因美線 全線全駅完乗の旅 1日目(鳥取〜津ノ井)

目次

プロローグ

2018年1月4日、午前8時の鳥取駅にやってきた。目的は当駅から岡山県の山間にある東津山までを結ぶ因美いんび線である。鳥取と津山それぞれの旧国名である因幡いなば美作みまさかの頭文字を取って、この路線名が与えられている。

因美線は中国山地を縦断する山間をゆく路線で、全長は70.8km、駅は両端の2駅を含めて16駅ある。1919年(大正8年)に鳥取〜用瀬もちがせ間が開業したのを皮切りに、鳥取と津山の双方から少しずつ延伸してゆき、1932年(昭和7年)に全通。姫新線・津山線・智頭急行線などと組み合わせることで、鳥取と大阪・岡山方面を結ぶ陰陽連絡線を形成している。

冬の山陰地方で山間部に向かおうというのだから、大雪に見舞われたらどうしようかと思ったけど、幸いにして細かな雪がちらつく程度で路面には雪さえ見当たらない。空は暗くどんよりしているが、鳥取の日照時間は日本有数の少なさなのでこれが平常といえよう。

鳥取とっとり

  • 所在地 鳥取県鳥取市東品治町
  • 開業 1908年(明治41年)4月5日
  • ホーム 2面4線
路線図(鳥取)。

鳥取市の代表駅である当駅は、山陰本線の主要駅であると同時に因美線の起点でもあり、県内ではもっとも利用者の多い駅である。開業は明治時代にさかのぼるが、高架駅として全面的に作り変えられているため、歴史から想像するよりずっと若い装いをしている。

広々とした駅前を歩くと木々の茂る広場や、路線バスが続々発着するバスターミナル、因幡の白兎伝説の土地だけに大国主と白兎の石像といったものが目に映る。地上駅時代は車両基地や貨物駅としての機能を持つ広大な敷地の駅だったが、それらを郊外に移転してスリムな高架駅にしたので、浮いた土地を活用して整備したものだろう。

高架下は南北の市街地を結ぶ自由通路になっていて人々が行き交っている。通路の東側には改札やみどりの窓口などが並び、西側には商業施設が広がっている。通路上に砂で作られた白兎や鮫が展示してあるのが鳥取らしかった。

列車にはまだ乗らないけど高架上のホームも見ておくことにして入場券を購入。自動改札機はないので駅員にスタンプを押してもらい改札を抜けた。

改札の先にある幅広の階段を上がると待合室のある2階部分で、ここから3階部分にあるホームごとに階段やエスカレーターが用意されている。どこのホームという目的はないので、なんとなく乗ったエスカレーターで1・2番ホームに上がっていく。

長大な寝台列車などが走っていた名残りかホームはとても長い。あちこちに大きな荷物を抱えた帰省客らしき人たちが列を作っていて、そこかしこに「〇号車指定席」「自由席」などと書かれたプラカードを手にした駅員が立っている。まもなく京都行きの特急がくるようだ。

発車案内板には京都・若桜・米子・倉吉・城崎温泉・浜坂と様々な行き先が並び、4番線まであるホームには特急や普通列車が入れ代わり立ち代わりしていて活気に満ちている。

大きな駅でありながら頭上がすっきりしていて空が広いのが新鮮に映る。鳥取駅は県庁所在地の代表駅でありながら電化されていない稀有な駅なのだ。そのような駅は他に山口・徳島・高知くらいしかない。列車が発車するたびに大きなエンジン音が響いてくる。

ホームをぶらついていると暗くどんよりしていた空から薄日が差しはじめた。回復しはじめたのかと思ったのも束の間、突如として大粒の雪が激しく降りはじめた。

構内には新しい車両の特急列車が発着する傍ら、古びた国鉄型車両を使用した普通列車も続々とやってきて懐かしさを感じさせる。若桜鉄道や智頭急行といった第三セクターの車両も乗り入れてきており、バラエティ豊かな顔ぶれは眺めて楽しいものがある。

