目次
プロローグ
山地をゆくローカル線というといくつも思い浮かぶ。山深い豪雪地をゆく只見線、JR最高所の路線である小海線、三段スイッチバックの木次線、阿蘇の外輪山を越える豊肥本線、挙げはじめたらきりがない。
なかでも私が好んでいるのが大糸線である。上高地・乗鞍高原・美ヶ原といった山岳観光地の玄関口となっている松本を皮切りに、北アルプスの山並みを仰ぎながら安曇野の田園地帯を走り、信濃大町を過ぎると湖沼やスキー場の散らばる山懐を抜け、最後は急峻な姫川の峡谷を縫いながら日本海を目前にした糸魚川に至る、全長105.4kmの路線だ。険しい峠越えはないけれど、どこを切り取っても魅力的な山の景色がある。
夏には北アルプスを目指す岳人、冬にはスキー客、乗客の顔ぶれもまた山との縁が深い。山を征するのではなく山と共にあるという姿がとても好ましい。
どこからきたのか不思議な路線名は、大町と糸魚川の頭文字からつけられたものである。松本と糸魚川を結んでいるのに松糸線でないのは建設の経緯による。松本から信濃大町までの区間は大正時代に信濃鉄道が完成させ、それを延伸する形で国鉄が信濃大町と糸魚川を結ぶ路線を着工したので、その時点では確かに大糸線だったのだ。のちに信濃鉄道が国有化されて松本が起点となり、昭和半ばには松本から糸魚川までが全通したが、路線名はそのまま引き継がれたためこのようなことになっている。
2023年4月2日、この松糸線ならぬ大糸線の旅をはじめるため、午前7時を前に松本市内の宿を出発した。日差しはあるけど冷たい風に身ぶるいがする。ここのところ初夏のような日がつづいていたので夏でも通用するような薄着できたのだが、それをあざ笑うかのような冷えこみだ。荷物を減らすためジャケットの1枚すら持ってこなかったことを軽く悔やみながら、足早に大糸線の起点となる松本駅に向かった。
松本
- 所在地 長野県松本市深志
- 開業 1902年(明治35年)6月15日
- ホーム 4面8線
北アルプスや美ヶ原といった山々に囲まれた松本盆地にあり、江戸時代より松本藩の城下町や街道の要衝として栄え、いまでは県下第二位となる約23万の人口を擁する松本市、当駅はその代表駅である。東京・名古屋・長野方面に向かう特急列車が行き交い、大糸線やアルピコ交通の上高地線が接続、車両基地が置かれるなど地域の中心的な駅となっている。
眩しい朝日のそそぐ広く開放的な駅前広場に立つ。信州らしい冷たく澄んだ空気と相まって清々しい。槍ヶ岳を開山した播隆上人の銅像が北アルプスの玄関口らしさを演出している。
駅舎は新しく近代的な橋上駅舎だけど、出入口には駅名を浮き彫りにした風格ある木製表札が掲げられていた。1977年(昭和52年)に取り壊された旧駅舎に取りつけられていたものだという。見まわせば新しいものばかりの駅にあって、この表札だけが開業から120年余りという深い歴史を持つ駅であることを主張している。
お城口と名付けられた東口からエスカレーターで橋上駅舎に上がると、東西を結ぶ自由通路になっていた。左手にみどりの窓口・券売機・改札口などが並び、右手には観光都市らしく大きな観光案内所があった。いかにも地元住民や観光客という人たちに混じり、巨大なリュックを背負った登山者の姿を目にするところが、この駅の立地をよく表している。
それらを左右に眺めながらアルプス口と名付けられた駅裏の西口まで進んでいくと、名前通り残雪に彩られた常念岳や乗鞍岳の連なる山並みが現れた。黄砂なのか花粉なのか全体的に霞んでいてくっきりしないのが残念だった。
まだ列車には乗らないけど入場して7番のりばまで用意されたホームを見て歩く。0〜5番は主に篠ノ井線を行き交う列車が利用していて、鈍行から吐き出されてくる通勤通学客や、特急を待つ旅行者やビジネス客で活気がある。列車は中央本線に直通するものが多く、甲府・東京・中津川・名古屋といった行き先が並び、中央本線の駅にいるように錯覚させる。印象的なのが列車到着時に流れる「まつもとぉー、まつもとぉー」と語尾を伸ばした案内放送で、最近あまり耳にしなくなったこの抑揚がなんとも懐かしい。
