目次
プロローグ
2018年9月3日、鳥取市内の宿を出発したのは午前5時前だった。因美線の始発列車に乗るため、暗く人通りのない静かな街路を駅に急ぐ。台風21号が非常に強い勢力を保ったまま接近しており、予報では明日にも近畿地方に上陸するという。そのせいか早朝だというのに生暖かい空気で汗がにじむ。
鳥取駅はまだ半分眠りの中にあり、人影まばらで改札も無人だった。県の代表駅とは思えないほど静かだ。券売機で土師までの切符を購入し、ホームに向かうと既に智頭行きの普通列車は入線していた。智頭は目的の土師手前なので乗り継いでいくことになる。鳥取発で智頭より先に直通する列車はないので仕方がない。
これまで因美線の旅で乗車した車両は、第三セクターの智頭急行や若桜鉄道、それに古い国鉄型ばかりで、その長さも1〜2両と短いものだった。それがどうしたことか目の前に止まっているのは、まだ新しいJRの車両でしかも3両も連ねていた。
手近な中央の車両に乗り込むと冷房を入れたばかりなのか蒸し暑い。座っているだけで汗ばんでくる。しばらく我慢していたが耐えかねて先頭車両に移動すると、こちらはなぜだか涼しくて迷わずここに陣取った。車内は単行でも持て余すほど空席が目立つ。それなのに3両もあるのは折返しとなる運用が通勤通学時間に当たるからだろう。
5時18分、エンジン音を響かせながら定刻通りに鳥取駅を出発。力を持て余していると言わんばかりに軽快に進んでいく。朝食用に持ってきたパンを頬張りながら車窓に目を凝らしていると、空は徐々に白みはじめ景色が少しずつはっきりしてきた。何度も通った見慣れた景色だが冬と春しか訪れたことがなかったので、田畑から取り巻く山々に至るまで緑に包まれているのが新鮮に映る。
小さな無人駅にも丹念に停車していくが、途中駅での乗降はないまま智頭に到着。空はすっかり明るいが、山に囲まれた街なので日の出はまだ遠そうだ。昨日の天気予報によると快晴のはずだが、全体的に雲が多くて青い部分はとても少ない。
早朝の智頭駅は、因美線と智頭急行の普通列車が次々と出入りし、構内では方々からエンジン音が響きとても賑やか。人の姿は学生がたまにやってくる程度でまばらであるが、雰囲気として活気が感じられる。日中の普通列車は単行や2両編成ばかりだが、目の前にある列車は3両や4両と長い。この時間帯の主役は特急ではなく普通列車なのだ。
まもなく津山方面から当駅止まりの普通列車が入線してきた。これが折り返しの津山行きになる。智頭から津山に向けての区間はJR西日本でも屈指の閑散区間で、公表されている利用者数を見ると、先に廃止された三江線に毛が生えた程度でしかない。考えるまでもなく単行列車だろうと思ったが、意外なことに2両編成だった。
乗り込むと1両目には辛うじて旅行者がひとり居たが、2両目の車両は無人だ。列車はワンマン運転で前降りなので、降りやすいよう1両目のボックス席に座る。2両も連ねているのが不思議なくらいだが、県境を越えて津山に近づく頃には学生で混み合うのだろう。
発車するとすぐに智頭急行の線路が左手に離れていく。智頭は本流の千代川と支流の土師川が出会う所にある街で、智頭急行は千代川、因美線は土師川の谷をさかのぼる。どちらに進んでも鳥取と岡山を隔てる峠が待ち構える難所だ。
開けた山間には田んぼと民家が点在している。これより美作加茂までの区間は「平成30年7月豪雨」と名付けられた豪雨災害により不通となり、つい2日前に運転を再開したばかりなのだが、それらしい爪痕は見当たらない。この辺りでは戦国時代の城跡や、大規模な縄文集落跡が発見されるなど、古代より脈々と人の営みがあった所であるのだが、それらしい歴史も感じさせない。のどかな景色がどこまでも続いていた。
土師
- 所在地 鳥取県八頭郡智頭町三吉
- 開業 1932年(昭和7年)7月1日
- ホーム 1面1線
県境にそびえる那岐山を源流とする清流、土師川が流れる開けた谷で、杉の産地だけに深緑色をした山々に囲まれている。川沿いから山裾にかけての平地には、黄色みを帯びた田んぼが広がり、そこかしこに住宅も点在している。とても静かで虫の音や水路を滔々と流れる水音がよく聞こえる自然豊かな山村である。
こんな早朝に県境近くの山間部を訪れる人はいないだろう。そんな予想通り降りたのは私だけで乗る人もいない。寂しいものだが発車してゆく列車を見送っていると、無人だと思っていた後ろの車両に、いつの間にか高校生がひとり乗っているのに気がついた。この列車ただひとりの定期利用者なのかもしれない。
