美祢線 全線全駅完乗の旅 1日目(厚狭〜四郎ヶ原)

旅の地図。

目次

プロローグ

2017年8月21日、大阪から北九州に向かうフェリーで目覚めた。

夜明け前の薄暗いデッキに出ると、生暖かい風がまとわりついてきて、暑い1日になることが予想された。海はとても穏やかで船体は氷上を滑るように進んでいる。これから向かう美祢みね線の起点、厚狭駅の方角に目をやると、沿岸に点々と明かりが灯っているのが見えた。

目的地に美祢線を選んだのは路線自体に魅力を感じたからではない。夜行フェリーで現地入りできる便利さ、宿の安さ、そして4〜5日の滞在で一気に完乗でる手軽さからである。

フェリーから眺める夜明け前の瀬戸内海。
フェリーで迎えた夜明け

美祢線は山口県の中ほどで本州を横断する路線だ。瀬戸内海に近い厚狭から、日本海に近い長門市までを結んでいる。本州横断といっても幅の狭い部分を直線的に結ぶので全長は46kmと非常に短い。同じく横断する山口線が93km、伯備線が138kmもあるのだから短さは際立っている。

路線の歴史は古く明治38年に大嶺炭田の石炭輸送を目的に、厚狭から大嶺まで開業したことに始まる。その後も着々と延伸を繰り返し、大正13年に正明市(現在の長門市)に達して全通した。今では細々と旅客輸送をするローカル線だが、当時は県内で日本海側に通じる唯一の路線として重要な存在であり、沿線で産出される石炭や石灰石を輸送する長大な貨物列車が、昼夜を問わず何十往復と走っていた時代もあったという。

フェリーが着岸すると慌ただしく小倉駅に向かう連絡バスに乗りこんだ。1台しかないバスは立ち客が出るほど混雑していて、人をかき分けるようにして途中の門司駅で降りた。ようやく到着した九州であるが、すぐに下関行きの普通列車に乗りこみ、滞在時間にして1時間ほどで本州に戻ってきた。

薄暗さの残る門司駅に停車中の、下関行き 普通列車。
下関行き 5122M

下関では山陽本線の岩国行きに乗り継ぐ。平日の朝ではあるが通勤通学には少し時間が早いせいか、全員が着席してなお余裕がある程度に空いていた。列車は瀬戸内沿いの丘陵を縫うように走り、30分ほどで美祢線の分岐する厚狭に到着した。

厚狭あさ

  • 所在地 山口県山陽小野田市厚狭
  • 開業 1900年(明治33年)12月3日
  • ホーム 4面5線(在来線)
路線図(厚狭)。
厚狭駅舎。
厚狭駅舎

瀬戸内海から厚狭川を4〜5kmさかのぼった所に、幾重にも重なる丘陵に取り囲まれた盆地がある。その中ほどに位置するのが厚狭駅だ。山陽本線から美祢線が分岐するのみならず、山陽新幹線の駅でもある交通の要衝で、かつては多数の側線に機関区まで擁していた。鉄道の街として発展したであろう周辺は旧山陽町の中心地で、現在は小野田市との合併で誕生した山陽小野田市となっている。

車窓から何度も眺めたはずの駅だが、よほど印象に残るものがないらしく、記憶にはまるで残されていなかった。そのため幸か不幸か降り立って視界に広がる景色には、初めて眺めたような新鮮さを覚えた。

構内はとても広く在来線ホームだけで4面も並び、それも十数両の列車でも楽に収まりそうな長さをしている。今では短い列車が発着するばかりで持て余し気味ながら、長大な旅客列車が行き交う山陽本線の特急停車駅だっただけのことはある。

左から美祢線、山陽本線、新幹線と並ぶ構内。
美祢線、山陽本線、新幹線が並ぶ

知名度は低いが厚狭は新幹線の停車駅でもあり、駅裏を通る山陽新幹線の高架上には2面2線の相対式ホームが用意されている。こだま以外は素通りするので、時々空気を切り裂くような激しい音に視線を向けると、新幹線が猛スピードで通過していく姿が見られた。

在来線の各ホームを結ぶ跨線橋は、無骨で年季の入った作りで、先に進めば新幹線駅に通じているとは思えない雰囲気を漂わせていた。利用者数を反映してか狭いというほどでもないが広くもない。ちょうど通勤通学の時間帯ということもあり、スーツや制服に身を包んだ人々が行き交っていた。

歩いていると多くの線路が剥がされたり雑草に侵食されていることに気がつく。ホームも数だけは多いが閉鎖された乗り場があったり、フェンスで区切られて一部分しか利用できなくされていたりする。発着する列車の本数も長さも大きく減少していることを如実に感じる。隣接していた機関区に至っては太陽光発電所と化していた。

向かいはフェンスで塞がれた旧5番線。
向かいは閉鎖された旧5番乗り場

駅舎は在来線側と新幹線側の双方にあるが、美祢線の旅なので在来線側の改札を抜ける。飾り気のない長方形の箱のような2階建てで、地方の国鉄主要駅らしい駅舎だと思う。

待合室らしき空間に出たが建物の大きさの割に狭い。いくつか並ぶベンチの向こうには、もう駅前への扉が待ち受けている。なんだか待合室というより通路にベンチを置いたという感じにも見える。実際ほとんどの人は通り抜けていくばかりで休む人など全然いない。

