目次
プロローグ
2017年12月31日、午前8時の亀山駅前に立つ。雨は止んだばかりのようで、路面には水たまりが残り、空はどんよりしている。災害で不通となっている関西本線の代行バスが停まっていて、案内係が改札を出てくる人に利用するか否か声をかけたり、バスに誘導したりと忙しそうにしていた。
門松で正月の装いをした駅舎を通り抜け、8時23分発の伊勢市行きに乗り込む。4両も連ねているけど、大晦日のためか乗客は各車両に10人程度と空いていた。
暖房のよく効いた車内は眠気を誘い、ロングシートで景色を眺めるのに不向きなこともあり、まどろんでしまい記憶は断片的にしか残っていない。覚えているのは途中駅で何人か乗ってきたことと、伊勢鉄道や近鉄線の線路が接近してきたことくらいのものだ。津の到着を知らせるアナウンスでようやく目覚めた。
津
- 所在地 三重県津市羽所町
- 開業 1891年(明治24年)11月4日
- ホーム 3面6線
古代には日本の主要港湾、近世では東西からの伊勢参詣者が行き交う城下町、そして近代からは県庁所在地として、時代ごとに栄えてきた土地である。その玄関口となる当駅には、紀勢本線のほか近鉄線や伊勢鉄道、いくつものバス路線が集う。漢字でも仮名でも一文字という駅名は日本一短いことで有名だ。
同じ車両に乗っていたほぼ全員と降り立つ。さすがに活気があると思ったのも束の間、目の前にある改札口にあっという間に吸い込まれてしまうと、あとには次に来る紀伊勝浦行きの特急を待つ数人だけが残された。
県の代表駅といえば垢抜けた姿を想像するが、閑散とした長いホームは余計な装飾のない実用本位なもので、折からの薄暗い小雨と相まって重々しい。なにやら寂れゆく地方の国鉄主要駅という雰囲気を漂わせていた。
ホームは3面あり6番のりばまで用意されている。いかにも大きな駅のように思えるけど、3社のホームが共存しているためで、JRが使用しているのは2〜4番のみ。県庁所在地のJR駅としては最小規模といったところ。
せっかくなので1番の伊勢鉄道ホームを訪ねてみると、構内の外れのような所にあり、四日市行きの小さな単行列車がぽつねんと止まっていた。窓越しにちらりと車内を見るけど乗客の姿は見当たらない。第三セクターらしい場末感がある。
ついでに5〜6番の近鉄線ホームにも足を伸ばすと、往来する人を避けて歩かねばならないほど活況を呈していた。ちょうどやってきた難波行きの特急には乗車の列ができている。パン屋があったりエスカレーターがあったり設備は充実しているし、心なしか雰囲気にも明るいものがある。同じ駅なのに会社が異なるだけでこうも違うものかと思う。
駅舎はJR側と近鉄側にあり、管理はそれぞれの会社で行っているようだけど、利用者はどちらの改札口でも利用できる。とはいえ紀勢本線の旅なのでJR側の改札を抜けてみた。
外に出ると雨が本格的に降りはじめていたので傘を取り出す。駅前には路線バスが発着しているけど、天候のせいか年末のせいか利用者の姿はまばらだ。往来する人も少ない。そのせいか大きなロータリーが備えられ車もたくさん行き交っているけど、JRホームで感じたのと同じような寂れた空気が漂っていた。
津城跡
ホームの名所案内には津城跡・観音寺・偕楽公園が記されていた。歴史ある町なので色々ありそうだけど、これが三大名所とでもいった存在なのだろう。元々城跡には行こうと思っていたけど、いずれも手頃な距離なので、3箇所ともめぐってみることにした。
まずは駅の至近にある偕楽公園に向かう。幕末のころ津藩主の藤堂高猷が別荘を設けたという小山で、明治時代より公園として整備されたという。
木々の茂る小山にめぐらされた散策路を右へ左へ。地形のままに起伏のある園内には、様々な石碑が点在するほか江戸時代の常夜灯があり、紀勢本線を走ったという蒸気機関車も展示されていた。ちょっとした歴史公園の趣がある。
時期になればサクラやツツジで彩られるそうで、それを目当てにした来園者もあって華やぐのだろうけど、いまは冷たい雨のしとつく冬枯れの景色とあって誰もいない。聞こえてくるのも雨音ばかり。主要駅の近くとは思えない静けさであった。
公園をあとに宅地を抜けて、天然の堀ともいうべき安濃川を渡り、かつての城下町へと入っていく。といっても近代的なビルの合間を耳障りなほど車が行き交い、城下町という響きから期待するような風情はない。
城が近いことを思わせる丸の内という地名になると、ほどなくカモが泳ぐ内堀と、整然と直線的に築かれた本丸の石垣が現れた。白壁の多門櫓がめぐらされていたという石垣上にはマツが茂るばかりだが、残された端正な石垣だけでも見応えがある。堀を覗きこむと餌がもらえると思ったらしくカモが集まってきた。