再び駅前に戻ってきたら近くにある鉄道記念物公園に向かう。駅前に立つ見逃しそうなほど小さな標識で気がついた公園で、このいかにも鉄道と関係ありそうな名称を目にしては、行かないという選択肢はない。

そこは小さいながら遊具の代わりに所狭しと鉄道関連の品々が並ぶ、ちょっとした鉄道資料館を思わせる濃厚な空間であった。薄っすら雪化粧した園内は貸し切りで、鳥取駅の喧騒とは対照的なまでの静けさが落ちつく。

特に目を引いたのが古めかしい上屋のある石積みホームで、説明板の類がないので詳しいことは分からないが、高架化される前の鳥取駅から移設したものにちがいない。他にも腕木式信号機や踏切に転轍機となんでも揃っている。駅には古い時代を偲ばせるものはなにも残されていなかったけど、こんなところにまとめて残されていたのだ。

貴重なものだけに雨ざらしで劣化や破損が進行しているのが気にかかる。保存された鉄道関連のものは維持が困難になり解体撤去ということが往々にしてあるので、ここも将来的にそんなことにならなければいいがと思う。

雪はいつの間にか小康状態になり、それどころか青空まで顔を出しはじめた。上空は余程強い風が吹いているのか目まぐるしく天候が変わっていく。厚着をしてきたので体は暑いくらいだが、気温自体は低いので手は冷たくなってきた。

鳥取砂丘とっとりさきゅう

駅の内外をひと通り散策したところで鳥取砂丘に向かう。鳥取でどこかと考えると自然と砂丘に落ちつく。珍しい球状の石垣がある鳥取城にも心惹かれるものはあるが、あいにくと両者の距離は離れすぎているので諦めた。両方を訪ねようものなら因美線に乗ることなく日が暮れてしまい、因美線の旅ではなくなってしまう。

観光案内所で砂丘への行き方を尋ねると、日々繰り返される質問らしく定型文のような案内が早口で返ってきた。路線バスを使うしかないようだが、残念ながら砂丘行きのバスは出たばかりで次は1時間後だという。最後にバスの時刻表と砂丘周辺の地図を手渡された。

この時間を利用して朝食にしようと駅に併設されたそば屋に入る。立ち食いではなくテーブル席があるのがありがたい。半端な時間だけに先客はひとりしかいなかった。

名物だという砂丘そばを注文すると、鳥取名物のあごちくわが入ったそばが出てきた。なにが砂丘なのかはよく分からないが、味はあっさりしたかつお出汁で食べやすく美味い。

駅前のバスターミナルに向かうと下手な駅舎より大きな建物で、待合室に入ると暖房も効いていた。ここで待ちたいところだけど椅子はすべて埋まり、通路には高速バスの受付カウンターに向けての列ができている。

とても休める状況ではないので外にある砂丘行きバス乗り場に向かい、傍らに置かれた小さなベンチに腰を下ろす。寒いけど徐々に青空が広がり日も差しはじめたので悪くない。

砂丘行きを待つのは私だけで、冬場の平日ともなるとこんなものかと考えていると、発車時刻が近づくにつれ1人2人と観光客らしき人たちが集まってきた。そしていよいよ乗車という段になると、どこに隠れていたのかと思うほどの人々が現れてきて席が埋まった。

出発すると日本海に向けて市街中心部を走り抜けていく。車窓には特別新しくもなければ古くもない街並みが流れていく。鳥取は古くから因幡の中心地であると同時に空襲を受けていないので、風情ある古い街並みが残っていそうなものだけど、多くの歴史ある建造物は昭和18年の鳥取地震と、昭和27年の鳥取大火により失われてしまったという。

市街地を抜けると徐々に山間に分け入っていく。海に向かっているはずなのに不思議な感じがするが、市街地と砂丘のあいだには小高い山が横たわっているのだ。やがて短いトンネルを抜けると空は開け、地上には砂丘の防砂林らしき松林が広がった。

