紀勢本線 全線全駅完乗の旅 5日目(多気〜佐奈)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2019年12月27日、明け方の松阪駅、ホームの屋根を激しく雨が叩いていた。吹き抜ける風は凍えるように寒い。体をゆらし足踏みをしながら列車を待つ。

6時47分、新宮行きの普通列車が滑り込んできた。亀山から新宮まで約180kmを4時間以上かけて踏破する長距離鈍行である。ホームの様子から乗車するのは私だけかと思いきや、待合室から肩をすぼめた数名がいそいそ出てきた。

先頭車両に落ちついたところで見まわすと、通勤通学客や旅行者など10人ほどが散らばるように座っていた。ドアが閉まると雨音は静まり、入れ替わりにエンジン音が響きはじめた。

普通列車の新宮行き 327C。
普通 新宮行き 327C

雨粒の流れる薄明の車窓は寒々しいが、ほどなく雲が散りはじめ、東の彼方から燃えるような光があふれはじめた。まもなく日の出を迎えようとしている。予報では晴れなので雨もじきに上がるだろう。

7時5分に多気を発車すると、左に向かう参宮線から逃げるように大きく右に進路をとり、伊勢平野に背を向けた。ここまでは平野を直線的に進んできた線路だが、ここからは伊勢・紀伊の国境であった荷坂峠に向け、山間をうねりながら標高を上げていくことになる。

平野より山間の景色のほうが好きなので楽しみだけど、山間らしくなる前に早くも最初の下車駅となる相可に到着した。

相可おうか

  • 所在地 三重県多気郡多気町相可
  • 開業 1923年(大正12年)3月20日
  • ホーム 1面1線
路線図(相可)。
相可駅舎。
相可駅舎

奈良県境から山峡を流れてきた櫛田川、その右岸の開けた土地に当駅はある。駅北側の川沿いには歴史ある街道や家並みが連なり、駅南側の丘陵にはニュータウンやシャープの大規模工場が広がる。町役場や高校もあるなど多気町の中心をなす地域である。

学生ばかり5〜6人と列車を降りた。通学時間にしては少ないのは冬休み中のせいだろう。雨は上がり、ほのかに日差しもあるけど、風が強くて身ぶるいするほど寒い。

立地としては多気町の代表駅なのだが、すすきの目立つ無人駅でなんとも活気がない。ホームもひとつあるだけで列車の交換設備すらない。亀山から訪ねてきた駅のなかでもっとも小規模な作りだ。とはいえ駅裏手には廃止されたホームが横たわり、側線が剥がされたらしき空き地もあることから、昔はそれなりの規模を持った駅だったことが察せられた。

相可駅ホーム。
相可駅ホーム

一緒に降りた学生たちが歓談する待合所を横目に、木造駅舎があったらしき跡地を踏んで駅前に出た。相可は街道沿いの歴史ある町なので、相応の趣ある佇まいを期待したけど、迎えてくれたのは現代的な広い道路と大型店であった。

伊勢本街道いせほんかいどう

引きも切らない車で騒々しい駅前から数分ばかりゆくと、家屋や路地をぎっしり従えた、いかにも歴史の深そうな通りに行き当たる。いまとなっては狭い生活道路であるが、かつては大和と伊勢を結ぶ主要道として、数多の旅人が行き交った伊勢本街道である。

まずはこの街道を散策することにして軒を連ねる家々のなかをゆく。江戸時代のような景観はないけど、時代がかった家屋や蔵、商店の面影を残した民家、揺れるように曲がる道路など、新興住宅地では味わえない風情があっていいものだ。

伊勢本街道。
伊勢本街道

街角には大きな道標が立っていて、太く深々と彫り込まれた伊勢本街道の文字が、重要な街道であったことを誇示しているかのようだった。側面には「右くまのみち」とあり、いまでいう熊野古道に至る脇道があったことを教えてくれる。

説明板によるとこの道標が立てられたのは1863年(文久3年)とある。まもなく明治を迎えようかという幕末である。この辺りは町の中心的なところらしく、制札場があったり、盆踊りが催されたりしたという。駅からこのかた出会ったのは学生ばかり数人という寂しさだけど、当時は交通の要衝として賑わっていたことが偲ばれる。

相可の道標。
相可の道標

ゆったり構える新しい住宅が目立ちはじめ、元々は田んぼの広がる町外れだったのかなと思いはじめたころ、文字通り見上げるように大きな石灯籠が現れた。明かりを灯すにもはしごが欲しくなるような高さである。

