目次
プロローグ
2019年7月29日、7時4分、徳島県の山深くにある阿波池田に降り立った。目的地はさらなる奥地にある土佐岩原なのだが、当駅はそこに向かう高知行きの始発駅なのである。この列車に乗りたいがために昨夜遅くに四国入りすると、その足で高松に宿泊、そして始発の特急列車でここまでやってきたのである。
乗り継ぎに余裕がないので小走りに高知行きが待つホームに向かう。土讃線の旅は3年ぶりであるが、前回訪れた時と変わらない車両が変わらない姿で佇んでいて、懐かしさと同時に旅の再開だとの思いが湧いてくる。
駅も車両も変わっていないがダイヤだけは大きく変化していて、普通列車が大幅に減便されていた。朝方に4本あった高知県に至る列車が半減され、目の前にいる7時20分発に乗り遅れたら次は昼までない。
本数が減れば数少ない列車に利用者が集まりそうなものだが、車内には旅行者と思しきおじさんがひとりだけ。発車間際に地元民らしき数人が乗り込んできたが、それでも全部で5〜6人という寂しさだ。マイクロバスでも持て余すようなこの乗車率では、将来的にさらなる減便もありそうな気がして陰鬱とした気分になる。
定刻通り発車した列車は、深い谷底を流れる吉野川を見下ろしながらのんびり走る。三縄、祖谷口、阿波川口と駅に止まるたび数少ない乗客が減っていく。そしてついには最初に見かけたおじさんと私のふたりだけになってしまった。
小歩危を過ぎたら次は大歩危。この辺りは大歩危峡と呼ばれる景勝地だが、前回の旅では往路は混雑、復路は日没でまるで楽しむことができなかったので、今回はどれほどのものか見届けようと車窓を見つめる。ところが連続するトンネルと線路脇に茂る木々が邪魔をして思うように見させてはくれない。どうやら渓谷美を楽しもうと思うなら、車内からなどと怠けていてはだめで、川沿いを歩いたり遊覧船に乗ったりしなければならないらしい。
大歩危を出ると新規乗車区間だが、発車と同時に全長4kmを超える長いトンネルに入る。昔は吉野川沿いを走る風光明媚な区間だったというが、車窓には自分の顔だけが延々と映し出される。ようやく抜けたと外に目をやると、またトンネルに入る。それを抜けたと思ったらまたすぐトンネル。よほど険しい地形らしく出たり入ったりが繰り返される。
この辺りで徳島県から高知県に入るが、県境を思わせる峠や河川は見当たらず、今どちらの県に居るのか判然としない。駅名に土佐を冠した土佐岩原に到着することで、ようやく阿波から土佐に入ったという実感が湧いてきた。
土佐岩原
- 所在地 高知県長岡郡大豊町岩原
- 開業 1935年(昭和10年)11月28日
- ホーム 2面2線
吉野川が四国山地に刻んだ深い谷間、平地らしい平地がまるで見られないところで、駅は谷底近くにどうにか居場所を見つけて佇んでいる。駅前はわずかな建物が軒を連ねる程度で閑散としているが、取り巻く山々を見上げれば、斜面にへばりつくように数多くの住宅や畑が点在している。いかにも四国山地といった傾斜地集落に囲まれた駅である。
列車を降りたのは予想通り私だけで乗る人も見当たらない。跨線橋の上から乗客ひとりだけを乗せた列車が走り去るのを見送る。エンジン音が遠ざかると吉野川のせせらぎがホームにまで届き、山々からは鳥のさえずりが、駅裏の斜面からは滝のように流れ落ちる細流から涼しげな音が聞こえはじめた。澄んだ空気と相まって清々しい。
構内は全体が吉野川の流れに沿うようにカーブしていて、ホームの幅は狭く、なんとか2面2線の交換可能駅を押し込んだという具合にスペースに余裕がない。待合所もホームに奥行きがないため、ベンチに申し訳程度の屋根を掛けただけという姿をしている。
利用者のなさそうなこの駅にしては意外なほど大柄な駅舎は、直線的な平屋建てで白いトタンに包まれ、四角い箱のような簡素な姿をしている。表には閉ざされたドアや大きなシャッターが並び、郵便受けまで設置され、外壁の薄汚れ具合も相まって、駅名が書いてなければ潰れた店舗のようである。実際この駅舎は大部分をJRではなくJAが利用していたそうで、それが撤退して空き家になっているようだ。