観光案内所で聞いた砂丘最寄りのバス停で降りるつもりだったけど、その手前にある砂丘センターという高台の施設で大半の乗客が席を立った。なにやら見晴らしが良さそうだし、ここで降りるのが正解に思えてきて、つられるように一緒に降りてしまう。本当にこれで良かったのか若干の不安を感じつつバスを見送った。

天候は急速に悪化しはじめていて先ほどまでの青空が嘘のように薄暗くなってきた。吹きつけてくる冷たい風には雨粒まで混じりはじめている。

風雨から逃げるように目の前にある砂丘センターに飛び込む。なにかと思えば土産物の売店やレストランが入ったドライブインであった。明るく暖房が効いていて外とは別世界だ。新しい大きな施設だけど客より店員のほうが多い。一緒に降りた大勢の人たちはどこに消えてしまったのかと思う。同時に彼らはなんのためにここで降りたのかとも思う。

上層階には展望台があるというので階段を上がっていくと、屋外だけに雨が降りそそぎ、肝心の景色は雨に煙っているしで、ざっと眺めただけで逃げるように退散してきた。

収穫が有ったような無かったような砂丘センターをあとにして砂丘に向かう。ちょうど目の前に砂丘まで運んでくれる観光リフトがあるのでこれを利用する。下るだけとはいえ歩けば結構な距離があるのでこれには大助かりだ。

券売機で乗車券を購入して乗り場に向かうと他に利用者の姿はなく、もぎりのおじさんが所在なげに佇んでいた。リフトに乗るのは子供の時分にスキー場で乗って以来だろうか、移動する座席にタイミングを合わせて座る動作が懐かしい。

ゆっくりと下りながら、すれちがう上りのリフトを眺めていると、どこまで行っても空席ばかりである。どうやら贅沢にもリフト全体が私だけの貸し切りになっているらしい。

歩き回っていては気にならなかったけど、こうして何もせず座っているとやたら寒い。みるみるうちに手が痛くなってきた。乗っていたのは数分のことだったけど、リフトから降りるころにはすっかり体まで冷えてしまっていた。

リフトから降りるとそこはもう砂丘だった。鳥取砂丘は東西に16km、南北には2.4kmと広大で、一歩足を踏み入れれば日本らしからぬ荒涼とした景色が広がる。暗い空と雪景色がより荒涼さを際立たせている。日本海との境目には馬の背と呼ばれる小高い丘があるため、海はほとんど見えないが、地響きのような波音が伝わってくる。

馬の背の上まで行ってみることにして、みぞれが激しさを増してきたので傘を開き、砂の上を歩きはじめた。寒さと悪天候によるものか観光用の馬やらくだの姿は見当たらず、観光客も遠くにちらほら数える程度しかいない。ばらばらと傘を叩くみぞれの音と、怖いような響きをした日本海の音だけが耳につく。最果ての地にきたかのような印象である。

砂の上を歩くというのは無駄に体力を使って大変なのだが、幸か不幸か悪天候のおかげで砂が湿り、固く締まっていて歩きやすい。ミドルカットで防水の靴を履いてきたのも正解で、水も砂も入り込む心配がなく思い切り踏み出せる。馬の背のふもとに向けては緩やかな下り坂で、追い風も味方して足取りは軽い。

下り坂が上り坂に変わる馬の背との境界あたりは、窪地だけに地下水や雨水が溜まりオアシスと呼ばれる池ができていた。風も当たらないので鏡のように静かな水面だ。水際まで行ってみようとしたけど、あまりになだらかな傾斜地のため、どこが水際なのか分からない感じで砂の斜面が水面に変わっていた。

馬の背は遠目で見たよりずっと急勾配で、スキー板でもあればサンドスキーが楽しめそうなくらいだ。この巨大な砂山によって波音と風が遮られるらしく静かで、傘を叩く雨音だけが妙に大きく聞こえた。靴に砂が進入して難儀する観光客を横目にぐいぐい登る。休んだら負けのような気がして休まず登り続けたら、さすがに呼吸が荒くなり汗がにじんできた。

