目次
プロローグ
2017年8月23日、早朝の厚狭駅には、薄雲の広がる空から淡い光が差し込み、ほのかに涼しさの感じられる風が吹き抜けている。清々しい朝であるが、予報では快晴なのでじきに差すような光に変わり、猛烈な暑さに見舞われるだろうことを想像すると滅入るものがあった。
乗車するのは6時27分発の仙崎行き普通列車で、美祢線の下り始発列車である。利用者の少なさを物語るような単行の小さな車両に乗り込むと、見た目とは裏腹に利用者は多く、10人近く乗車していた。車内は冷房がよく効いていて快適だが、座席が通勤列車のようにロングシートで車窓を楽しむのに向いていないのが残念。ぼんやり床や天井を眺めて発車の時を待った。
列車は徐々に山間に分け入っていく。厚狭川が線路に絡みつくように右へ左へと場所を変えながら流れている。まだ太陽は低く日陰が多いが、所々に朝日が差し込み朝露に濡れた草木が輝いている。そんな自然豊かな景色を楽しもうと、首をねじるようにして背中側にある車窓に目を向け、トンネルに入ると前を向いて首を休ませる。やはりロングシートは旅には向いていないと思う。どうにも見にくいので最後は運転席の後ろに立ち前方を眺めていく。
朝の列車といえば街に向けて少しずつ混雑してくるのが定番だが、通勤通学には早いのか、それともこれが需要の全てなのか、途中駅での乗降はないまま南大嶺に到着した。
南大嶺
- 所在地 山口県美祢市大嶺町西分
- 開業 1905年(明治38年)9月13日
- ホーム 2面2線
緑あふれる丘陵を縫うように厚狭川が流れている。所々にある平地には住宅や田んぼが点々と配されている。美祢線では見なれた景色の中に、ちょこんと置かれた小さな駅である。今ではありふれた途中駅のひとつにすぎないが、かつては石炭の積み出し駅として賑わった大嶺駅に至る、全長2.8kmの大嶺支線の分岐駅であった。
美祢の市街地を目前にした駅なので多少の利用者はあるかと思ったが、乗降客は私ひとりだけしかいない。乗ってきた列車が去るとしばらくは上下どちら方面の列車もなく、駅員も利用者もいない駅はひっそりとしていた。
跨線橋に上がり構内を眺めていると、雑草の茂る石積みの長いホームや、自然に帰りつつある広い敷地が、かつての繁栄ぶりを教えてくれる。大嶺支線が使用していた線路やホームの痕跡はしっかり残され、複数の側線があったことも見て取れる。今では偶にやってくる小さな車両がホームの一部分を利用する程度である。
湯ノ峠、厚保、四郎ヶ原、訪れた各駅には開業当時の木造駅舎が残されていたため、美祢線ではそれが当然のような感覚になりつつあったが、南大嶺の駅舎はコンクリートで作られた愛想のない長方形の箱だった。開業日は厚保や四郎ヶ原と同じなので、元々は同じ姿をした木造駅舎があったことは想像に難くない。こざっぱりした外観はこれはこれで悪くないが、待合室は清掃する人がいないらしく、長居はしたくないほど汚れていた。
駅前には酒屋ともうひとつ看板すらない商店が並んでいるが、どちらもカーテンを閉ざし営業している風ではない。昔は他にも何軒かあったらしく、建物の基礎が夏草に埋もれるようにして顔を出している。どこを歩いても寂れた空気を感じさせる駅である。
大嶺支線
駅を出ると考えるまでもなく大嶺支線跡を、終着駅だった大嶺駅跡に向けてたどりはじめた。廃止されたのは20年ほど前なので国鉄どころかJRだった時代さえある。近年まで美祢線の一部だったのだ、歩いてでも踏破してこその美祢線完乗といえよう。
支線とはいっても美祢線は大嶺にある炭鉱からの石炭輸送を目的に建設された路線のため元々こちらが本線で、当時は厚狭から大嶺までを結ぶ大嶺線と呼ばれていた。それが当駅から分岐した線路が日本海側にまで達すると、陰陽連絡線でもあるそちらが本線となり、行き止まりの大嶺方面は支線に転落。さらに炭鉱閉山で当初の目的は失い、1997年(平成9年)には細々と続けられていた旅客輸送も廃止され、百年近い歴史に幕を閉じた。