内部には広い待合室がありそうだけど、駅前とホームを結ぶ通路があるだけで、驚くほどの狭さであった。壁沿いにベンチは置いてあるけど待合室というより通路である。建物の大部分はJAが利用していたらしく、この通路以外はなにもかも閉め切られ、トイレすらも閉鎖されていた。外は大きいのに中は小さいという駅舎である。
駅前に出ると細い道路が横切り、そのすぐ向こうでは吉野川が深い谷を刻んでいる。道路脇には巨木が茂っていたらしく、幹回り3〜4mくらいの切株が残されていた。
道路の先に目をやれば沿道のわずかな土地に古びた数軒の建物が並んでいる。そこに一軒だけ営業中の店舗があり、過疎地の駅前で踏みとどまるとは、食品か雑貨か、それとも床屋だろうかと近づき店名を見ると、意外にも鮮魚店と書かれていた。
石と岩の道
霧石渓谷トレッキングコース。駅前に立つ案内板にそう書いてある。いくつもの見どころがある面白そうな道のりで、所要時間は約2〜3時間と手頃、次の列車までたっぷり4時間半もある私のために用意したかのような案内板だ。せっかく用意してくれたのだから、行かないという選択肢はない。
それは駅背後にそびえる山にあり、中腹に広がる集落に上がるところからはじまる。そこから岩原神楽で知られる岩原神社、住民総出で作ったという石積みの古道、巨岩のそびえる霧石渓谷、それらをめぐりつつ駅まで下ってくる。盛りだくさんの周回コースである。
まずは岩原神社を目指して出発、すぐに木々の茂る山肌をゆく急峻な道に差しかかる。吉野川のせせらぎは徐々に小さくなり、入れ替わるようにセミの声が目立ってきた。徐々に増してゆく勾配と気温で全身から汗が吹き出し、ズボンに至っては色まで変わってきた。狭い道なので車には出合いたくないが、車どころか人にすら出会わない。
こんなところに人が住んでいるのだろうか、そんな不安をよそに急速に視界が開け、住宅や畑が現れはじめた。そこからはどこまで標高を上げても住宅がある。むしろ徐々に増えているような気さえする。まさに傾斜地集落だ。どうしてこんな不便な山上に住んでいるのかと思えるが、山上だろうと谷底だろうと平地はないのだ、それならなだらかで日当たりの良い山上の方が、急峻で日当たりの悪い谷底より暮らしやすかったのだろう。
集落の一角には鉛筆の形をした新しい石碑がぽつんと立っていた。どこに行くにも急な坂道が待ち受けているので寄り道は避けたいが、気になるので立ち寄ると「岩原校 校跡」と刻まれていた。驚いたことにこの山上の小集落に小中学校があったのだ。
石碑が新しいので近年まで存在したのかと思いきや、碑文によると昭和45年と想像よりはるか昔に閉校されていた。ここ大豊町は四国でも屈指の過疎と高齢化の町だが、昭和40年代には早くも過疎化により児童数が激減したとある。それからさらに半世紀もの時が流れたのだ、いま大豊町が限界自治体と言われる状況にあることに、どこか納得させられるものがあった。
校庭だったと思われる雑草の繁茂するこじんまりした空地、その片隅に校門の柱が取り残されたように静かに佇んでいた。近寄って見上げると左の柱には「岩原尋常小学校」と刻まれている。そして右の柱に刻まれた「御大典記念」の文字が、昭和天皇の即位の礼が行われた昭和3年頃に建てられたものであることを物語っていた。
岩原集落の最上部まで上がってきた。これより上は樹林に包まれて住宅はおろか畑すら見当たらない。その薄暗い樹林の中を山上に向けて延びる石畳の小路がある。敷き詰められた自然石は全体に苔むして熊野古道を想起させる。これが目的の岩原神社に通じる参道だった。