登り切ると同時に視界を遮るものがなくなり、見渡す限りに激しくうねりをあげる鉛色をした日本海が広がった。はたと足が止まり言葉を失うような光景であった。

眺めが良いということは風を遮るものがないということでもある。暴風雨をまともに受けて汗をかいた体が急速に冷えはじめた。油断していると傘が飛ばされて追いかけるはめに。あとからやってきた人たちも景色を目にすると思わず歓声を上げるが、すぐに自然の厳しさに負けてそそくさ退散していく。

耐えながら海を眺めていると手がピリピリしはじめた。単なる静電気だろうと特に気にしていなかったが、徐々に酷くなり手が痺れるほどになってきた。さらにどこからともなくパチパチと規則正しい音が聞こえてきて気味が悪い。発生源を探っていると傘の金具が音に合わせるように放電して光を放っていた。反射的に雷のことが頭をよぎり、こんなところで落雷があればひとたまりもないと、逃げるように馬の背を下りた。

帰りは下り坂だから楽かと思いきや向かい風が強くてそうでもなかった。視界を遮るように傘をささないと雨が顔にまで叩きつけてくる。風雨と戦いながら砂丘を脱出すると、途端に青空が広がり日が差し込みはじめた。狙ったかのように砂丘滞在中だけの悪天候であった。

目の前には砂丘会館というドライブインがあり、昼になるので休憩がてら食べていくことにした。食堂は所狭しと土産物の並べられた売り場を通り抜けた先にあり、砂丘と同じで広々としているけど人は少なく閑散としていた。

鳥取らしいものを食べることにして、いくつもあるカニ料理のなかからカニとろろ丼を注文した。鳥取県はカニの漁獲高だけでなく消費量でも日本で一二を争う県なので、鳥取で食べるならカニ料理は外せない。加えて長芋も砂丘の砂地を活かした特産品なので、海と陸の名物同士の組み合わせだ。味のほうは想像通りの美味しさでまたたく間に完食した。

ゆっくり食後のお茶を飲みつつ腕時計に目をやると、バスの発車時刻まで10分を切っていることに気がつき、急いで会計を済ませて外に出た。近くにあるバス停にはすでに鳥取駅行きが止まっていて、相変わらず降り続いている雨のなか小走りに向かう。

車内は混雑していたけど幸運にもひとつだけ席が空いていた。駅まで20分ほどかかるのでありがたく座る。私が最後かと思ったけど発車間際に駆け込んでくる人たちがいて、通路まで一杯になったところでドアが閉まった。

雨による多湿と人いきれで窓はすっかり曇り景色どころではない。誰もが荷物になったかのようにじっとしている。観光客ばかりなので途中のバス停で降りる人はなく、混雑したまま終点の鳥取駅に到着した。

いよいよ因美線の旅だと足早に改札口に向かい、頭上にある発車案内板で次の列車を確認してがっかりした。1時間近くも先の14時10分まで列車がないのである。こんなことならゆっくり食休みをしてから30分後のバスで戻ってくればよかったと思う。

乗車券を購入したらもうやることはなくなり仕方がないのでホームに上がると、まもなく岡山行きの特急がくるそうで、大きなスーツケースを従えた観光客や帰省客らしき人たちでごった返していた。乗り切れるのかと思うほどの列だったが、まもなく入線してきた列車にはきれいに収まり妙に感心する。

特急が去ると入れ替わりに因美線の普通列車が入線してきた。懐かしいたらこ色をした国鉄型車両の2両編成であった。通勤通学客のいない日中だから空いていると思ったけど、次々と席が埋まっていき意外と乗車率が良い。あまり混雑されると降りるのが厄介なので、下手に座らない方が良いと判断して先頭のドア横に陣取った。

14時10分、定刻通りに発車した列車は、重々しく加速しながら駅を抜け出し、直進する山陰本線から右に分かれて内陸部へと進路を向けた。ほどなく高架から地上に下りて、住宅と田畑からなる鳥取平野を走り抜けていく。