四疋田の大常夜灯と記された説明板に目を通すと、後世まで献灯するように、という四疋田組の大庄屋の遺言により、江戸時代後期の1845年(弘化2年)に建てられたそうである。高さは5.5mもあり、伊勢本街道では最大級だという。歴史を伝えるモニュメントとして残されているようではあるけど、しっかり電線が引き込まれているあたり、遺言通りいまなお献灯されているのかもしれない。

四疋田の大常夜灯。
四疋田の大常夜灯

街道というのは歩けば歩いただけ歴史あるものが出てきて、遊歩道で景色を楽しむのとはまたちがう、遺跡でも発掘するような面白さがある。この先に待ち受ける宿場や峠まで歩きたくなるけど時間がない。この町ではまだ訪ねたいところがあり、列車時刻まで1時間半を切ったところで急ぎ引き返した。

法泉寺ほうせんじ

街道に接する広々とした田園地帯、それが尽きる丘陵のふもとに、涵翠池という大きな池がある。谷口をせき止めた周囲1kmほどの溜池だ。字面から翡翠のような緑色の池を想像したが、畔に立ってみれば、海を思わせる深い群青色をしていた。折からの強風でさざなみだっていることで、ますます海のようであった。

この池を見下ろす高台に法泉寺がある。あまり目にすることのない黄檗宗の名刹で、中国式の山門や、県の名勝に指定された庭園があるという。もっともいまでは廃寺となり町が管理しているそうだが。目指すは知れば知るほど興味を惹かれるこの寺院である。

涵翠池。
涵翠池

水辺の小路をゆくと木立に包まれるようにして佇む山門があった。目立った装飾のない古びた木造瓦葺きで、いかにも寺院という落ちついた風合いをしているが、奥行きも扉もなく中央部だけ高くした屋根など、その造作は中華街の出入口でよく目にする牌楼門のそれである。

掲げられた大きな寺額には天照山と記されている。見上げながら山門をくぐり苔むす石段を上がっていく。ざわざわ揺れる木々の音が心地いい。廃寺といっても町が管理しているというだけあって荒れてはおらず、いまにも向こうから坊さんが下りてきそうな雰囲気であった。

法泉寺山門。
法泉寺山門

気がつけば列車時刻が迫っていて、駆け足で駅に戻ると、待つほどもなく9時48分発の新宮行きがやってきた。次は13時28分までないので危ないところだった。

駅にいた先客の婆さんにつづいて乗り込む。降りる人はいない。適当なところに腰を下ろして見まわすと、旅行者と地元住民らしき老人の10人ほどがくつろいでいた。空いていて快適だけど、生活利用者は老人ばかり数人かと思うと、路線の将来に暗たんとしたものを感じて複雑な気持ちになる。

普通列車の新宮行き 329C。
普通 新宮行き 329C

相可駅は櫛田川の流れる大きな谷にあるが、さかのぼると西の奈良県に行ってしまうので、動き出した列車はすぐに南に舵を切り、河岸に連なる丘陵を乗り越えにかかる。

線路が敷設されたのが大正時代ということもあり、トンネルに頼ることなく、丘陵の切れ間を巧みに縫うように進んでいく。車窓には和歌山までの大部分で併走することになる、商売敵にして車窓の友、国道42号線が近づいてきた。

ほどなく集落の点在する小さな谷に出ると、列車は速度を落としはじめた。

佐奈さな

  • 所在地 三重県多気郡多気町平谷
  • 開業 1923年(大正12年)3月20日
  • ホーム 2面2線
路線図(佐奈)。
佐奈駅舎。
佐奈駅舎

里山に見下された穏やかな谷の、田畑や家屋の散らばるなかに置かれた駅で、そこはかとなく山間をゆくローカル線の風情が漂う。現在では多気町の外れにある地味な駅であるが、昭和の大合併で相可町・津田村と合併するまでは、佐奈村の代表駅であった。

静かなホームにひとり降り立つ。空気はひんやりしているけど陽光が降りそそぎ暖かい。今朝の激しい雨などなかったかのような小春日和である。

まずは跨線橋に上がり上下線のホームを見下ろす。上屋はなく待合所があるだけの簡素な作りをしている。駅前には家屋が集まり、駅裏には小川沿いに田んぼが広がり、すすきが揺れている。特筆するようなものは見当たらないけど、それ故にのどかないい景色だなと思う。

