山陰本線 全線全駅完乗の旅 10日目(福知山〜上夜久野)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年9月6日、木曜日、早朝5時半に宿を出て福知山駅に向かう。薄明るい街路に人や車はまばらで小鳥だけが賑わしい。涼やかさのある空気が漂い、淡く橙色を混ぜた青空が広がり、清々しい朝の気配に満ちていた。

近畿地方に甚大な被害をもたらした台風21号が去り、台風一過ともいえる好天だが、明日からは雨模様がつづくという。およそ半年ぶりとなる山陰本線の旅は、このわずかな晴れ間の存在に気づいたのと、いまを逃すと次は年末まで時間が取れそうにないことから、取り急ぎ福知山に投宿したことにはじまる。

福知山駅。
福知山駅

閑散とした改札口を通り抜け、高架ホームへの階段を上がり、6時7分発の城崎温泉行きに乗車した。回送列車かと思うほど空いていて、私が収まった先頭車両などは、発車間際にようやく学生がひとり現れただけだった。

普通列車の城崎温泉行き 423M。
普通 城崎温泉行き 423M

朝日を浴びながら福知山駅を抜け出した列車は、ほどなく霧に包まれはじめ、窓外はベールをかけたように白くぼんやりした世界に変わりはじめた。福知山は霧が発生しやすいと聞いたことがあるが、それを目にしたのはこれがはじめてだ。

京都から桂川を上ること約50kmで分水界を越え、そこから由良川を下ること約40kmという地点まできたが、ここからは兵庫との府県境をなす峠を目指して、由良川支流の細い谷をさかのぼっていく。大部分が日本海沿いを走る山陰本線において数少ない山越え区間だ。

上川口かみかわぐち

  • 所在地 京都府福知山市字下小田
  • 開業 1911年(明治44年)10月25日
  • ホーム 2面3線
路線図(上川口)。
上川口駅舎。
上川口駅舎

本流の由良川が流れる福知山盆地から、支流の牧川が流れる谷に入り込んですぐのところ、昭和半ばに福知山市に編入されるまで上川口村とよばれた、山間に小集落や田畑の点在する土地である。のどかであるが江戸時代には山陰街道が通り、いまも山陰本線や一桁国道が通るなど、交通の動脈を担ってきた土地でもある。

朝早くに訪れる人などなさそうという印象通り降りたのは私だけであった。霧を含んだ涼しい風がふんわり通り抜け、線路沿いの草むらでは虫がささやき、駅裏の樹林では鳥がさえずっている。高原の朝を思わせる爽やかな雰囲気であった。

石積みで作られた広いホームには、大柄な木造待合室が載せてあり、花壇の名残りらしき荒れた丸い石囲いが並ぶ。それら活気ある時代を偲ばせるような品々を眺めていると、福知山方面の始発列車がやってきて、5〜6人の通勤通学客を乗せていった。

上川口駅ホーム。
上川口駅ホーム

駅舎は古めかしい木造を期待させるけど、建て替えられて久しいらしく、古くも新しくもない長方形の箱を思わせる簡素な建物であった。駅員はもちろんのこと券売機もないので、待合室とトイレを提供するための存在となっている。

ホームのそれより小さな待合室をのぞくと、左右で向かい合うようにベンチが置かれ、奥には自由に利用できる図書や傘などが並べられていた。無人駅ではあるけど清掃が行き届いていることもあり、そこはかとなく暖かみを感じさせる駅であった。

野笹すいれん池のざさすいれんいけ

駅前には十数軒ほどの民家が固まっていて、その周りを黄金色をした田んぼが埋め、そのまた向こうを鮭が遡上してくるという牧川が流れている。橋の上から滔々と流れる水面を眺めていると、川上からいい風が吹き下ろしてきて気持ちいい。左岸には国道が沿っていて通勤の車が列をなし、右岸には線路が敷かれていて豊岡行きが走り去っていった。

この牧川の上流2kmほどのところに、川沿いから中腹へと連なる田んぼがあり、その最上部に幅100mにも満たない小さな池がある。地図上では単なる灌漑用のため池でしかないが、夏にはすいれんで彩られる知る人ぞ知る池である。時期的にもう散ってそうだけど、9月になったばかりだし多少は、という期待を込めて向かってみることにした。

