目次
プロローグ
2017年8月24日。見上げる空には青空が広がり、ほのかに赤みを帯びた朝日が眩しい。早くも汗ばむ陽気に駅舎の窓という窓が開け放たれている。自由に飛び回るツバメ、気だるそうに歩く学生、所在なげに佇むタクシー運転手、役者はいつもと変わりないが、これだけ好天の厚狭駅は初めて目にした。
乗車するのは始発の仙崎行き。乗客は私を含めて7人と空いている。ロングシートの車両ばかりの美祢線では珍しくボックスシートがある。景色を眺めるには好都合だがそこだけしっかりと埋まっていた。
6時27分、厚狭駅を抜け出すと車内に朝日が差し込みはじめた。そのまま明るい山間を行くものと思っていると、四郎ヶ原を過ぎた辺りから朝もやに包まれはじめ、やがて景色が見えないほどになってきた。しかし上空は晴れているようで太陽に照らされた朝もやが光り輝き、得も言われぬ幻想的な車窓であった。
沿線最大の街である美祢で学生を積み込み、石灰石鉱山に見下された重安を過ぎると、それまで漂っていた産業路線の面影が消えいく。代わりに緑あふれる山々や水田が目立つローカル線の雰囲気が漂いはじめた。厚狭から重安までは石炭や石灰石輸送のため私鉄が建設したものだが、重安から長門市までは山陽と山陰を結ぶべく国鉄が建設したという歴史が、そう感じさせるのかもしれない。
於福
- 所在地 山口県美祢市於福町下
- 開業 1920年(大正9年)10月30日
- ホーム 2面2線
南北に長く伸びた幅広の大きな谷で、両側には屏風のように山が迫り、平坦な谷底には住宅や田畑が広がり温泉も湧く。そのような地形から道路や線路は真っ直ぐに伸びている。分水界を目前にした山深い所とは思えないゆったりした景色だ。厚狭からの各駅が漂わせていた石炭や石灰石輸送の残り香はなく、豊かな自然と湯の香を漂わせている。
列車を降りたのは私だけだったが、入れ替わりに高校生が3〜4人乗り込んでいく。向かい側のホームでは厚狭行きの列車に乗降する姿もある。美祢から先は大きな街がないので、閑散とした区間を想像していただけに意外に映る。
到着時は日の当たらない青々とした景色だったが、列車が去ると間もなく稜線上から太陽が顔を出し、眩しい光が降り注いできた。自然の緑色や石州瓦の朱色が鮮やかに輝きはじめ、澄んだ空気と相まって、山間の朝らしい清々しい景色となった。
跨線橋に上がり盆地のように広々とした谷を見渡す。足元には複線区間のように長く2本の線路が並び、ホームは5〜6両は収まりそうな長さがある。開業当時の人たちはまさか1〜2両の短い列車が走る程度のローカル線になるとは思わなかっただろう。一方で駅裏には絶えず車が走る国道と、食事処から温泉まで備えた道の駅があり、交通としても駅としても主役の座をすっかり奪われた格好である。
開業時から残る木造駅舎に入ると、待合室だけはそのまま待合室だが、無人化されて久しいようで窓口は塞がれ、駅務室は改装されて地域交流ステーションになっていた。かつての小荷物扱い所に設置されたガラス戸から内部を覗くと、木の香りがしそうな真新しい会議室のような空間になっていた。
広々とした駅前広場には人も車も通らずひっそりしている。周囲には何軒か商店があったらしく、間口一杯にガラス戸の並ぶ建物や、シャッターの降りた建物が見られる。看板は降ろされカーテンは引かれ何の店だったのかは分からない。建物は多いが売り物件や空き地が目に付くため、どこか寂れた空気が漂う。
於福という変わった駅名の由来を記した看板があり、律令や戦国などの古い時代の逸話が記されている。興味深い話ではあるが結論からいえば諸説あって分からないようである。
水神 公園