直線的に延びる参道は山の傾斜に合わせて徐々に斜度を増していく。天上に向かうかの如く上に向けて弧を描いている。階段にすべきだろうという傾斜になっても石を敷き詰めることを止めようとはしない。緑色片岩だろうか荒々しく滑りにくい表面の石なので、踏みやすい所を探しては階段のようにして上がっていく。一気に上がろうとしたが途中で力尽き、息は上がり汗は流れ、最後は休み休み足を進めていった。
ようやく上がりきると明るい平場があり、鳥居や狛犬、拝殿などが配されていた。苦労して上がってきた参拝者のための飲水や休憩所を期待するが何もない。仕方がないので荷物を下ろして参拝をしたら木陰でしばらく体を休めた。
集落に戻りトレッキングコースの標識に従い進んでいく。やがて道路を外れて細々とした山道に入っていく。急峻な山肌を横切るように作られた道には、そこかしこに古びた石積みが残されている。どうやらこれが住民総出で作ったという石積みの道のようだ。周辺には最近落ちてきたらしき無数の石ころや、直撃したら命はないだろう岩のかけらまでが散乱して危なっかしい。落葉が積もり通る人は少なそうだが、昭和の中頃までは主要道路として小学生の通学路にもなっていたという。
最初はちらほらと崩れかけた石積みがある程度で、まあ素人が作ったものだからこんなものだろうと思っていると、進むほどに石積みの規模は大きくなり、最後にはこんな所にどうやって積んだのかと尊敬の念すら抱くような、絶壁上に積まれた箇所まで現れた。積む以前にこれだけ大量の石を運んでくるだけでも大変な労力だろう。なんとしても道を作ってやるという執念のようなものを感じさせる道である。
沿道にはいくつかの古びた石仏が安置されていた。これは江戸時代末期の1861年に、岩原地区の各家庭が建立したものだという。それほど古い石仏がここにあるということは、この道はさらに古くからあったということだろう。石畳・石積み・石仏、長い歳月をかけて整備と維持をしてきた住民の方には頭の下がる思いである。
しかし過疎と高齢化と車社会にあっては、このような道の管理は難しいのだろう。あちこち崩れた箇所はあれども直そうとした気配すらない。豪雨などで大規模に崩壊したらそのまま廃道になりそうにも思える。もしかしたら自然に帰りつつあるこんな道が、この辺りの山中にはたくさんあるのかもしれない。
石積みの道は唐突に終わりを告げた。舗装された道路に出たのだ。そこには霧石渓谷の案内板があり、どうやらトレッキングコースの名前にもなっている景勝地、霧石渓谷に到着したようである。その名前から切り立った断崖を縫うように澄んだ水が流れ下る、そんな景色を想像していたが、意外にも目の前にあるのは吉野川沿いに連なる山並みと、その斜面上に箱庭のように広がる集落という、何とも穏やかな眺めであった。
案内板によると遊歩道が整備されていて展望台の文字もある。次の列車まで1時間ほどしかないのが気がかりだが、トレッキングコースの名前になる所なのだ、まさにここがハイライトなのだと思うと素通りする訳にもいかない。
そうなれば走るしかないと急ぎ遊歩道を下っていく。すると突然大きな岩の上に出た。周辺に広がる山並みを一望できて、これは眺めが良いと端のほうまで行って足がすくんだ。その先は断崖絶壁なのだ。それでいて手すりもなければ傾斜もしており、さらに苔が生えて滑りそうと危なっかしく、そろり慎重に岩を下りる。
さらに先に進むと断崖の中腹にある軽くえぐれた所に出た。眺めは先ほどの岩場の方が良いのだが、ここには背後に迫る岸壁を屋根のようにして数体の石仏が安置されていた。これもまた岩原地区の住民が建立したものなのだろうか。いつもなら刻まれた文字を読み取ったりするのだが、時間に追われて慌ただしく引き返してしまい、詳しいことは分からない。
次の列車まであと40分しかない。列車本数が少ないだけに乗り遅れる訳にはいかないが、駅があるのは遥か下の谷底で、はたして間に合うのか不安がよぎる。とにかく急ぐしかないと足早に下っていくが、眺望スポットの看板を目にするとついつい足を止めて見入ってしまい、ますます時間が押してきた。