のんびりしていると駅構内のスピーカーが喋りはじめた。なにごとかと耳をすませると強風の影響で上り列車が40分ほど遅れているとのこと。

佐奈駅ホーム。
佐奈駅ホーム

ホームには名所案内板があるけど何も記されていない。名所がないのではなく文字が消えているのだ。色あせたようでもあるが、触れると指先が白くなり、塗りつぶされたようでもある。どうしてこんな状態なのか知る由もないが、薄く浮かんだ文字を読み取ると、五桂池ふるさと村・近長谷寺・普賢寺の3箇所が確認できた。

プレハブ小屋を思わせる新しい駅舎を抜けて駅前広場に出ると、がらんとした大きな駐輪場のほか、木材を活かしたきれいな公衆トイレ、多気町の観光案内図などが用意されていた。現役らしき床屋もある。活気はないけど思ったより駅前らしさのある駅前だった。

女鬼峠めきとうげ

北には近長谷寺・普賢寺・金剛座寺といった寺院に城跡もある。南には佐那神社・五桂池・熊野古道がある。どちらも歴史と自然にあふれて魅力的だけど、方角が真逆のため日の短いこの季節では片側しか行けそうにない。これには迷ったけど、より変化に富んだ道のりが楽しめそうな南に決めた。

まずは駅前を横切る細道をゆく。ひなびた集落で人はおろか車にすら出会わない。まさに生活道路といった趣だけど、江戸時代までさかのぼれば、和歌山や伊勢神宮に通じる和歌山別街道であったという。

駅付近の家並み。
駅付近の家並み

数分もすると森を切り抜いてきたような、こんもりふくらんだ緑があり、佐那神社の鳥居が口を開けていた。千年以上の歴史があるという古社で、和歌山別街道をゆく旅人もここで足を休め、手を合わせていったのかもしれない。

境内にはたくさんの木々に守られるように、ひときわ大きな対になった杉があり、夫婦杉と名付けられていた。周囲の木々が強風に揺らいでいるのに、夫婦杉だけはどっしり微動だにせず悠然と構えていたのが印象深い。

主祭神は力持ちで知られる天手力男命であった。それにちなんでか参拝手順として、手水舎前にある大力石を持ち上げるが如く触れ、さらに拝殿前にある力石を持ち上げ、それからお参りするなどと記されていた。もっともこの文言に気がついたのは参拝後である。

佐那神社。
佐那神社

雨上がりの澄んだ清々しい青空のもと、田園地帯を抜け、路地の複雑にめぐらされた集落に分け入っていく。その一角に武家屋敷のそれを思わせる古びた門があった。これはなにかと思わせるが、掲げられた扁額にはかすれた文字で珊瑚寺と記されていた。

多気町の文化財なる説明板によると、伊勢御師の福井家の表門を移築したもので、江戸時代のものらしい。民家とも寺院とも異なるような佇まいはそういうことかと納得する。

南国を思わせる寺号に惹かれて立ち寄ると、境内にもいくつか説明板があり、平安時代の創建であることや、南北朝時代の鰐口に室町時代の十一面観音があることなどが分かってきた。山岳信仰とも関係があるのか行者山遥拝所なる気になる石柱もある。集落に埋もれるような小さな寺院だけど、それとは対照的に大きな歴史を秘めた寺院のようである。

珊瑚寺。
珊瑚寺

進むほどに家屋は消えて山間の雰囲気になってきた。この辺りは風の通り道になっているらしく背中をぐいぐい押してくる。おかげで軽い上り坂でありながら平地のように楽だった。しかしそのせいで手はみるみる冷たくなり、思わず手袋をはめた。

さかのぼってきた谷をせき止める堤があり、その上までくると、湖と見紛うほど大きな水面が広がった。県下最大の溜池という五桂池である。近年になり築かれたダム湖のようであるが、実は300年以上も昔の江戸時代初期に造られたというから驚きだ。

水面は台風のような強風に煽られてざわつき、ときには吹き上げられて岸辺に飛沫を降らせている。晴れたり曇ったり目まぐるしく、見上げれば雲が走るように流れていた。

五桂池。
五桂池

五桂池を過ぎたころから熊野古道の標識や案内板を目にするようになった。熊野古道は紀伊半島にめぐらされた熊野三山の参詣道の総称で、ここにあるのはそのひとつ、伊勢神宮から熊野三山に至る伊勢路とよばれる道である。伊勢路とはこれが初顔合わせだが、これから新宮まで約150kmにわたり紀勢本線と絡み合うように南下していくので、この先なんども出会うことになるはずだ。

できれば全体を一気に歩いてみたいけど、このような旅ではそれは無理なので、つまみ食いのようにして歩くしかない。今回つまむのは神宮を発った参詣者が最初に出会う峠、恐ろしげな名をした女鬼峠である。

