目次
プロローグ
2017年4月1日、早朝5時前に大阪市内のホテルを出るとまだ暗くて寒い。今しがたまで雨が降っていたらしく路面はしっとり湿っていた。始発列車に乗り込み徐々に白んでゆく空を眺めながら京都に到着したのは6時頃だった。
その足で山陰本線ホームに向かい福知山行きの列車を待っていたら、突然アラブ系の男性に声をかけられた。何語で話しているのか言ってる事がまるで分からないが、関西空港への切符を見せてきてどうやら乗り場を探している様子。何とか身振り手振りで案内したけど、言葉が通じないというのはもどかしい。
そんなことをしている間に山陰本線ホームには列ができていて慌てて並ぶ。休日なら空いていると思ったが甘かった。入線してきた列車を見るとなぜか福知山ではなく園部行きになっていて、おかしいと思いつつも乗り込んで腰を下ろし、しばらく考えていてハッとした、途中で切り離して先頭の2両だけが福知山行きになるのだ。急いで先頭車両に向かうと、思ったとおりこちらは福知山行きになっていた。
車内は窓側こそ全て埋まっていたが、通路側には辛うじて空席が残されていたので何とか座ることができた。この車両に乗り込んでいた人たちは福知山行きであることを理解して乗っていたようで、いつもならまとまった下車のある亀岡や園部付近でもほとんど動きはなく、最後まで窓側に移動することはできなかった。
京都を発車すると高架線で市街地を走り抜け、渓谷の美しい保津峡に、広々とした亀岡盆地と複線区間を軽快に進んでいく。園部で後ろを切り離すといよいよ山間の単線区間となり、レンガ積みの古めかしいトンネルをくぐり時々小さな川を渡る。進めば進むほどローカルな景色になっていくのが楽しい。そうして京都から1時間以上かけ、ようやく最初の下車駅となる鍼灸大学前がアナウンスされた。
鍼灸大学前
- 所在地 京都府南丹市日吉町保野田
- 開業 1996年(平成8年)3月16日
- ホーム 1面1線
その名の通り大学のキャンパスがすぐ目の前にあり、学生と思われる若者数名と一緒に降り立った。面白いことに校舎には明治国際医療大学と書いてあり、肝心の鍼灸大学がどこにも見当たらない。これは駅の開業後に大学名が変更された結果こうなってしまったという。ちなみに開業当時の大学名は明治鍼灸大学であった。
構内は単式ホームが1面あるだけという簡素な構造で、京都からこのかた列車の行き違いができない駅はこれが初めてだ。周辺は自然豊かで住宅がほとんど見当たらないことからも、大学利用者のためにとりあえず簡単なホームだけ設置しましたという感じがする。平成に入ってからの開業だけに設備は全体的に新しい。
ホーム出入口にある券売機の前を通り抜け、駅舎のような小さな建物に向かうと、中は待合室になっていてトイレも併設されていた。こうしている間にもパラパラと学生らしき人たちが集まってきて、まもなくやってきた園部行きの普通列車に乗っていった。小さな駅だが大学のおかげで利用者はそれなりにあるようだ。
駅前には僅かばかりの水が流れる小さな胡麻川が横切り、橋を挟んだ向こう側にはバス乗り場も併設された大きなロータリーがあった。山間に突如としてこのような設備が現れるのはどこか不思議な光景にも見えた。ロータリーの中央には開業の新しい当駅とはまるで縁のなさそうな、蒸気機関車の動輪がずらりと据えてあり存在感を放っていた。説明板によると山陰本線の開業100周年記念に寄贈されたものだという。
金刀比羅神社
ここで少し困るのがどこに行けば良いのかで、元々駅などなかった場所でしかもこの駅名なのだ、駅前には大学があるだけでこれといって何もない。周辺の見どころを探してみてもやはり何もない。だからといって大学をしげしげと眺めても仕方があるまい。考えれば考えるほど身動きの取れない場所なのである。