駅前に広がる田んぼ。
駅前に広がる田んぼ

距離的には川沿いの国道をいくのが最短だが、車列を目にしてそんな気は失せ、遠回りになるけど集落や山中を縫う小路からゆく。ここにきて急速に霧が散りはじめ、ぼんやりしていた視界はくっきり、隠れていた山々や青空が顔をちらつかせはじめた。

駅近くの六十内むそち集落を抜けて薄暗い樹林のなかをひたひた進む。軽トラに追い抜かれ犬に吠えられたほか出会うもののない静かな道である。

上がって下って樹林を抜けると十三丘とみおか集落があり、そこにあった三柱神社に参拝、再び歩きはじめるころには霧はすっかり晴れていた。同時に涼やかさも消えてしまい、照りつける日差しとアスファルトからの照り返しで汗がにじむ。

霧が晴れはじめた。
霧が晴れはじめた

ようやく見えてきた池をせき止める堤に上がり、どのくらい咲き残っているかと水面を見下ろしたところで唖然としてしまった。そこには代掻き直後の田んぼを思わせる茶色い池があるだけで、花どころかスイレン自体がどこにあるやらという状況なのである。濁りは台風の大雨のせいかもしれないがスイレンはどうしたのだろうか。案内板に記された花の見頃は5月初旬から9月上旬という文字がなんともむなしい。

泥水を眺めていても仕方がないので池の周囲にめぐらされた散策路を、朝飯用にと持ってきたパンを頬張りながらひと回りする。サクラがたくさん植えてあるけど花には遅いし紅葉には早い。半端な時期に訪れてしまった感があるけど、木陰の涼しい風と虫の音は、東屋で昼寝したくなるような心地よさがあった。

野笹すいれん池。
野笹すいれん池

池畔をぶらぶらしていると石仏があり、さらにそれがいくつも並べられた小路もあった。観察するとひとつひとつが番号の刻まれた観音像と、弘法大師らしき座像の組み合わせになっていて、四国八十八ヶ所を模したものだと察せられた。

八十四番には屋島寺の千手観音が彫られている、八十五番には八栗寺の聖観音が彫られている、かつて訪ねたことのある寺院の本尊がいくつもあり親しみが湧いてくる。

どこから並べられているのか、いつ誰がどんな経緯で整備したのか、気にはなるけど案内板の類は見当たらない。どこかにある一番までたどっていけば、なにかあるかもしれないけど、そこまでする熱量は持ち合わせていなかった。

池のまわりに点在する石仏。
点在する石仏

帰りは国道からにしてみようかなと思ったけど、排気ガスを浴びながら歩く姿を想像してしまうと、自ずと往路の道に足が向かう。日差しに誘われてかセミの声がひびき、小さな畜産場からはけだるそうな牛の声、黄金色の田んぼではコンバインが走りまわっている。また犬に吠えられたことを除けばいい道のりだ。

誰もいない駅舎を通り抜け、誰もいない跨線橋を渡り、誰もいない下りホームに立って列車を待つ。ついさっきまで眩しいような青空が広がっていたのに、気がつけば空全体に薄雲が広がり、青空はところどころの雲間にしか見られなくなっていた。

待つこと30分ほどで10時19分発の城崎温泉行きがやってきた。乗降客は私だけだったけど、車内は立ち客も出るほどの混みようで、乗り込んだドア脇に立っていく。人のことはいえないけど平日のこんな時間に山間をゆく鈍行でどこにいくのかと思う。

普通列車の城崎温泉行き 429M。
普通 城崎温泉行き 429M

列車は牧川の流れをなぞるように上流を目指す。川沿いには田んぼが作られ、山すそには家屋が点在している。明治時代に建設された線路だけに、手間と金のかかる鉄橋やトンネルを避けたのだろう、地形なりにぐねぐねと進んでいく。

下夜久野しもやくの

  • 所在地 京都府福知山市夜久野町額田
  • 開業 1911年(明治44年)10月25日
  • ホーム 1面2線
路線図(下夜久野)。
下夜久野駅舎。
下夜久野駅舎

西日本屈指の漆産地として知られた山並みの広がるなか、わずかに開けた牧川沿いの土地に、ぎゅっと押し込めたような小さな町である。平成の大合併で福知山市に編入されるまで夜久野町の中心地だったところで、町内には鉄道と国道のほか歴史ある山陰街道が通り、往時は旅籠や商家が軒を連ねて栄えたという。