数分も歩くと線路こそ剥がされているものの、ひと目でそれと分かる大嶺支線の路盤がきれいに残されていた。水路と交差する箇所にはレンガ積みの橋台があり、信号機の支柱もそのまま立っている。走り抜けていく列車の姿が目に浮かぶようだ。
こうしてどこまでも遺構が残されているなら面白いのだが、程なくして線路跡は広々とした真新しい道路に姿を変えてしまった。知らなければここに線路があったと想像することすらできないだろう。交通量は少なく歩道まであるので歩くのは楽だが、これでは単なる道路歩きでつまらない。整備されていない所を歩くのは考えものだが、整備されすぎた所を歩くのもまた考えものである。
沿道には多くの人が列車から眺めたであろう住宅や田畑が並ぶ。青空と緑に囲まれた中で石州瓦の赤茶色がよく映えている。この景色を列車の車窓から眺めたかった。
開けた谷の中央部を行く道路に日陰はない。気温の上昇にアスファルトからの照り返しが加わり、あまりの暑さに汗がとめどなく流れる。こんな中でも子どもたちは元気が良くて、どこに遊びに行くのか4〜5人で賑やかに歩いている。あまりに鉄道の匂いが感じられないので、子ども達を見送っていた母親らしき人に線路がどこにあったのか尋ねると、やはりこの道路の辺りにあったという。
やがて谷が狭まってくると、渓流沿いに家々が密集する小さな町が見えてきた。平地の少ない谷底に軒を連ねる様はいかにも鉱山町である。その入口にある郵便局の片隅に「大嶺駅跡」と刻まれた石柱が立てられていた。周辺はきれいに整地されて道路や建物に生まれ変わりつつあり、駅舎やホームなど往時を偲ばせる物は何も見当たらない。辛うじてバス停に「大嶺駅前」という名前を見つけたが、これだけ痕跡が何もないと、終着駅にやってきたという感慨のようなものは湧いてこなかった。
近くにはM字型をした大きなモニュメントがあり、鉄道があったことを伝える記念碑のようなものかと思ったが、大嶺炭鉱の坑口に設置されていたという要石であった。モニュメント中央部にはめ込まれたそれには、錨と桜を組み合わせた海軍マークが刻まれ、海軍炭鉱として開発された大嶺炭鉱の歴史を今に伝えていた。
駅跡から先の狭い谷間には、炭鉱が盛況だった当時は活気があったであろう商店街が延びている。歯抜けのように空地があり店舗も大半は閉ざされているが、建物に残された時計店や病院などの文字に往時の繁栄ぶりが偲ばれる。今では歩いているのは私だけ、聞こえてくるのはセミの鳴き声くらいのものだ。
照りつける太陽から逃げるように、谷間を流れる細流にかけられた小橋を渡ると、涼しげな音をたてる流れに暑さが和らぐ。清流ともいえる澄んだ流れを見せているが、石炭で黒く染まった時代もあるに違いない。川べりには家々が軒を連ね、中には川の上にせり出すように建てられたものもある。わずかな土地すら無駄にしないという姿に、狭い谷に人々がひしめいていたことを感じさせる。
石炭の積み込み施設などがあったはずの大嶺支線の終端がどうなっているのか気になり、それらしき場所を歩いてみるが往時の姿を知らない私には、どこに何があったのか想像することすらできないほど痕跡がない。これを見てもう引き返そうと思った。
帰途は午前中とは思えない厳しい暑さに体力が削られていく。軽快に追い抜いていく路線バスの後ろ姿を恨めしく見送る。バス停の名前だけ確認して時刻表を確認しなかったことが悔やまれる。40分ほど歩き続けてようやく駅に戻ってくると、駅前に並ぶ自販機に直行、そして待合室のベンチにへたり込んだ。
落ち着いたところで地図を眺めていると、駅前のこんもり緑に包まれた小山に神社があることに気がついた。神社なら涼しそうだし時間もあるので試しに麓まで足を運ぶと、山頂部に向けて細々とした道路が延びていた。鳥居も標識もないがこれが参道に違いない。点々と咲く白百合を眺めながら上がっていく。