女鬼峠入口の標識。
女鬼峠入口

ほどなく出会った熊野古道は単なる車道で古道という趣はなかったが、進むにつれ山深くなり舗装は消え、いつしかいにしえの面影を残す山道となった。落ち葉の目立つ路面には深く刻まれた荷車の轍が残され、参詣者だけでなく生活利用者も行き交っていたことを物語る。いまは行けども行けども誰にも出会わない。

地形に沿うように右左とうねりながら峠を目指す。深い樹林が光をさえぎり薄暗く、峠の名前と相まっておどろおどろしいものがある。

風はごうごうと吹き荒れていて、揺れる枝葉のざわめく音や、揺れる竹のぶつかり合う音がひびいてくる。ところが肌にはまったく風を感じない。どうやらこの深い樹林が風をすべて吸収してしまうようである。

樹林のなかを伸びる熊野古道。
熊野古道

ふもとから30〜40分ほどかけて峠を上りきった。眺望はないけど茶屋跡という標柱の立てられた小さな平坦地がある。湿っぽい草地があるだけで痕跡はまったくないけど、そういわれると縁台に腰かけて足を休める旅人の姿が浮かんでくる。いつの時代まであったのだろうかと説明板に目を通すと、「茶屋があったのではないかと思われます」と頼りない言葉で結ばれていた。これには旅人の姿も消えてしまった。

頂上部は岩盤を掘り下げた切り通しになっていた。重機を使えばたやすいことだが、手作業の時代には大変なことだったはず。近くには旧道らしき別の切り通しもあり、手間暇かけて建設や改良がなされていることに、重要な道であったことがうかがえる。

峠の切り通し。
峠の切り通し

峠からは展望台と記された脇道があるので行ってみると、上ってきたのとは反対側にあたる、南の新宮方面が大きく開けたところに出た。ふもとには清流として知られる宮川が流れ、はるかに名も知らぬ山々が重なり合っている。薄暗い樹林ばかり歩いてきたので、久しぶりに目にする明るい景色がなんとも開放的で気持ちいい。

腹が減ってきたので時計を見ると13時をまわっていた。眺めがいいうえ日差しがあって暖かく、弁当を持ってきていればここで開きたかった。

峠近くからの眺望。
峠近くからの眺望

ひと休みしたところで峠を下りにかかる。こちら側には荷車の轍のようなものはないが、六字名号碑や如意輪観音が安置されていたり、奈良時代創建という大神宮寺相鹿瀬寺の跡があったりと、また異なる歴史の香りを漂わせていた。

ふもとは茶畑のなかに家屋が点在する穏やかな集落であった。相鹿瀬おうかせというその集落内を歩くと「右くまの道」と彫り込まれた大きな道標や、町内最大級という高さ1.5mもある地蔵などに出会う。刻まれた年号はいずれも江戸時代であった。

熊野古道を踏破しようとする旅人に思えたのだろう、畑仕事をしていた婆さんに「今日はどちらまで」と声をかけられた。

相鹿瀬の地蔵。
相鹿瀬の地蔵

恵比寿河原と名付けられた広々とした宮川の河川敷に腰を下ろす。時刻は14時半になろうとしている。駅を発ってからもう4時間も経過したということだ。そろそろ帰途につかないと日が暮れてしまいかねない。

戻るのが面倒に思えるほど遠くまで来てしまったが、戻らないという訳にもいかないので立ち上がり、空腹をこらえながら峠に向かった。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

向かい風を押しながらようやく駅まで戻ってきたころには、すっかり日は傾いて、景色は茜色に染まりつつあった。

次の列車まで時間があったのでなにか食べようと近くの国道に向かう。まずはとんかつの店があったが準備中、さらに進むとドライブインがあったが営業終了、嫌な予感がしてくるが特産の伊勢芋を供する店が開いていた。二桁国道の力か飲食店が多くて助かる。

盛りだくさんの伊勢芋料理を堪能して店を出るとすっかり暗くなっていた。家々には明かりが灯り、ヘッドライトが走り抜け、残照の空には山並みがシルエットを描いている。日差しがなくなったことで寒さは増し、吹き抜ける風に手がかじかむ。

夕闇迫る佐奈駅。
夕闇迫る佐奈駅

寒風にあおられながら薄暗いホームで列車を待ち、いかにも生活利用者という身なりの爺さんと、17時19分発の多気行きに乗り込んだ。

(2019年12月27日)

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