そんな待合室を囲むように、みどりの窓口と券売機のほか売店がある。古い時刻表には駅弁のマークが記されているが、さすがに今はもう扱ってなさそうだ。わずかながらコインロッカーがあったので、フェリーから持ち運んできた荷物の大半を収めておく。

厚狭駅改札口。
厚狭駅改札口

駅を出て初めて目にする厚狭の街は、個人商店やビジネス旅館が並び、いかにも地方都市という佇まいをしていた。建物の造作などは昭和風であるが、看板を外した店舗や歯抜けのような空き地が目立つあたりは現代風である。

駅前には次々と送迎の車がやってきて慌ただしく去っていく。時間が時間だけに送られてくるのは高校生が目立つ。近くに高校があるのか駅から自転車や徒歩で去っていく高校生も見られる。タクシーが数台たむろしているが客はないようで、暇を持て余した中高年の運転手が世間話に興じていた。

厚狭の寝太郎

三年寝太郎という有名な民話が日本各地に残されている。三年間も寝てばかりいた怠け者がある日突然、何か大きなことをやってのける話だ。何をどのように成し遂げるかという点に違いはあれど、あらすじとしては似たようなものである。厚狭はその舞台のひとつで、寝太郎の某と名付けられた名所旧跡が点在している。

厚狭に伝わる寝太郎物語というのは、寝てばかりいた若者がある日、船いっぱいに新品のわらじを載せて、金山で知られる佐渡島に渡るところから始まる。そこで島民の使い古したわらじと交換してあげて帰ってくると、わらじの隙間から大量の砂金を得たという。それを元手に堰や用水路を整備し、当時水のない荒れ地であった千町ヶ原と呼ばれるこの一帯を、豊かな美田に変えたという話である。

寝太郎がいかに有名な土地であるかは駅前を見れば一目瞭然で、そこには稲束と鍬を手にした寝太郎の銅像が立っているのだ。かつては駅弁として寝太郎餅や寝太郎弁当が販売されていたこともあるという。そのような土地なので全ては無理としても、寝太郎の名を冠した所をいくつか訪ねてみることにした。

駅前ロータリーに立つ寝太郎の銅像。
駅前に立つ寝太郎

まずは駅の南側にある寝太郎を祀った寝太郎荒神社を目指す。ところが今いる北側から南側にどうやって行けばいいのか分からず足が止まる。南側には新幹線の厚狭駅があり構内では確かに結ばれていたのだが、こうして駅を出てしまうと自由通路のような気の利いたものはなく、入場券でもないと通り抜けることができないのだ。

地図で確認すると700mほど東側に地下道がある。入場券の140円を惜しむ訳ではないが、迷うことなく在来線沿いの寂れた商店街を通り抜け、地下道で山陽本線をくぐり抜け、最後は新幹線沿いの農地を通って、20分ほどかけて北側から南側に移動した。

南側は新幹線の高架下に駅舎があり、広々とした駅前広場が整備され、北側に比べると近代的な装いをしていた。ところが周囲には驚くほどなにもない。駅前だというのに田畑や荒地が目立ち、車が数台止められている程度で人通りすらなく、吹き抜ける風の音ばかり目立つ。それというのも厚狭に新幹線駅が設置されたのが1999年(平成11年)と新しく、それまでは出入口すらない駅裏だったことによる。

人気のない新幹線口。
人気のない新幹線口

寝太郎荒神社は駅近くの新興住宅地のような所にあった。分譲地の一区画を利用したかと思うような敷地に、頭をぶつけそうな石鳥居と石祠があり、それらを数本の木々が囲む小さな神社だった。鳥居は古そうだけど石祠は新しそうで、歴史があるのかないのか一見してはよく分からない。周囲は住宅や雑草の生い茂る寝太郎公園がある程度で静かなものだが、背後を新幹線の高架橋が横切るため、時々列車の走り抜けるごう音が響いてきた。

境内はこまめに清掃しているらしく荒れた感じはまるでない。手水舎も石うす程度の小さなくぼみに水が溜めてあるだけながら、落ち葉が沈んでいたりボウフラが湧いていたりすることもなく清らかな水が湛えられ、大事にされている様子が伝わってくる。

説明板によると見た目の印象よりはるかに歴史があり、江戸時代中期の1750年(寛延3年)に農民たちが石祠を建てたことに始まるという。境内にはいくつかの石柱が並べられ、その中に旱魃かんばつ記念と刻まれた石柱があった。干ばつの悲劇を伝えるものかと思いきや、1939年(昭和14年)の干ばつ時に、寝太郎の築いた堰から水を引いたこの地域だけは豊作だったと、想像とは逆のことが刻まれていた。ここは寝太郎が開墾した千町ヶ原のほぼ中央ということからも、農民が寝太郎への感謝の気持ちを表した神社といえそうである。

