牟岐線 全線全駅完乗の旅 7日目(阿波橘〜阿波福井)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2019年7月30日、宿を出ると青空が広がっていた。昨夜の天気予報では曇から雨になっていたので、その心づもりで準備をして就寝したのだが、真逆の天気を前に戸惑うばかり。雨具を置いていこうか迷いながらもそのまま徳島駅に向かう。

乗車するのは5時44分発の海部行き。牟岐線の始発列車だ。旅も7日目となると目的地までが遠くなり、始発列車での行動は必須となる。今日これから向かう桑野までは約1時間の道のりで、終点近くともなれば約2時間も要するようになる。

徳島駅で発車を待つ、普通列車の海部行き 4525D。
普通 海部行き 4525D

赤みがかった朝日に照らされながら列車は進む。海側に座ったら顔をそむけたくなるほど眩しい。駅ごとに乗客は増えてゆき、阿南が近づくころには立ち客も出はじめた。乗ってくるのは通勤通学客ばかりで、なんだか私だけが浮いている。

早朝からなかなかの乗車率だが長続きはしない。阿南でまとまった下車があり、次の見能林でもごっそり降りていく。朝日の赤みが消えるにつれ乗客も消えてゆき、桑野に到着するころには空席が目立つほどになっていた。

桑野くわの

  • 所在地 徳島県阿南市桑野町
  • 開業 1936年(昭和11年)3月27日
路線図(桑野)。
桑野駅舎。
桑野駅舎

四方を穏やかな山々に囲まれ、ゆったり流れる桑野川沿いに田園が広がり、山すそを中心にいくつもの家屋が並び、駅前には小さな街も作られている。海が近いのに山間の盆地を思わせる景色である。まとまった利用者があるらしく、朝夕には当駅を始発終着として、徳島方面とを結ぶ列車が数本あり、特急列車も停車する。

涼しい列車から降りると、早朝とは思えないほどの強い日ざしに迎えられ、立ちどころに汗がにじむ。降り注ぐセミの声が暑さを増幅させる。見上げれば雲ひとつない快晴。日中はどれだけ暑くなるのだろうか、考えると少々げんなりする。

阿南以来となる交換設備のある駅で、相対式ホームの2面2線に、保線用車両が昼寝する側線が添えてある。ちょっと大きめの途中駅といった面持ちである。私が乗ってきた列車は対向列車を待ち停まったままで、向かいのホームには徳島方面に向かう人たちが、学生を中心に20人近く佇んでいた。

桑野駅ホーム。
桑野駅ホーム

ほどなく上下の列車が去ると誰もいなくなった。静まりかえりそうなものだが、セミの合唱で相変わらず賑やか。駅裏にある田んぼからは草刈り機のうなり声も聞こえてくる。

小さな庭園を備えた昔ながらの木造駅舎は、開業当時からの古いものだろうが、内外とも改装されてこざっぱりしている。待合室はありふれたものだが、大きくきれいな窓口が残されていて、近年まで駅員がいたことを物語る。

駅舎の隣には独立したトイレがあるが閉鎖されていた。出入口には板が打ち付けられ、引き込まれていた電線は断ち切られ、二度と使わせる気はないという意思をひしひし感じる。貼り紙によると先月閉鎖されたらしい。特急停車駅でありながら、無人化のみならずトイレまで閉鎖するほど切り詰める、ローカル線の厳しい現実を見た気がする。

閉鎖された窓口と、開け放たれた改札口。
窓口と改札口

人も車も猫すらも通らない駅前通り。閑散としているが建物はぎっしり並び、看板を見ていくと旅館に鮮魚に化粧品と色々ある。商店の構えだけを残す建物もある。朝早いせいか廃業しているのか、いずれもシャッターやカーテンが下りている。しっかり開いているのはタクシーの営業所くらいのものだった。

太龍寺たいりゅうじ

内陸に広がる四国山地に分け入ること約10km、標高618mの太竜寺山がそびえている。その山頂近くという高みに太龍寺がある。四国八十八箇所の第21番札所である。駅から歩くとなれば途方に暮れるような立地だが、幸いにして山のふもとまで路線バスがあり、そこから山上にかけてはロープウェイがある。鉄道・バス・ロープウェイを乗り継いでたどりつく山上の寺院とは魅力的で、何はさておき訪ねてみるしかない。