困ったときの神頼みという訳で近くにある神社に向かいつつ、何か面白いものを見つけたらそちらに立ち寄るということにして歩きはじめた。そんな感じであまり期待はしていなかったけれど、胡麻川沿いを少し進めば、年季の入った建物の散見される小さな集落があり、予想よりずっと趣のあるいい所だと思った。
そんな集落内の道端には忘れ去られたような道標が立ち、表面には「金刀比羅神社参道」と刻まれていた。他にも「昭和十三年」や「至神社約一粁半」といった文字も見られる。約一粁半というのは約1.5kmということだ。これはその金刀比羅神社とやらを訪れるしかないと思ったが、三叉路にあるためどちらに進めばいいのか全然分からない。かといって話を聞けそうな人影すらないのだから困った。
地図によると当初の目的地としていた神社の他にもう1つ神社があり、右往左往しつつそちらに向かっていく。その場所はかつて小学校でもあったのか、桜の木に囲まれるようにして佇むグラウンドになっていた。そして校舎でもあったのか一段高い場所に平場があり、その片隅に件の神社があった。
グラウンド脇の階段を上がり鳥居までやってきて扁額を見上げると、金刀比羅神社ではなく何と読むのか小雨若神社とある。社殿など全体的に建てられて数年程度しか経過していないような新しさだったが、その答えは境内の石碑に刻まれていて、日吉ダムの建設に伴い水没した天若地域にあった神社を遷座したものなのだという。日吉ダムは前回の旅で訪れたばかりだけに何か縁のようなものを感じた。堤体上から眺めたあの広い湖面のどこかに、かつての社地が沈んでいたのだ。
参拝をしてから階段を下っていると年にして90歳くらいと思われる老人とすれ違った。これはチャンスとばかり金刀比羅神社の場所を尋ねてると、元々ここに住んでいた訳ではないから分からないという。耳が遠くてあまり詳しい話は聞けなかったが、神社と共に移転してきた人なのかもしれない。
国土地理院の地図を見ても神社はここと、最初の目的地であった神社しかなく、駅に帰りがてらそちらに向かった。残念ながら金刀比羅神社ではなく岩上神社であったが、これが大きな杉の木や竹林に囲まれた薄暗い境内に、歩くのがためらわれるような苔が広がるとても雰囲気の良い所だった。木々から滴り落ちる雨音や野面積みの石垣など味わい深いものがある。古くから鎮座するこの土地の氏神様といった感じだ。
本殿は見上げるような高い位置にあり、その下に視線を移せば巨大な岩が転がっているのに驚かされる。名前通り岩の上にある神社なのだ。苔をいたわるようにそっと足を進めて本殿まで上がっていくと、大岩の上にはまるでタコが獲物を捉えるが如く、太い根を絡みつかせるように木が生えていた。こうなるように植えたのか、自然とこうなったのか分からないけど、木の持つ力強い生命力を感じさせる光景だった。
駅に戻ってくるとロータリーにはバスがやってきていた。この辺りだけ妙に都会的な姿をしているため、今しがた歩いてきた集落や神社とは別世界のようにも見える。発車していくバスを横目にホームに向かい待つことしばし、現れたのは4両編成で車掌乗務という列車だった。2両編成でワンマン運転の列車ばかり見かけるこの辺りでは珍しい。
4両にするくらいだから混雑しているかと思ったが、入線する列車の車内に目をやると空席が目立つ。手近なドアから乗車して窓の外を眺めていると、驚くほどに次から次へと降り立った乗客が通り過ぎていく。ざっと30人位は下車したのではないだろうか。4両もあるとこれだけ乗っていても車内は空いて見えるんだと変な所に感心した。
乗客の波が去ってもなかなか発車せず、普段から利用者が多いのか、この小さな駅にしては随分と長い停車時間が取られていた。
発車すると徐々に周囲は開けていき、狭い山間から開けた農村とでもいった景色に変わっていく。園部を出てからというもの進めば進むほど山深くなってきており、このまま進んだら人より獣の方が多くなるのではないかと思わせたが、ここに来て逆に開けてきた。
胡麻