生活利用者らしきおばさんと降り立った。前後を見やるけど乗る人はいない。薄暗さに見上げると急速に厚い雲が広がっている。おかげで日差しがなくて暑くはないけど、じめじめした嫌な空気が漂っていて、降らなければいいがと思う。

幅広の長いホームは駅舎のごとく大きな待合室を載せ、貨物輸送の名残りらしき広い敷地や、鉄骨2階建ての立派な駅舎を引き連れている。せせらぎの聞こえる山間の小駅ではあるが、近年まで夜久野町の玄関口だったという威厳のようなものを感じた。

下夜久野駅ホーム。
下夜久野駅ホーム

跨線橋を上がっていくと券売機があり、なぜこんな通路上にと不審に思うが、跨線橋を下ったところで理由が分かった。改札口も待合室もないまま駅前に出てしまったのだ。立派な駅舎だと思っていたそれは大部分が中古車販売店になっていて、駅としての機能は跨線橋に上がるための階段があるという程度でしかない。外見は駅員がいても不思議ではないという作りでありながら、内部は駅員などいるわけがないという作りをしていた。

駅にはナンバーのない車が並び、部品やタイヤが積み上げられ、駅前を横切る国道では行き交う大型車がうなりを上げている。お世辞にも居心地がいいとはいえない駅である。

時の町ときのまち

北極と南極を縦に結んだ線である子午線を、太陽が通過するとき正午を迎える。とはいえ単純にこれで時刻を求めると、東京と大阪で約20分、札幌と那覇では約1時間もの時差が生じてしまう。現実にそうならないのは日本全体で、東経135度の子午線を基準にした時刻が用いられていからで、いわゆる日本標準時である。

東経135度の子午線がどこにあるのかといえば、兵庫県明石市が「子午線のまち」として有名だ。しかし子午線は点ではなく線なので、該当する自治体はほかにも多数ある。ここ旧夜久野町もそのひとつで「時の町」を称し、目には見えない子午線位置を示す子午線標柱が立てられ、町のシンボルになっていたという。

それは駅とは国道を挟んだ斜向かい、旧夜久野町役場前にあり、さっそく見学に向かいたいが残念なことに数年前撤去されたとのこと。とはいえ駅前のバス停に標柱の軌跡を記した案内板があり、バス停ポールも標柱を模した形であるなど、微かにその痕跡は残されていた。

子午線標柱の名残り。
子午線標柱の名残り

現地も歩いてみたけど旧役場も標柱も食料品や日用品を扱う商業施設になっていて、文字通り影も形もなく消え去っていた。これがないと町内で買い物もままならないという施設で、誘致する土地を用意するためやむなく撤去したそうだが、町もそのシンボルも消えてしまったというのは淋しいものがある。

大歳神社おおとしじんじゃ

駅の間近かつ実体のない子午線標柱を訪ねただけでは物足りないので、いくつか候補として考えていたなかから、大歳神社のイチョウまで足を運んでみることにした。詳しいことは知らないけど、京都の自然200選にあるイチョウなので一見の価値はあるだろう。約2kmの道のりというのも往復1時間ほどでちょうどいい。

往来の激しい国道は避けて、宿場町だったという町中をぐねぐねと伸びる、古くは山陰街道と呼ばれた細道から向かう。いまや往来のほとんどない静かな道である。

沿道には家屋が軒を連ねている。商店街として栄えていた時代もあるらしく、看板を下ろしたものや、看板はあるけど営業しているのか怪しい店がいくつもある。茅葺き屋根や連子格子をみせる民家に、旅籠の名残りか旅館らしきものもある。活気はないけど活気があったという匂いだけはそこかしこに漂っている。

下夜久野の家並み。
下夜久野の家並み

小さな町はすぐに抜け出てしまい、田んぼと木立の丘陵を越え、駅とは隣りの谷にある中千原という集落まできた。細々した流れに田畑や家屋が寄り添い、国道のような騒々しいものはなく、穏やかな山村を思わせるところである。

