荷神の使いとされる狐は欠かせないものであるが、豊川稲荷もまた祀られた荼枳尼天が狐の精とされることなどから狐は欠かせない。とはいえ露天まで出ていて気分的には寺院というより稲荷神社の縁日である。

境内に立つ狐。
境内参道

参道の突き当りは軽い高台になっていて、そこに豊川稲荷として知られる本殿が悠然と座していた。明治時代に着工して昭和初期に竣工という、長い歳月をかけて作り上げられた総欅造りの豪壮な建物だ。高さは約30mとあるから姫路城の天守くらいあるだろうか。見応えある佇まいに参拝も忘れてしばし見上げてしまった。

本殿。
本殿

手を合わせたのち本殿脇にある参道から奥の院に向かう。道すがら江戸時代に建立されたという万燈堂や、昭和初めまで奥の院だったという旧奥の院、蔵造りが印象的な大黒堂などに立ち寄っていく。歩くほどに規模の大きな寺院であることを実感させられる。

霊狐塚と刻まれた石碑があり小路が延びている。そちらから中年夫婦らしきふたりが出てきたのを見て、なんだろうかと先を覗いてみると、境内裏手に向かう道沿いに無数の狐像と奉納のぼりが連なっている。その眺めはとても魅惑的で思わず足を進めてしまった。

小路は途中で折れているため見通せず、ずんずん進んでいった終点には、赤い前掛けをした狐の石像が一面を埋め尽くすようにひしめいていた。軽く見まわしただけでも数百体はあるだろう。大きさが様々なら表情も険しいものから滑稽なものまで様々だ。願いが成就した人たちが御礼として収めたものだという。薄暗いなかで木々の間から差しこむ光に照らされ、なんともいえない妖艶なる光景であった。

霊狐塚。
霊狐塚。
霊狐塚。
霊狐塚

朝の菟足神社からはじまり、あちらこちらで賽銭を投げていたら、とうとう小銭が尽きてしまった。大きいのを取り出す勇気も財力もないので境内の自販機を利用して小銭を作る。近年はスマホやカードを利用した電子決済を利用することが増え、便利になった半面、欲しいときに小銭がないということもまた増えた。

最後に訪れた奥の院は杉木立に囲まれた閑静なところであった。小ぶりながら細かな彫刻が施された建物は、江戸時代に建てられた旧本殿を移築したものだという。静けさと木立のなかでそれを見つめていると、深山で出会ったお堂を前にしているような不思議な気分になった。

奥の院。
奥の院

気がつけば随分と日が傾いていて、光は暖かみを帯び、暑さは和らぎ、境内の人影はまばらとなり露天の片付けが進んでいる。時間があれば駅の名所案内板で目にした重要文化財の三重塔がある三明寺に行くことも考えていたけど、夕暮れ迫る景色が家路を誘い、疲れたこともあって帰ることにした。

駅に向かいがてら表参道で稲荷寿しを買い、16時18分発の豊橋行きに乗車、数えるほどしか乗客のいない車内で包みを開いた。

稲荷寿し。
稲荷寿し

(2023年3月7日)

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