- 所在地 京都府南丹市日吉町胡麻
- 開業 1910年(明治43年)8月25日
- ホーム 2面3線
山々に囲まれた土地ながらこの辺りは農地の広がる開けた所で、建物も密集するのではなくそこかしこに点在している。どこかゆったりとした印象を受けた。ここまで同じ旧日吉町でありながら、川沿いの狭い土地に身を寄せ合うような集落ばかり見てきたので、もうすぐ隣町になろうかというこの町外れに、このような土地があるのは少し意外でもある。
乗ってきた列車は追いかけてくる特急の通過待ちでしばらく停車する。その長い待ち時間の有効利用とでもいおうか、切符の拝見に周るという車内放送が流れていた。それを耳にしながら列車を降りると、最初に目にするのは幅広かつ先端の方はもう使われていない長いホーム、それに駅裏の大きな桜並木で、先ほどの鍼灸大学前とは違い長い歴史を感じさせる。
構内は園部以来となる3番線まである駅で、京都方面からやってきて当駅で折り返す列車も複数設定されているなど、この辺りではそこそこの規模を持った駅だ。そしてこの先の区間では一段と利用者が減少するということが察せられる。
跨線橋を渡り駅舎に向かうと意外にも無人駅だった。車内では切符の拝見をする割に下車する私の切符は拝見されることもなく、そしてこの広い構内に大きな駅舎も見えているので、有人駅だろうと思っていたのだ。
駅舎に入るとそのまま駅前に続く通路になっていて、その通路を挟んで片側には物産品の販売や軽食を摂ることのできる胡麻屋なる店舗が入り、もう片側には郵便局が入っていた。壁際には券売機やベンチが並び、通路であると同時に待合室も兼ねていることが分かる。建物は大きいけど駅として利用しているスペースは僅かで、何だか両者を区切る通路部分を間借りしているような、両者の間にあった隙間に屋根を乗せただけのような、そんな感じの肩身の狭そうな駅だった。
駅前に出ると胡麻屋の側では、軒下で地元のおばちゃんたちが手作りコロッケの販売をしていた。よく見るとパック詰めされたコロッケが発泡スチロールの箱に沢山収められていて、結構有名なのか車でやってきて購入していく人の姿も見られた。一方の郵便局側では改装工事をしたばかりなのか足場の解体作業が行われていた。
日吉神社
秋に行われる流鏑馬神事が有名という日吉神社に向かうことにした。今は春なのでどれほど有名であろうと関係はないけど、周辺では他にここに行ってみようと思う所がなかった。
歩き始めると駅周辺は街というより集落のような所なので、すぐに家並みは途絶え、まだまだ枯れ草の目立つ農村風景の中に出た。遮るものがないだけに強烈な北風に襲われたが、少々寒いのさえ我慢すれば追い風だけに足取りは軽い。
途中にはホーロー看板や、フジカラーの手書き看板が印象的な、酒・タバコ・新聞などを扱う趣のある商店があり、思わず足を止めてしまった。軒下には「家宝
説明によると樹齢は164年で幹周りは175cmとある。驚くような太さではないけど、すっくと伸びる背の高い木だから、見上げて感嘆とするような木だったのだろうと想像する。立ち枯れたとかいうのではなく、道路の遮蔽と屋根の損傷のため伐採とあり、両者に挟まれた窮屈な所に植えられたのが災いしたようで残念なことである。
目的の日吉神社は商店の目と鼻の先にあり駅から20分程度で到着した。農地や住宅の広がる平野の中で、太い杉の木に囲まれるようにしてある神社だった。
日吉神社と書かれた木製で手の込んだ扁額の掲げられた鳥居には、風化していて読みづらいが江戸時代中期の「正徳六年」と刻まれているように見えた。鳥居の向こうには直線上に、古くは茅葺きだったような特徴的な形の屋根をした拝殿があり、その背後の一段高い所で白壁に瓦屋根の立派な瑞垣に囲まれるようにして、本殿や摂社などの社が建ち並んでいた。