構内は片面ホームに線路が1本あるだけの簡素なもので、敷地を見る限り交換設備が撤去された訳ではなく、開業当時からこういう姿をしていたらしい。簡素ではあるが昭和初期の仕事だけに土盛りと石積みのどっしりしたホームだ。木造の待合所がよく似合いそうだが、あるのはプレハブ小屋のような待合所だ。ホーム上には数えきれないほど多種の樹木が植えられ、草花で彩られたプランターが並び、ちょっとした植物園のようである。
ホーム出入口には雑草やいびつな形のコンクリート片に覆われた空地があり、その一角には取り残されたように小さな庭園があるなど、かつて木造駅舎があったことが偲ばれる。それらの配置を眺めていると、待合室や改札口など往時の姿がおぼろげながら浮かんでくる。
駅前を横切る狭い通りに出ると十数軒の民家が並び、中には何らかの商店だったらしき建物もある。意外にも存在するバス停に目をやると智頭行きは朝のみで日曜は全便運休と、ついでに一般客を乗せるスクールバスのような代物だ。駅の規模にしては大きな駐輪場を覗くと、肝心の自転車はなく、ぽつんとトラクターが停めてある。見れば見るほど過疎化を感じさせる駅前風景である。
河野神社と土師神社
草むらから聞こえてくる虫の音に耳を傾けながら駅前通りを進み、せせらぎが心地よい土師川を渡ると、車の行き交う国道53号線に出た。国英駅の辺りから付かず離れず並走してきた馴染みの道路だ。歩道があるから歩きやすいが二桁国道だけに交通量が多く、虫の音も川のせせらぎもかき消されてしまい、風情もなにもあったものではない。
数分も歩くと山裾に「因幡若一宮」や「にゃくいちさん」などとも呼ばれる、河野神社が見えてきた。関節なら何でもござれとばかり、手・肩・腰・足などの病にご利益があり、県外からも多くの参拝者が訪れるという。別に病んではいないが有名な神社があると知れば訪れない手はなく、こうしてやってきたという訳だ。
高台にある社殿に向けて伸びる石段は、客船のらせん階段さながらに緩やかな弧を描き、どことなく優雅さを醸し出している。案内板や手すりなど細やかに整備されていて、全体的に明るいこともあり、立ち入りやすい雰囲気をした神社である。
石段を上がっていると列車の音に振り向くと、4両編成の普通列車が鳥取に向けて走り抜けていくのが見えた。車内に目を凝らしても空席ばかりだが、あれほど連ねるのだから鳥取に近づく頃には学生で混雑を極めるに違いない。そんなことを考えながらさらに上がると小ぶりな鳥居があり、程よく風化してざらつく表面には苔が生えて趣がある。
鳥居の傍らにある立札には「名古屋・中京地区よりご参拝の方で、朱印をご希望の方は到着時にお申出下さい」と書いてある。なぜ地域限定なんだろうという疑問と同時に、そんなにに遠くからも参拝者がやってくるのかと軽く驚かされた。
手入れの行き届いた境内に進めば、手水舎に滔々と注ぎ込まれる豊富な水の音や、虫の音などが静かに交錯して清々しい。隣接する大きな民家はよく見ると、宮司さん宅であると同時に社務所でもあるようだ。神社の規模はどこの街でも見かけるようなものだが、目にするものからは想像以上に参拝者が多く、信仰を集める神社だと感じた。
拝殿の前には手形をした木片が大量にあるのが目を引く。これを持ち帰り患部に撫で付けると病が治るのだという。そしてその手形を持って再訪する際には、新たな手形も同時に納める倍返しを行うとのことで、なんだか無限に手形が増えていきそうだ。幸いにして病んでいないので眺めるにとどめたが、また訪れることがあるかもしれない。
時刻はまだ7時半と早く、次の列車までたっぷり1時間ほど余っていた。周辺には戦国時代の城跡という唐櫃城跡があるが山中だけに1時間では厳しい。縄文遺跡の出土品が展示されている歴史資料館は面白そうだが早朝すぎて開いていない。最終的には近場で営業時間の縛りもない土師神社に向かうことにした。
歩いていると太陽が稜線上から顔を出し、谷底にまで日が差し込みはじめた。日なたは暑さこそ感じるが真夏のうだるようなものではない。黄金色に輝く田んぼの上には赤とんぼが無数に飛び交い、セミではなく足元から涼やかな虫の音が聞こえてくる。季節が夏から秋に変わろうとしているのをひしひしと感じる。
