目次
プロローグ
2017年4月2日、山陰本線の旅をしようと早朝4時半に大阪市内のホテルを出発した。
山陰本線には大阪環状線で大阪駅に向かい、東海道本線を経由して京都から乗り込む予定であった。ところが乗車した環状線の列車ときたら、真っ暗な車窓に空いた車内という深夜のような空気を漂わせ、暖かな車内が眠気を誘う。案の定に大阪駅を乗り過ごしてしまい、慌てて引き返すも既に乗車予定の京都行きの姿はなかった。
仕方がないので後続の京都行きに乗車すると、今度は遅れが発生して乗車予定だった山陰本線の列車に乗り継げないという運のなさ。次の列車では目的地到着が遅すぎるので諦めた。
どうしたものか考えていると琵琶湖沿いを北上する湖西線の近江今津行きが目に留まり、湖西線経由で北陸本線に向かおうと思い立ち飛び乗った。目指すは前回到達駅の隣りで滋賀県から福井県に入った所にある新疋田という駅だ。
幸いにして湖西線は空いていて快適そのものだった。車窓右手を流れる琵琶湖の景色をゆったり楽しむ。青々とした水面に雲ひとつない青空という青一色の世界だ。車両は古い国鉄型のためモーターが唸りを上げ、騒々しさと懐かしさが同居する音が響く。そんな旅を1時間ほど続けたところで琵琶湖の北端近い近江今津に到着した。
福井行きに乗り換えとなるが時間があったので駅を出てみると、駅前では同じ列車に乗ってきた若い女性が自転車を組み立てていた。自転車の旅というのもやってみたいと思う。徒歩数分の琵琶湖まで足を運ぶと静かに波の打ち寄せる砂浜が広がり、海にでも来たかと錯覚させるような眺めだった。周辺には見どころが点在していて遊覧船まであり、次は湖西線の旅をするのも面白そうだ。
日なたの湖岸は暖かったがホームに戻ってくると日陰で寒い。とりあえずベンチに腰掛けると目の前に福井行きが止まっているではないか。もしかしてとドアの開閉ボタンを押すと難なく開き、暖房の効いた貸し切りの車内を待合室代わりに発車の時を待った。
やがて京都から当駅止まりの列車が到着すると、乗り継ぎ客が我先にと押し寄せてきて2両と短い列車はあっという間に超満員になった。鮮やかなリュックを背負った高齢のハイカーや、春休みの旅行中といった若者の姿が多い。
発車すると新しい車両だけあって静かに滑るように進んでいく。先ほどの国鉄型車両とは対照的だがどちらにも良さがある。トンネルを出たり入ったりしつつ徐々に琵琶湖から遠ざかっていくと、北陸本線との分岐駅である近江塩津に到着した。次の新疋田まで乗り通しても良かったけど、北陸本線の旅は北陸本線の駅から始めたいということもあり、混雑から逃げるように列車を降りた。
近江塩津は約半年ぶりなので駅の内外を一巡してみるが、これといった変化を見つけられないままホームに戻ってきた。違いといえば前回は暑い盛りで汗だくになったが、今回は震えるほどに寒いという事くらいのものである。
程なくしてやってきた米原発の敦賀行きに乗り込むと、先ほどの混雑は何だったのかと思わせるくらい空席が目立つ。京都・大阪方面からの乗り継ぎに便利な列車は混雑しても、そうでない列車となるとこんな具合になるらしい。
近江塩津を発車すると4本もの線路が並ぶ中を進んでいく。この辺りは複線同士の北陸本線と湖西線の合流点なので複雑に入り組んでいる。線路が跨いだり跨がれたりと手品のような動きが始まり、気がつけば合流を終えて単なる複線に変わっていた。
山間の農村風景を眺めていると突如として長いトンネルに入った。全長5kmを超える深坂トンネル(下り線は新深坂トンネル)だ。江戸の昔には琵琶湖と日本海を結ぶ最短経路として人や物資が行き交い、現在は滋賀と福井の県境になっている深坂峠の下を貫いている。昭和32年に完成するまでは、急勾配の連続する柳ヶ瀬経由の線路で県境を越えていた。