人気のない境内に立ち入れば、強い風にざわざわ揺れる木々の音が心地よい。付近には苔に覆われた大きな切り株なども見られ、昔はもっと沢山の巨木に囲まれた神社だったのだろう。音はするけど風は木々や垣が遮ってくれ、不思議と空には雲の切れ間ができて日が差し込んできたこともあり、見た目にも実際にもほんのりと暖かみを感じさせる所であった。
大きな案内板に目をやると「胡麻日吉神社の馬馳け」と題して行事の詳細が記されていた。馬馳けとは流鏑馬のことで、丹波では流鏑馬を行う祭りが各地にあるという。この神社では毎年10月の第3日曜日に行われるそうで、見てみたいものだが1年に1日だけとなると、そうそう見れる機会はなさそうである。
往路は追い風で楽々だったということは当然帰りは向かい風となる訳で、冷たい北風が唸り声を上げるようにして吹き付けてきて堪える。おまけに右足にできていたマメが痛みはじめたから大変で、足をいたわるようにノロノロと亀の歩みで進んでいく。
ようやく駅に戻ってくると軒下ではまだコロッケの販売をしていた。すっかり買い求める人の姿はなくなり、売り子のおばちゃん2人がコーヒーを入れているところだった。せっかくだから買ってみようと発泡スチロールの箱に収められたコロッケを見せてもらうと、5個入りと2個入りのパックがいくつか残っていた。1個で良いのだがそれはないので2個入りを購入。手にすると揚げたてを持ってきたらしくまだ温かかった。
コロッケ販売のおばちゃん達と雑談をしていたら列車の時刻が迫り、急いでホームに向かうとちょうど入線してくるところで危なかった。車内は混雑していて空席を探しながら前方に歩いていくと最前部まで来てしまう。運転席のすぐ後ろに折りたたみ式の簡易座席があったのでそこに腰を落ち着けた。
胡麻を発車するとなだらかな平野の中を軽快に進んでいく。この辺りは南丹市と京丹波町の境界であると同時に分水界にもなっている。ここで川の流れは逆になり、大阪湾に至る淀川水系から、若狭湾に至る由良川水系に変わる。前方には立ちはだかる山もなければトンネルもないため実感が湧かないが、太平洋側と日本海側を隔てる峠のようなものなのである。
下山
- 所在地 京都府船井郡京丹波町下山
- 開業 1925年(大正14年)10月10日
- ホーム 2面2線
京都府の中央付近に位置する京丹波町に入ってすぐの場所で、標高にして400〜500mあちこちの山々に囲まれた自然豊かな所だった。山並みは谷底を流れる由良川水系の高屋川にまで迫るため平地は少なく、駅は駅前集落と共に斜面上のような所にあった。そのため駅裏は急峻な山であると同時に、駅前は線路と並行して並ぶ家々を間に挟んで、谷底に向けて落ち込む急斜面になっていた。
ここでは乗車する人は見当たらなかったが、私の他にも老人など数人が降りた。向かいのホームには園部行きを待つ人の姿もある。駅前ではそんな乗降客を送迎する車や、自販機の補充にやってきたトラックが出入りし、山間の小駅にしては随分と人の動きが感じられた。
構内は2面2線の相対式ホームを持つ交換可能駅で、互いのホームは跨線橋で結ばれていた。開業から100年近くが経過した駅ではあるが、これといって興味を惹かれるような骨董品の類の設備は見当たらず、列車を降りるとそのまま狭い跨線橋を渡り駅舎に向かった。
駅舎は長方形をした白い箱のようなシンプル形で、その中に待合室やトイレなど駅に必要なものが収められていた。さすがに大正時代からこの建物ということはないだろうから、戦後になり建て替えられたものだろう。駅前には枝ぶりの良い大きな松が生えているのが印象的で、白い駅舎に緑の松葉がよく映えていた。
誰もいない待合室に入ると良く清掃された気持ちの良い空間になっていた。ベンチには手作りの座布団が並べられ、空いたスペースにはつぼみを無数に付けた梅の枝や、赤い花の美しい椿などが、ペットボトルに生けて飾られていた。