駅から徒歩数分の国道沿い、桑野上くわのかみというバス停に立つ。バスが向かうのは山間にある那賀町で、桑野駅は阿南市に属しているが、那賀町の玄関口でもあるのだ。ぽつぽつ集まりはじめた人たちは、強い日ざしから逃れて建物の影に隠れるようにしている。

桑野上バス停。
桑野上バス停

7時22分、発車時刻を迎えたがバスは来ない。多少の遅れは想定していたので悠長に待っていたが、10分を過ぎても現れないとさすがに気をもむ。この程度はよくあることなのか、周りの人たちは気にする風もなく日陰に佇んでいる。鉄道にばかり乗っていると、わずか数分の遅れですら、事故でもあったのではないかと気になりはじめる。

通勤ラッシュにでも巻き込まれたのか、13分の遅れでやってきたバスに、学生から中高年まで5〜6人と乗り込んだ。地方のそれも山間部に向かう路線バスとなると、乗せているのは空気ばかりということも珍しくないが、ここは住民の生活に根付いているらしく、すべてのシートが埋まる盛況ぶりである。

路線バスに乗車。
路線バスに乗車

のどかな山間を揺られること約15分、那賀町の和食東わじきひがしというバス停で降りた。役場まであと少しという市街地の入口のような所だった。それだけに土地は開けていたが、どっしり構える山々に見下されていて、内陸にやってきたという印象を強くする。

ロープウェイ乗り場まではさらに15分ほど歩く。鉄道・バス・ロープウェイ、互いの乗り場が少しずつ距離を置いているのだから意地が悪い。うだるような暑さのなか歩いていると、愚痴のひとつもこぼしたくなる。

田んぼや神社を横目にしばらく進むと那賀川に出た。河口からざっくり20〜30km上流なのだが、川幅は200mはありそうなほど広い。さすがは県下最長を誇る大河である。

対岸の川べりに乗り場らしき建屋が見える。そこから延びたケーブルを追うと、標高差にして400mほどある山上に向かい、山の背後に消えていく。支柱は山上にひとつだけで、まさに山をひと跨ぎにしている。低くうなるような音を山間にこだまさせゴンドラが下りてくる。なんという壮大なロープウェイかと思う。

那賀町を流れる那賀川。
那賀町を流れる那賀川

桑野駅に降り立ってから1時間40分、ようやくロープウェイ乗り場に到着した。道の駅も兼ねているため施設は大きく、レストランや宿泊施設も併設しているが、職員らしき数人のほかに人の気配はない。広々とした駐車場も閑散としていた。

窓口に向かい掲げてある時刻表を確認すると、8時から20分間隔で運行している。先ほど目にしたのは8時の始発便だったらしい。次は8時20分の第2便だ。

往復のチケットを購入してゴンドラに乗りこむ。定員101人という大柄な車体は、机やベッドを並べて生活できそうなほど広い。それでいて乗りこんだのはアテンダントを含め3人だけなのでがらんとしている。しかも1人は関係者のようなので純粋な利用客は私だけ。平日の朝とはいえ、牟岐線も驚きそうなほどの空きっぷりである。

太龍寺ロープウェイに乗車。
太龍寺ロープウェイに乗車

短いブザーのあとでドアが閉められ、ごとりと動きはじめると、滑るようにぐんぐん高度を上げていく。車窓に目をやれば重なり合う山並み、それを縫うように流れる那賀川、川沿いには連なる田畑や市街地、那賀町を見わたすような景色である。

見上げていた山の上までくると、次はその背後に隠れていた山の上を目指す。ロープウェイといえばひとつの山の上下を結ぶのが普通だが、ここは山をふたつも越えていく。山越えをするロープウェイは日本初、そして3km近い全長は西日本最長とのこと。

ふたつ目の山を越えると終点は目前だ。この辺りは空気が澄んでいれば淡路島や和歌山県まで望めるという。また右手にある岩上には弘法大師の坐像が見える。19歳の若き日に修行をしたとされる舎心ヶ嶽で、20分ほど歩けば行けるので時間があればどうぞと勧められる。

眺望を楽しむこと約10分、降り立った山上側の駅は、売店を併設したログハウス風の平屋建てで、山小屋を思わせるこじんまりした建物であった。ふもとの駅やロープウェイの規模からすると、存外にひなびた佇まいをしていた。