勢い良く暗闇を突き進んでいた列車が速度を緩め、ふっと車窓が明るくなると、そこはもう新疋田駅の構内であった。
新疋田
- 所在地 福井県敦賀市疋田
- 開業 1957年(昭和32年)10月1日
- ホーム 2面2線
疋田は畿内と北陸を結ぶ街道の宿場町として賑わったというが、駅はそんな集落から少々離れているため、山に囲まれ人家はまばらにしか見当たらない。乗降客も私くらいのものだ。降り立ったホームは長大な鈍行列車が走っていた時代の名残りか、緩くカーブする線路に沿ってはるか先まで続いていた。
駅の開業は昭和32年と北陸本線では比較的新しい。これは米原方に口を開ける深坂トンネルの開業に合わせて設置されたためだ。それまでの山越えをする旧線には、疋田という明治15年に開業した歴史ある駅が存在した。旧線はトンネル開業後も数年間ながら柳ヶ瀬線と名を変えて存続したので、当駅が「新」を冠するのはそちらの疋田駅と区別するためだろう。
構内は相対式ホームの2面2線という簡単なものだが、両ホームの間には通過線を含む3本の線路が並び、ホームの長さと相まって広く開放的に見えた。関西と北陸を結ぶ幹線だけに次々と特急や貨物列車が駆け抜けていく。そんな危なっかしい場所にある新しい駅にも関わらず、互いのホームが構内踏切で結ばれているのが少し意外に映った。
この辺りは沿線から駅構内まで鉄道写真の撮影地として有名で、あちこちに撮影に関する注意事項の書かれた看板が掲げられていた。それを横目に向かった駅舎は、大きく傾斜した片流れ屋根が特徴的なログハウス風で、建てられて間がなさそうな新しい建物だった。
待合室に足を踏み入れると壁一面に貼られた鉄道写真の数々に圧倒される。何だこれはと思わず足が止まってしまう。ここには自由に写真を貼って良いそうで、北陸本線のみならず全国の写真が並んでいた。中には実物を目にしたことすらない古い時代のものまであった。
どっしりした丸太造りのテーブルには、駅ノートや時刻表と共に「新疋田から
駅前に出ると広々とした駐車場に車が何台も止まっていた。人の姿がないあたり鉄道を利用する近隣住民の車なのだろう。その向こうには敦賀と大津を結ぶ国道161号線が横切り車が行き交い、そのまた向こうには標高にして500mくらいの山がそびえ、山頂付近には点々と白い残雪のかたまりが残されていた。
疋壇 城跡
観光案内板に目をやると、古くから交通や軍事の要衝であったという土地だけに史跡が点在していた。また駅正面の山には山津波から集落を救ったという大きな岩が、大岩大権現として祀られているという。どれほど巨大な岩なのか気になるが地図を見ても場所が判然とせず、城跡や舟運に利用された舟川が残るという疋田集落を目指す事に決めた。
駅から北に10分ほど進むともう家並みが見えてきた。集落の入口付近には南無阿弥陀仏と刻まれた縦横に人の背丈ほどもある大きな岩が鎮座していた。江戸中期に集落の安穏と往来の安全を祈願して刻まれたという。その大きさに釣り合わない小さな屋根が、帽子でも被るかのように上に乗っていたのが印象に残る。
近くには集落に迫る山すそを上がるコンクリート製の階段があり、疋壇城跡という標識が立っていた。向かうと杉や竹に囲まれた薄暗い階段で、表面には杉の葉が降り積もり、行く手を阻むように竹が倒れかかってきていて歩きにくい。整備はしたけど管理はしてませんといった様子で、あまり利用されていないようだった。