ここなら食事をするのにちょうどよいとコロッケを取り出した。車内では食べられるような状況ではなかったし、余裕のない小さなバッグに入れて持ち歩きたくない、何より早く食べないと冷めてしまうという訳で、食べるのなら今しかないと思ったのだ。味としては普通のコロッケだったが、まだ暖かくサクサクなので美味かった。
お腹が満たされたところで駅前通りまで出てくると、昭和感を漂わせる建物がずらずらと並んでいた。間口の作りからかつては個人商店が何軒もあった事が察せられる。昔はちょっとした商店街だったのかもしれない。洋服店などの文字が残る建物もあるが、大半は何の店であったのかすら分からない。送迎の車が去った今では人通りがないどころか車も滅多に通らず、そこに冬枯れの景色と寒風が合わさり何だか物寂しく見えた。
大福光寺
そんな古刹があるようには見えないが、ここには千年以上も昔の奈良時代、延暦年間からの歴史を持ち、足利将軍家とも縁のある大福光寺があるという。単に歴史があるというだけではなく、今なお鎌倉時代に建立された本堂が残るというからこれを見逃す手はない。
駅から大福光寺までは2kmほどと近いのだが、高屋川を挟んだ対岸にあるため、距離から感じる印象以上に体力を必要とする。どういうことかといえば、この辺りは谷底を流れる川沿いではなく、山の中腹のような高台に開けた土地があるため、お互いを行き来するには一旦谷底まで下りて橋を渡り、それからまた上がっていく必要があるのだ。
そのような訳で出発するとまずは谷底に向けて急坂を下っていく。そして下りきると赤い鳥居があるのに気がついた。扁額には稲荷大明神と書いてある。背後の緑に包まれた小山に向けて階段が伸びていて、せっかく下ってきたけど、階段の先に興味を惹かれて上がっていく。小山はごつごつした岩で出来ていて、終点には参道の大きさからすると拍子抜けするような小さな祠が鎮座していた。風の通り道に立ちふさがっているのか、周囲を取り巻く木々は絶えず騒がしく揺れ動いていた。
高屋川を渡ると今度は駅から見て対岸になる山に上がっていく。上り口には大福光寺の看板が出ていて少しだけ観光色が感じられたけど、人通りもなければ車もたまにしか通らない。あまりに静かなので遠くガタンゴトンと鉄橋を渡る列車の音がよく聞こえる。沿道にはスイセンの花がどこまでも咲いていて、気持ちのいいウォーキングである。
しばらく坂道を上ってくると緩やかな傾斜地に変わり、棚田というほどではないが、階段状に農地が広がる開けた所に出た。そのなかに今でこそ瓦やトタンに覆われているが、元々は茅葺屋根だったらしき特徴的な形をした屋根の民家が点在している。かつては昔話の挿絵に出てくるような、のどかな景色が広がっていたことが想像される。
だらだらと続く坂道は進むほどに傾斜を増していく。途中には江戸時代に建てられた姿を今に残し、国の重要文化財にも指定されているという渡辺家住宅があった。トタンのない昔ながらの茅葺屋根を維持しているのでとても目を引く存在だ。残念ながら見学には事前予約が必要だというので、外観を眺めるにとどめて足を進める。
まだかまだかと足を進めていると突如として古びた建造物が現れた。これこそが大福光寺の本堂で、足利尊氏により鎌倉時代に建立されたものだという。柱や梁から壁に至るまで全体に黒ずんだ飾り気のない木造で、屋根は入母屋造りの檜皮葺と、上から下まで木材で仕上げられている。無駄のない均整の取れた姿には見惚れるものがあった。
傍らには箱型の下層と円形の上層を組み合わせた多宝塔もあり、こちらは本堂より少しだけ新しく室町時代の建立だ。鮮やかな朱色に彩られた外観は本堂とは好対照で、同時に眺めると両者のコントラストが美しい。当然どちらの建物も国の重要文化財に指定されていた。
周りを見回しても現代風の農村風景が広がっているだけで、草むした境内には観光客はおろか猫の子一匹おらず静まり返っていた。まるで忘れ去られた寺院のようだが、重要文化財だけあって本堂と多宝塔はよく手入れされている。それだけに建物だけ時の流れが止まり、周りの景色だけ数百年の時が流れたような不思議な感覚を覚えた。