待合室でどこに向かうか思案していると、次の列車に乗るのだろう、地元のおばさんが入ってきたので、何か見どころがないか尋ねてみる。「何もないですね」という定番の答えを予想していると、意外にも「ありますよ」と壁に貼られている写真を指差した。
写っていたのは神秘的なまでに青く透明な別府弁天池。名水百選にも選ばれた湧水だ。存在は知っていたが於福が最寄り駅とは知らなかった。親切にも路線バスを利用しての行き方まで説明してくれる。それともうひとつ水神公園という山間の渓流も教えてもらった。歩いていけるというのに加え、涼しい所だという言葉に惹かれ、こちらに向かうことに決めた。
右へ左へ緩やかに曲がる道路を歩いてゆく。沿道には細かな建物がぎっしり並び、古くからの街であることが察せられる。大きな寺や小中学校もある。夏休み中だと思うが登校する中学生とよくすれ違う。徐々に建物はまばらとなり水田が幅を利かせるようになると、強い日差しをまともに受けて汗が浮かびはじめた。
水神公園の標識に従い脇道に入り、樹林に囲まれた小さな谷をさかのぼっていくと、案内板やトイレの設置された駐車場に出た。想像よりずっと整備された公園らしい。竹で作られた大量の杖が用意してあり、どれだけ険しい道のりが待っているのかと思わせる。
苔むす谷間に整備された遊歩道を進むと、涼しさに一気に汗が引いていく。真夏とは思えないほど涼しい。ここまでの暑さは夢か幻だったのかとすら思える。渓流の上品にさらさら流れる音色や、木々を揺らしながら谷を吹き下ろしてくる冷たい風が心地よい。人の姿はなくセミだけが賑やか。小さな滝を眺めながら上へ上へと登っていく。
水が豊富なだけにカエルも豊富で、アマガエルのような小さいのが無数に佇んでいる。近くを通っても全然逃げようとしない。そのおかげか薄暗く湿った蚊の好みそうな環境ながら、刺されるどころか見かけることすらなかった。
遊歩道の先には壁のない涼しげな中にテーブルや座敷の並ぶ食事処があった。流しそうめんが名物らしく、道すがら流しそうめんの看板やのぼりを幾度も目にした。よほど人気があるのか平日だというのに開店準備をする複数の人影が動いていた。
最上部までくると見上げるように大きな巨岩があり、ゴツゴツした岩肌に苔や植物が取り付き風格がある。それを背景に鎮座する社は案内板によると水神様とあり、鳥居には水神社という扁額が掲げられている。詳しい由来は知らないが古くから絶えることなく水の流れ出す、貴重な水源地として崇められていたのだろうと想像する。
水神公園の涼しさが夢か幻だったかのように汗を流しながら駅に戻ってくると、待つこと数分で9時12分発の長門市行きがやってきた。今回は特に絶妙だったが、そうでなくとも美祢線はローカル線にしては列車本数が多く、とりあえず駅に行けばすぐ乗れるから助かる。閑散時間の日中ですら2〜3時間で次の列車がやってくる。それのどこがすぐなのかと笑われそうだが、田舎では乗り遅れたら4〜5時間待ち、そんなことはざらにあるのだ。
冷房の効いた車内はがら空きで快適にくつろげる。どう数えても4人しかいない。美祢線の列車を利用するのはこれで10本目だが、その中でも頭抜けて空いている。この先に峠越えが控えていることから、経済的な結びつきが薄い区間なのかもしれない。
列車はだらだら続く長い上り坂で標高を上げていく。両側から少しずつ山が迫り、住宅や水田は少しずつ姿を消し、厚狭川は水路のように細くなっていく。そろそろ駅に到着しても良さそうな距離を進んでも景色は山深くなるばかり。それもそのはず於福駅と渋木駅の間は9.9kmも離れているのだ。北海道を思わせる長い駅間距離である。
いよいよ谷が煮え詰まり前方に山体が迫ってくると、行き場を失くした線路は長いトンネルに逃げ込んだ。山陽と山陰を分かつ分水界を貫く