祖父母に手を引かれた保育園児や集団登校の小学生とすれ違う。国道の横断歩道には見守りのおばさんが立ち、そこを通勤と思しき車が次々と走り抜けていく。ここまで休日のような気分でいたけど、平日だということを強く認識させる。会社や学校へ向かう人たちばかり見かけるので、ぶらぶら歩いているのに若干の引け目を感じてしまう。
土師神社は谷間にある小山に鎮座していた。お椀を伏せたような形で古墳でも隠されていそうな盛り上がりだ。全体が光も通さぬ深い鎮守の森に包まれ、山裾に立つ鳥居の他には神社を思わせるものは見当たらない。太いスギに囲まれた鳥居の向こうには夜のように暗い参道が伸びていて重々しさを漂わせる。河野神社が広く県外からも信仰を集めるのとは対照的に、地元の人々から信仰を集める氏神様という印象である。
参道に足を進めると、入口は手頃な石を並べたといった様子のひなびた石段であったが、すぐに枕木を再利用した階段に変わり、さらにはコンクリートの階段に変わった。進むほどに近代的になっていく。先の豪雨によるものか崩壊箇所もあったが、早くも真新しい木材で作られた桟橋が架けられていた。まるで継ぎ接ぎのような参道だが、こまめに手を加えている証でもあり、大事にされた神社だなと思う。
小山の上部までくると勾配は緩やかになり、木の根が折り重なるように露出した木の根道に変わった。どこかの古道を歩いている気分にさせる。さらに自然石を並べた古風な石段があったりする。短い距離で次々と表情を変える面白い参道だ。
山頂部はちょっとした平場になっていて小さな拝殿が佇んでいた。開けていれば周辺集落を見渡せそうな所だが、うっそうとした木々に囲まれているため眺望はない。晴れているというのに薄暗くなるほどに茂っている。谷間にある小山だけに風当たりがよく、これらの木々がざわざわと揺れる音が耳に心地よかった。
拝殿には馬と社の形をした小さな埴輪が飾ってある。説明板によると土師の地名にちなんで制作したものだという。土師とは読んで字の如く、遠い昔に土器や埴輪などを製作した人のことで、古くは「はじ」ではなく「はにし」と読んだ。そして神社のある付近は読みの同じ埴師という地名で、嘘か誠か日本でここにしかない地名だという。近くの縄文遺跡といい深い歴史を感じさせる土地である。
土師神社で長居をしてしまい気がつけば列車の時刻が迫っている。急いで駅に戻るとすぐに津山行きが現れた。乗り遅れたら次の列車は昼過ぎまでないのだから危なかった。焦らすようにゆっくり近づいてくるのは、レールバスを思わせる小さな単行のディーゼルカーで、閑散区間らしい車両だった。
車内は空気を運んでいるような状態を想像したが、窓から車内に目をやると数え切れないほどの人が乗っていて驚いた。乗車して軽く見渡すと座席は半分くらい埋まり、装いから大半が旅行者だと分かる。幸か不幸か予想外の乗車率に座ることは諦め、最後部に立って去りゆく景色を眺めていく。
列車はのろのろした速度で谷間をさかのぼっていく。山裾に敷かれた線路は峠越えに備えて少しでも高さを稼ぐためか、川沿いに広がる集落を見下ろすように上り続ける。おかげで谷間に広がる田んぼや家々を見渡せて眺めは良い。最後に短いトンネルをくぐり抜けると、鳥取県側で最後の駅となる那岐に到着した。
那岐
- 所在地 鳥取県八頭郡智頭町大背
- 開業 1932年(昭和7年)7月1日
- ホーム 2面2線
行く手に標高1,255mの那岐山を中心にした、中国山地の脊梁部が立ちふさがる山間部、岡山県までほんの数キロであると同時に、峠を越えない限りどん詰まりという地である。杉を中心とした樹林に包まれた山々がどこまでも連なり、それらの谷間にあるわずかな平地やなだらかな傾斜地に農地や宅地が広がっている。
列車を降りると古びた木造の上屋や待合所、駅舎などが次々と目に飛び込んでくる。国鉄時代にタイムスリップしたような光景で、模型を眺めているような気分にさせる。昔と大きく異る点があるとすれば、人の気配が全くないことくらいかもしれない。聞こえてくるのは草むらの虫の音と、遠く山々から響いてくるチェンソーの音くらいのものだ。
斜面上に作られたホームは山なりに緩やかにカーブしている。集落を見下ろす高台であると同時に、背後には見上げるような山体が迫る。相対式ホームを持つ交換可能駅であり、急行列車や貨物列車が行き交った時代には、多くの列車がここで顔を合わせたことだろう。今では同じ車両が行ったり来たりするばかりで、列車の気配も薄らいでいる。