ロープウェイから眺める那賀川。
ロープウェイからの眺望

目の前には太龍寺の境内が広がっている。創建は793年(延暦12年)のことで、古来より西の高野と呼ばれてきた名刹だ。楽々とやってきたが、ロープウェイが完成するまでは容易にはたどり着けない山岳寺院で、ふもとからの道は、遍路ころがしと呼ばれる難所であった。

正面に幅広の長い石段が延びているので、なんとなく上がっていくと、いきなり本堂の前に出てしまった。できれば山門をくぐってから訪れたいところであるが、そのためには遍路道から登ってくるより手はなさそうなので仕方がない。

なにはともあれ無事到着したので手を合わせる。収められているのは知恵を授けてくれる虚空蔵菩薩だ。それを弘法大師が刻み安置したと云われるが、落雷失火により消失と再建を繰り返しており、現在のものは江戸時代末期に蜂須賀氏により再建されたものだそう。

太龍寺の本堂。
太龍寺 本堂

本堂から先には多宝塔や大師堂があり、そこから鐘楼門のある石段を下ると、護摩堂や納経所などが並んでいた。なかでも大師堂は巧緻な彫刻が施された荘厳なもので印象深い。巨樹の木立がそれらを包みこむように枝葉を広げていて、日ざしや風雨から人や伽藍を守ってくれている。ひときわ大きなものは「守護の大杉」と名付けられていた。

誰もいない静かな境内、深山を思わせる樹林、苔むした石垣、涼やかな音色を奏でる池、吹き抜ける柔らかな風、ただ歩いているだけで心が安らいでくる。はるかな下界から険しい遍路道をたどり、山門をくぐりこの景色に出会ったなら、どんなにか感慨深いものだろう。

守護の大杉。
守護の大杉

あとは桑野駅に向かう予定だったが、舎心ヶ嶽の道標を目にして気が変わる。先ほど勧められたことを思い出したのだ。帰りのバスまで時間は十分にあるので、どんなところか目指してみるのも悪くない。

太龍寺周辺には国史跡に指定された古の遍路道がいくつも残されており、道標に従い進んだ先には、そんな古道のひとつが待っていた。杉木立と木漏れ日のなかに、風化した石仏や丁石の点在する趣ある道だ。ここは次の札所である平等寺に通じており、江戸時代には多くのお遍路さんで賑わったという。いまはセミだけが賑わしい。

序盤は水飲み場まである緩やかな坂道だったが、徐々に傾斜がきつくなり、汗を浮かべながら足を進める。やがて祠の点在する一角に出ると、隣接する岩場の上に、ロープウェイから目にした弘法大師坐像の背中が見えた。近くに解説の刻まれた石碑があり、虚空蔵菩薩の化身とされる明けの明星を拝する姿とある。

いわや道に点在する石仏。
点在する石仏や丁石

せっかくなので表側から拝むべく岩によじ登っていく。道らしい道はないが1本の鎖が下げてあり、手がかりも十分あるので楽に上がることができる。とはいえ足を滑らせたら痛いだけでは済まなそうなので慎重に足を運ぶ。

ここで19歳の弘法大師が虚空蔵求聞持法を修したという。それは1日1万回の真言を100日間にわたり唱えるというもので、習得した者は、あらゆる経典を記憶理解するほどの知力を得ることができるそうだ。興味はあるがとても実行はできそうにない。

坐像の傍らに立てば濃い緑に包まれた山々と深い谷が広がり、建物といえば近くにある太龍寺のほかは、谷底あたりに数軒が見える程度である。彼方には街や海もあると思うが、遠景はどこも白く滲んでいて、いくら目を凝らしてもそれらしいものは確認できない。山しか見えないので実際以上に山の奥深くまできたように感じる。

腰を下ろして休んでいると、冷たい風が吹き上げてきて気持ちいい。汗はみるまに引いていく。鳥のさえずりに耳を澄ませていると、なんだかまどろんでくる。根が生えてしまいそうになるが、そろそろ下山しないとバスに間に合わない。