ホームを歩いていると地方では目にすることの減った立ち食いそば屋に出会う。これは朝食にちょうどいいと思ったけど準備中だった。あとで昼食に利用したいと思う。
これから幾度もお世話になるであろう、大糸線列車の大半が発着する6番のりばにも足を伸ばす。篠ノ井線ホームは駅前側に仲良く3面が並んでいたけど、こちらはそれを遠くから眺めるような駅裏側に、ぽつんと1面だけ離れ小島のように置かれていた。同じホームを共用する7番のりばにはアルピコ交通の上高地線が発着していて、もともと私鉄だった大糸線ともども駅裏に遠慮がちに出入りしているように映る。
屋根を支える柱や梁には明治時代の西暦が記されたレールが再利用され、その下には廃業した立ち食いそば屋があり、そこはかとなく場末感が漂っているがこの雰囲気は悪くない。近代的で忙しく人々の往来する松本駅にあっては落ちつく空間であった。
ひと通りホームをめぐったところで町の散策に向かう。通りがけに改札脇に見つけたスタンプを押し、券売機で記念の入場券を購入しておく。こういった小物類は収集している訳ではないけど、目にすると手にしたくなるものである。
中町通り
松本は城下町というだけでなく、塩の道として知られる千国街道や、飛騨に通じる野麦街道、善光寺参詣者の行き交った北国西街道などが集まる、交通の要衝として栄えた町でもある。城下の街道沿いという繁華なところにあるのが中町通りで、大火に見舞われた経験から蔵造りの建物が多く並んでいるという。ここでは繁栄と大火という松本の歴史が作り上げたともいえる町並みを歩いてみることにした。
松本駅から中町通りまでは両者をかすめるように流れる女鳥羽川沿いに向かう。松本城の防備のため城下に引きこまれ、舟運にも活用されたという。いっぽうで大きな水害をもたらすなど松本の歴史とは切りはなせない河川といえる。川べりの桜並木はちょうど満開で見上げながらのんびり歩く。
やがて川辺の小路は、黒々とした木組みや白壁などで古めかしさを演出した小店がぎっしり並ぶ、なわて通りという商店街になった。カエルがシンボルらしく至るところで石像やイラストなどに化けたそれを目にする。いかにも観光客相手という風情だが、朝まだ早いせいか観光客はほとんどいない。店もほとんど閉まっている。
そんな通りに面して四柱神社の大鳥居が立ち上がっている。明治天皇の行在所として利用されたという格式高そうな神社である。境内深くに目をやると白装束をまとった人たちが掃き清めている最中で、ほうきの軽快な音がするたびに砂埃が舞い上がっていた。
道を折れて女鳥羽川を背に少しばかり進むと、目的の中町通りに出た。沿道には分厚い白壁やなまこ壁に黒瓦を載せた、重厚な蔵造りの商店がひしめき、白と黒からなる独特な景観をなしている。電線のない広い空からそそぐ朝日によって、白壁は眩しいほどに輝き、明るく清潔感にあふれた通りである。
歴史ある外装とは裏腹に内装は現代的に改装されていて、立ち入るのに財布の中身が気になる瀟洒な店もある。もともとは造り酒屋に呉服・塩・海産物などの問屋が並ぶ商人の町だったようだが、いまは食べ物や伝統工芸品などを扱う店が集まり観光客の町という感じがする。実際往来する人でもっとも目立つのは観光客で、到着時はそれほどでもなかったけど時が進むごとに湧き出してきて、そこかしこをそぞろ歩くようになった。
通りのなかほどに「松本市はかり資料館」なるものがあり見学していく。なまこ壁の蔵造りではあるけど新築かと見紛うほどの光沢に、資料館を通りに溶けこむ姿で建てたのだなと思ったけど、1889年(明治22年)に建てられたものだという。もともとは竹内度量衡店だったところで、閉店時に資料ともども松本市が譲り受けたとのことである。