駅舎はホームより一段低いところにあるため30段ほどある階段を下っていく。階段そのものはコンクリート製だが、全体を木造の上屋と壁で囲まれた趣ある姿で、まるで木造の跨線橋をそのまま地面に置いたかのようだ。単なる通路でありながら壁まで設置してあることが豪雪地であることを物語る。
壁面には昭和初期を思わせる古い白黒写真が何枚も飾られている。写されているのは因美線や地区の様子だ。その興味深い写真の数々に自然と足が止まる。茅葺きや石を載せた板葺き屋根の民家に、牛を使った田起こしなど、駅を取り巻く風景がすっかり変わってしまったことがよく分かる。同時に駅だけは大して変化していない事もよく分かる。
木造駅舎は開業当時のものが現役だ。改札口には当時のままなのか復元されたのか分からないが、木製のラッチがあり映画のセットのようだ。ここまでの様子から駅舎内も往時の姿を色濃く残しているものと思ったが、足を踏み入れると意外なほどに手が加えられていた。壁板が張り替えられたり、窓がサッシ化されているのは予想がついたが、駅務室が大きく改装されて診療所として利用されているのは予想外だった。窓口は完全に取り払われて診療所の出入口となり、民家の玄関を思わせる引戸が設置されていた。
ベンチ上に置かれた駅ノートを開くと、初めて訪れた人が時が止まったかのような雰囲気に感嘆とする声や、かつて訪れた人が当時と変わらぬ佇まいでいることに感嘆とする声が記されている。私の思い出の駅は変わり果てた所ばかりなので、思い出の駅が昔と変わらぬ佇まいを残しているというのは羨ましいものがある。
駅前に出るときちんと手入れされた庭園があるのが珍しい。この手の庭園は木造駅舎には定番の付属品だが、荒れ放題であることも定番なのだ。そこに那岐駅五十周年記念と刻まれた大きな石碑が鎮座している。もうひとつ那岐駅舎開業八十周年というのもあるが、ほっそりとした木製の標柱で、それぞれの時代における鉄道の重みを可視化したようでもある。
荘ノ尾城跡
見どころとしてホームの案内板には那岐山や那岐神社が記されていた。那岐山は国定公園に含まれる風光明媚な山で、伊邪那岐命が降臨したという古の伝説が残る。駅に飾られていた昭和中頃と思われる写真には、駅前通りに那岐山登山口という標識が立っていて、当時は当駅から歩く登山者も多かったのかもしれない。那岐神社はこの地の総鎮守で伊邪那岐命が奉られているという。伊邪那岐命と那岐という地名には何かつながりがありそうに思える。
私が向かうのはそんな那岐山でも那岐神社でもなく、云われを耳にして訪ねてみたいと思っていた荘ノ尾城跡だ。それは黒澤明の七人の侍のような話で、年貢米を奪いに来る山賊に備え、農民が築いて武士を雇っていた城だという。
駅を出ると線路伝いに流れる土師川をさかのぼるように進んでいく。雲が勢いよく流れているため、晴れたり曇ったり目まぐるしく移り変わり、蒸し暑さと相まって台風の接近を感じさせる。緑豊かな山間には田んぼや住宅が広がり、最初はのどかな景色に思えたが、沿道に点在する看板を下ろした商店や崩れかけた旅館、閉校した小学校などが昔日の賑わいを想起させ、歩くほどに寂しげな景色に思えてきた。
道ばたに肖像まで刻まれた見上げるように大きな石碑があり足が止まる。それは明治から昭和にかけて世界各国で蚊取り線香を販売した実業家、安住伊三郎の寿碑だという。蚊取り線香といえば発明者にして大日本除虫菊の創業者でもある上山栄一郎を連想するが、安住伊三郎は同時期から製造販売に乗り出し、国内はおろか海外にまで工場を構えるほどの成功を収めたという。しかし戦争で工場を失い、当人も戦後まもなく亡くなったこともあり、人々の記憶からは徐々に消えていったようだ。
石碑の裏面には詳しいことが刻まれているのではないかと思われ、確認してみようと思ったが周囲に夏草が繁りすぎて近寄りがたい。かき分けているとマムシでも飛び出してきそうで道路から眺めるにとどめておく。立派な石碑が夏草に埋もれながら静かに佇む様には、夏草や…の芭蕉の句を想起させる。
ちなみにフィリピンでは蚊取り線香のことをカトールと呼んでいる。これはかつて現地で人気を博した製品の名が、そのまま蚊取り線香を表す言葉として定着したものと云われる。そして安住伊三郎の蚊取り線香はカトールという名前だったという。