名残惜しいが駅に向けて坂道を下っていると、雑談をしながら手押し車を押して、ゆっくりと上がってくる2人連れの婆さんに出会った。ここまであまりに人気がなかったので、ようやく出会えた人に思わず話しかけてしまい、大福光寺に関する疑問などを尋ねながら立ち話に興じてしまった。
いよいよ列車時刻が迫ってきたので急ぎ足に谷底まで下り、息を荒げながら駅への急坂を一気に上っていく。駅を目前にして列車が入ってきたのには焦ったが、幸いにして対向列車の通過待ちでしばらく停車していたため事なきを得た。列車を降りた乗客とすれ違いながら跨線橋を渡り列車に乗り込む。相変わらず乗車率は良くて座席は埋まっていたので、運転席の後ろにある折りたたみの簡易座席に座った。
待つことしばし下山駅を発車した列車は、高屋川を見下ろしながら山すそにへばりつくようにして少しずつ標高を下げていく。短いトンネルをいくつか抜けると、いつのまにか車窓を流れる川は、高屋川から由良川本流に変わっていた。由良川は延長146kmと京都府最長の河川で、これから福知山まで寄り添うように進むことになる。
和知
- 所在地 京都府船井郡京丹波町本庄
- 開業 1910年(明治43年)8月25日
- ホーム 2面3線
京丹波町の和知支所がすぐ近くにある旧和知町の玄関口ともいえる駅だ。一帯はオメガ状に大きく蛇行する由良川が、流れの内側に作り出した土地のため、街の三面までが川に囲まれ、残りの一面には山が迫っている。山河に囲まれて全体的に川に向けて傾斜するという狭い土地ながら、沢山の建物が集まる久しぶりの街らしい所だった。
ここでは学生など数人が下車するだけでなく乗車する人の姿も見られた。列車を降りるとどこからともなく昭和の懐メロが聞こえてくる。それもCDではなく普通に歌っている。近所で宴会でもやっているのだろうかと思うような雰囲気が漂っていた。
構内は平屋ながら幅のある比較的大きな駅舎に接した片面ホームと、それとは狭い跨線橋で結ばれた島式ホームという2面3線の構造をしていた。駅は全体にカーブしていてどちらを向いても線路の先は見通せないが、地図によるとどちらに進んでも由良川を渡る鉄橋で、駅の部分だけが右岸に位置していた。実は山陰本線が由良川右岸を走るのはこの僅かな区間だけで、大きく曲がる川とその内側にある街という条件がそうさせたのだろう。
駅舎に入ると委託駅ながら有人駅で、改札脇には券売機も設置されていた。建物の大きさから広い待合室でもありそうだがそれはなく、代わりにかつて待合室だったと思われるスペースに「和知ふれあいハウス山ゆり」なる施設が入っていて、ガラス越しに農産物や衣類の販売に飲食スペースまであるのが見える。今日がリニューアルオープン初日ということで、記念イベントが開催されていて、鉄道利用者ではない人たちで駅舎内は賑わっていた。
先ほどから流れているカラオケもその一環のようで「なつめろ大会」と題して、駅の出入口付近に大量の機材が並べられ、老若男女がここに来てはマイクを手に思い思いに歌声を披露していた。中々の大音量のため駅構内にまで響き渡っているのだ。
駅前に出ると周辺には銀行や行政の大きな建物が点在し、その隙間を埋めるように小さな商店や住宅が軒を連ねていた。駅前広場には路線バスの姿があるのみならず、件の店を訪れる車や原付き、それに自転車などが出入りする。そうしてやってくる顔ぶれは小学生から高齢者までと幅広い。片隅では一緒に列車を降りた高校生が退屈そうに迎えを待っている。活気があるとまではいかないが賑わいの感じられる所である。
イボ水さん
「
当然訪れてみようとなる訳であるが、駅からおよそ5kmという距離が問題で、普段であればどうということはないが、右足にできたマメが痛くて歩けそうにない。強引に行って帰ってこれなくなっては目も当てられない。