疋壇城は越前国を拠点とした戦国大名、朝倉氏における越前最南端の砦であり、織田信長によって2度も攻め落とされた城でもある。特に2度目の時はこの城を目指して退却する朝倉軍を織田軍が追撃し、3千名とも言われる戦死者を出した刀根坂の戦いの時だ。朝倉氏が滅亡に追い込まれる流れの中にある城だけに重い空気を感じさせる。
階段を上がりきった所には石柱が立ち「疋壇城跡」と刻まれているのを期待したが「西愛発小学校跡地」と刻まれていた。階段が随分しっかり作られている割に全然使われていないのはこういう事情かと納得する。校庭だったらしき広々とした空き地はゲートボール場などに利用されていた。背後には北陸本線の線路が横切り、右に左に頻繁に列車が走り抜けていく。
そんな校庭の片隅に疋壇城跡の石柱と簡単な案内板が佇んでいた。しかしあるのはこれだけで往時を偲ばせるものは何も見当たらず拍子抜けである。石柱背後にある小高い山がいかにもそれらしいが、周囲を取り囲むようにネットが張り巡らされていて守りは固く近寄れない。
まあ単なる猪鹿対策だろうとネットを跨いで細い小径を上がっていくと、小山の上は思いのほか広い台地になっていて、自家用らしき小さな畑がいくつも作られていた。畑仕事をしていた爺さんに城跡について尋ねるとやはりここがそうだという。さらに知ってる範囲で説明しますわと、端から端まで事細かに説明をしながら周ってくれた。まるで個人ガイドを雇ったようなもので助かった。
それによると一番高くなっている所が天守跡で、その周囲には背丈ほどの石垣がきれいに残されている。自然石をそのまま積んだ野面積みだ。石垣はもっと残っていたけど石が必要になった時に転用してしまったと、よくある話も付け加えられた。
周囲には空堀が巡らされていて、小学校を作るのに一部は埋めてしまったというが、残された所にはそこかしこに石垣が残されていた。かつては堀の中へと降りる石段もあったそうで、また石を転用したのかと思いきや、なんと猪が壊してしまったのだという。掘り起こしたり崩したり猪で落城寸前だと嘆いていた。
興味深い話は城跡から舟川にまで及び只者ではない。国によってはここでガイド料を要求されかねない流れだが、話が尽きたところで「まあこんなところですわ」と何事もなかったかのように畑仕事に戻っていった。
最後に一番高い所にある天守台とやらに上がってみると、小さな平場ながらここだけは草も刈り込まれてよく整備されていた。中ほどには疋壇城跡と刻まれた石碑も設置してある。軽くとはいえ高台のため足元には小学校跡から城跡に広がる畑、そして背後を通る北陸本線までが見渡せた。日当たりが良いこともあってか他ではつぼみの桜が満開であった。
近所の方らしき母子連れが遊びに来ていて、一体どこから現れたのだろうかと思ったら、小学校跡から天守台まで直接出入りできる小径が整備されていた。
見つけた小径から小学校跡まで下ってくると、一人旅らしき中年男性が向こうから歩いてくるのが目に留まった。近づいてくると城跡がどこにあるのかと尋ねられた。先ほどの私のようにここまできてどうしたものか戸惑っているようだ。行き方を伝えると早速向かったが、大して興味はないらしく私が立ち去るより早く去っていった。
疋田舟川跡
城跡から降りてきて旧街道らしき道を少し進むと、かつての宿場町らしき風情ある通りが現れた。左右に緩やかに曲がる道路中央には石積みの水路が流れ、沿道には隙間なく小さな住宅が建ち並ぶ。建物自体は昭和から平成といった様子でさして古くはないけれど、全体としての佇まいに宿場町としての面影が感じられた。