城跡は土師川と奥本川という二つの流れに挟まれた小さな山の上にあり、古屋という地名がいかにもと思わせる所にある。山は全体がこんもりした深いスギ林に包まれていて、城の痕跡がどの程度残されているのか遠目にはまるで分からない。ふもとには田んぼや製材所がある程度で、荘ノ尾城入口という標識が立ててなければ素通りしかねない何気ない山である。
城山が目の前にあるのは良いとして、どこから登れば良いのだろうか。取り巻く田んぼに鹿よけの高いフェンスが巡らされ、城柵のように行く手を阻む。田んぼ仕事をする爺さんに尋ねると、すぐそこから山に入って尾根伝いに登れば良いという。行ってみると雑草に埋もれかけた山道があり、傍らには城の歴史などを記した立派な案内板があった。
雑草をかき分けるように山道を進むと、幸いすぐに手入れされた歩きやすい杉林になり、愛宕神社という小さな社が見えてきた。段郭の上に安置すると記されていて、どうやらすでに城跡の上に立っている様子。
教わった通り尾根をしばらく登ると広く平らな曲輪と思しき所に出る。そこには丸太を組んで城柵が再現され、空堀には丸太橋が架けられ、丸太のベンチが配されていたりする。何もないと思っていただけに驚きの光景だった。那岐小学校の学校林なる標柱があるので、整備されているのはその関係だろうか。しかし何れも朽ちかけていて長らく手入れはされていない様子はない。小学校が閉校されていたことと関係があるのだろうか。
尾根をどんどん進んでいると自然とも人為的とも取れそうな地形に、ここが城跡なのか単なる山なのかよく分からなくなってきた。なだらかで歩きやすいため調子にのって随分と奥地にまで来てしまった気がする。標識の類が見当たらないことや、城の規模から考えて単なる山に迷い込んだと断定、引き返していると足元に標識が転がっているのに気がついた。どうやらここで道が大きく曲がっているのに、標識がこの有様であるために直進してしまい、結果として迷走してしまったという訳である。
見たところ整備された城跡散策路のような道だった時代もあるようだが、木材で作られた階段や標識は半ば自然に帰ろうとしている。階段を勢いよく下っていると腐っている部分が崩壊して、危うく派手に転倒するところであった。
ふもと近くまで下ってくると豪族上原氏の供養塔なるものがあったが、そう書かれた標柱があるだけで詳しいことは分からない。この辺りを支配していた一族かなにかだろうか。まもなく杉林を抜け出すと田んぼのあぜ道のような所に出てきた。城跡とは対照的なまでに日が降り注ぎ眩しいほど明るい。地図によると奥本川が流れる谷のようである。
奥本川沿いにはかつて司馬遼太郎が訪れた早野集落がある。名所がある訳ではないが古きよき農村風景が目に浮かぶような著述を目にして、いつか私も訪ねてみようと地図に印をつけるまでした土地だ。城跡の次は駅の名所案内にあった那岐神社に向かうことも考えていたが、この機会に早野集落を散策してみることにした。
どこからどこまでが早野集落なのか分からないが、住宅や農地は谷の上流部に向けて広がっているので、谷間をうねるように伸びる狭い道路をさかのぼっていく。
両側には深緑色の杉山が連なり、正面には岡山との県境をなす山稜がそびえている。幅のある谷間には田んぼが階段状にゆったりと並び、それを縫うように奥本川の清らかな流れが右へ左へと向きを変えながら流れている。引き込まれた水路が方々に走り、勢いよく流れる水音がどこを歩いていても聞こえてくる。どこが集落の中心地とも分からない点々と配された住宅の中には、わら葺トタン屋根や土壁を見せるものもある。特に何がある訳ではないのだが、歩いているだけで不思議と満足できる良い所である。
広がる青空と照りつける日差しに汗をにじませ、もう少し、もう少し、歩みを進めていると集落の最上部まで来てしまった。田んぼも途絶えて行く手にあるのは山また山だ。この先には黒尾峠という古の峠道や、那岐山登山道などもあるようだが時間切れだ。
往路とは異なる道から駅に向かおうかと脇道に入ると、そば屋でも似合いそうなこの景色の中にして瀟洒なカフェがあることに気がついた。昼になろうとしているが町の様子から飯抜きを覚悟していただけに、吸い寄せられるようにドアを開けた。
ショーケースにはたくさんのパンが並び、メニューにはピザやハンバーガーまであって目移りするが、おあつらえ向きにランチセットがあるのでそれに決定。夏を思わせる陽気に喉が渇いて仕方がないのでアイスコーヒーも注文した。