白壁の輝く外観とは対照的に、くすんだ柱と梁のめぐらされた薄暗い室内には「測る・量る・計る」ための種々のはかりが所狭しと並べられていた。我が家でも目にしたことのある簡単な物差しや升から、こんな道具があったのかと思うような珍品や複雑なものまである。
通りからは存在すら気づかなかった中庭に出ると、蚕糸業に関連したはかりを展示する土蔵と、古雅な茶室や洋室を備えた蔵座敷があった。想像以上に楽しめる資料館でこれはいいところにきたなと思う。
資料館をあとに通りを進んでいくと、杉玉を吊るしていかにも造り酒屋という佇まいをした、ひときわ豪壮な土蔵造りの建物があった。表には手押しポンプの井戸があり、汲み上げる人の姿がどこか懐かしい。風情ある光景に近づいてみると説明板があり、隣町にあった大禮酒造の母屋・土蔵・離れの3棟を移築したもので、明治から大正時代にかけてのものだという。いまは「中町・蔵シック館」として多目的に利用されているようだ。
母屋は無料公開されていたので敷居をまたぐと、そこで生活できそうなほど広い土間になっていて、吹き抜けの頭上には大小の梁が美しく組み上げられていた。靴を脱いで座敷などもひと通り見学してみたけど、この吹き抜けにめぐらされた太く黒ずんだ梁が、なんといっても見応えがあって印象に残る。
中町通りを抜け出したら駅に向かうことにするが、その途中で「松本市時計博物館」に寄り道をする。4階まである外壁にすっぽり収められた、日本最大級という巨大な振り子時計が特徴的な建物で、時計のなかに時計を収蔵しているような姿が好ましい。
受付を経てまず目をひかれたのが、江戸時代に制作された和時計の数々で、造形から仕組みまでが実に興味深い。おもりを吊るして使用する尺時計、印籠型の懐中和時計、携帯用の日時計など、眺めていると遅々として先に進まない。
和時計の展示室から出たところには、人の背丈もあるような縦長の大型時計、いわゆるホールクロックがいくつも並べられていた。からくり時計や精緻な置き時計なども豊富にあり大人から子どもまで夢中で眺めている。素晴らしいのがそれらほとんどの時計が稼働しているということで、静けさのなかでカチコチ時を刻む音が耳に心地いい。やがて11時になると時を告げる音色が響きわたった。
時計だけでなく蓄音機やレコードも収蔵されていて、それを利用したミニコンサートがあったので拝聴していく。眺めるだけかと思いきや目より耳が癒やされる博物館であった。
まもなく昼になるので松本駅ホームで目にした立ち食いそば屋に向かう。道中よさげな定食屋もあったけどぐっとこらえて足を進める。鉄道の旅であり信州の旅とあっては、駅とそばの組み合わせを見逃すわけにはいかない。
改札を抜けてたどりつくと12時前だからか空いていた。天ぷらそばにしようかと思ったけど、山国らしいものがいいなと思いなおして山菜そばにした。出汁はやはりというか関東風で見た目ほどしょっぱくはなく甘みもある。味そのものは可もなく不可もなしのいわゆる立ち食いそばといったところ。途中で目にした定食屋のほうがいいものが食べられた気はするが、ホームで慌ただしくすする所作にはそれとは別の満足感がある。
腹が満たされたところで次の北松本駅に行こうと大糸線の時刻表を見ると、次は12時20分発の信濃大町行きでまだ30分近くある。30分では行くところもないので大糸線ホームに向かうと、早くも列車がいたのでこれ幸いと車内で待つことにした。
乗客は各車両に4〜5人が座っている程度と空いていたが、ひとりまたひとりと少しずつ増えていく。日曜日とあって家族連れもいる。なかには大型リュックを背負った登山者もいた。
各車両の乗客が20人くらいまで増えたところで列車は動きはじめた。単線だけど右手に同じく単線の篠ノ井線が並走しているので複線のように錯覚させる。隣りの北松本駅までは大糸線でもっとも短い区間で、発車まで30分近くも待ったけど約2分で到着した。
北松本
- 所在地 長野県松本市白板
- 開業 1915年(大正4年)1月6日
- ホーム 1面2線