いよいよ余裕がなくなり道路の分岐には神経質になる。そんな分岐点のひとつに軽トラが2台並ぶように止まり、傍らで2人のおじさんが立ち話をしていた。道の確認がてら近道を教えてくれるかもしれないという期待もあり道を尋ねる。するとどうだろう近道どころか「もう間に合わないだろう」という返答に言葉を失う。それを聞いたもうひとりのおじさんが「ちょうど駅の方に行くけど乗ってくか」と、天の助けとも言える言葉をかけてくれた。
文明の利器に助けられ、時間が押していたはずが時間を持て余す。高知方面ホームの待合所で休んでいると、向かいの阿波池田方面ホームに、巨大なスーツケースを手にした外国人が現れた。それも1人や2人ではない、10人近い団体だ。あまりの場違いな光景に幻覚でも見ているような気分だった。
まもなく阿波池田行きの普通列車がやってきて外国人が乗り込む。すぐに高知行きの普通列車もやってきて私も乗り込む。向こうの列車は乗車率がよく降りる人まであったが、こちらの列車は片手で数えるほどしか乗っておらず乗降客も私だけである。
今度こそ吉野川の流れを堪能しようと、わざわざ進行右側に陣取ったが、ここもまた断続的に現れる短いトンネルと樹林にさえぎられて堪能させてはくれない。吉野川は四国有数の大河であるが、列車には焦らすようにしか姿を見せず、ガタイが大きい割にうまく隠れている。
豊永
- 所在地 高知県長岡郡大豊町東土居
- 開業 1934年(昭和9年)10月28日
- ホーム 1面2線
吉野川と大きな支流の南小川が合流する出合いの地、どちらの谷にも平地はないが、山という山いたる所に傾斜地集落が作られている。特に南小川の流れる谷は傾斜が緩やかなため、はるか奥地のはるか高みにまで人の営みがある。全体で豊永郷と呼ばれていた所で、駅名が表すように駅周辺がその中心地であったという。
冷房の効いた列車を降りると激しい暑さに襲われた。日当たりがよく風のないホームは、草いきれの中にいるような嫌な暑さだ。列車のエンジンから立ち上がる熱気と、山々から降り注ぐセミの鳴き声がそれを助長させる。
乗降客は私だけだと思ったが乗る人はあったらしく、動き出した列車の車内に目をやると、私の座っていた所に人影が見えた。
構内はよくある島式ホームの交換可能駅だが、駅裏に使われなくなって数十年は経過してそうな古い単式ホームがあるのが目を引く。跨線橋や線路も残されている。今は保線車両の昼寝用に使用しているようだ。駅舎との間には線路の剥がされた貨物側線の跡地もある。今ではたまに普通列車が発着するだけの無人駅だが、かつての急行停車駅であり、優等列車や貨物列車が発着して賑わっていた時代が偲ばれる。
駅舎から跨線橋を上がってくる人の姿があり、当分列車はないのに何をしに来たのだろうかと身構えていると、もう使われていないはずのホームに降りていく。どういうことかと見ていると駅裏にも出入口があり、そこから駅裏を横切る国道に出られるのだ。これを見て廃止されたホームや跨線橋がそのまま残されている理由が分かった。
ログハウス風の駅舎に入ると、カーテンの引かれた窓口とベンチがあるのみで、すっきりしている。かつては券売機やゴミ箱もあったことが残された痕跡から察せられた。定期的に清掃している方がいるらしく、まるで有人駅のようにきれいに維持され、このまま窓口のカーテンが開いても違和感がない。
周辺は比較的開けていて住宅のみならず郵便局から小学校まである。駅前を横切る通りは商店街のようだが営業している店は少ない。以前は何かの商店だったらしき間口を残す建物が軒を連ねている。かつて商店街だったという方が適当かもしれない。たまに車が通り抜けていくだけで歩く人の姿はなく、寂れた雰囲気を漂わせていた。
定福寺
宮本常一といえば昭和の日本各地を歩きに歩き、数多くの著作のみならず、十万枚以上という膨大な写真を残したことでも知られる民俗学者だ。その記録は旅行記としても秀逸で、代表作ともいえる「忘れられた日本人」はじめ、数多くの著書を夢中で読んだことを思い出す。その宮本氏が幾度も足を運んだという定福寺が近くにある。そこには住職が中心となって収集した膨大な数の貴重な民具があるのだ。寺でありながらそれらを展示する民俗資料館まで併設されており、前々から訪れたいと思っていた所なので迷うことなく定福寺に向かった。