奥にあるイートインスペースに向かうと、長い廊下沿いに大きな部屋が並び、背の低い洗面台や窓などが配されている。改装されてはいるが保育園であったことは明らかで、眺めているとはるか昔に通っていた保育園の光景が思い浮かんでくる。
まもなく運ばれてきたランチセットは酵母パンの盛り合わせに、旬野菜のスープとサラダが付いていた。パンを口にすると外側は固めながら中はモチモチしている。フカフカというよりはモチモチである。食べた瞬間とても懐かしいものがあり、何だろうかと考えたら、食感が幼少期に亡き祖母が作ってくれたパンに似ているのだ。それはパンといってもフライパンで焼いたパンもどきなので、味は比べるべくもないが食感はまさにこれであった。
思いがけず出会った美味しさと懐かしさ、充足感に浸りながら駅に向けて歩いていると、智頭行きの単行列車が追い抜いていった。私が乗車するのはあの列車の折返しに違いない。
駅が見えてくると待合室に入っていく人影が目に留まる。最初は鉄道利用者だと思ったが、なんとかつての駅務室に地元のおばさんが何人も集まり盛り上がっているではないか。診療所だけではなくコミュニティーセンターのような使われ方もしているようだ。ひとりホームに佇んでいると楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
構内踏切が鳴りはじめ、遠くに警笛の音が聞こえると、間もなくゆっくりした速度で単行列車が顔を出した。また混雑しているのかと車内に目をやると5〜6人しか乗っていない。リュックを持った男性旅行者ばかりで地元民と思しき人はいない。景色の見やすいボックス席は埋まっていたので、前方の見やすい運転席のすぐ後ろの席に陣取った。
列車は県境に立ちはだかる物見峠に向け、連続する勾配をいまにも停まりそうな速度で上っていく。田んぼや住宅が点在するのどかな景色に、峠はまだまだ先だと思っていると、前方から山塊が迫ってきて、全長3,000mを越える物見トンネルに突入した。
物見トンネルは鳥取・岡山の県境に横たわる物見峠を貫くトンネルで、昭和初期に竣工したものとしては指折りの長さだ。因美線で最後に開業した区間という点からも難工事であったことが偲ばれる。同時にこれだけのトンネルを作るあたりに路線の重要性が伺える。
長いトンネルを抜けるとそこはもう岡山県だ。川の流れは逆向きになり、鳥取から延々と続いてきた上り勾配は下り勾配に変わった。山陰から山陽に入り明るい景色を期待したが、列車が走るのは日の光すら差し込まないような深い谷底で、眼下には細い渓流がちらりと見え、意外なほどに薄暗さと山深さを感じた。
自転車に毛の生えたような速度で谷間を下り、視界が開けて眼下にいくつもの人家が見えてくると美作河井に到着だ。降りようと運賃を差し出すと、運転手が「あっ現金ですか」と意外そうな顔を見せながら慌てて受け取ってくれた。県境を挟んだ山間の小駅同士を移動する物好きは、青春18きっぷの利用者くらいしかいないのかもしれない。
美作河井
- 所在地 岡山県津山市加茂町山下
- 開業 1931年(昭和6年)9月12日
- ホーム 1面1線
山陽と山陰を分かつ中央分水嶺を目前にした岡山県最北の山深い駅である。美作・因幡の国境に近い要害の地として、戦国時代に巨大な山城が築かれた矢筈山が背後に迫り、駅前を流れる加茂川沿いのわずかな平地に田畑や住宅が肩を寄せあう。標高はおよそ330mで因美線の駅としてはもっとも高所に位置している。
列車を降りると郷愁を帯びた木造の待合所と駅舎が出迎えてくれる。どちらも昭和初期の開業当時からのものだろう。駅員や利用者で賑わった時代もあるのだろうが、今や人の気配は全くない。寂れた駅といえなくもないが、山からは鳥のさえずり、草むらからは虫の音、加茂川からはせせらぎが聞こえ、自然豊かで気持ちの安らぐ駅という印象を受けた。
構内はホームが1面に線路が1本あるのみ。文字の上では停留所のような小さな駅だが、ホームの反対側には撤去を免れた線路がわずかに残され、かつては島式ホームの交換可能駅であったことを物語る。さらに貨物輸送の名残りか、本線とは切り離されて錆びついた姿を見せる側線が残り、それに接する広い空き地もある。
思わず見つめてしまうのが駅裏の一隅で草木に囲まれて佇む転車台。主要駅や終着駅であれば蒸気機関車の方向転換のため存在してもおかしくないが、ここは山間の小さな途中駅だ、どうしてあるのか不思議な存在である。