寝太郎荒神社の石祠。
寝太郎荒神社

次は厚狭盆地の北端にある曹洞宗寺院、円応寺えんのうじにある権現堂に向かう。寝太郎権現とも称される室町時代に彫られた稲荷木像が収められ、寝太郎権現堂などと呼ばれている。木像は春に行われる寝太郎まつりで、千石船を模した山車に載せられて街を練り歩くという。

せっかく大回りして南側に来たというのにまた北側に戻るのは億劫だが、幸いにして近くに線路下をくぐり抜ける歩道を見つけた。それは暗渠を歩道に転用したような薄暗さと天井の低さで、夜には通りたくないような通路だった。

寝太郎町という字の市街地を抜けると広大な農地に出た。ここまで見てきた新しい建物がひしめく宅地とは違い、大きな一軒家がゆったり点在する昔ながらの景色が残されていた。市街地は人や車がひっきりなしに行き交い落ち着かないものがあったが、この辺りではそれもめったに通らず、風にざわざわ揺れる稲穂の音ばかりが聞こえていた。

厚狭盆地に広がる水田。
厚狭盆地に広がる水田

盆地を取り巻く山裾までやってくると円応寺が見えてきた。権現堂を目指し境内に向かおうとすると、入口のすぐ脇に暗い山中に入っていく怪しげな階段を指し、寝太郎権現堂入口と書かれた標識が立っている。寺を目前にして脇に逸れるとはどういうことだろう。よく分からないが行ってみるより選択肢はない。

先を伺うようにそろりと階段を上がっていくと、雑木林の中を延びる山道に変わった。頭上は日も差し込まないほど枝葉が茂り、ほとんど訪れる人はないらしく足元にはこんもり落ち葉が積もっている。猪の掘り起こした大きな穴が空いていたかと思えば、蛇がうろついていたりして気が抜けない。足元ばかりに気を取られていると顔にクモの巣が引っかかり、さらには蚊に刺されたりと散々である。

木々の隙間から円応寺を見下ろしながら数分歩くと、寝太郎権現堂ではなく、杉木立と雑草に囲まれた鳥居が現れた。背後に延びる石段の上には社殿らしきものも見える。薄暗く踏み跡すらない様子は廃村の神社を彷彿とさせる。いつの時代の何という神社なのか、扁額は見当たらず、柱に刻まれた文字も風化していて読み取れない。

円応寺裏手にある鳥居。
円応寺裏手にある鳥居

予想外の展開による期待と不安を抱えつつ、鳥居をくぐり石段を上がっていく。狭い谷間のような薄暗い所で、進むほどに湿り気を帯びた空気に変わっていく。蚊が多そうだという悪い予感は的中し、気がつけば早くも手の甲に止まっていた。刺されないように手や首筋をやみくもに動かしたり触れたりしながら足早に進む。

石段の先にあった建物には山陽小野田市の文化財なる案内板が設置されていて、忘れ去られた神社かと思ったがそうでもないようだ。読むとこれは社殿ですらなく、どうやら円応寺の薬師堂のようで、鳥居は神仏習合の名残りといったところか。

薬師堂の隣りには同じような姿をした建物がもう一棟あり、そちらの案内板を読むとなんとこれが目的の寝太郎権現堂であった。寝太郎権現の木像が収められているのだろうか、扉は閉ざされていてその姿を伺うことはできないが、駅前に立つ銅像のモデルというから姿は想像できる。建物を眺めたらもうやることはなく、ここもまた歩けばクモの巣にかかるし、立ち止まれば蚊に刺されるとあって早々と退散した。

円応寺裏手の山中に佇む寝太郎権現堂。
寝太郎権現堂

円応寺から近くを流れる厚狭川を少しさかのぼれば、寝太郎が築いたという用水路の大元、寝太郎堰とも呼ばれる取水堰がある。しかしそろそろ駅に向かわないと10時台の列車を逃してしまうので寝太郎めぐりはここまでにした。美祢線はローカル線だけにこの列車を逃すと、次は13時過ぎまでないので逃す訳にはいかないのだ。

寝太郎堰は見れなかったけど、盆地をうるおす寝太郎用水路に沿うように駅を目指す。滔々と静かに豊富な水が流れている。水路沿いには木造やレンガ造りの歴史を感じさせる建物や塀があちこちに残され、炊事洗濯などに利用したのか、川面近くまで下りられる階段も点在している。新興住宅地とは一味違う風情ある通りであった。

赤レンガの塀に沿って流れる寝太郎用水路。
寝太郎用水路

駅に戻ってくると改札前の広々としたホームに、ぽつんと小さな単行列車が停車していた。これから乗車する美祢線の長門市行きだ。車体には長門市の隣り仙崎出身で、中原中也と共に県を代表する詩人、金子みすゞのラッピングが施されている。本人を模したイラストや、有名な「こだまでしょうか」の句が描かれ目を楽しませてくれる。

車内は地元民から旅行者まで20人くらいで混み合っている。それが横一列に並んで座っている様は、通勤列車のようで旅行気分は湧いてこない。景色も見にくく微妙な気分だったが空いた席に座ってみると、ちょうど真上にクーラーの吹出口があるため、まともに頭に冷風が当たりなかなか気持ち良く、この車両も悪くないかもしれないと思った。