バス停があったので時刻表に目をやると、下夜久野駅前行きというのが数本あり、帰りはこれもいいなと瞬間よぎったけど、よくよく見ると次は2時間後であった。

集落の外れ辺りまでくると道路脇に胸ほどの高さの石積みがあり、その上が大歳神社の境内になっていた。隣りは千原小学校跡地の碑が建てられた広場になっていて、定年後の暇つぶしとでもいった様子で、掃き掃除をするおじさんや、立ち話に興じるおばさんの姿がある。

大正十一年と刻まれた鳥居をくぐり、苔むす狛犬を横目に奥に進むと、こじんまりした社殿があり、それを見下ろすように件のイチョウが立っていた。

大歳神社。
大歳神社

賽銭を投げたらイチョウと向き合う。案内板の類はないので樹齢など詳しいことは分からないが、幹周りは4〜5mくらいに思えた。

これだけならよくある大きな木で終わるのだが、視線を落とすと幹から3〜4mくらいの広範囲に、苔をまとった無数の根が、まるで編み物のように複雑に絡み合いながら、ごぼごぼと盛り上がっていて、美しいとも奇怪ともとれる造形をしていた。なんとなく踏みつけるのはためらわれて遠巻きに見つめる。

そこから視線を上げていくと、太い幹から洞窟の鍾乳石を思わせるものが幾本も垂れ下がっていて目を引く。気根や乳などとよばれる幹から空気中に伸びた根のようなものだ。上でも下でもこれでもかと根を伸ばしている風で、なんとも生命力にあふれたイチョウである。

大歳神社のイチョウ。
大歳神社のイチョウ

てくてく駅舎まで戻ってきたところに12時59分発の福知山行きが入線してきた。息を切らした爺さんや軽やかな若者が跨線橋を駆け抜けていく。つられて飛び乗りたくなるけど帰るにはまだ早いので、次の上夜久野に向かうことにして見送った。

乗車するのは13時28分発の城崎温泉行き。まだまだ先のことだと思っていると、特急列車の通過待ちのため、発車時刻の10分近くも前に入線してきた。

空席が散見される程よい乗車率で、適当なところに腰を下ろして発車を待つ。新人の訓練中なのだろう、運転席の周りには若い制服姿がぞろぞろと並んでいた。

普通列車の城崎温泉行き 435M。
普通 城崎温泉行き 435M

京都行きの特急きのさき16号が通過すると、すぐに列車は動きはじめ、朝からの付き合いとなる牧川をさかのぼっていく。川沿いには田んぼ、山すそには家屋、それを緑濃い山々が見下ろしている。上川口から10km以上さかのぼってきたけど景色はあまり変わらない。

変化が訪れたのは上夜久野に到着する間際で、牧川が北に進路を変えたため、西に向かいたい線路は否応なく牧川に別れを告げた。

上夜久野かみやくの

  • 所在地 京都府福知山市夜久野町平野
  • 開業 1911年(明治44年)10月25日
  • ホーム 1面2線
路線図(上夜久野)。
上夜久野駅の出入口。
上夜久野駅出入口

京都府と兵庫県の境をなす山上でありながら、なだらかで開けた土地が広がり、夜久野高原と称されるところである。地勢を生かした野菜や果実の栽培が盛んで、京都府唯一の火山という田倉山があるほか、古くはスキー場があった時代もあるなど、山陰本線では稀有な高地の気配を漂わせた駅である。

列車を降りると幅広の島式ホームと木造待合室、そして駅前に向けて伸びる鋼製の狭い跨線橋が目に留まった。駅名だけでなく造作や配置まで下夜久野によく似ているなと思う。まったく異なるのは近くに河川も国道もないことで、列車が去ると自然の静けさに包まれた。

駅のすぐ西側にはトンネルが口を開けている。府県境の峠を貫く夜久野トンネルである。福知山を出てから西へ西へ谷を詰めてきたけど、ここにきて行く手にも左右にも緑の斜面が立ち上がっていて、線路のやり場がなくて仕方なく穴を掘ったという眺めだ。

上夜久野駅ホーム。
上夜久野駅ホーム

跨線橋を上がって下りると、存在したであろう木造駅舎は跡形もなく、そのままがらんとした駅前広場に出てしまった。ここまではよくあることだけど意外だったのは券売機が置いてあることで、佇まいから想像するよりずっと利用者は多いのかもしれない。

駅舎はないけど付属品の木造便所は片隅にひっそり残されていた。取り付けられた財産標には昭和10年の文字があり、京都から目にしてきたなかでは最古の便所かもしれない。もっともこればかりは古いからといって嬉しいものではない。