この城は戦国時代に築かれたのち、織田氏や富田氏の時代を経て、江戸時代になると藤堂高虎によって大改修が施され、廃藩置県に至るまで長く藤堂氏の居城となった。往時は広大な内堀が本丸を取り巻き、それを外堀が囲んだうえで、城下町ごと安濃川と岩田川が挟み込むという大きく堅牢な城であったという。
いかにも復元されたという三層櫓を見上げながら、数少ない遺構である本丸跡に足を踏み入れると、噴水のある公園になっていて拍子抜けした。偕楽公園と同じく誰もいない静かな公園である。雨に打たれる藤堂高虎の騎馬像もどこか寂しげに映る。昔日の姿が復原されているでも、資料館があるでもないので、織田氏の時代に五層の天守があったという天守台を眺めたら早々と退散する。
最後に藤堂高虎を祭神とする高山神社に参拝。本丸跡に隣接するこの場所は埋め立てられた内堀の上だそう。どこに行っても貸し切りばかりだったけど、ここには少ないながら参拝者の姿があり、社務所にも人影があった。
閑古鳥が鳴くアーケード商店街を抜けると、朱色をした観音寺の仁王門前に出た。奥には同じように朱色をした本堂や五重塔の姿もある。浅草観音と大須観音に並ぶ日本三大観音のひとつとして知られ、県下有数の参拝者数を誇るという寺院である。ところが年末だからか雨だからか、門前の商店街にも境内にも人影はまばらであった。
読経の聞こえる本堂で手を合わせ、藤堂高虎が寄進したという大柄な銅燈籠を眺めてから駅に向かっていると、四天王寺の飾り気のない古びた山門が目に留まった。佇まいの良さに惹かれて思わず立ち寄ると説明板があり、江戸時代初期に建てられた山門とある。落ちついた雰囲気のする境内には、織田信長生母の墓や、藤堂高虎夫人の墓、松尾芭蕉の文塚などが点在していて、歴史と由緒を感じさせる寺院であった。
駅に戻ると次の阿漕駅を通る鳥羽行きが止まっていた。これを逃したら次の列車は1時間後までないので、急いで切符を購入してホームに向かう。適当な店で食事を取ろうと思っていたけどそれどころではなくなった。そしてさあ乗り込もうとした瞬間にドアが閉まり焦るが、幸いにして運転士が気づいて開けてくれた。
列車は2両編成と短いうえ、どちらの車両にも10人程度しか乗っていない。通勤通学客がいないとはいえ県庁所在地でこれは寂しいものがある。
長大な紀勢本線はいくつもの小路線をひとつに束ねたような構造をしており、亀山から津までは関西鉄道が建設したものだったけど、これから利用する津から多気までは参宮鉄道が建設した部分となる。もっともどちらも百年以上もの昔に国有化されたこともあり、古びた設備を前にしても感じられるのは私鉄ではなく国鉄の香りだった。
13時40分に発車すると近鉄線とぴったり並走しながら南下していく。向こうは複線電化なのにこちらは単線非電化でなんとも見劣りがする。
車窓には途切れることなく市街地が流れていく。津城跡のある中心市街の辺りまでくると近鉄の津新町駅をかすめる。この辺りこそ津駅を置くのにふさわしい気がするけどJRには駅すらない。そして繁華街や近鉄線が遠ざかるとようやく速度を落としはじめた。
阿漕
- 所在地 三重県津市大倉
- 開業 1893年(明治26年)12月31日
- ホーム 2面3線
伊勢街道沿いの歴史あるものから、整然とした新興住宅地まで、新旧の建造物が広がるなかにある。拡大する津の市街地に飲み込まれたといった様子でもある。近くにある阿漕浦は謡曲「阿漕」であったり「阿漕な商売」といった言葉の元となった故事で知られる。
建て込んでいるのでまとまった利用者がありそうだけど、降りたのは私ひとりだけ、辛うじて2〜3人が乗り込む姿があった。
目の前には真新しい駅舎がある。小さな待合室があるだけのこじんまりした建物で、言うまでもなく駅員の姿はない。開業から百年以上にもなる駅なのだが、近年開設された小駅を思わせる佇まいだ。それでも構内を歩いてみると石積みの長いホームや、存在感ある大きな跨線橋があったりして、長い歴史と往時の活気を感じることができた。
駅前に出るとちょっとした庭園や駐輪場を中心としたロータリーがあり、簡易ともいえる駅舎には不釣り合いなほどの広い空間になっていた。かつては相応しい木造駅舎があり駅員の姿もあったことは想像に難くない。
庭木に囲まれた庭園のなかを覗くと、いわくありげな、中央に穴の空いたコンクリートの壁が据えられていた。色あせた説明板には「阿漕駅前の被爆の塀」と記されている。それによると元々は近くの憲兵隊にあった塀の一部で、太平洋戦争末期の空襲で落とされた爆弾の破片で空いた穴だという。それを当地に移設保存したというものだった。
ロータリーの向こうには幅広の並木道が伸びている。いかにも駅前商店街でもありそうだけど、住宅や駐車場の目立つ静かな通りである。