厚狭駅ホームで発車を待つ、長門市行き707D。
普通 長門市行き 707D

軽快なエンジン音を上げて発車すると、すぐに左に大きくカーブして山陽本線から離れ、内陸に進路を向けた。座っていては景色が眺めにくいので運転席の後に立つと、数多くの貨物列車が走っていた時代の名残りだろう、列車の行き違いを行う信号場を通過した。前方を見ていなければ見逃すところだった。

右手からは分水嶺近くまで車窓の友となる厚狭川が近づいてきた。先ほど訪問を諦めた寝太郎堰をかすめると、盆地を離れて山間に分け入っていく。どんどん人家が少なくなり、駅などありそうにない雰囲気になったところで、湯ノ峠の駅が見えてきた。

湯ノ峠ゆのとう

  • 所在地 山口県山陽小野田市厚狭
  • 開業 1921年(大正10年)2月10日
  • ホーム 2面2線
路線図(湯ノ峠)。
湯ノ峠駅舎。
湯ノ峠駅舎

山間を流れる厚狭川沿いの自然豊かな駅である。両岸には山並みが迫り平地はほとんど存在しない。特に駅のある右岸は、川面に落ち込む斜面を平たく削ったような所で、駅前のわずかな土地に数軒の民家がある他は、田畑を作る土地すら残されていない。対岸は比較的緩やかな傾斜地で、若干の農地を従えた十数軒ほどの集落になっていた。

湯ノ峠とは深山の峠にあるひなびた温泉を想起させ、用もないのに降りてみたくなる魅力的な駅名である。しかし降りたのは私だけで乗る人に至っては皆無である。名前に反して温泉も峠も見当たらないホームに立つと、賑やかなセミの鳴き声と川のせせらぎに包まれ、視界には緑あふれる山々が広がり気分が安らぐ。

構内は2面2線の相対式ホームがあり、両者を結ぶ跨線橋に上がれば、駅から傍らを流れる厚狭川までを見渡すことができた。ホームは4〜5両は収まりそうな長さで、列車の交換設備はその倍くらいある。複線と錯覚させるほど遠くまで並んで伸びる2本の線路が、旅客列車よりはるかに長い貨物列車が行き交っていたことを物語る。

厚狭川沿いに伸びる湯ノ峠駅ホーム。
湯ノ峠駅ホーム

印象に残るのが古びた木造駅舎で、無人駅ながら待合室には窓口や小荷物扱所が残され、作り付けの木製ベンチや、金属パイプで形作られた改札ラッチなどもあり、今にも駅員が姿を表しそうな雰囲気を醸し出していた。切妻屋根の平屋建てというありふれた形ながら、駅前の狭さから出入口が側面にあり、妻面が正面になる関係上まるで三角屋根の駅舎のようで、白い壁と赤茶色の瓦というコントラストにも助けられて垢抜けて見えた。

突然改札口の上にある到着案内板が「トゥルルル」と、電子音とも機械音ともつかない騒がしい音を立てはじめた。慌てて視線を向けると厚狭方面と書かれた文字板に光が灯っていた。列車の接近を知らせる装置で、ひなびた無人駅にしては随分凝っていると思ったが、無人駅だからこそ必要なのかもしれない。いつ頃に設置されたのか分からないけど、最近のしゃれたメロディーが流れたり、詳細な表示が行われる電光掲示板に比べるとアナログで、この駅舎にはよく似合っていた。

無人駅だがカーテンで閉ざされただけの窓口が残る。
湯ノ峠駅 待合室

駅前に出ると目前まで山が迫っていてなにもない。狭い道路沿いにわずかにある土地には、木造平屋建ての駅前商店があったが、こんな所で商売になるのかと思う間もなく、雨戸が隙間なく閉じられているのに気がつく。民家は数軒あれど廃屋らしき建物が散見され、駅前庭園らしき一角には雑草が生い茂る。これでは人を見かけることすら困難そうだが、意外にもウォーキング中の爺さんや、自転車に乗ったおばさんが通り過ぎていく。実は駅からは見えないところに多数の人家があるのかもしれない。

厚狭川

温泉も峠も見当たらないとはいえ、地図にはしっかり湯ノ峠温泉の文字があり、温泉マークまで記されている。しかし残念ながら一軒宿が数年前に廃業して、今はもう湯に浸かることはできないという。湯がだめなら峠を目指そうかとも思ったが、一体どこにあるのかいくら地図を眺めてもそれらしいものは影も形もない。結局どこに向かうべきか決めかね、仕方がないので厚狭川を中心に両岸を散策することにした。

まずは駅前通りを温泉があった下流側に向けて進んでいく。昔は駅からこうして温泉目指して歩いた人もいたのだろうか。そんなことを考えていると道路脇の窪地にある祠に気がつく。傍らからは水が湧き出し、厳重に南京錠のかけられた賽銭箱がある。なんだか分からないが由緒ある水の様子。飛び上がるほど冷たい水に違いないと、暑い中わざわざ下りていき触れてみると生暖かくてがっかり。