津ノ井つのい

  • 所在地 鳥取県鳥取市津ノ井
  • 開業 1919年(大正8年)12月20日
  • ホーム 1面2線
路線図(津ノ井)。

鳥取市街を中心に据えた鳥取平野、海側の末端を鳥取砂丘とすれば、山側の末端はこの辺りになるだろうか。現在では郊外の住宅地といった風情であるが、古代においては因幡国の中心地ともいえる地域で、周辺には国庁跡・国分寺跡・一宮などが点在。それらを三方から見下ろす甑山・今木山・面影山は、大和三山になぞらえ因幡三山と呼ばれている。

列車を降りると冷たい雨に叩かれ急いで傘を開いた。一緒に降りた高校生くらいの若者3〜4人は足早に去っていく。周りには住宅やアパートが建ち並び、いかにも都市近郊の小さな町という印象を受ける。線路の行方には小高い山並みが立ちはだかり、まもなく平野が尽きようとしていることを感じさせる。

ひとり残されたホームは1面2線の島式ホームで、線路の向こうには古びた木造駅舎が佇んでいる。ホーム上にあるプレハブ小屋のような待合室を覗くと、外観に負けず劣らずの素っ気なさで、ベンチがあるだけで時刻表どころか貼り紙の1枚すらなかった。

遮断器すらない構内踏切で線路を横断して木造駅舎に向かう。軒下には大きな除雪機が置いてあり、これから本番を迎える冬の厳しさを感じさせる。鳥取県は全域が豪雪地帯に指定されるほど雪の多い土地だ。

やたらと幅の狭い改札口を抜けて待合室に入ると、誰もいないうえに雨の薄暗さが手伝い寒々しいものがあった。いかにも現役といった様子のきれいな窓口があるけどブラインドが下りている。営業時間は7時から16時35分と書いてあるので開いていなければおかしい。張り紙があるので無人化のお知らせかと目をやると、正月1日から4日まで休業と書いてあった。

駅前に出ると水しぶきを上げる車がひっきりなしに行き交っていた。近くの信号が赤になるとずらりと車が並ぶ。ここは鳥取と姫路を結ぶ国道29号線の旧道で交通量が多い。車の多さとは対照的に駅にも町にも人の姿が見当たらず活気がない。くすんだ色合いをした景色のなかで、駅舎の前に並ぶ自販機だけがやたら鮮やかに見えた。

因幡国いなばのくに

北東に2〜3kmほどのところにある、千年以上もの昔に因幡国の国府が置かれたという地域に向かう。歴史ある土地だけに史跡も四方八方に点在していて見どころには困らない。なかでも訪れてみたいのが国府の中枢たる国庁の跡だが、その道すがらに国分寺の跡があるので、まずはそちらを訪ねてみることにした。

空気は冬らしく冷えているが歩いてさえいれば寒くはない。それより雨まじりの向かい風が困りもので、雨を防ごうと傘を前方に傾けて持つので手がだるい。

数分も歩くと町並みは途絶えて一面の田んぼが広がった。たまに思い出したように車が通るだけの静かな道である。田んぼの先には因幡三山のひとつ面影山がこんもりそびえている。

やがて建物の密集する小さな集落が近づいてきた。その入口付近に「因幡国分寺跡の礎石」と書かれた標識があり、それに従い建物に囲まれた蛇行する小路に入り込んでいく。その家並みや町割りから相当歴史ある集落であることは間違いない。

集落の中ほどまでやってくると最勝山国分寺という曰くありげな名前の寺があった。人の気配はなく静まり返っている。境内で見つけた碑文によると衰退した因幡国分寺を再興したものだとある。とはいえ小さな本堂がポツンと佇んでいるだけで、七堂伽藍に七重塔があったという往時の姿を偲ぶことはできなかった。