阿漕浦海岸
阿漕浦は伊勢神宮に奉納する魚の漁場として殺生禁断の地であった。それを破って密猟を繰り返した漁師が捕らえられて海に沈められたという故事が残る。この話は謡曲や浄瑠璃などを介して広く知られ、いつしか強欲であくどいことや、しつこくずうずうしいことなどを阿漕というようになった。一方でそれは病気の母親に食べさせるためだったという孝行者の話としても知られる。その阿漕浦が東に1.5kmほどの所にあるので行ってみようと思う。
駅前通りの先で止めどなく車の流れる国道23号線を横断する。この辺りに中勢鉄道の阿漕駅があったはずだが、そうと知っていても分からないほど痕跡はない。廃止されたのは半世紀以上も昔の1942年(昭和17年)のことなので無理からぬことではある。
さらに進むとひっそりした伊勢街道に出会う。古くは商人や伊勢参詣者の往来する殷賑とした通りだったかと思うと隔世の感がある。せっかくなので歩いてみると、沿道には格子や袖壁を備えた古風な家屋がいくつもあり、ちょっとした古い町並みのようになっていた。思いのほか往時の雰囲気が残されていて、掘り出し物の景色である。
このまま歩いていると伊勢神宮に行ってしまうので、途中で海側に折れると、南朝の武将である結城宗広を祭神とした結城神社があった。駐車場の案内まである大きな神社なので、さぞかし参拝者で賑わっていると思いきや、境内にそれらしき人影はない。いかにもご近所さんという老人が散歩をしているくらいのものである。それでも大晦日の今宵は参拝者で賑わうだろうことは、境内に準備中の出店があることで想像がつく。
しだれ梅の名所ということだが時期が時期なので枝があるのみ。そんななか筋骨隆々とした厳しい狛犬が目を引く。日本一の狛犬の文字も誇らしげな説明板によると、高さ1.4mもある鋳銅製で、長崎平和祈念像で知られる北村西望の作であった。
賽銭を投げて10分ほど歩くと宅地が途切れ、まばらな松林を抜けると、遮るもののない砂浜に出た。どこからどこまでを指して阿漕浦というのか知らないけど、ひと続きになった砂浜部分だけでおよそ3kmほどあり、全体的に緩やかに弧を描いている。地図によるとそのほぼ中央部にいるらしい。
砂が靴に入らないよう慎重に下っていく。開けているのに風はほとんどなく静かに波が寄せている。全体的に雲が広がっているため、対岸にあるだろう知多半島などは見えず、海と空の境界線すらはっきりしない。なんだか霧の広がる湖のようだった。
そろそろ駅に戻ろうかと考えていると、どこからともなく水中眼鏡を手にしたおじさんが現れて、波打ち際を歩きはじめた。泳ぎに来たとも思えないので何か捕るのだろうけど、この寒いなか物好きなことである。後ろ姿を眺めていると、時代が時代なら密猟者として捕らえられ海に沈められていたやもしれないな、などと故事のことが頭をよぎった。
岩田池
冬の日暮れは早いもので、まだ16時半だというのに駅には照明が灯りはじめた。そろそろ宿に向かいたいけど困ったことに16時台の列車がない。利用者の多い夕方で県庁所在地の隣駅とくれば、待つほどもなく乗れると思ったのだが、予想外の待ちぼうけである。
まもなく日没時刻の16時53分を迎えようとしている。ふと思い立って近くにある岩田池という大きな池に急ぐ。曇り空だし普段であればこんな行動には出ないが、今年最後の日の入りなので可能であれば見送りたいと思う。運が良ければ雲のすき間から沈みゆく太陽が顔を出すかもしれないし、橙色に輝く水面を眺めることができるかもしれない。
家路を急ぐといった様子の車列を横目に数分ばかり歩くと池があった。幅は約150m、奥行きは400mほどある。水面はべったりと静まりかえり、鳥や魚の気配はなく、鈍色をした空の色を映している。なんだか静止画でも見ているように動きがない。畔には2体の地蔵尊が安置されていて中年男性がひとり手を合わせていた。
方角的に池の対岸に太陽があるはずなのだが、思いのほか雲は厚いらしく赤みすら全く感じられない。そしていよいよ日没時刻を迎えるも何の変化もなし。ただ刻々と暗くなっていく池の景色があるのみだった。
エピローグ
駅は17時になったばかりとは思えないほど暗く沈んで夜を思わせる。気温は下がり吹き抜ける風に身ぶるいがする。ひとりホームに佇んでいると淋しいものが去来する。大晦日にこんな所でなにをしているのだろうと思う。
ほどなく現れた17時8分発の亀山行きに乗車。明るく暖かな車内になんともいえない安堵感を覚える。先客は10人ほどと空いていた。すぐにやってきた車掌から亀山までの乗車券を購入すると、あとはもうやることはなく、今日の仕事は終わったとばかり、ぼんやりと列車の揺れに身を任せて過ごした。
(2017年12月31日)
コメント