数軒の建物がある駅前通り。
駅前通り

草木に囲まれた狭い道路を上がっていくと、木々の隙間から「湯の峠温泉 岡田旅館」と記された看板が顔を出していた。徐々に見えてきたのは古風な木造板張りの建物で、絵に描いたようなひなびた温泉旅館である。雨戸は閉められ営業している様子はない。蒸し暑さにひとっ風呂浴びたい気分で、もしかして営業していたらという微かな望みは打ち砕かれた。源泉があるのならもったいないことである。

旅館前には朽ちかけたバス停があり「湯の峠温泉前」と書いてある。駅前にあったバス停も半ば放棄されたような状態で、廃止されたバス路線の名残りだと思っていたのだが、新しい小さな時刻表が貼り付けてあり一応現役らしい。

湯ノ峠温泉にある岡田旅館跡。
湯の峠温泉跡

旅館の先は緩やかな下り坂になっていて、こうしてみると旅館を頂点として両側が下り坂になっている。まさかとは思うけど峠とはこれのことなのだろうか。考えても答えなど出る訳もなく峠は謎のままである。

さらに進むと突然視界が開けて田んぼが一面に広がった。緑に囲まれるようにして点々と大きな家が建っている。黒瓦と赤い石州瓦が半々というところで、茅葺屋根だったらしき形をした家もある。駅前の山間らしい景色が少し歩いただけで農村風景に一変した。こうしてみると徒歩圏内にかなりの家があり、自転車のおばさんに出会うのも納得である。

地図によると福正寺という地名が記されているが、寺院のマークはなく、昔はこの平坦な土地に大きな寺院でもあったのだろうか。福正寺でもあるなら別だが、これ以上進んでも農地が続くばかりのようなのでこちらの探索はここまでにして引き返した。

田んぼの広がる福正寺地区。
田んぼの広がる福正寺地区

駅に戻ると列車までたっぷり時間があるので、次は厚狭川の対岸に見える集落に向かうことにした。地図で見たところ十数軒はありそうな所に国道まで通り、運が良ければ食事にもありつけるかもしれない。高台に大きな池のような水溜りが描かれているのも気になる。

さっそく厚狭川に架かる橋までやってくると親柱に刻まれた橋名におやと思う。そこには湯乃峠橋とあるのだ。つまり駅は「湯ノ峠」温泉は「湯の峠」橋は「湯乃峠」それぞれ異なる文字を用いているのである。どうしてそうなったのか面白くもあり不思議でもある。

川面を覗き込むと水量は豊富だが微妙な濁りがあり、白い泡まで点々と流れていてお世辞にも清流とはいえない。しかし釣り人を目にするあたり意外ときれいなのだろうか。

晴れたり曇ったりを繰り返していた空に厚い雲が広がりはじめ、暗くなってきたと思ったら雨までこぼれはじめた。傘を厚狭駅のコインロッカーに置いてきたので少し焦ったが、幸いにしてすぐに止んでしまった。これで涼しくなるなら良いけど、高温多湿で風もないので汗だけはとめどなく流れる。

厚狭川と湯ノ峠駅。
厚狭川と湯ノ峠駅

国道を横断して傾斜地を上がっていくと、地図で見て気になっていた池に出た。ダムのように直線的な堤で水がせき止められた人工的なもので、学校プールにして百杯分くらいありそうな大量の水が、深緑色の水面を見せて広がっていた。農業用水のようだけど名前や用途を記したものは見当たらず、詳しいことは分からなかった。

地図では傍らにある厚狭川支流の稲倉川が流れる狭い谷へ、取水用らしき水路が伸び、おあつらえ向きに並行する道路まである。期待した食事処もないので暇つぶしにたどってみることにした。川でも水路でも流れをたどるのは楽しい。右へ左へ曲がりながら延びる水路には、冷たそうな水が流れ、子供の時分ならここで夕暮れまで遊んでしまいそうな所だ。

道は軽トラ専用のような狭い箇所や、竹と針葉樹の密生する薄暗い箇所と続き、趣があるというよりは心細さを感じる。数百メートルほどでコンクリート壁が細流をせき止める、土砂に埋まった砂防堰堤のような所に着いた。ここから池まで水を引き込んでいるらしい。ただ木立の隙間から緑色の水面がちらりと見える程度で面白みはなかった。

取水堰に続く水路。
取水堰に続く水路

駅に戻ってくるとまだ時間があるので、今度は駅から上流側にも行ってみたが、こちらは行けども行けども山の中といった具合で特筆すべきものは見当たらなかった。上流・下流・対岸と三方向を散策してしまうとやることがなくなり、ここで食堂でもあれば最高なのだが、それも見当たらず最後は駅でおとなしく過ごした。

やってきた列車は先ほどと同じ金子みすゞのラッピング車両だった。乗降客は私だけで駅は閑散としているが車内は酷い混雑で、ざっと数えただけで30〜40人は乗っていた。足の踏み場もないとはこのことで、中に進むことすらままならずドア横に立っていく。

湯ノ峠駅に入線する、長門市行き普通列車。
普通 長門市行き 711D

列車は厚狭川の流れをなぞるように山間を進む。線路は明治時代に敷設されただけにトンネルや鉄橋は最小限に抑えられている。所要時間は伸びて災害にも会いやすく、JRも日常利用者もあまり嬉しくはないだろうけど、先を急ぐでもない私のような旅人としては眺めの良い車窓をじっくり楽しめて喜ばしい。