神社の気配はまるで感じられないが唐突に小さな社殿が現れた。神社があると分かっているからだが、鳥居や注連縄など見当たらず瓦屋根をしたその姿は、社殿というよりお堂のように見える。隣接して平屋建てながらその数倍はありそうな建物があり、小さな神社にしては随分と立派な社務所だと思ったら、祖父ヶ瀬集会所という表札が掲げられていた。
詳しいことは分からないし涼しくもない、これでは長居をしても仕方がないと参拝を済ませると早くも引き返す。途中で近所の方らしき爺さんとすれ違ったので、ふと鳥居がどこにあるのか尋ねるとこの神社に鳥居はないという。そこから神社についての語りが止まらなくなり、過疎化が進んで祭りをやっても若いものが集まらないと嘆いたり、美祢の下領神社から勧請してきたもので、この辺りの集落ごとに同じような神社があると教えてくれる。美祢なら次の訪問駅なので、その下領神社も訪ねてみようと場所を教えてもらってから別れた。
乗車するのは長門市行きの普通列車で、車内にはざっと20人くらい乗っていた。座れるような状況ではないので、最後部に立って流れ去る景色を眺めていく。
発車すると直進する大嶺支線跡から逃げるように大きく右にカーブする。こちらの方が後から建設されたのを物語る線形だ。そこから緑に包まれた丘陵を切り通しで抜けていく。とても市の中心部が近づいているとは思えない景色だが、切り通しを抜けると住宅の建ち並ぶ市街地に飛び出した。
美祢
- 所在地 山口県美祢市大嶺町東分
- 開業 1916年(大正5年)9月15日
- ホーム 1面1線
石炭や石灰石を産する山々に囲まれ発展した工業都市、美祢市の代表駅で、秋吉台や秋芳洞といった観光地への玄関口でもある。美祢市の人口は約25,000人と、山口県の市ではどこよりも少ないが、沿線では数少ない街らしい街で、美祢線の単独駅としては最も利用者が多く、みどりの窓口まで設置された中核駅である。
降りる人が多い事は想像していたが、ドアが開くと同時に大半の乗客が降りてしまったのには驚いた。そして入れ替わりに大勢の乗客が乗り込んでいた。美祢線というだけあって、美祢に向かう人と、美祢から去る人が利用する、美祢市のためにあるような路線だ。
利用者は多いがホームは駅舎に面した単式ホームがあるだけで、ここまでの各駅ではどこよりも簡素だった。鉄骨造りのどっしり大きな上屋のおかげで、どうにか体面を保っているように見える。かつては島式ホームもあり1〜3番線まで並んでいたようだが、そちらは二度と使用することはないとばかり、上屋から駅名板に至るまで取り払われ、残骸のようなものだけが残されている。線路だけはそのまま残されているが錆びついていた。
有人駅だがホームに長居をしていたら改札から駅員が姿を消してしまい、駅務室にも見当たらないので困った。切符であれば切符入れに放り込んでおけば良いのだが、あいにくと現金払いなのでそうもいかない。待てど暮らせど駅員は現れず、仕方がないので使用済み切符の投入口に現金を放り込んで改札を抜けた。
駅舎には大きな窓口と大きな改札口があり、広い待合室にはベンチが並ぶ。跡形もないが以前は売店もあったに違いない。今では最小限の設備しか使用している気配はなく、利用者の姿も見当たらない。往時の利用者の多さと、現在の利用者の少なさを示唆するような光景だ。
待合室には「Mineにぎわいステーション」なる施設が併設されていて、観光案内所か交流施設かと想像したが、美祢市の観光情報や特産品などを紹介する施設だった。にぎわいと名付ける辺りに賑わいのなさを感じる。並べられたパネルや物品を眺めつつ、手持ち無沙汰にしていた職員の方に食事処を尋ねると、すぐ近くにあるという和食店と洋食店を紹介された。