少し考えたけど祥雲寺は諦めて駅周辺でお茶を濁すことにした。代わりに呼び方の印象が天足さんと何だか似ている、「イボ水さん」と呼ばれるイボ水宮に行ってみることにした。こちらは駅裏にあるので何とかなりそうだ。名前からしてイボに効能のある水だというのは想像がつくが、マメにも効かないものだろうかと思う。
歩き始めるとカラオケの歌声は徐々に小さくなっていき、それがいよいよ聞こえなくなってきた辺りの山裾に、木造瓦屋根の小さな祠のような建物が見えてきた。近寄ると傍らにはイボ水宮と墨書きされた木札が立ててあった。
近寄ると建物は上回りこそ木造だが床は水場を覆うようにして竹が並べてあり、その一部だけが開閉できるようになっていた。そっと開けて覗き込むと薄暗い中に、まるで井戸のように静かに溜まっている水が見える。試しに汲んでみると何やらとろりと感じで、ほんのり暖かみがあり、いかにも効果がありそうに感じられた。壁面にはこの水でイボが消えたという人々がお供えしたという大量の柄杓が並んでいた。
イボ水さんの少し先まで行ってみると突然大きな鳥居が現れた。その向こうには太いケヤキなどの木々が茂りながらも、よく手入れされて見通しの良い山中を高台に向けて、苔むした石段が一直線に伸びている。その美しくも凛とした佇まいに鳥肌の立つような感覚を覚え、思わず足が止まり見入ってしまった。
足の痛みも忘れて石段を上がっていくと、その先には想像より大きな平場があり、社務所や古めかしい拝殿などが建ち並んでいた。人気のない境内は掃き清められていて清々しい気分にさせてくれる。街の近くでこの規模の神社になると、ステンレスの手すりのような真新しい設備が目立つことも多いのだが、ここはそういう物がないのが景観的にとても良かった。
先に進む前に手水舎に立ち寄ると手が痛くなるほど冷たい水で、イボ水宮で触れた水は気のせいなどではなく、実際に暖かい水だったのだと実感させられた。
奥に鎮座する本殿は覆屋の中にあり見えづらいが柿葺の美しい建物だ。その前までやってくると待ってましたとばかりに雲が切れはじめ日が差し込んできた。そこに強風が吹き抜け木々がザザーッと音を立てて揺れ動く。その様には神々しいものを感じずにはいられなかった。
どういう訳か急速に天候は回復して風は静まり、神社を後にして歩いていると暑さすら感じるほどになってきた。これだけ天気がいいと祥雲寺に行きたい気持ちが湧きはじめ、一度は向かいはじめたが、途中から痛みのあまりびっこを引くような感じになってきたので諦めた。
何とかかんとか駅に戻ってくると相変わらずカラオケが続いていて賑やかだ。しかも歌っているのは小学校も低学年くらいの女の子だったのには驚かされた。
列車まで時間があったのでそのまま店のドアを開け、ボックス席で話し込む地元の方々を横目に、空いてるカウンター席に陣取るとコーヒーを注文した。これが開店記念で半額な上に、桜茶と菓子までおまけで付いてくるという大盤振る舞いであった。
エピローグ
まだ日は高いので次の
和知を発車すると見慣れた景色の中を、列車交換で長々と停車しながら少しずつ進む。山陰本線を旅しているとあちこちで複線化を要望する横断幕などを見かけるが、それも納得できるほどに亀の歩みである。
駅ごとに数人ずつ乗客が増えていき、後から思えば和知というのは余裕を持って座れるぎりぎりの駅だったのかもしれない。特に日吉では外国人観光客まで乗り込んできた。ここに外国人を引きつける一体何があるのだろうかと不思議に思う。
終点の園部で列車を乗り継ぎ、京都まで戻ってきた時にはすっかり空は快晴になっていた。今頃になって晴れるとは意地の悪いものだ。早く足を休めたいので混雑激しい新快速に飛び乗ると、拠点としている大阪のホテルに急いだ。
(2017年4月1日)
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