実際の因幡国分寺はこの集落一帯を寺域としていたという。つまり先ほどから跡地の上をウロウロしていたというわけだ。発掘調査によって門と塔の位置は分かっているそうだが、家々がこれだけ密集していては全体の発掘は難しそうである。

境内の片隅には近くの水田から見つかったという大きな礎石がいくつも転がっていた。これは塔の礎石だという。大きさも形も千差万別で自然石そのままという姿をしていて、傍らに植えられた庭木と相まって説明板がなければ単なる庭石と勘違いするところだ。

礎石を眺めていると突然大粒の雪が降りはじめ頭や肩が白くなっていく。これはたまらないと本堂の屋根下に避難すると途端に体が冷えはじめた。やはり歩いていないと寒い。幸いにして雪はすぐに収まったので国庁跡に向けて足を動かす。

因幡の国庁といえば大伴家持が万葉集の最後を飾る歌「新しき年の始の初春の 今日降る雪の いや重け吉事」を詠んだ地として有名だ。家持の時代から1259年という時を隔てた、同じように雪の降る正月なのだが、こちらの雪は全然吉事とは思えない。

国分寺の集落を抜けると再び田んぼの広がるなかに出た。同時に雲が散りはじめ日が差し込んできた。あの激しい雪はなんだったのかと思う。雨上がりのしっとりとした空気感のなかで低い雲が散り散りに垂れ込め、そこに日が差し込む眺めは幻想的だった。遠くの山には虹までかかりこれには吉事を期待させる。

天候の回復もあってか、どこからともなく現れた犬の散歩をする女性に追い越された。人の気配と日差しが合わさり、寒々としていた景色に暖かみが出てきた。

国庁跡は芝生の広がる静かな公園になっていた。駐車場やトイレに東屋まで整備されていたが誰もいない。周りは田んぼに囲まれていて因幡三山がよく見える。遠くに目をやれば上半分だけ雪化粧をした山並みが光を浴びて輝いていた。

発掘調査によって判明した南門・正殿・後殿といった建造物の跡には、円柱形の御影石が整然と並べられ柱跡を表している。当時はここに檜の柱が立っていたという。しかしこれだけで当時の姿を想像するのは難しい。近くの万葉歴史館には再現模型や資料が展示されているそうで、そちらを先に訪れた方が想像を巡らすには良さそうだ。時間があれば今からでも行ってみるところだが残念ながらもう閉館時刻が迫っていた。

到着時には誰も居なかったが1台また1台と車が集まりはじめた。最初は観光客だろうと思ったが、見るとその全てが犬の散歩を目的としていた。かつての因幡における政治の中心地も、今では犬が走り回るばかりの公園とは栄枯盛衰を感じさせる。

宇倍神社うべじんじゃ

時刻は16時を回り日没まで1時間を切っている。史跡が多数あると言っても日が暮れてはどうしようもなく、時間を考えれば駅に戻るのが賢明といえよう。しかしほんの1kmも歩けば因幡一宮の宇倍神社があり、ここで立ち寄らなければ心残りになるのは確実で、帰途が夜になることは覚悟のうえで向かうことにした。

それにしても国分寺・国庁・一宮と狭い範囲に見事に揃っている。どこをどう見ても因幡国の中心地というこの辺りの地名はやはり国府町となっている。

国庁跡から少し歩くと袋川という小さな川があり、渡った先には住宅を中心に建物がどこまでも続いていた。地図を見ると鳥取市中心部から続いてきた市街地の末端になるようだ。行き交う人や車も増えはじめ、公民館のような建物には大勢の人が集まり賑わっていた。

宇倍神社の参道までやってくると出店が並んでいて驚いた。もう三ヶ日も過ぎたというのにまだこんなに出店が残っているとは、鳥取県でもっとも初詣の人出が多い神社というだけのことはある。とはいえ4日の夕方ともなると人通りは少ないようで、店主同士で話し込んでいる姿が目立つ。準備中なのか営業中なのかすら分からないような光景である。

由緒書きによると宇倍神社が創建されたのは大化4年だという。西暦にすると648年で飛鳥時代のことである。奈良時代から平安時代にかけて作られた国庁や国分寺より歴史が深い。