どこか暗く沈んでいた駅構内とは対照的に、駅前は眩しいほど明るく開放感がある。広々していることもあるが、駅舎から駅前に並ぶ建物、それに周囲の山々まで高さが低いため、空がとても広く見えるのだ。それは同時に日差しを遮るものが無いことも意味しており、焼け焦げてしまうような暑さだった。
歴史民俗資料館
美祢といえば秋吉台や秋芳洞が思い浮かぶが、歩いて向かうには遠すぎるし、何より広大すぎてちょっと立ち寄るという場所ではない。かといって市内にはこれといった見所はなさそうで迷ったが、近くに地域のことを詳しく知ることができそうな歴史民俗資料館を見つけてここに向かうことにした。
その前にまずは昼飯だ。駅では洋食と和食の店を紹介されたが、旅では和食であることが多いので洋食にしてみる。駅から徒歩2〜3分と近いのも魅力だった。そこはこじんまりした清掃の行き届いた店で、冷房は寒いほどに効いていて、居心地の良さにしばらく昼寝でもして過ごしたくなるような店だった。
普段食べることのない変わったものでもと思ったが、店主ひとりで調理から接客まで対応して多忙を極めており、あまり変わったものを注文するのも悪いなと日替わり定食にした。内容も確認せず注文したそれは、タンドリーチキンを主菜にご飯と味噌汁という組み合わせで、わざわざ洋食店に来たのにいつも通りといった献立なのには内心笑ってしまった。私の旅はご飯と味噌汁に落ち着くようになっているらしい。
強い日差しと交通量の多さに辟易しながら歴史民俗資料館に向かっていると、市役所の駐車場に車ではなく蒸気機関車が止まっているのが目に留まる。ふらりと立ち寄ると野ざらしとは思えない錆ひとつ見られない姿で、夏の日差しを受けてギラギラと黒光りした蒸気機関車が佇んでいた。保存の名の下に雨ざらしで朽ち果てていく車両が数しれずある中で、きちんと手入れされている車両を目にするとそれだけで嬉しくなる。
この車両は昭和13年に製造されたC58形の36号機で、北海道や関東などで活躍した後、昭和42年に美祢線を受け持っていた厚狭機関区にやってきたという。大嶺炭田が閉山する前なので大嶺支線で石炭列車を牽引したこともあるのかもしれない。そう考えると何やら親近感が湧いてくる。昭和48年に廃車となってからはここで余生を過ごしているようだ。
さらに驚かされたのは大嶺駅の駅名板が立っていることで、大嶺駅跡には何も残されておらず少々がっかりしていたが、思わぬ所で遺構に出会うことができた。せっかく貴重な車両と駅名板がきれいに保存されているのに、周囲を取り囲むように駐車場になっているため、車が邪魔をして全体を眺めにくいのだけが残念だった。
歴史民俗資料館は静かだった駅以上に静まり返っていた。この手の施設が賑わっていた場面に遭遇したことがない。賑わうどころか他の見学者に出会うことすら希だ。明るい屋外から入った館内はとても薄暗く、静けさと相まって閉館しているかのようですらあるが、窓口に近づくと待ってましたとばかり職員が顔を出した。入館料はたったの100円である。
入館してすぐの所にあるのが化石の展示室。美祢市とその周辺地域は石炭や石灰石と並び化石の宝庫でもあるのだ。この地域で採掘された動物や植物の化石が並べられている。指先に載るような小さな物から、どうやって運び出したのかと思えるほど巨大な物まである。
化石にはそれぞれ種類や時代、産地などを記したプレートが設置され、その多くに岡藤コレクションという文字が記されているのに気がつく。ここは岡藤五郎氏の収集品を中心に展示しているのだという。これだけのものを個人で収集したということに驚かされる。30年ほどかけて10万とも20万点ともいう化石を集め、化石採集中にまだ50代という若さで亡くなったという、化石と共に生きたような方であった。
倒れた時に所持していたという化石は瓶に入ったまま展示され、傍らには愛用品と思われるカメラや採集道具が並べてある。芸術家の道具から職人の道具まで使い込まれた道具を眺めるのが好きな私は、思わず食い入るように眺めてしまった。