舎心ヶ嶽の弘法大師。
舎心ヶ嶽の弘法大師

ロープウェイで下界に戻り、猛暑のなか和食東バス停まで戻ってくると、程なくして家族連れがやってきた。見るからに観光客という装いなので太龍寺の帰りだろう。暑さに参ったらしくベンチでぐったりしている。この暑いさなか徒歩や路線バスで移動しているのだから、お互いに酔狂なことである。しかも発した言葉が中国語で驚いた。

11時33分、バスは4分ほど遅れてやってきた。これを逃すと2時間近く待たねばならない貴重なバスだ。車内は学生や老人など5〜6人が乗っていた。

15分ほどで到着した桑野上では、私だけでなく学生や中国人も降りて、全員が桑野駅に向けて歩きはじめた。外国人はこんな乗り継ぎをどうやって調べるのだろうかと思う。

帰りのロープウェイからの車窓。
帰途のロープウェイから

次の列車まで1時間近くあるので、避暑と時間つぶしを兼ねて、バス停から駅に向かう途中にある天神社に立ちよる。この地は菅原道真と縁があり、千年以上の昔に天満宮を勧請したもので、牟岐線の開業当時この辺りに存在した桑野村の総氏神様だったという。主祭神はもちろん菅原道真だ。

樹林に包まれた境内は、鳥のさえずりとセミの声に満たされていたが、姿を目にすることができたのは狛犬のみだった。すらりとした胴体に長いたてがみを備え、上を向いて雄叫びをあげている。これは狛犬というよりライオンと呼びたくなる。

拝殿につづく石段脇では大きな杉が天を突いている。解説板によると「千代の大杉」という名で、市の天然記念物に指定されていた。樹齢は記されていないが、勧請当時に植樹したと伝わるそう。バスと鉄道の接続が悪いおかげで出会えためっけもんの巨樹である。

天神社と千代の大杉。
天神社と千代の大杉

半日ぶりの桑野駅はとにかく暑かった。朝も暑かったがそれに輪をかけて暑い。日当たり抜群のホームに立っていると、それでけで汗が流れる。こんな所にいたら熱中症になりかねないと待合室に避難する。暑いことに変わりはないが天井があるだけで随分ちがう。たまに吹き抜ける風が気持ちよかった。

バスで見かけた中国人と一緒に、12時38分発の海部行きに乗りこむ。立ち客が出るほど混雑していたので、空席を探すこともなくドア近くに立つ。数分で降りるのでどうということはない。それよりなにより冷房がよく効いているのが嬉しい。砂漠にオアシスとはこのことで活力が戻ってくる。

桑野駅に入線する、海部行き普通列車 4543D。
普通 海部行き 4543D

車窓には田んぼが寄りそい住宅が点在する。それらの背後には暗い杉林や明るい竹林に包まれた山並みが連なる。上から見たら濃淡ある緑色がまだら模様に広がってそうな景色である。

久しぶりにトンネルまで現れ、どんどん山深くなっていくかに思わせるが、それを抜けると間もなく景色は大きく開け、列車も速度を落としはじめた。

新野あらたの

  • 所在地 徳島県阿南市新野町
  • 開業 1937年(昭和12年)6月27日
路線図(新野)。
新野駅舎。
新野駅舎

細かな支流をいくつも集めながら、山間を静かに桑野川が流れている。それらの川筋をなぞるように、田園が細長く連なり、大小の集落が点在している。駅があるのは中でも開けたところで、昭和中期まで存在した新野町の中心地が近く、郵便局・駐在所・高校などがある。

列車が停車すると通路に列ができ、運転士に定期券を見せたり、切符を渡したりしながら降りていく。ほとんどが学生だが老人の姿もある。何人が降りるのか気になり、列に流されながら数えていくと10人以上になった。

人も列車も慌ただしく去っていき、ひとりぽつねんと残されたホームは、1面1線の小規模なものだった。1日1往復とはいえ特急列車が停まり、古くは徳島から当駅までを結ぶ列車が運転されていたのだが、そうとは思えないほど小さな駅である。

新野駅ホーム。
新野駅ホーム

ホームを下りた先には地味な木造駅舎がある。外壁は下部が板張り、上部は黄土色の壁、なんだか古い民家のようである。内装もこんな具合なのかと思わせるが、そちらは明るく現代的な装いをしていた。