駅から商店街を通り抜けると吉野川支流の南小川に行き当たる。支流とはいえ吉野川に見劣りしない深く大きな谷で、最奥部に控える京柱峠を越えれば秘境祖谷に至る。さらに進めば西日本では石鎚山に次ぐ高峰、剣山に達する山また山の道だ。定福寺はこの谷を2kmばかりさかのぼった所にある。
たかが2km、されど2km、猛暑の中、日陰のないアスファルトの上を歩いていると果てしなく遠く感じる。暑さと喉の乾きで足が重い。眼下には青く澄んだ南小川が涼しげな音を立てているというのに、谷が深すぎて冷気を感じることも手を触れることもできない。
とぼとぼ歩いていると数台分の駐車スペースと東屋が見えてきた。そこには天神様を祀った社があり「名勝 天神ヶ獄」という標柱が立っている。見回してもどこに名勝があるのかよく分からないが、それより東屋があることがありがたく、日陰のベンチでしばらく休んでいく。
河原に下りられそうな小路もあるので、涼むことができないか下っていくと徐々に水音が大きくなり、やがて瀑布を思わせる激しい水音になってきた。下りきった所にあったのは大規模なえん堤。怖いくらいの勢いで水が流れ落ちている。霧のようなしぶきが吹き付けてきて冷たく気持ちいい。これが自然の滝であれば名勝になったところだ。
駅から40分ほどで定福寺のある小さな集落が見えてきた。その中ほどから山門に向けて石段が延びている。飲食店はおろか自販機のひとつすら見当たらないことに、多少気落ちしながら石段を上がっていく。かつてはユースホステルとして多くの外国人も訪れたというが、そうは思えないほど人の気配はなく、風に揺れる木々とセミの声だけが耳に届く。
境内ではいくつものハスが花を咲かせているのが目を引く。大賀ハスと呼ばれる約2千年前のハスの実を発芽させた古代ハスだ。朝咲いて日中は閉じるのだが、散る間際だけは日中でも開いたまま、これは今まさに散ろうとしているところだ。しかしまだ散ってはいない。こんな時間に訪れて完全な形で咲いているところを鑑賞できたのは幸運である。
山門をくぐり抜けてさらに石段を上がると、深い緑に包まれた本堂が佇んでいた。江戸時代に建てられたという古色を帯びた建物で、同じように歴史を刻んできたであろう樹林に、すっかり溶け込んで美しい。新緑や紅葉の季節にも訪れたいなと思う。内部を拝観すれば平安時代の作という本尊の阿弥陀如来像が安置され、両脇には地蔵菩薩と薬師如来の姿もある。ここはどこを眺めても気持ちが安らぐ。
本堂まで上がってきたらあとは下るだけかと思ったが、裏山のような一角には山野草園なるものがあり、案内板につられて山間に入っていく。しかしこれは5分や10分では物足りないのは明らかで、肝心の民俗資料館に使える時間がなくなってしまう。名残惜しいが後で時間があれば立ち寄ることにして引き返した。実に見どころの多い寺である。
民俗資料館に向かうと入口は閉ざされていた。別に閉館しているという訳ではなく、希望者があれば開けてくれるという方式だった。これだけ人気がなくては当然か。庫裡に向かい声をかけるとすぐに住職が現れて案内してくれた。
入館すると民俗資料館を作るに至った経緯を説明してくれる。それは当時の住職が過疎や近代化によって失われゆく民具を目にして、いま保存しなければ大変なことになると収集をはじめたことにはじまる。多くの住民から定福寺のユースホステルに滞在していた若者たちまで協力し、やがて集まった貴重な民具は、宮本常一氏の働きかけもあり一挙に三千点ほどが国の重要文化財に指定されたという。