トンネルを抜け出すと一転してだらだら続く長い下り坂となる。青空の下に広がる緑豊かな谷間には、日本海へと向かう細流に寄り添うように水田が広がり、石州瓦を載せた住宅が点在している。青・緑・朱のコントラストが鮮やかで美しかった。
渋木
- 所在地 山口県長門市渋木
- 開業 1924年(大正13年)3月23日
- ホーム 2面2線
深い緑に包まれた山々に囲まれ、山裾の傾斜地には田畑や民家が点在し、谷底では清冽な流れが涼しげな音を立てている。のどかな山村風景に溶け込むように佇む駅である。美祢線は大きな駅舎や雑草の繁茂する広い構内に、過去の栄光を偲ばせる駅が多いが、当駅は珍しく最初からローカル線の小駅だったという顔をしている。
見るからに利用者の少なそうな駅だと思ったが、そんな印象を裏付けるように乗降客は私だけだった。列車が去ると駅前からは川のせせらぎが、周囲の山々からはセミの鳴き声が聞こえはじめる。日が当たったり陰ったりを繰り返すので空を見上げると、台風でも来るのかと思うほど勢いよく雲が流れていた。
小さな駅ではあるが交換設備があり、駅舎脇には保線車両の昼寝する側線もある。観察していると側線脇には雑草に埋もれた貨物ホームが残されていた。なにを積み出していたのか知らないが、貨物列車が発着する賑やかな時代もあったのだろう。
古びた木造駅舎は外装から内装まで至る所が補修され、出入口や窓は木製とサッシが入り交じるなど、なんだか継ぎ接ぎだらけの服のようになっている。さらに補修に使用した板材がめくれたりペンキが剥落したり、あばら家のようでもあり、老体にむち打ちながら現役として頑張っている風でもある。
元々利用者の期待されていない駅だったようで待合室は狭い。通路を挟んで窓口と作り付けのベンチが向かい合っている。当然ながら無人化されているので窓口には木材が打ち付けられて完全に封鎖されている。どこに視線をやっても痛みや汚れが目に止まり、風もなく狭い待合室はムッとするほど熱気が篭もり、お世辞にも居心地が良いとはいえない。
逃げ出すように駅舎を出ると目の前を横切るように川が流れている。土地がないので商店どころか住宅の一軒すらない。線路と河川に挟まれるように道路が伸びているだけである。それでいて川向うや駅裏には多くの住宅が点在しているのだから、なんだか不便な場所を選んで駅舎を置いたかのようですらある。
周囲には利用しているのが1台だけという駐輪場と、駅舎とは対照的なまでに真新しくきれいなトイレが設置されている。不思議なほどトイレだけが近代的な駅だった。
渋木八幡宮
近くには長門富士と呼ばれる花尾山がそびえている。分水嶺でもある山頂からは日本海から遠く瀬戸内海まで望めるという。その眺望には心惹かれるものがあるが、あいにく登山装備も食料も持ち合わせていない。なにより猛暑で登山という気分ではない。かといって他に何があるという訳でもなく、とりあえず近くにある神社を目的地に周辺散策に繰り出す。
堤防道路のような駅前通りを進んでゆくと、川べりにゲンジボタル発生地と刻まれた標柱を見つけた。国指定天然記念物とある。澄んだ緩やかな流れに植生豊かな河川敷はいかにもホタルが潜んでいそうである。しかしゲンジボタルが飛び交うのは初夏の夜であり、晩夏の日中ではホタルのホの字も見られない。
山々に取り巻かれるように水田が広がり、どこが集落の中心地という風でもなく大柄な住宅が散らばっている。茅葺屋根の形を残した古い建物も残る。大半が朱色をした石州瓦を載せているのが印象的だ。景色は良いのだが、駅から離れれるほどに風がなくなり、アスファルトの照り返しも加わって溶けてしまいそうな暑さに参ってしまう。