この道路中央を流れる水路こそが舟川の跡であり、江戸後期に日本海と琵琶湖を結ぶ運河という、壮大な計画のもと建設された運河の一部を成していた。もっとも実際に開通したのは敦賀から疋田までの区間で敦賀運河とも呼ばれていた。残された琵琶湖までの区間は牛車に積み替えて運んだという。運河も鉄道もこの先の峠越えには苦労したのだ。
荷物を積んだ舟が通ったにしては生活用水のような幅しかなくて狭いと思いきや、当時は倍近い幅があったそうで、道路拡張のために埋められてこうなったそうである。
家は建て込んでいるが人も車も滅多に通らず静かなもので、前方を先ほど城跡で出会った男性が歩いている程度しか人気がない。水路沿いの桜並木はつぼみばかりで花びらの一つも見当たらず、景色としては寒々しいけど日差しは強くて歩いていると汗ばんできた。水路には澄んだ水が勢い良く流れていて清らかな音が心地よい。手を入れてみると雪解け水なのか冷たくて気持ちよかった。
古いのか新しいのかよく分からない大きな道標には、左東京・右西京と刻まれていた。ここは西近江路から塩津道の分岐する追分宿でもあったのだ。
集落の中ほどにはまだ新しい平屋建ての小さな建物があり、休憩施設か公衆トイレかというような外観をしていたが舟川資料館と書かれていた。立ち寄ると無料かつ無人の施設だった。入口のすぐ正面には反対側にある出口が見えているような規模ながら、真っ直ぐ伸びた通路の両側には舟川に関する文献や、復元された高瀬舟が展示されていて、展示内容としては思いのほか濃いものであった。
この先はどうなっているのかと舟川沿いを下っていくと、石積みだった水路は単なるコンクリートの水路に変わり、自然消滅的にどこかへ消え去っていた。かつての疋田駅はこの辺りにあったらしいが痕跡はほとんど残されていない。
神社などに寄り道しながら駅に戻ってくるともう昼近かった。次の敦賀行きまで30分ほど時間があり食事でもしたいところだが、あいにくと食堂どころかコンビニすら見当たらない。仕方がないのでホームで列車を待っていると、風通しが抜群で日差しは上屋で遮られるものだからやたらと寒かった。
深坂トンネルから姿を現した敦賀行きは、はるばる姫路の向こうにある網干からやってきた列車だ。車掌は居るけど、この辺りでは検札にも切符の回収にも遭遇したことはなく、これで大丈夫なのかと乗る度に思ってしまう。車内は今朝のこともあるので混雑しているかと思ったら空席が目立ち余裕で座れた。こんな時間に敦賀に向かう人は少ないようだ。
新疋田を出発すると先ほどの城跡をかすめ海に向けてぐんぐん下っていく。長大なトンネルこそないが相変わらず険しい地形で勾配もきつい。上り線は大きく離れていてまるで単線を走っているように錯覚させる。この急勾配は下るには良くても逆は大変なので、上り線はループ線を経由して距離を稼ぎ勾配を緩和しているのだ。
そんな上り線と再び合流すると程なくして、左手から舞鶴から日本海沿いを進んできた小浜線の線路が近づいてきた。速度を落としながら何本もの線路が並ぶ敦賀機関区の脇を通り抜けると、いつの間にか敦賀駅の構内に入っていた。
敦賀
- 所在地 福井県敦賀市鉄輪町
- 開業 1882年(明治15年)3月10日
- ホーム 3面7線
敦賀は日本海の中でも畿内に近い天然の良港とあって、古くから人や物資の往来が盛んで、陸海における要衝として発展してきた。日本海側で最初に鉄道が敷かれた事からもその重要性が伺える。大陸への玄関口として東京との間に欧亜国際連絡列車が走ったり、複数の機関区に客貨車区を擁していた時代もある。県内では福井駅に次いで利用者が多いというだけに、久しぶりに活気を感じる駅であった。