川面を見つめていると広い河川敷がほとんどないことに気がつく。急峻な山が両岸から水際まで迫っている。柔らかい地質なのか川幅を広げる間もなく、流れのある部分だけ、どんどん掘り下げられていったようにも見えた。

厚保あつ

  • 所在地 山口県美祢市西厚保町本郷
  • 開業 1905年(明治38年)9月13日
  • ホーム 2面2線
路線図(厚保)。
木造平屋建ての厚保駅舎。
厚保駅舎

山陽小野田市から美祢市に入ってすぐの所、美祢線沿いを流れる厚狭川と支流の原川が合流する付近に、山並みに囲まれながらも川沿いを中心にまとまった平地がある。そこに開業当時は西厚保村の代表駅であった厚保駅がある。そのような土地だけに周辺には住宅だけでなく、小中学校や郵便局など公共施設も揃っていた。

乗客をかき分けるようにして混雑する車内から降り立った。湯ノ峠に比べると街らしい所だけに私の他にも数人が降りていた。相変わらず気温は高いがホームには勢いよく風が通り抜けていて、さほど不快な感じはしない。列車と乗客が去ると静まりかえり、聞こえるのは遠くから風に乗ってくる車の音とセミの鳴き声くらいのものである。

2面2線の構内は長大な貨物列車が行き交っていた名残りで、ホームの先まで続く長々した交換設備を擁していた。中ほどにあるホームは5〜6両が収まる長さで、側面に見える石積み、何本も並ぶ木製電柱、大きく育った庭木などに歴史を感じさせる。傍らには古めかしい木造駅舎が佇んでいて、蒸気機関車でも置いたらよく似合いそうだった。

長い有効長を持つ厚保駅構内。
厚保駅 構内

大柄な木造駅舎は見れば見るほど古い建物だった。開業当時からあるように見えるが、だとすれば築百年を越えた明治時代の建物だ。垢抜けた洋風建築でもなければ荘厳な和風建築でもない平凡なデザインだが、薄汚れてくすんだ色合いに継ぎ接ぎのように改修された姿が、風雨に耐えてきた長い歳月を表していて趣がある。

ところが駅前側から眺めると印象は大きく異なり、白い壁に赤い屋根という装いで観光地の玄関口のようですらあった。よほど予算がなかったのか表側だけ改装してあるのだ。

待合室は無人化されて窓口は隙間なく塞がれていたけど、こちらも近年改装されたらしく外観から想像するよりきれいで、花が生けられ清掃は行き届き、温かみを感じさせる空間になっていた。木製の大きなテーブルを取り囲むように、所狭しと小物が並べられ、本棚や貸し自転車まで置いてある。かつての駅務室は会議室のようにリフォームされ、地域交流ステーションと名付けられていた。おばあさんが5〜6人で雑談していると思ったら、程なくして琴の練習がはじまり、駅の中から外まで琴の音色に包まれた。

厚保駅の改札口周辺。
厚保駅 改札口

駅を出ると正面の一等地に小さな電気店があり、そこに厚保駅という看板が掲げられ、切符の委託販売をしていた。他には人気のないタクシー営業所や集会所、それに民家がいくつかある程度であまり活気のない駅前風景である。

神功皇后じんぐうこうごう神社

地域の中心地らしき本郷町という所に向けて足を進める。どこに行こうという宛はないので何となくである。沿道には住宅や中学校などを見かけるが、食料品店や雑貨店のような個人商店は見かけない。最も欲している食堂も見当たらない。それなりに人口がありそうでいて人通りがなく駅前同様に活気が感じられない。

遠く山すそに大きな屋根が見えはじめ、寺の本堂だろうかと考えながら進んでいくうち、玉垣で囲まれ日章旗がゆったりはためく様子から神社であることに気がついた。近くまでやってくると農地の中に大きな鳥居が取り残されたように佇み、そこから真っすぐ山すその神社に向けて参道が伸びていた。扁額には神功皇后神社とある。

社叢を開墾して鳥居だけが残されたようでもあるが、柱には大正15年と刻まれていて意外と新しく、鳥居の方が後から立てられたと思われる。この年は昭和元年という表記に慣れているのでどこか違和感を感じる。もっとも昭和元年だったのは年末の7日間だけなので、当時の人からすれば昭和元年という呼び方にこそ、違和感を感じるのかもしれない。

神功皇后神社の鳥居。
神功皇后神社

参道を通り山すそまでやってくると、城壁のように立派な石垣に囲まれた神社があり、出入口には不釣合いなほど小さく古びた鳥居があった。風化して刻まれた文字は定かでないが、正徳三年と刻まれているように見えた。だとすれば江戸時代も半ばに差し掛かろうかという時代のものだ。周囲の立派な構造物は後年作られたもので、元々はこの小さな鳥居と社があるくらいの神社だったのかもしれない。