2階の展示室に向かう途中、階段の踊り場に並べられた板碑に足が止まる。自然の形を生かした腰ほどの高さがある石板に、虚空蔵菩薩や千手観音などを表す梵字が刻まれている。前回の旅で訪れた四郎ヶ原駅で、周辺の名所旧跡として江ノ河原という所にある板碑のことが記されていたのを思い出す。気になりつつも訪ねなかったので、どのような板碑があったのか多少心残りになっていたが、同じ地域なのだからこのような板碑があったに違いない。
そんなことを考えつつ板碑の足元にある説明板に目を落としてハッとした。そこには江ノ河原の自然石板碑と書いてあるのだ。まさかここで実物を目にすることができようとは、大嶺駅の駅名板しかり、意外な所で意外な物に出会う日である。
2階には大嶺炭田の資料室があり、入口はレンガ積みの坑口を模した作りで、なかなか凝っている。傍らには月明かりに浮かぶ貨車を描いた大きな絵画が飾られ雰囲気を盛り上げている。説明板に目を通すと大嶺炭田の閉山直前に描いた大嶺駅の引き込み線だという。現地に立って昔はどんな様子だったのか思いを巡らしてはいたが、こんな形で往時の姿に触れることができるとは思わなかった。
坑道をイメージした薄暗い通路を通り抜けて資料室に入ると、当時の白黒写真や鉱山で使用していた無骨な道具類が所狭しと並べられている。その中には大嶺支線で使用されていたというレールまであった。薄暗い室内のスチール棚に適当に並べたような展示なので、炭鉱の倉庫に忍び込んだような気分になってくる。
特に目を引いたのが大嶺炭田の模型で、駅はどこだろうかと探すと右下の片隅に小さくあるのを見つけ、広範囲に開発されていた大規模な炭鉱であったことを見せつけられた気分だ。駅周辺には大きなホッパーやボタ山があり、炭鉱との間には索道が伸びている。奥の山間には炭住が並んでいる。現地を見てきたばかりということもあり、あの空地や緑に包まれていた所にこんな設備があったのかと実に興味深い。
展示はさらに遺跡の出土品などの埋蔵文化財から、伊佐売薬という江戸時代から昭和初期にかけて栄えた、置き薬の製造販売に関する資料などが続く。これだけ展示が多岐にわたると内容を覚えきれるものではない。頭に叩き込んだはずの化石や炭田の情報が上書きされてしまいそうで、最後はざっくり目を通す程度にしておいた。美祢線の旅における欠けたピースを埋めてくれる良い資料館だった。
美祢ヤード
食事と資料館ですっかり腹も気分も満たされたが、まだ南大嶺の爺さんに聞いた下領神社が残されている。一旦駅まで戻ってから線路を越えて駅裏側に出ると、そこから長門市方面に向けて歩いていく。こちら側は住宅や田畑が目立ちいかにも駅裏という街並みだった。
右手には何本もの線路が並ぶ美祢ヤードと呼ばれる操車場がちらりと見える。当地からの貨物列車は廃止されて久しく、貨車も機関車も見当たらないが、かつては石灰石を満載した貨物列車が朝から晩まで出入りしていた所だ。詰所や大きな照明塔は残されたままで、遠くには削られて白い肌を見せる石灰石の採掘場や、薄っすらと白煙を上げる巨大な煙突の姿もある。今にも貨物列車が姿を表しそうだが、今や石灰石を運んでいるのはトラックである。
澄んだ青空と黄色味を帯びた田んぼが秋を思わせるが、陽気は真夏そのもので暑い。朝から暑いとは思っていたが、それに輪をかけて暑い。めまいを感じるほどの暑さだ。正確な気温は分からないが体感的には35度を超えている。しかも上り坂というのがまたこたえた。
教えられた所にあった神社は聞いていた下領神社ではなく
市街地にある神社なので道路脇すぐに鳥居が立ち、その向こうには明るく広々とした境内があり、石段の類は見当たらない。鳥居や社殿はそれほど大きくないが境内は広く、祭りの時には大いに賑わいそうな神社だ。神社というのは往々にして木陰が多くて風通しが良く涼しいものだが、ここは日当たりが良くて風もなく非常に暑い。