せっかくの駅舎ではあるが無人化されて長いのだろう、窓口は板できっちり塞がれ、掲示物に埋もれている。床には券売機が撤去された痕跡。併設されたトイレは閉鎖。残されているのはベンチくらいのもので、寂しいことになっている。

駅前に出ると誰もいないが、駐輪場には自転車や原付きが30台ほど収められていて、人の気配を漂わせている。利用者は数えるほどしかないような顔をしていながら、実際にはまとまった利用者がある、そんな感じの駅である。

平等寺びょうどうじ

四国八十八箇所には不思議な魅力がある。巡礼の旅をしている訳ではないのだが、近くにあると立ち寄らずにはいられない。牟岐線の沿線では、阿波赤石駅から18番の恩山寺、立江駅から19番の立江寺、桑野駅から21番の太龍寺と訪ねてきた。そしてここでは22番の平等寺に向かう。歩き遍路ならぬ鉄道遍路のようになってきた。

それだけに20番の鶴林寺が抜けてるのが気になる。最寄りの立江駅から約15kmもの道のりで、太龍寺におけるロープウェイのような付随する目的もなかったので、当時は行き先の候補にすらならなかった。今更ながら訪ねておくべきだったかと思う。

ともかく平等寺に向かうことにする。地図を開くまえに婆さんが通りかかったので、行き方を尋ねてみると、ちょっと考えてから「ほな行きましょか」と先導して歩きはじめた。思いもよらない展開に軽く驚きながらも、後ろをついていく。

駅前にある自転車店。
駅前にある自転車店

沿道にはぎっしりと住宅が並んでいる。所々に閑散とした商店が挟まり、住宅も古くは商店でしたという面構えをしたものが多い。歯抜けのように空き地もある。鉄道が交通の主役だった時代は、駅と町の中心地を結ぶ繁華な通りだったのかもしれない。

腹が空いてきたので食堂がないか尋ねると、少し困ったような表情をしながら「昔はあったんだけどねえ」とぽつり。ローカル線の旅では幾度となく聞かされてきた言葉である。

空にはいつしか薄雲が膜のように広がり、日ざしが和らいできている。厚い雲も散りばめたようにあるので、晴れたり曇ったりが繰り返される。気温だけは相変わらず高いままで、熱気がまとわりついてくるが、それでも随分と楽になった。

あとは一本道というところで婆さんと別れ、数分ばかり進むと伽藍が見えてきた。時計を見ると駅から30分ほどの道のりであった。

平等寺の仁王門。
平等寺 仁王門

平等寺は山すその傾斜地に置かれていた。そのため山門はふもとにあるが、本堂は境内を見下ろすような高台にある。門前には田んぼや住宅が並び、背後には薄暗い樹林が広がる。なにげない山間の景色に溶けこんだ、静かで落ちついた佇まいをしている。

仁王像を見上げながら門をくぐると、左手に鐘楼や大師堂、右手に納経所や庫裏、正面に本堂に向かう石段などがある。頭上には門から本堂に向けて五色の綱が延びていて、動きのない景色のなか、微風にゆったり揺れているのが印象的だ。あまりに静かなので誰もいないと思いきや、白装束のお遍路さんとすれちがった。

まずは本堂で参拝しようと石段を上がっていく。厄年の人が置いていくのか、一段ごとに多数の1円玉が転がっているので、踏みつけないよう気を使う。

屋根の上に屋根を載せたような錣葺きの本堂、表に立つと草花の描かれた格子天井が視界に飛び込んできた。奥に目をやれば本尊の薬師如来が穏やかな表情で佇んでいる。その手には山門から延びてきた綱の先端が添えてある。これにより階段を上がれない方でも、山門側の綱端に触れることで結縁できるそうで、病を治癒する薬師如来らしい心配りである。

高台に建つ平等寺の本堂。
平等寺 本堂

境内や家並みを見下ろす眺めのいい所に、新聞記事の切り抜きが貼り出されていた。寝ているように見える山、と題されたその記事によると、向かいに見える山の形が、まるで弘法大師が仰向けに休んでいるようなのだという。言われてみれば確かにそんな形をしている。西洋庭園には庭木を刈り込んで動物などの形にするトピアリーがあるが、これはまるで山を刈り込んで弘法大師の寝姿にしたようであった。