大糸線の歴史はその前身である信濃鉄道が、1915年(大正4年)に当駅から豊科までを開業させたことにはじまっている。ここはまさに大糸線発祥の地ともいえるところだ。信濃鉄道時代には本社事務所が置かれ、国有化後も長年にわたり大糸線の車両がたむろする車両基地を併設するなど、路線の中枢ともいえる重要な駅であった。そのような設備がすべて失われたいまでは、市街地のなかにある平凡な途中駅という風情になっている。
松本駅から歩いて10分ほどのところだけに、降りるのは私くらいかと思いきや、意外なことに十数人が一緒に降りた。ホームには松本行きを待つ人たちもいた。
それなりに需要はあるようだけど隣接する篠ノ井線にホームはなく、特急から普通列車までが軽快に走り抜けていく。信濃鉄道にとっての欠かせない駅も、松本駅からわずか0.7kmという立地では、長距離輸送の国鉄としては眼中になかったのであろう。
この駅を利用するのは初めてだけど、子どものころ父親の運転する車で訪れたことを覚えている。押し合う家屋と行き交う車で煩雑とする通りに面して古めかしい木造駅舎があり、全体的に昭和半ばを思わせるようなところだったと記憶している。それがいまでは現代的な橋上駅舎が頭上にあり、面影すらないほどの変わりようだ。
階段を上がって小さな改札口を抜けると駅の東西を結ぶ自由通路に出た。窓口と券売機が用意されていて一応は有人駅だったけど、構内の見まわりのため留守という掲示が出ていて誰もいない。窓口の上部には先代の木造駅舎から引っ剥がしてきたと思われる、北松本駅と達筆な文字で記された木製の表札が掲げられていた。
出入口は東西にあってどちらが表ということもなさそうなので、まずは開業時から長く駅舎の置かれていた西口に出てみた。駅舎は瓦屋根になまこ壁という蔵を思わせる姿をしている。
正面から片側2車線の大通りが向かってきているが、駅を目前にして地下に潜りはじめ、駅舎の足もとに消えている。よくこれだけの道路を駅の下に通したものだと思う。記憶にある狭い駅前通りはこの道路建設に飲みこまれたのか跡形もない。現代的なものばかりの景色だけど、見まわせば片隅に食堂と商店があり、その一角だけが懐かしい香りを漂わせていた。
次は東口を見てみることにして再び橋上駅舎に上がり、自由通路を東に向かっていると、途中にある窓口が営業していたので入場券を購入しておく。
東口を出ると西口で地下に潜っていた大通りが上がってきていて、そのまま真っすぐ市街地のなかに消えている。こちらもこの道路建設で相当手が入ったのか、新しそうな住宅やアパートが目立つ。気になる駅舎は西口と双子のようにそっくりな顔をしていた。
松本城
見どころを豊富に取り揃えた松本市のなかでも、特に有名であり人気なのは松本城ではないだろうか。江戸時代からいまに残る現存12天守のひとつで、犬山城・彦根城・姫路城・松江城と並び国宝に指定されるほどの存在。目的地としては月並みだが、松本にきて松本城を訪ねないという手はないだろう。
鉄道利用で向かうなら松本駅から歩くかバスに乗るのが一般的で、観光案内の類にもそのように記されている。ところが距離的には松本駅からの約1kmに対して、北松本駅からは約0.6kmと少しだけ近い。最寄り駅から歩きたいという妙なこだわりから、私はあえて一般的ではない北松本駅から訪ねることにした。
お城口という愛称のつけられた東口を出発して、道ばたの双体道祖神に足を止めたり、外国人観光客とすれちがったりしながら、10分ほどで松本城公園に到着した。朝は身ぶるいするほど寒かったけど上がりつづける気温に汗がにじむ。
園内は桜が満開かつ好天の休日とあって人の頭を眺めにきたような状態で、観光名所は休日にくるものじゃないなと思いながら内堀のほとりまでくると、対岸の石垣上に壮麗なる5層6階の天守が構えていて、その美しい佇まいに辟易とした気分など吹き飛んでしまった。