見どころとしては社殿の背後にはシラカシの群落からなるという社叢があり、市の天然記念物だという。他にはここ下領八幡宮司の長男であったという広岡浪秀を偲ぶ案内板がある。あまり知られていないが桂小五郎や高杉晋作らと共に活動した幕末の志士で、池田屋事件で24歳の若さで命を落としている。
駅に戻りがてら操車場に立ち寄ると、何本も並んだ線路はすっかり錆び付き、バラストの上には雑草が繁茂している。遠目には現役のようにすら見えたが、近くで見ると廃線のそれを思わせる光景で、二度と列車が走ることはなさそうに見える。結局のところ美祢駅周辺には数多くの線路があるが、光っているのは美祢駅1番のりばの1本だけしかないようだ。
そんな赤錆びた線路をたどるようにして駅近くまでやってくると、レールは美祢線の本線に合流していた。発着する列車はなくともレールは繋がっているのだ。さらに石灰石鉱山に向かう専用線もきれいに残されていて、撤去されるでもなく錆びついたレールが伸びていた。貨物列車が廃止されたその日から、手つかずのまま放置されているといった様子である。
長門市行きの普通列車は酷い混雑で到着した。美祢で大部分は降りてしまうだろうと楽観的に車内を眺めていたが、予想に反してあまり降りてこない。乗客はざっと20~30人で皆さんどこに向かっているのか不思議に思う。仕方がないので混雑する車内に足を踏み入れるが、座るところはないし、すぐ降りるのだからと運転席の後ろに立った。
美祢線は年々利用者が減少しているというが、それでもこれだけ混雑しているのだから以前はどれほど詰め込んでいたのだろう。途中駅から乗っては座ることすら困難な列車ばかりでは、車に乗れない人が仕方なく利用する程度で、利用者はますます離れていきそうだ。
発車するとぐんぐん速度を上げながら先ほどの美祢ヤードをかすめていく。歩いては広大に思えた錆びついた線路群だが、車窓から眺めるとあっという間に後ろに遠ざかり、市街地を道連れに視界から消えてしまった。気がつけば緑あふれる山々や田んぼの中で、いつものローカル色豊かな美祢線らしい景色に変わっていた。
重安
- 所在地 山口県美祢市大嶺町北分
- 開業 1916年(大正5年)9月15日
- ホーム 1面2線
いくつもの石灰石鉱山が点在する山々に囲まれた開けた谷間、川沿いの平地には田んぼが点在し、山すそには大小様々な建物が並んでいる。小さな町ではあるが郵便局や寺社に小学校までがある。駅前には石灰石鉱山のひとつがあり、麓から山頂まで削り取られ、いびつな山肌を見せながら町を見下ろしている。近年まで採掘された石灰石を輸送する貨物列車が発着していた駅でもある。
混み合う列車から降りたのは私だけで、見回してもホームはおろか周辺に至るまで、人の姿どころか気配すらない。小さな列車の中にだけ人がぎっしり詰まり、これだけ大勢の乗客が一体どこに向かっているのか不思議な気持ちで列車を見送る。
構内はありふれた島式ホームの交換可能駅だが、それを挟み込むように多数の側線や、側線のあったらしき空地が広がっている。大部分は一歩たりとて立ち入ることができないほどの雑草に埋め尽くされ、どこまでが構内なのか分からないほどだ。
石積みのホーム上には支柱から壁板まで木造の上屋があり目を引く。しかしそれ以上に目を引いたのが朽ちかけのようにして立つ案内板で、なんと大理石で作られているのだ。表面には石灰石と大理石についての説明が刻まれており、雑草の繁茂する広々とした構内や、駅前にそびえる石灰石鉱山と相まって、これらの積み出し駅として賑わった当時が偲ばれた。
大正10年と記された財産票のある木造駅舎に入ると、無人駅で窓口は板でしっかり塞がれていたが、改札口や小荷物扱い所の窓はそのまま残されていた。大正時代の建物らしいが内壁や外壁は張り替えられ、窓はアルミサッシで、そのうえ全体に薄汚れているので、大正というよりは昭和の古びた建物といった雰囲気だ。作り付けられた木製ベンチだけが建築当時のままの姿なのかもしれない。