静かだった境内が俄に騒がしくなってきた。子どもたちが歓声を上げながら走り回っているのだ。眺めていると近所の寺で日が暮れるまで遊んでいた幼少期を思いだす。子どもが気軽に立ちより、自由に遊べる、紛れもなくいい寺である。

弘法大師に見える山稜。
弘法大師に見える山稜

戻ってきた駅には誰もいなかった。風もないのにセミの声だけは、遠くから賑々しく伝わってくる。熱気のこもった待合室を通りぬけてホームに立つ。

待つこと15分ほどで14時42分発の海部行きがやってきた。見なれた単行のワンマン列車である。車内に目をやると学生で混み合っている。後ろのドアからひとり乗りこむと、前のドアからは学生が数人降りていった。

新野駅に入線する、海部行き普通列車 4551D。
普通 海部行き 4551D

車窓は桑野の辺りからあまり変化はない。田んぼが広がり、住宅が点在し、それを山林が取り巻いている。牟岐線には阿波室戸シーサイドラインという愛称が与えられているが、グリーンラインとでも呼びたくなるほど緑のなかを走りつづける。

線路沿いに住宅が集まりはじめたので、そろそろ駅かなと思うが列車は素通り、ようやく停車したのは両側から山が迫ってきた辺りであった。なんだか集落の外れのような所に駅を設置したものである。

阿波福井あわふくい

  • 所在地 徳島県阿南市福井町
  • 開業 1937年(昭和12年)6月27日
路線図(阿波福井)。
阿波福井駅舎。
阿波福井駅舎

緑あふれる山並みに刻まれた小さな谷である。平地の少なさから鉄道・国道・河川が仲良く並び、残された土地に田畑や住宅が詰めこまれている。これといった特色のない阿南市の隅にある存在感の薄い駅であるが、開業当時は福井村の代表駅であり、すぐに延伸されたので約2年という短期間ではあったが牟岐線の終着駅でもあった。現在は徳島と海部どちらにも約40kmと、路線のほぼ中央に位置している。

列車を降りると自然の豊かさがとても新鮮に映った。思えば徳島からこのかた街や平野に接する駅ばかりで、木々の緑に囲まれるようにしてある駅は初めてだ。それでも人家はそれなりにあるらしく、学生や老人など数人が降りた。

駅の前後では線路が不自然に曲がり、かつて線路が分岐していたことを教えてくれる。ホームと駅舎のあいだには線路跡が草地として残されている。今は1面1線の簡素な姿をしているが、昔は1面2線で、列車のすれちがう光景が見られたのだろう。終着駅だった時代は機関車の付替えなども行われていたのかなと思いめぐらす。

阿波福井駅ホーム。
阿波福井駅ホーム

木造駅舎は傘寿を過ぎた開業当時からの建物だ。ベンチの並べられた待合室には、カーテンの下ろされた窓口が静かに佇んでいる。無人化されて久しいのだろうが、内外ともきれいに改装され、清掃も行き届いているので居心地は悪くない。ほうきが何本も置いてあるところを見ると、地域の方がこまめに手入れをしているのかもしれない。

併設されたトイレには閉鎖の貼り紙がしてある。桑野や新野でも目にしたことから、無人駅で軒並み閉鎖しているらしい。旅行者としては困った話だが、ローカル線で旅行する人などわずかなものだし、家にも車内にもあるのだから地元住民もまず困らない。そうなると列車に乗らない招かれざる利用者のほうが多いのかもしれない。維持する手間や費用を考えたら閉鎖もやむなしかなと思う。

阿波福井駅の窓口と改札口。
窓口と改札口

駅を出るといきなり国道が横切っている。次から次へと車が走り抜け、景色の静けさとは対照的に騒々しい。左右どちらを向いても民家が点在する程度で、駅舎があるおかげで駅前と認識できるような立地である。

まだここが終着駅だった時代、漂泊の俳人こと種田山頭火が通りかかり、一杯ひっかけたことが四国遍路日記に残されているが、それを再現できそうな店は見当たらない。せめて食堂でもあれば遅い昼食にしようと考えていたが、それもまた望むべくもなかった。

福井ふくいダム

駅前には四国ではおなじみの自然歩道「四国のみち」の案内板が立っている。そこには当駅を起点として、竹林とスダチ香るみち、明神山大海原のみち、という2つの魅力的なコースが記されていた。これだと思ったのも束の間、どちらも距離が往復20kmほどあり、15時を過ぎてから向かうのは現実的ではなかった。