どこからともなく地響きのような重々しい音が聞こえはじめると、長門市方面に向けて朱色のディーゼル機関車がゆっくり通過していった。何のためにどこに向かっているのか客車どころか貨車の1両すら牽引していない。機関車だけが走る姿はどこか物足りない。
あの機関車は一体何だったのだろうと思いを巡らしていると、今度は厚狭方面に向けて普通列車が軽快に走り抜けていった。どうやら機関車とは渋木駅ですれちがったらしい。見覚えのある車両は先ほど乗ってきた車両に違いなく、早くも折り返してきたことに終点の長門市が近いことを如実に感じる。
列車を見送った所で振り返るとそこに目的の神社がある。高台に伸びる長い階段の途中に渋木八幡宮と刻まれた石柱が立っている。階段を上りながら石柱背面に目をやると、岸信介謹書の文字に視線が止まる。神社ではちょいちょい総理大臣の名を目にする。
光も通さぬほど深々と茂る樹林の中を、雑草や苔に覆われた参道が伸びていた。両側にはいくつもの古びた石灯籠や巨木が並び、荘厳さと神々しさを漂わせている。足を進めると日差しが遮られているのみならず、鳥のさえずりや木々の揺れ動く音などが相まって暑さを和らげてくれる。人里離れた山奥の神社に迷い込んだ気分だった。
案内板によるとこの鬱蒼とした森は、県下でも希少な原始林に近い森だという。貴重さを表すように長門市指定天然記念物・山口県指定自然記念物・山口県自然百選といった文字がそこかしこに記されている。思いがけず貴重な自然との出会いとなった。
このような参道の先には古色蒼然とした荘厳な社殿を期待するが、そこにあったのは新築を思わせる新しさにして、簡素な姿をした社殿であった。意外な展開であるが周囲の広い敷地から察するに、近年まで想像したような社殿があったと思われる。うらぶれた駅舎のきれいなトイレといい、予想外の新しさが最後に現れて驚かされる土地である。
焼け付くような暑さにホームに立ってるだけで汗が流れる。日陰を求めると風がなく、風を求めると日陰がなく、どうしたところで暑い。喉も渇いてきたが自販機のひとつすらない駅なのでひたすら耐える。
待つこと30分ほどで現れたのは今朝乗車した車両であった。私が於福で降りたあと長門市の先にある仙崎まで行き、一旦厚狭に戻ってから、長門市行きとして再びやってきたのだ。乗り込むと涼しさに生き返る気分だ。降りる人はなくすぐにドアが閉まった。思えば美祢線で終始利用者を目にしなかった駅は、湯ノ峠とここ渋木だけである。
発車してしばらくは自然に囲まれた谷間を下っていくが、突如として川沿いに建物が押し合うように並びはじめた。鉄筋コンクリートの大きな旅館もあり湯本温泉に違いない。しかし列車は温泉街を無視するように淡々と通り過ぎ、町外れのひなびた所で停車した。
長門湯本
- 所在地 山口県長門市深川湯本
- 開業 1924年(大正13年)3月23日
- ホーム 1面1線
山口県を代表する温泉のひとつ湯本温泉や、西国随一の戦国大名として名を馳せた大内氏終焉の地とも云われる名刹大寧寺の玄関口である。国鉄時代は九州・鳥取方面に向かう急行列車が停車し、当駅を起終点とする列車が発着するなど賑わった駅。今では利用者や列車本数は減少し、優等列車や駅員は姿を消し、大きな駅舎にのみ昔日の面影を残している。
涼しい車内に後ろ髪を引かれながら降り立つと、待ってましたとばかり熱気が全身にまとわりついてくる。意外なことにスーツケースを手にした中年グループも降りて、宿泊するらしく明日の列車時刻をチェックしてから去っていった。