深い木々に囲まれたセミの賑やかな境内には、いくつもの石碑や石柱に、説明板などが立てられていて歴史を感じさせる。拝殿のすぐ前には「神功皇后神社のイチイガシ」という説明板があり、それによると樹齢およそ500年という巨木で、県の天然記念物にも指定されているという。ところがそれらしい木は見当たらず、かといって切り株も見当たらない。不審に感じつつ探していると、拝殿の背後に隠れるように立っていた。

近づくと目通り6.5mという数字以上に大きく見えた。どっしりした太い幹は途中で二手に分かれ、そこからさらに無数の枝葉が広がり、均整の取れた美しい立ち姿をしていた。ところが背後に回り込むと幹の表面が、えぐり取られたように大きく割れていたのには驚いた。表と裏で異なる表情をしているとは、まるで厚保駅舎のようである。

神功皇后神社のイチイガシ。
神功皇后神社のイチイガシ

突如として広がりはじめた黒雲と雷鳴に追い立てられるように急いで駅に戻ってくると、相変わらず琴の音色が響いていて、雷鳴とは無縁のまったりした空気が流れていた。待合室にはおばさんがひとり座っていて列車を待っているのだと思ったが、少し話をすると駅の管理をしている方だった。琴の練習が終わるのを待っているという。

地元に詳しそうなので見どころを訪ねると、神功皇后神社のイチイガシを勧められた。歩いて行ってきたと知ると、自転車を貸したのにと残念そうにしていた。次の四郎ヶ原の見どころも尋ねると、少し首を傾げながら「なにもないねえ」といい、今度は私のほうが残念な気持ちになった。まだ厚保の方が色々あると寺などを勧められたが、全駅完乗の旅なので四郎ヶ原に行かないという選択肢はないので仕方がない。

また駅前の電気店が委託販売している切符は、今では珍しいと全国から買い求めてくる人が後を絶たないそうで、先日は北海道からも来たという。おばさんの「車内で払ってもいいよ」という言葉を背に受けながら、せっかくなので買いに行くと店の奥から婆さんが出てきた。四郎ヶ原までの乗車券を求めると、ゆっくりした動作で引き出しから乗車券を取り出し、日付印を押して渡してくれた。尋ねたわけではないが、そのまま振り向くと壁に貼られた時刻表に目をやり、列車の時刻まで教えてくれた。

厚保駅の常備券。
厚保駅の常備券

駅では琴の練習が終わり歓談しながら中高年の女性たちが去っていく。途端にひっそり静かになった。入れ替わりに交流ステーションに入った先ほどのおばさんに招かれると、冷房がよく効いていて涼しい。促されるように椅子に座ると冷たい麦茶に菓子まで出され、疲労と空腹感に襲われていたところなので嬉しかった。

室内はあの古い駅舎の中とは思えないほど現代的に改装されていた。壁にはたくさんの絵や写真が飾られ、色々な方の作品を定期的に入れ替えて展示しているという。また美祢線をゆく貨物列車や蒸気機関車の写真も飾られていた。

交流ステーションとホームは直接出入りできるようになっているため、列車が止まってからでも間に合うと言われつつも早目にホームに出て列車を待つ。現れたのは初めて見るカラフルなラッピングが施された車両だった。乗車すると15人ほどの乗客で混んではいたけど、先ほどの足の踏み場もない状況に比べると余裕を感じる。

厚保駅に入線する、長門市行き普通列車。
普通 仙崎行き 713D

列車は厚狭川に寄り添うように上流を目指す。両岸には川まで山が迫っているが高さがないため、山間というより丘陵の中にいる気分だ。景色は時々小さな集落や農地が見られるくらいで変化に乏しく、さほど印象に残ることなく四郎ヶ原に到着した。

四郎ヶ原しろうがはら

  • 所在地 山口県美祢市東厚保町川東
  • 開業 1905年(明治38年)9月13日
  • ホーム 2面2線
路線図(四郎ヶ原)。
古びた木造の四郎ヶ原駅舎。
四郎ヶ原駅舎

厚狭川沿いにある広くなだらかな土地で、両岸から山の迫る地形が続く中では、ここだけ随分と開けていた。そこに田んぼを中心にして古くからの農家らしき大きな家が点在する。かつては鉄道で積み出していたのだろうか、駅に隣接して農協の大きな倉庫があるなど、のどかな農村の雰囲気を漂わせた所である。

運転士に厚保の常備券を手渡すと顔を近づけてまじまじと眺めていた。この切符を差し出す人は滅多にいないのかもしれない。降りたのは私だけで乗る人もない。

構内の雰囲気は厚保にとてもよく似ていた。開業日が同じだけに設計も同じなのだろう。跨線橋に上がり全体を見渡せば、2面2線の交換設備やホームは複線区間かと見紛うほど長く、今では1両や2両の短い列車ばかりとなったこの路線にはもったいないほどだ。その点は厚保だけでなく湯ノ峠とも同じで、次の南大嶺もまた同じなのだろう。

厚保駅によく似た四郎ヶ原駅構内。
四郎ヶ原駅 構内

駅舎もまた厚保にそっくりで相当古い。柱に取り付けられた管財表には明治38年と記されていた。作りは瓜二つながら向こうがまだまだ現役という空気を漂わせていたのに対し、こちらは今にも引退しそうなほどくたびれていた。改修を繰り返したのか継ぎ接ぎのようなトタンやスレートに包まれ、昭和の時代から細々経営している町工場のようだ。