玄武岩公園げんぶがんこうえん

駅のすぐ西側の府県境に標高350mの田倉山がちょこんと座っている。宝山という別名を持つ小型の火山である。なだらかな夜久野高原は30〜40万年もの昔に、この火山から流れ出した溶岩が谷を埋め、冷え固まったことで作り出されたものだ。いまでは山頂まで散策路が整備され、沿道には八十八体の石仏が安置されているという。

また南に2kmほどいった溶岩台地の果てる辺りには玄武岩公園があり、溶岩がゆっくり冷え固まったことで形成される、柱状節理を目にすることができるという。

原因の火山と結果の柱状節理、両方をめぐりたいけど日没まで4時間ほどしかなく、空模様も怪しいので、手軽にいってこれそうな玄武岩公園に狙いを定めた。

静かな駅前通り。
静かな駅前通り

民宿を思わせるこぎれいな家屋の並べられた駅前通りを抜け、緩やかに上がり下がりしながら耕された溶岩台地をゆく。観光客どころか住民にすらまったく出会わないけど、そこかしこで石仏にはよく出会い、それぞれには供えられたばかりを思わせる鮮やかな花があり、なんともいえない暖かな気持ちにさせる。

なんとなしに足もとのマンホールに目をやると、いまはなき子午線標柱が描かれていることに気がついた。下夜久野で標柱跡地を訪ねてきたばかりだけに知り合いを見つけた気分だ。夜久野町時代に設置されたらしく「時の町」の文字もある。

歩きはじめてから約40分、見えてきた玄武岩公園には、駐車場とトイレのほかバス停まで備えられていた。それでいて車はおろか人影すらなく静まりかえっていた。

子午線標柱が描かれた時の町のマンホール。
時の町のマンホール

公園内はさながら柱状節理で作られた庭園のようであった。地面には六角形の石を敷き詰めたかのように、柱状節理の断面が起伏を伴いながら広がり、正面奥には柱状節理が鉛筆を立て並べたかのような造形で立ち上がっている。窪地には錦鯉でも泳いでそうな池もある。そしてそれら全体を緑濃い草木が包み込んでいた。

溶岩がゆっくりと冷え固まりながら収縮してひび割れていき、柱状節理となることは理解できるが、流れるような溶岩でなぜ垂直の崖ができるのか不思議に思う。まさに自然の作り出した芸術作品だな、などと思っていると、案内板の片隅にここがかつて採石場であったという文言を見つけて納得。柱状節理があってこその景観だが、人間が削ってこのような形で露出していることを考えると、自然と人間が協力して作り上げた芸術作品ともいえそうだ。

玄武岩公園。
玄武岩公園

午前中からよく汗をかいてねちねちするので、駅近くにあった温泉で流していこうと建物までやってくると、臨時休業の無情な文字が掲げられていた。駐車場に車が見当たらないと思えばこういうことかと憮然としてしまう。当分休業ならまあ仕方がないかという感じだが、明日から営業再開とあるのがまた悔しい。

温泉の向かいには化石・郷土資料館なるものがあり、こちらは門戸を開いていたので、温泉の代わりにはならないけど見学していく。

館内には夜久野町のみならず日本各地で採取された、貝・植物・樹木といった化石が所狭しと並べられていた。田倉山の噴火で吐き出された火山弾もあり、同じ火山に起因する柱状節理を見てきたばかりだけに興味深い。近隣の遺跡から発掘された土器や漆器もある。郷土資料館というので古民具のようなものを想像したけど、地中の香りに満ちた資料館であった。

化石・郷土資料館の展示品(許可を得て撮影)。
化石・郷土資料館

もう日没までの短時間に楽しめそうなところは思い浮かばないので駅に向かう。あとは列車に乗り込めば山陰本線の京都府に属する全駅の完乗達成となる。といっても半年後には京都駅の隣りに梅小路京都西駅が開業するので、すぐまた未達成に戻されることは決定済みだ。

夕刻を知らせる赤とんぼの旋律が山間にこだますると、ホームにぽつりぽつりと爺さんや若者が集まりはじめ、ほどなく府県境のトンネルから列車が抜け出してきた。17時7分発の福知山行きである。

(2018年9月6日)

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