ホームはひとつしかなく寂しいものだが、さすがは観光地というべきか大きな上屋が張り出していて、雨の日でも濡れる心配はない。線路の向こうには使われなくなったホームや線路の跡が残され、昔は列車交換が行われていたことが分かる。放棄されて相当な歳月が流れているようで、ホーム上の構造物はきれいに取り払われ庭木は巨木と化していた。
大柄な木造駅舎に入ると広々とした待合室に驚かされる。これだけ広いのは美祢線では美祢駅くらいにしかないだろう。スペースはたっぷりあるのにベンチが申し訳程度に置いてあるだけで、がらんどうのような状態なのが少しもったいない。奥には売店でもあったのか壁に小さなドアの痕跡。窓口はきれいに塞がれてすっかり壁と化しているが、独特な形状からそこに窓口があったことはすぐに分かる。温泉を訪れる多くの利用者で賑わっていた時代が目に浮かぶような待合室である。
事務室はどうなっているのか気になり窓から覗き込むと、すっかり改装されて床は一面の板張りとなり、折りたたみテーブルや座布団が山積みにされていた。目立たない所に門前区公会堂という看板が掲げられていて、どうやら地域住民のために第二の人生を送っている様子。
駅前に出てみると送迎車が来ることを想定してか、中央に大きな庭園を配したロータリー構造になっている。傍らには切符の委託販売をしていたらしく、乗車券発売所という色あせた看板を掲げた商店があるが、残念ながらカーテンを閉ざしている。
立派な構えをしていながら人の気配はなくセミだけが賑やかに鳴いている。急に人だけが消えてしまったような不思議な感覚に陥る。美祢線には寂れた駅が並んでいたが、それは主として貨物輸送の衰退や過疎化を要因とするもので、観光地の玄関口としての栄枯盛衰を感じさせるこのような雰囲気は初めてである。
大寧寺
時刻は12時になろうとしている、温泉は魅力的だがそれは旅の最後に取っておくことにして、まずは食事をしてから大寧寺に向かうことにした。大寧寺は1410年(応永17年)に創建されたと云われ、室町から江戸時代にかけ、大内氏や毛利氏から庇護を受けてきた名刹だ。
まずは大寧寺への途上にある温泉街を目指して駅前通りをゆく。途中で食料品店や酒屋は見かけるが飲食店は見当たらない。ようやく見つけても無情にも休業中の文字。有名温泉地ということで賑やかな所を想像してきたが、平日のせいなのか普段からこんなものなのか往来は少なく、駅に負けず劣らず閑散としていた。
静かなだけに川の流れる音が目立つ。川面を見下ろすと釣り人が何人も目に留まる。温泉なのに温泉客より釣り人のほうが多いとはこれいかに。
結局食事は諦めて大寧寺に向かうことに決めた。有名な寺院だし案外そちらに何かあるかもしれないという期待もある。温泉街から大寧寺にかけては県道が通じているが、車に気を使いながら歩きたくないので、案内図で目をつけた旧参道を利用してみる。
それは路地裏を思わせる小路で、ビール瓶が積んであるなど大寧寺に通じているとは思えないような入口であった。足を踏み入れるとすぐに警報機も遮断器もない歩行者専用の小さな踏切に出る。線路の行く手には石積みのトンネルが口を開けていて、天然クーラーのように冷気を吐き出していて涼しい。路地のような参道が石積みトンネルの前を横切る、こんな空想絵図のような風情ある景色が隠れていたとは驚きだ。
沿道には点々と石仏が安置されていて古の参道であることを物語る。大きな道標には大寧寺という文字が読み取れる。道ばたに寝転がる猫をかまってみたり、傍らを流れる大寧寺川という清流に降りてみたり、寄り道を繰り返しながら1時間ほどで大寧寺に到着した。
境内には草木が豊かに茂り、緑に隠れるように本堂が顔を出し、揺れ動く木漏れ日に数多くの石仏が照らされている。寺に自然があるというより自然の中に寺を配した風である。拝観者は私だけで寺の関係者も見当たらず、セミだけが賑やかに鳴いている。