これらの民具は大豊町に寄贈され、町立民俗資料館に展示されていたが、保存環境の悪さから徐々に朽ちていくこととなり、見かねて町に返還請求をするなど紆余曲折あり、今はこうして定福寺の管理する設備の整った豊永郷民俗資料館に展示されている。民具の方もようやく安住の地を得たという感じだ。
館内を目にして驚かされるのは民具が美術品の如くしっかり管理されていることで、これほど保存環境の整った民俗資料館はそうそうあるものではない。建物自体もまるで美術館のような美しい作りで、民具を末永く保存しようという強い思いを感じるところである。
展示品の多さには圧倒されるものがあり、きれいに分類された民具が整然と並んでいる。それも同種の道具がずらりと並んでいる。壁一面にノコギリが並んでいる様は道具屋のようだ。今でこそ貴重な民具だが当時は捨てられつつあったものな訳で、その収集保存に尽力した方々には頭の下がる思いである。
基本的にあるのは民具ばかりなのだが、その中に面白いものを見つけた。豊永駅の駅名板があるのだ。住職に尋ねると先代の駅舎に取り付けられていたもので、もう豊永の名前を残すのは駅くらいのものなので、取り壊す時に記念にもらってきたという。
住職にあれこれ話を伺ったりしていると時間はどんどん過ぎていく。定福寺を後にする頃にはもう夕方の気配が漂いはじめていた。真上から照りつけていた日は傾き、それにつられるように気温は下がり、風に乗ってヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。空腹は深刻だが下り坂ということも加わり往路よりも足取りは軽かった。
エピローグ
17時22分、定刻通りに見なれた単行の普通列車が現れた。乗るのは私だけだが高校生くらいの若者とおばあさんが降りた。車内に残されていたのは旅行者ばかり4人で、そのうち2人は外国人と、車に乗れない人たちが仕方なく利用する列車という感じだ。
連続するトンネルで県境を越えて徳島県に戻り、17時35分、大歩危に到着した。ここは2分停車なのですぐに発車するはずだが、どういう訳か運転士がホームに降りてしまい発車する気配がない。身じろぎひとつしない乗客と忙しそうな運転士を交互に眺めていると、案内放送があり、信号トラブルで信号が赤から変わらなくなり発車できないという。
急ぐ旅でもないので珍しい体験ができたと半ば楽しみつつ発車を待つ。ところが待てど暮らせど信号は赤のまま変わらない。いくら急がないとはいえ今宵の宿にたどり着けないほど遅れては大変で多少の焦りが芽生えはじめた。すると18時近くになり運転士がやってきて、阿波池田まで乗車する方は後続の特急に乗り換えてくれとのこと。普通から特急への振り替えとは初めてのことで面白いことになってきた。
待つこと数分で高松行きの特急が滑り込んできた。先ほどの運転士と特急の車掌が言葉を交わすのを横目に乗り込む。車内は半分くらいの座席が埋まっていたが難なく座れた。何だか特をした気分でくつろぐが、いつまでたっても発車しないので嫌な予感がしてきた。まもなく案内放送があり、案の定こちらも信号が赤から変わらないため発車できないとのこと。
数人の乗客がホームに降りて信号機を眺めていると、18時23分ついに青信号に変わり、まもなく発車しますと案内放送が流れた。やれやれと胸をなでおろしていると、再び赤信号に変わり発車できないという。信号機にもて遊ばれているようである。
このまま深夜まで赤信号のままならどういうことになるのだろう。列車で夜を明かすことになるのか、バス代行でもするのか、宿のキャンセル料はどうなるのか、そんなことを考えていると再び青信号に変わりましたの放送。気まぐれな信号機がまた赤にならないうちに早く通過しようとばかり、列車は猛然とエンジン音を上げて加速しはじめた。
短い間に色々なことが重なり、もう2〜3時間くらい経過した気がするが、当初の予定より40分程度の遅れで阿波池田に到着した。
(2019年7月29日)
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