それは国鉄時代を演出する飾りのようですらあるが、JR西日本の登録鉄道文化財や、経済産業省の近代化産業遺産などに指定された貴重な文化財であった。元々は除雪車の方向転換に利用したもので、雪深い鳥取側から峠を越えてきて、ここで向きを変えて引き返していったのだという。除雪車がここで引き返したという事実が、峠を隔てた山陽と山陰で気候が大きく異なることを実感させる。
いつ頃まで使用されていたのだろうか、錆びついてはいるが整備すれば動かせそうなほど原型を留めている。長年放置されて土砂や草木に埋もれていたものを近年発掘したそうで、よく朽ち果てることなく残っていたものだ。
駅舎に入ると待合室には建築当時の姿が色濃く残されていて、感嘆とした気持ちを抱かずにはいられない。外観だけなら因幡社や那岐など趣ある木造駅舎はいくつもあったが、内部までというのは初めてだ。特に窓口や小荷物扱い所が木造というのが目を引く。これらは全国的に見ても改装されて近代的な装いであるものばかりで、無人駅ともなると窓口自体が撤去されたり板で塞がれたりしていることも珍しくない。
壁面には因美線や当駅に関する写真や資料が数多く貼り出されている。その中にある駅舎の修繕作業をする写真に、駅の趣ある佇まいは偶然残ったものではなく、多くの人の尽力で残されているものだと知る。開業して間もない頃の写真をじっくり見れば、駅舎にたくさんのスキー板が立てかけられているのに気がつき時代を感じる。私が生まれ育った山間の町にある小さな駅も、昭和の中頃までは大勢のスキー客で賑わっていたと聞いたことがあり、この駅にもそんな時代があったのかもしれない。
駅は加茂川と矢筈山に挟まれた小高い所にあるため、土地のない駅前には商店はおろか住宅すら見当たらない。道路も駅で行き止まりなので車が通ることもない。加茂川の水音ばかりが目立つ静かな立地だ。もちろん人が住んでいないという訳ではなく、見下ろす加茂川沿いの平地にはそこかしこに建物が散らばっている。
意外にもバス停があるので時刻表を確認すると、当駅よりさらに奥地にある旧
他には鐵道開通七十周年記念という石柱や、矢筈城址と刻まれた大きな石碑、矢筈城についての案内板などが設置されている。さらに矢筈城跡と書かれた見上げるように大きな看板まである。どうやらこの駅の一押しは木造駅舎でも転車台でもなく城跡のようである。
矢筈山
旧阿波村がどんな所なのか気になるが、行くと戻ってこれなくなりそうなので駅裏にそびえる矢筈山に登ることにした。戦国時代に当地を治めていた草苅氏によって、岡山県でも最大級という巨大な山城、矢筈城とも呼ばれる高山城が築かれていた要害の山だ。草苅氏は毛利氏に属したことから、対立する宇喜田氏や羽柴秀吉の軍勢に攻められるも、ついぞ落城することはなかったという。それだけ険しい山ということでもあり登り応えがありそうだ。
登山口は駅裏の転車台脇にある。そこから細流の流れる谷をさかのぼるように登山道が伸びていた。駅のあちこちで矢筈山や矢筈城の文字を見かけたので、訪れる人の多い踏みならされた道を想像したが存外に踏み跡は薄い。さらに先日の豪雨によるものか流れ落ちてきた岩石や倒木で荒廃している。本当にここが登山道だろうかと不安になるような有様だ。矢筈山登山道と書かれた標識だけが頼みの綱である。
登りはじめてすぐに若宮神社という小さな社があり、それを横目に少し進むと谷底から逃れるように急峻な斜面に取り付いた。誘導するようにロープが張ってあるので正規ルートだと分かるが、そうでなければ道を外れたかと思うほど道らしさがない。ほとんど歩かれた気配がないため山肌を適当によじ登っている気分だ。
汗をにじませながら登っていると急に谷底に向けて下りはじめた。それなら最初から谷底を行けば良いものを、無駄に汗をかかされた気分で少し不満に思う。下った先にある道は広く歩きやすいが表面が水で洗われている。それを見て気がついた、先程の荒れた道は水害で荒廃した谷底を迂回するための急造の道だったのだ。
しばらく谷底をさかのぼると再び斜面に取り付いた。今度は迂回路ではなく本当に山頂を目指す道だ。山肌はスギで埋め尽くされて薄暗く、足下はスギの葉が降り積もってふかふかしている。植林地の作業道に迷い込んだようだが、たまに高山城址や矢筈山という標識があるので間違っていないことを認識する。階段も数多く設置されていて金と手間暇をかけて整備されているが、踏み跡の薄さを見るに訪れる人は少なそうだった。