伽藍よりも自然が目立つ大寧寺。古くは西国随一の戦国大名であった大内氏の庇護を受けてきたが、1551年(天文20年)、16代当主である大内義隆が、家臣の陶隆房の謀反によりこの地で自刃したことで大内氏は事実上滅亡、大寧寺も戦乱により焼失した。代わって西国を支配した毛利氏の庇護により再建されるも江戸時代に入ると野火により再び焼失。山門や本堂は再建されたが明治時代になると荒廃が進み山門に至っては倒壊してしまう。結果として往時を偲ばせる建造物は殆ど残されていないようである。
防長三奇橋のひとつという自然石を積み上げた荒々しい盤石橋。かつて格式高い重層の山門があったという礎石の並ぶ山門跡。県下最大級という大きな本堂などを拝観して周る。
周辺には何かしら食事処があるだろうと期待したが、そういった類のものはなく、それどころか自販機すら見つけられない。本堂背後の山中には大内氏や毛利氏に関連する墓碑群があるというが、ついには厳しい暑さと空腹に負けて温泉街の方へ足を向けた。
湯本温泉
1427年(応永34年)大寧寺の和尚が発見したことに始まるという湯本温泉。山口県を代表する温泉のひとつであり、川棚温泉・俵山温泉・湯田温泉と並び防長四湯と呼ばれている。温泉といえば猿や鹿といった動物が発見したという逸話が定番で、和尚が発見した湯というのは珍しいのではないだろうか。
温泉街は山間を流れる
旅の締めくくりは温泉だ。湯本温泉には
驚くべきは料金の安さでわずか200円であった。管理者の常駐する温泉施設としては破格の安さだ。伊豆半島の伊東では公衆浴場が250円で安いと思ったがそれより安い。いかに市営とはいえもう少し取っても罰は当たらなそうな価格設定である。
脱衣所や浴室はこじんまりしているが200円としては上等だ。数名の先客があったが脱衣所の扱いは慣れたもので、浴室では世間話に花が咲き、地元の常連客ばかりといった様子。帰りの列車までゆっくり浸かろうと思ったが、湯はなかなかの熱さで露天もなく、早々のぼせてきて10分が限界だった。
帰りぎわ番台のおばちゃんに食事処がないか尋ねてみると、「ありますよ」と軽く即答した上で行き方を説明してくれた。川沿いに上から下まで歩いても見つけられなかったのにさすがは地元民、などと感心したのも束の間、その店は先ほど訪ねたところで休業中の札が掲げられていた店なのであった。
エピローグ
せっかく温泉で汗を流したというのに、また体から汗を流しつつ駅に戻ってきた。時間的には次の板持駅にも向かえるが、そうすると終点の長門市駅だけが未乗で残される中途半端な状態になるので、残り2駅を次回の楽しみに残して帰途につく。
定刻通りやってきた厚狭行きの普通列車に乗り込む。乗車するのは2人だけだが、5人くらいが降りていく。車内にはざっと15人くらいは乗っている。美祢線は廃止が噂されるほど利用者が少ないと聞くが、本当なのかと思えるほど混んでいることが多い。
ボックスシートに相席させてもらうが、あいにくカーテンが閉めてあり景色が見えない。ぼんやり時間が過ぎるのを待っていると、カメラを手にしたおじさんが立ったり座ったりする姿が視界に入ってくる。なにかを見つけると近くの窓まで移動して撮影しているようだ。なにを撮影しているのか気になるがよく分からない。
美祢から先はそんなおじさんすら身動きできなくなるほど混雑が激しくなり、人間の瓶詰めのような状態で西日の照りつける厚狭駅に滑り込んだ。
(2017年8月24日)
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