待合室に入ると2階が作れそうなほど高い天井の広い空間でありながら、ベンチがあるだけで時計はおろかゴミ箱すら見当たらず寒々しい。花のひとつでも生けてあると印象も変わるのだがそれもない。窓口や小荷物扱所の跡地は完全に塞がれ、その造形から窓口があったと分かる程度でしかない。大柄な待合室や駅務室が、多数の駅員や利用者で賑わっていた時代を想像させるが、それが余計に現状を寂しく感じさせた。

四郎ヶ原駅待合室。
四郎ヶ原駅 改札口

駅を出ると正面にはもう農地が見えていて、明治時代から駅があったとは思えないほど、のどかな景色が広がっていた。出入口の傍らにはカイヅカイブキだろうか、芸術的にねじれた大きな常緑樹があるのが印象に残る。

駅名の由来と名所が手書きされた古い看板があり、それによると駅名は1.8km北にある宿場名から取られたという。名所としては江の河原の石造板碑というものが書かれている。供養塔に使われた板碑のことだろうか、気になるが詳しいことが記されていないのでよく分からない。

何もない四郎ヶ原

厚保駅のおばさんに「なにもない」と言われた所だけに困った。とりあえず食堂でもないものかと厚狭川の対岸を走る県道に向け、駅の下流側に架かる橋を渡ると、うどん屋の大きな看板を発見した。もはや昼飯というより夕飯に近いけど、これでようやく食べられると喜んだのも束の間、店頭まで来ると10分前に営業を終えたところであった。

ただでさえ疲労と空腹で歩く気力もなくなってきているのに、がっかりしたら益々歩きたくなくなった。しかし何もせずに帰るのもつまらないので気力を振り絞り、再び厚狭川を渡ると駅の裏手にある集落の方に向かった。せめて駅の周辺をひと回りしてみようという訳だが、元々は茅葺屋根だったらしき建物などもあり意外と良い雰囲気の所だった。

住宅と農地が点在する、のどかな四郎ヶ原駅前。
駅前風景

緑に囲まれた中に田んぼと住宅が点在する田舎の集落といった中を、適当な道を選びながらたらたら歩いていく。地図によると神社があるようだけど見当たらないし、隠れ家的な食堂でもないかと思うが建物はどれも住宅ばかりで、立ち寄れそうな所は何もない。田んぼに近づくと数えきれないほどたくさんのバッタが飛び跳ねる。あまりに数が多いので捕まえようと試みるが無駄に体力を消耗しただけに終わった。

駅の上流側で厚狭川に架かる橋、その袂までやってくると脇にある自家用らしき小さな畑で、婆さんが農作業に勤しんでいた。橋の向こうは江の河原という地区で、そこにあるという石造板碑が気になるが歩きたくもない。そこではたして行くほどのものなのか試しに見どころを尋ねてみると、少し考えてから「この辺はなにもないねえ」と、厚保駅のおばさんと同じ答えが返ってきた。もし石造板碑のことを口にされたら行こうと思ったけど、これで心置きなく四郎ヶ原を去ることができそうだ。

先日も同じようなことをテレビ取材で尋ねられたそうで、そんな話をしながらもさらに考えてくれたけど、結局何も思い浮かばなかったようで、「この辺は田舎だしねえ」とひとり言のように呟きながら農作業に戻っていった。

四郎ヶ原を流れる厚狭川。
厚狭川

駅に戻ってくると長門市行きの列車がやってきた。列車からは高校生が2人降りてきて、多少なりとも定期利用者がいるようだ。タイミングよくやってきた列車だけど、次の駅に向かおうという元気はなく、遠ざかる車両を見送った。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

ぼんやり帰りの列車を待つ。四郎ヶ原駅の厚狭方面ホームには待合所があったらしき跡地がある程度でベンチすらなく、これで暑かったらたまらないが、幸いにして強風のおかげで過ごしやすかった。空を見上げると台風でも接近しているのかと思わせるほど、猛烈な勢いで雲が流れていた。

30分ほどで現れた列車は先ほど乗ったのと同じ車両だった。四郎ヶ原をさまよい歩っているあいだに、日本海に面した仙崎まで往復してきたのだ。乗客は15人くらいで混雑というほどではないが空いてるほどでもいない。ロングシートばかりで座ると景色が楽しめないが、疲れたので立っていく気にはならず、どっかり座るとウトウトしながら厚狭に戻った。

四郎ヶ原駅に入線する、厚狭行き普通列車。
普通 厚狭行き 716D

美祢線は意外なほど利用者が多いが単行ばかりで、もう少し車両にゆとりが欲しい。旅は序盤で乗車時間が短いからまだいいけど、徐々に長時間の乗車になっていくことを考えると、景色の眺めにくさと混雑に先が思いやられる。ただ悪いことばかりではなく冷房がとにかくよく効いていて、下車する頃には寒気を感じるほどであった。

(2017年8月21日)

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