山城を作るだけのことはあり傾斜がきつく息が上がる。日の差し込まない谷間は空を隠すほどのスギで埋め尽くされ、下山どころか山頂にたどり着くまでに日が暮れるのではないかと危惧されるほどに暗い。それが気の焦りを生んで足が早まりさらに呼吸が乱れる。不安になり時計に目をやるとまだ15時前と早くて拍子抜けする。
気がつけば谷筋の薄暗い植林帯から、尾根筋で日の差し込む明るい雑木林に変わっていた。見上げた木々の隙間からは明るい青空が顔をのぞかせている。景色が明るくなると序盤に感じた不安のようなものは消え去り、傾斜のきつさは相変わらずだが足取りは軽くなってきた。
急にこれまでの険しい斜面が嘘のような開けた平坦な所に出た。見るからに城の遺構と分かる人為的な平場だ。樹林の隙間からは駅前集落から旧阿波村方面が見渡せ、こんなに登ってきたかと思うほどに眺めが良い。城跡と見晴らしの良さに山頂だと思ったのも束の間、すぐ目の前にはまだまだ登らねばならぬ山体がそびえていた。
平場から少し登るとまた平場があり、そこから少し登るとまた平場といった具合に城跡がどこまでも続く。そこかしこに土塁・馬場・土蔵郭・大空堀などと記された案内板や標柱が設置されているので、おぼろげながら往時の姿が目に浮かぶ。
二の丸の辺りまでくると河井駅方面と千磐神社方面という道標が現れた。千磐神社は隣駅の知和駅の近くにあり、城跡の大部分はそちら方向に広がっているようなので、登頂よりも城跡が目的であれば知和駅から登る方が楽しめそうだ。もちろん私はそちらにあるだろう遺構には目もくれず、山頂目指してさらに登っていく。
小さな岩山のような所をぐいぐい登っていくと、突如として青空を天井にした明るく開放的な広場に出た。そこが目指してきた山頂であった。見回すと三角点や標柱、案内板などが散らばるように配されている。狭いながらも平坦であることが自然の頂ではなく城趾であることを物語る。何本もの木々が周りを取り囲んでいるため遮るもののない大展望とはいかないが、これまで見えなかった山の反対側まで見える眺望には大満足だ。
駅があるのと反対側からは強烈な風が吹き付けてきており、ざわざわと木々が激しく揺さぶられている。ここまで風のない静かな山だと思っていたが、それは矢筈山が風を遮ってくれていたからだと気がつく。登っている最中は暑かったが、強風にあおられていると一気に汗は引いていき、昼寝でもしたくなるような心地よい陽気になってきた。
登頂の達成感に浸っていたいところだが、景色を眺め、案内板に目を通し、少し休んだら下山開始だ。はやる気持ちに背中を押されるように小走りに下っていく。マイカーで訪れたなら心ゆくまで滞在することもできようが、列車となるとそれに合わせて行動しなければならず、もたもたしてはいられない。時間的には余裕があるが運転本数の少ないローカル線なので、駅の近くに居ないと安心できないのだ。
エピローグ
矢筈山から急いで下山してくると、急ぎすぎたか時間が大幅に余ったので、近くにある矢筈城の二代目城主であった草苅景継の墓所や、草苅家の霊を祀ったという草苅神社を訪ね歩く。
すると今度はゆっくりしすぎたか気づけば列車時刻が迫っていて、夕暮れの中を駆け足で駅に戻ってきた。汗をにじませ息をはずませ人気のないホームに駆け上がると、息も整わないうちに、カタンコトンと列車の音が聞こえはじめた。
列車は焦らすようにゆっくり近づいてくる。気になるのはどれだけ乗客があるのかで、津山行きが混み合っていたのだから、帰宅に都合が良いこの列車も混んでいると予想する。車内に注目するが答えを出し惜しむかのように、窓という窓がカーテンで塞がれている。疲れたので座れないのは嫌だなと思いながら、バタンと勢いよく開いたドアから足を踏み入れて驚いた。混雑どころか乗客はひとりもいなかったのである。
冷房の効いた車内は心地よく、ゆったりとボックス席に陣取り、牛の歩みで流れていく車窓をのんびり眺めて過ごす。長いトンネルを抜けて鳥取県に戻り、那岐、土師と停車するが乗降客はなく、貸し切りのまま智頭に到着した。ある意味とても贅沢な汽車旅だが、毎日これほど空いているのかと思うと路線の行く末が案じられた。
(2018年9月3日)
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