構内には次々と列車が発着して利用者で賑わう北陸本線ホームが2面5線、対照的に静かな小浜線ホームが1面2線と、全部で1〜7番線までの線路が並んでいた。ホームを歩くと最近の地方駅では珍しくなってきた駅弁販売をする売店があり、ここで昼飯もいいなと思ったけど、落ち着いて食べられそうな場所が見当たらず眺めるに留めた。
駅の裏手には多数の蒸気機関車がたむろした、旧敦賀第一機関区の広大な跡地が広がる。世代交代とでもいおうか、ターンテーブルや給水塔といった設備を潰しつつ、北陸新幹線の敦賀駅建設工事が着々と進んでいた。
開業は明治15年と大変古いが、当時の駅は船舶との連絡を重視したからか、今より港に近い位置にあったという。港に向かうということは海に向けて行き止まりの線路になる訳で、福井方面への延伸には都合が悪いと、明治43年に現在地に移転してきている。代わりに当駅から港までを結ぶ支線が整備さたが、今では休止線となり列車は走っていない。密接だった海と鉄道も今ではすっかり疎遠である。
駅舎に続く真新しい跨線橋は、高い天井にエスカレーターまで備えた近代的な作りだ。レールを再利用した骨組みに、ペンキの塗られた屋根板が見えるホームから入ると、別世界に来たような違和感すら感じてしまう。近くには年季の入った天井の低い地下道も残されていて、こちらの方がしっくりくるものがあった。
改札を抜けると駅舎はリニューアルされていて新築のようにきれい。こちらから件の跨線橋に向かうなら違和感はない。振り返ると向かって左側に駅務室やみどりの窓口が並び、右側にはオルパークと名付けられた敦賀駅交流施設が併設されていた。オルパークには冷暖房の完備された大きな休憩室があり、観光案内所や売店に飲食店まで入居していて賑わっていた。
駅前に出るとロータリーやバスのりばが美しく整備されていて、駅舎と合わせてリニューアルされたといった様子。しかしそれを取り囲む食堂や土産物店といった建物には、かつて訪れた時とほとんど変わらない佇まいがあり、昭和の駅前といった雰囲気が残されていた。
敦賀鉄道資料館
万葉集にも詠まれた歴史ある街だけに見どころはたくさんある。一般的に有名なのは日本三大松原の一つ気比松原と、越前国一宮の氣比神宮だろうか。その他にも色々とあり悩ましいところだが、北陸本線の旅で初めて訪れた日本海側の都市なのだから、日本海を見ようと気比松原に向かうことにした。
見当をつけて地図も確認せず、駅前を伸びるアーケード商店街を進んでいく。早歩きな上に快晴とあって暑いくらいだが、海の方から冷たい風が吹き付けてくるので不快ではない。それより行けども行けども途切れない街並みと気比松原の遠さに参る。とうとう空腹と疲れから目的地を近場にある敦賀鉄道資料館に変更してしまった。
途中からウォーキング中の爺さんと抜きつ抜かれつ進んでいく。競り合うつもりはないけど偶然にも向かう方向が同じなのだ。私のほうが歩く速度は早いけど、敦賀城跡とか気になる物を見かけては歩みを緩めるため、その隙に追い越され抜きつ抜かれつが続く。結局目的地まで同じで、私のほうが少しだけ早く到着して辛くも勝利した。
資料館は三角屋根のある洋風2階建てのしゃれた建物で、旧
復元とはいえ旧駅舎を利用した建物に北陸本線に関する展示というのが、長浜の鉄道資料館を思い起こさせた。そういえば長浜の鉄道資料館に展示してあった電気機関車は、長年ここ敦賀の機関区に保管されていたものだった。
資料館を出ると隣接する広々とした緑地公園を歩く。気比松原に行かずともここからも海はよく見えた。船首を模したのか海に突き出した大きな三角形の板張りデッキに立てば、前方には青々とした空と海、後方には鮮やかな芝生の緑が広がり、勢いよく風が通り抜けていく。開放感あふれる清々しいところだ。