高台にある社殿に向けて百段くらいありそうな長い石段を上がっていく。所々に明かりが灯されているが木々に覆われていて全体に暗い。頭上には戌年だからか「吠える鳥取犬」と大胆な筆跡で書かれた大きな幕が掲げられていた。鳥取県の形をそのまま犬に見立てた絵も描かれていて、なるほど鳥取県は鳥取犬でもあるのかと思う。

息を弾ませながら石段を上がっていると頭上から止めどなく水滴が落ちてくる。木の葉についた雨水だろうと思ったが、それにしては休みなくパラパラ音を立てて落ち続けていた。なにかおかしいと思いつつ頭上に木々のないところまできて判明した、小さなあられのような雨が降りはじめていたのだ。

焚き火の煙がゆらゆら上がる境内には想像より小ぶりな拝殿が鎮座していた。内部ではご祈祷をしているようで、何人もの座っている後ろ姿がみえる。均整の取れた美しい佇まいをしたこの拝殿は、明治32年に発行された五円紙幣の図柄に採用された由緒ある建物だ。神社が紙幣に印刷されたのは初めてのことだったという。

御祭神は日本書紀や古事記に登場する謎に包まれた人物、一説には360余歳まで生きたとされる武内宿禰たけのうちのすくねだ。この因幡国で行方知れずになったという伝承も残る。そんな長寿の武内宿禰と紙幣の図柄になったことが組み合わさり、長寿とお金にご利益があるという。

参拝を済ませたころから、あられが本降りになりはじめ、風があるので横殴りに叩きつけるように落ちてくる。雨が上がり油断していたのか傘を持たない人が多く、社務所の軒下には駆け込んできた人たちが10人ばかり身を寄せている。私もそこに加わり御朱印を書いていただきつつ境内に降り注ぐあられを眺めた。

あられは雨に変わってきたが降りやむ気配はない。悠長に眺めていたが17時をまわり、辺りが暗くなってきて焦りが出はじめた。ここから駅までは少なく見積もって4kmはあるのだ。この天候に疲れも加わり歩きたくない気分だけど、この状況で夜道になってはもっと歩きたくなくなるので、思い切って傘を開き石段を駆け下りた。

記憶を頼りに残照に浮かぶ細道を急ぎ足に進んでいく。遠くの街明かりや車のライトが夕暮れの寂しさを増幅させる。幸いにして雨は徐々に収まってきたが、国分寺の集落を過ぎた辺りでとうとう暗闇に包まれてしまった。道を間違え右往左往しながら駅に到着したころには、宇倍神社を発ってから1時間が経過していた。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

人気のない待合室で時刻表を確認すると、約20分後の18時20分の鳥取行きがあった。窓口は閉まっていて券売機もないので、そのままホームに向かって列車を待つ。どこからともなく人が集まってきて最終的には3〜4人ほどになった。

やってきた鳥取行きは若桜鉄道から乗り入れてきた車両だった。単行の小さな車両とあって車内は学生で混み合っていた。奥には進みようもなく乗車したドアの所に立っていく。こう暗くては車窓には自分の顔しか見えず、往路の記憶から景色を想像するよりすることがない。

鳥取駅に到着すると人波に押されるようにして降り立つ。ホームには昼間と変わらず特急を待つ行列ができている。この光景を目にするのは今日だけで何回目だろうか。発車案内板を見ると米子行きの特急で、近場だからか通勤や用務客といった出で立ちの人が多い。

改札に向かい運賃を払おうと思ったら窓口が留守で困った。仕方がないので改札に立っていた女性駅員に渡したら愛想よく受け取ってくれた。現金を出すと窓口に行くように言われることもあり、どういう規定になっているのかよく分からない。

駅を出ると雨はすっかり上がっていた。畳んだ傘を手にした人たちが往来している。また降り出さないうちにと宿に向けて足を踏みだした。

(2018年1月4日)

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