観光用に建てたかと思えるような、見応えのある規模にして均整のとれた容姿は、四百年余りも昔の仕事とは思えないほど秀美なものだ。それでいて黒々とした壁面には、銃弾や矢を放つ狭間が並べられ、石落まで備えているなど戦うための装いをしており、単なる飾り物とはちがうのだという威圧感も漂わせている。美と強さを兼ね備えた見事な天守である。
立ち止まっては天守を眺めながら内堀に浮かぶ本丸を目指す。天守や本丸御殿などが集まる城の中枢部である。御殿のほうは江戸時代の火災で失われているが、天守内部の見学ができるとあっては行かねばなるまい。
そうして本丸出入口までくると、天守の入場は40分待ちで見学所要時間は50分の看板が出ていて少しひるむ。時刻は13時をまわったばかりで余裕の気持ちでいたけど、本丸の散策時間も入れたら楽に15時を過ぎてしまいそうだ。次の島内駅まで行くつもりでいたけど、これは厳しいかもしれないと思う。
なるようになるさと内堀を渡って入場料を支払い、枡形と櫓門をくぐり抜けると、広大な芝生広場と化した本丸御殿跡に出た。片隅には売店や休憩所があり、満開を迎えた桜が全体を取り巻いている。観光客は多いけど広いのでゆったりとしていた。
天守に向けて100mほどの入場待ち行列ができている。外国人が目立ちコロナ禍になる以前の日常が戻ってきた感じがする。まずは本丸の散策をと考えていたけど、じわじわ列が伸びていくのを見て、1時間待ちになってはかなわないと早々と列に加わった。
まとまった人数ごとに入場させているようで、進みはじめたかと思うとまるで動かなくなるということを繰り返す。気温は高く日差しをさえぎるものもないため汗ばんでくる。暇を持て余した子どもたちは、敷き詰められた砂利で砂場遊びのようなことをしている。
30分ほどで玄関までたどりついたら、脱いだ靴をビニール袋で提げ、各階で火縄銃や甲冑などを見学しながら転げ落ちそうな急階段を上っていく。時を重ねた床や柱は黒光りしていて重々しい。鉋ではなく手斧で整えられた表面には独特の紋様があり、それが窓から差しこむ斜光で浮かび上がり、得も言われぬ美しさであった。
順番待ちをしながら狭い階段を上り6階の最上階までやってきた。外に出てぐるりと周回できる廻縁のようなものはなく、小さな窓がいくつかあるだけの薄暗い小部屋である。見上げれば太い梁がめぐらされ、城の守り神という二十六夜神の小祠が祀られていた。
建物で埋め尽くされた松本市街地、足もとに伸びる天守入場待ちの列、水をたたえた堀に架けられた赤い埋橋、四方に開けられた小窓を順繰りめぐりながら下界を覗きみる。雪をいただく常念岳を中心とした北アルプスの山並みを期待していたけど、遠景は白くもやけていて輪郭が浮かぶ程度のものだった。
ゆっくり眺めたいけど後ろから行列が押してくるため、好むと好まざるとにかかわらず回転寿司のごとく進んでしまい、気がつけば階段を下りていた。隣りの見知らぬおばさんと、あんなに並んでこれだものねと笑いあった。
ひと通りの見学を終えると時刻は16時になろうとしていた。次の島内駅まで行くつもりでいたけど時間切れだ。松本の資料館や博物館で思いのほか時間を食ったのもあるが、なんといっても天守の入場待ち時間が痛い。休日の著名観光地は混雑や順番待ちとの戦いだ。
次の列車は16時48分で少し時間があるので、早めの夕食にしようと西口にあった食堂に直行するが、日曜休業の札が掲げられていた。ほかに適当な店は見当たらないし、探すほどの時間もないので、おとなしくホームのベンチに座った。
到着時に誰もいなかったホームは、待つうちにひとりふたりと増え、賑わいが出はじめたころに列車がやってきた。3両も連ねていたけど座るところもないほど混んでいた。
大糸線の旅の1日目はドア脇に立ったまま揺られて終える。1日かけての乗車距離は1.4kmで、乗車時間にすると約4分であった。
(2023年4月2日)
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