ここには人道の港「敦賀ムゼウム」という施設もあり、ポーランド孤児や杉原千畝で知られる命のビザを持ったユダヤ人が上陸した地として、関連する資料が展示されていた。内陸側には道路を挟んで赤レンガ倉庫を改装した施設もあり、この辺りは全体で敦賀港の歴史を物語るテーマパークのようでもあった。
敦賀港 駅と金ヶ崎山
旧敦賀港駅舎を模した鉄道資料館を訪れたついでに、近くにある実際の敦賀港駅も訪ねてみることにした。開業当時は
駅に近づくにつれ道路は車や人でごった返しガードマンの姿まであった。まるで人気観光地のようだが駅は素通りしていく。人々が向かっているのは駅に隣接してそびえる金ヶ崎山で、今日はその中腹にある
私だけが足を止めた敦賀港駅は線路こそ残されてはいたが、その表面はすっかり錆びつき、線路脇の草むらには踏切の警報機が打ち捨てられていた。多くの渡航者で賑わったという面影はまるで残されていない。貨物輸送はトラックに切り替えたらしく、フォークリフトが忙しそうにコンテナを運んで走り回っていた。
近くにはレンガ造りの小さな建物があり、何気なく建っているけど明治15年の開業当時に竣工したランプ小屋で、国内最古級の鉄道建築物だという。電灯が普及する以前には列車や信号にランプが用いられていて、そのためのランプや灯油をここで管理していたのだ。横浜・京都に次ぐ規模のランプ小屋だったということに当時の賑わいが察せられる。
内部は公開されていたので覗いてみると2部屋に分かれていて、片方はランプがずらりと並べられて当時の様子が再現されていた。もう片方は資料の展示室になっていた。ここもまた鉄道資料館や舟川資料館と同じく無料で、敦賀の施設は無料ばかりで太っ腹である。
目の前には金崎宮に向かう通路が横切るため大勢の人々が行き交い、フリーマーケットや出店まで並んでいたが、こちらに立ち寄る人はまるでなく見えない壁でもあるかのよう。貴重な建築物とはいえランプ小屋では興味を抱いてもらうことすら難しいらしい。
せっかくなので金崎宮にも行ってみようと出店を眺めつつ階段を上がっていく。花換まつりののぼりが立ち並び、頭上はぼんぼりで彩られ祭りのムードを高めている。桜の木もそこかしこにあり例年なら美しく咲いているのだろうが、今年は開花が遅くてまだつぼみばかりだ。徐々に高度を上げていくと左手には敦賀市街が広がっていく。幸か不幸か桜の木が枝ばかりだから一段と見晴らしが良い。
下りてくる人を避けつつ長い階段を上がりきると、山の中腹にしては広い平場があり、社務所や拝殿が建ち並んでいた。花換まつりの会場でもあるので大いに賑わっていて、宮司さんが桜の造花を交換し合うという祭りの説明をしていたが何だかややこしい。
参拝だけしてそそくさと神社から山上へと伸びる遊歩道に進む。この先には金ヶ崎城の遺構や古戦場跡があるという。この辺りは新田義貞や織田信長が戦いを繰り広げた所でもある。道は整備されているが延々と階段と登り坂が続くので息が上がる。こちらまで足を伸ばす人は少なく、徐々に金崎宮のざわめきも聞こえなくなり進むほどにひっそりとしてきた。
金ヶ崎山は敦賀湾に突き出した岬のような形をしているため、額に汗を浮かべながら最高地点まで上がりきると、山の反対側に広がる敦賀湾を一望できる絶景が待っていた。雑木林の中を進んできて突然この光景なのだから思わず息を飲んでしまう。下を覗き込むと足を滑らせれば命はなさそうな絶壁でぞくぞくする。海からは帽子が吹き飛ばされるような冷たい強風が絶えず吹き付けてきて、冷凍庫にでも放り込まれたかのように寒かった。