運賃表やワンマン列車の乗り方などの掲示物に混じって、サルに対する注意を呼びかけるものが貼り出されていた。噛み付いたり引っ掻いたりの被害が出ているそうで、駅にまで出没したという。外出時は複数人で行動するようにとあるが一人旅ではそう言われてもである。
駅前は広いが雑貨店のひとつも見当たらない。駅前から構内への出入口にはレール売却工事を行うという掲示があり、どうやらわずかに残された側線のレールも撤去されてしまうらしい。片隅には大きな駐輪場があるがほとんど使われている気配はなく、静けさも手伝い何ともいえない寂しい空気が漂っていた。
厚狭川
駅を出ると住宅や倉庫などが並ぶ通りを長門市方面に歩いていく。赤茶色をした石州瓦が山陰に近いことを思わせる。不思議なほどに人通りどころか車すら通らない静かな通りだが、商店の構えをした建物がいくつか見られ、駐在所や郵便局など現役の施設もあり、一昔前はもっと賑わいのある通りだったのかもしれない。
まるで動きのない景色の中にあって石灰石鉱山だけは人の気配を漂わせていて、白煙をあげる煙突や、何台も並んだ大型トラックの姿が見られた。昔はここで採掘した石灰石も重安駅から港に向けて発送されていたのだろう。
家並みが途切れる辺りにセミの鳴き声がけたたましい小さな神社があった。ツクツクボウシの鳴き声が目立ち、夏が終りに近いことを感じさせる。こじんまりした社殿があるだけの神社だが、厳つい表情をした枯木が歴史を感じさせる。境内の木陰で休んでいると、いつの間にか日は傾きはじめ、心なしか暑さも和らいできていることに気がつく。あまりゆっくりもしていられないとさらに先に足を進める。
いつも美祢線の近くを流れている厚狭川までやってきて驚いた。厚狭を出てから駅ごとに少しずつ細くなっているのは感じていたが、ついに歩いてでも容易に徒渉できそうな流れになっているのだ。川幅だけは30mくらいあって面目を保っているが、全体に雑草が生い茂り、水の流れはその隙間からわずかに顔を出しているにすぎない。この辺りは雑草にとって余程環境が良いのか、駅といい河川敷といい、空地さえあれば雑草の海と化している。
昭和も中頃に作られたと思わせるコンクリート造りの小さな橋があり、親柱には
厚狭川を越えて助行集落の入口までやってきたが、どうしたものか足が止まる。地図を見ても同じような谷間の風景がどこまでも続いている感じで、ここに行こうと思うような所が見当たらないのだ。もう少し進んでみようか、それとも引き返そうか、助行橋の上を行ったり来たりしつつ思案するが、朝から続いた暑さと疲労で歩く気力自体が尽きかけていることもあり、行き倒れにならないうちに引き返すことにした。
エピローグ
駅前には仕事帰りと思しき人たちがポツポツとやってくる。鉄道で通勤かと思わせるが、そのまま止めてあった車に乗り込んで去って行く。田舎駅の利用者は学生と老人、そして私のような酔狂な旅行者くらいのものである。
ホームにはまだ猛暑の名残りが感じられるが徐々に気温は下がり、風がよく通り抜けることもあり、日陰に入ればさほど不快ではなくなってきた。まもなく草むらから聞こえる虫の音をかき消すようにして、長門市行きの普通列車が入線してきた。すぐに厚狭行きの普通列車も入線してくる。上下列車がやってきたというのに乗り込むのは私だけしかいない。
車内は観光客から地元民まで20~30人くらいが詰め込まれて混雑していた。美祢からはさらに乗ってきて窮屈なことになってきた。美祢以外の途中駅は乗降客がほとんどないので終点までこの状態が続く。乗車する列車が毎度のように混雑していて、さすがにもう少しなんとかならないのかと不満を抱くようになってきた。
(2017年8月23日)
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