仕方がないので2kmほど上流部にある福井ダムを目指す。詳しいことは知らないが、阿南市の観光案内図で目にしたことがあるので、それなりに良いところにちがいない。

駅前を流れる福井川をさかのぼっていく。右岸には国道が通っているが、暑くて騒がしいので、左岸の舗装すらされていない細道をゆく。見下ろす川面はダムがせき止めているせいか、細々と流れていたり、どんよりと流れていたり、なんだか頼りないものがある。

福井川。
福井川

左右には低く穏やかな山があり、谷間には田畑や住宅がちりばめられ、ダムより溜池のほうが似合いそうな景色がつづく。こんなところにダムがあるのかと思わせるが、駅から30分としないうちに、立ちはだかるコンクリートの壁が見えはじめた。

堤体の下までやってくると草木に包まれた公園に入り込んでいく。噴水がしぶきを上げ、木材を用いた東屋やベンチが置かれ、公衆トイレに駐車場まで用意されている。力を入れて整備したことが伝わってくるが全体に荒れ気味で、草刈りだけはしてあるが、あとは時の流れに身をまかせている。

遊具の類は見当たらないが、案内図には巨大な滑り台らしきものが記されていた。管理人室の文字が残された小屋もある。昔はちょっとしたレジャー施設になっていた様子。賑やかな時代もあったのかと思うと、誰もいないこの状況が寂しげに映る。

福井ダム。
福井ダム

公園脇には堤体上につづく小路があったので、この壁の向こうに広がっているであろうダム湖を眺めるべく上っていく。足首くらいまでの雑草が繁茂していて、マムシ注意の看板があるものだから、足下を見つめるようにしながら慎重に足を運ぶ。

上がりきった所には福井ダム資料館があった。無骨なコンクリート造りながらタイルや木材で装飾されて凝った姿をしている。ダムの素性を知るのにちょうどいいと思ったが、出入口には閉館中の貼り紙、カーテンで閉ざされ内部をうかがい知ることすらできない。

幸いにして屋上に設けられた展望所は開放されていたので、らせん階段を上っていくと、堤体を間近に見下ろすことができた。高さは42.5mと、黒部ダムの186mからすれば子供のようなものだが、ビルにすれば14階くらいの高さがあり、眼前に置かれると巨大なものである。

福井ダム資料館。
福井ダム資料館

展望所から下りてくると堤体上に足を進める。両岸を結ぶ道路になっていて、しっかり歩道が設置され、所々には湖上にせり出した展望スペースが設けられている。どこまでもよく整備されているが、どこまでいっても誰ひとり目にすることがない。

上流側には深い緑色をした水が満々とたたえられ、細々とした川からは想像もつかないような景色が広がる。下流側に目をやれば田んぼや民家があるのだから、堤体が別世界を繋げているかのようだ。手すりから真下をのぞき込むと、引き込まれそうな感覚に思わず後ずさり。そそくさと資料館の方に戻った。

福井ダムの堤体上から、ダム湖を眺める。
堤体上からの眺め

気がつけば空には重そうな雲が広がり、日ざしはないのに蒸し暑く、夕立でもきそうな気配が漂いはじめている。ダム湖の傍らには平等寺の奥の院、弥谷いやだに観音があり、案内板にも記されているので迷っていたが、これで決心がついた。駅に戻ろう。

エピローグ

路線図。

すっかり日の陰ったホームにひとり立つ。暑さもセミの声も和らいできて、黄昏の気配が漂いはじめた。時計を見ると17時になろうとしている。そこに滑り込んできたのが学生で混み合う牟岐行きで、数人が降り、それぞれ迎えの車で去っていく。

それから15分ほどで徳島行きもやってきた。立ち客はないが座席は埋まっていたので、出入口の脇にある補助席を開いた。

列車は駅ごとに乗客を拾っていく。座席はきれいに埋まり、やがて立ち客も出はじめ、ついには通路までぎっしり。身動きできないような混雑に、車窓に目をやることも間々ならず、誰もがじっと揺られる様は、乗客というより荷物を運んでるようであった。

徳島駅に到着した普通列車 4572D。
18時11分、徳島駅に到着

(2019年7月30日)

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