説明板によるとここは月見御殿と呼ばれていて、南北朝時代には金ヶ崎城の本丸が築かれ、戦国時代には武将が月見をしたと伝わるそう。眺めは良いけど危なっかしさと強風で、おちおち月見もしてられないのではないかと思ってしまった。
ここから稜線伝いに進めばさらに高所にある天筒山城跡にも行けるようだが、眺望にすっかり満足したのでこれで引き返した。月見御殿は凍えるような寒さだったが、少し山中に戻ると途端に風は止み、暖かな日差しと静けさにホッとした。
街中を駅に向かっていると氣比神宮の前に出た。越前国一宮であると同時に北陸道の総鎮守でもある格式高い神社だ。入口には朱色をした巨大な木造大鳥居があり、春日大社と厳島神社に並び日本三大大鳥居の一つに数えられる。そのはずなのだが何ということか肝心の鳥居が修復工事中で、足場と灰色をしたシートに取り囲まれて何も見えない。その姿は鳥居というよりはまるで門のような形をしていた。
境内にやってくると幸いにしてこちらは工事云々はなく、小ぶりながら一の鳥居と同じ形をした二の鳥居や拝殿が静かに佇んでいた。全体が朱色に彩られているので境内に茂る松の緑色によく引き立つ。杉や楠ではなく松というのが気比松原のある敦賀らしい。中にはオーストラリア原産のユーカリの木まであり、豪雪地帯の神社にあるという意外な組み合わせが面白い。
駅前に戻ってくる頃には夕方近くになっていて、朝から何も飲み食いしていない中で歩き回ったこともあり空腹は限界に近い。もう何でもいいやと駅前にあった店に飛び込むと、昔ながらの駅前食堂といった雰囲気がたまらない店だった。店内は経営している老夫婦と常連客らしき中年女性という3人だけと空いていた。
定食類にも引かれるものがあるが福井名物のソースカツ丼を注文した。目の前でカツが揚がる様子を眺めながら店主と常連客の話に耳を傾けて過ごす。店主はしきりに橋幸夫の話をしていて、私にまで知っているか尋ねてくるほどで、橋幸夫の曲を流してみたり、昔店の前を通ったという話にまで続いていく。
橋幸夫から前回の東京オリンピックに話が変わるころカツが揚がり、油のいい匂いの中、サクッサクッと包丁を入れる音が食欲をそそる。カツを載せてソースをぶっかけただけのご飯といえばそれまでだが、そのシンプルな味わいにサクサクした衣、やけどするほどの熱さがたまらなく美味かった。食べきれないほどの量に味噌汁まで付いてきて満足度は高い。
恐縮するほど何度も「おおきに」と言われながら店を出て時計を確認すると、次の下り列車まであと5分と迫っていたからさあ大変。後はホテルに帰るだけだから乗り遅れても次の列車に乗ればいいだけの話なのだが、乗り遅れるというのが何だか悔しいので大急ぎで改札を抜けてホームに向かった。
エピローグ
滑り込みで間に合った網干行きの列車は満席で座る所はなかった。京阪神から遊びに来ていた人が帰るのに都合の良い時間帯で、しかも発車間際なのだから当然といえば当然だ。このまま大阪に向かっても良かったけど、長々と立っていたくないし、今日の旅を終えるには今朝の駅がふさわしいと近江塩津で降りることにした。
敦賀を発車するとループ線と長いトンネルで県境を越えて滋賀県に戻ってきた。予定通り近江塩津で降りると、日が陰り冷たい風が吹き荒れていてとにかく寒い。今日は汗ばむほど暑かったかと思えば、次の場所では震えるほど寒いという極端な陽気だ。
あとは改めて大阪に向かうだけで、行き交う貨物列車を眺めて時間をつぶし、ようやくやってきた米原経由の播州赤穂行きに乗り込んだ。こちらの車内はこんな山間の駅が始発とあってがら空きで、ゆったりと沈みゆく太陽を眺めながら大阪に向かった。
(2017/4/2)
コメント