因美線 全線全駅完乗の旅 4日目(用瀬〜智頭)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年3月30日、久しぶりの鳥取駅は快晴だった。

鳥取でこれだけ上天気なのは初めてかもしれない。冷え込んでいるが日なたであれば夏の早朝にも通じる心地よさがある。反面日陰に入ると風の強さと、昨日までの季節外れの暑さで夏の装いにした事もあり急激に寒さを感じた。

県庁所在地の代表駅というと聞こえは良いが、改札内でパンのひとつすら手に入らない困った駅なので、コンビニで簡単な朝食を仕入れてからホームに向かう。列車が到着したらしく大量の会社員らしき人たちを避けながら階段を上がった。

快晴の鳥取駅。
鳥取駅

乗車するのは8時発の智頭行きで、因美線の旅で利用するのは連続3回目となる。日の出が早くなってきたので1〜2本早い列車でも良いのだが、昨夜は米子に宿泊したので向こうを始発で出発してもこれが精一杯だった。先日ダイヤ改正があったけど時刻も車両も変化はなく、見慣れた智頭急行の車両が2両編成で待ち受けていた。

最初の目的地は終点ひと駅手前にある因幡社で、4日目ともなると乗車距離も伸びていて1時間近くの乗車になる。この車両は窓は大きく乗り心地も良いので、長時間乗車するにはもってこいだ。空いてるのをいいことに朝食を口に運びながら発車を待つ。

学生を中心にして徐々に座席は埋まっていくが相席になるほどではない。それすら3駅目の郡家までの話で、あとは片手で数えられるような乗客数になった。郡家から先が空気輸送になるのはよくあることで、今日はすれ違う特急すら空席が目立つ。そんな車内は学生と入れ替わりに乗車してきた、小学校低学年らしき姉弟の遊び場として活用されていた。

郡家駅に停車中の智頭行き普通列車。
郡家駅に停車中の631D

車窓を流れる山々には芽吹いたばかりの淡い緑色が広がり、その中に山桜のピンク色が点在していて華やか。時々目前を満開の桜が横切り目を奪われる。特に郡家の駅裏にある桜並木は見事なものだった。空いた車内に心地よい温度と振動、そしてこの車窓、どこまでも乗って行きたくなる気分だった。

因幡社いなばやしろ

  • 所在地 鳥取県鳥取市用瀬町宮原
  • 開業 1923年(大正12年)6月5日
  • ホーム 1面1線
路線図(因幡社)。
因幡社駅舎。
因幡社駅舎

列車を降りるとうなり声を上げるような風が吹きつけてきた。山々に囲まれた千代川沿いの小さな集落で、乗降客の姿はなく草木のざわざわ揺れる音だけが響いていた。空には青空が広がり暖かな日差しと満開の桜が春を感じさせる。空気にはまだ冷たさが残っていたけど、この日差しとうまく混ざり合うことで、暑くも寒くもない快適な陽気を作り出していた。

大きな神社の最寄り駅を想像させるこの駅名は、昭和30年までこの地に存在した社村やしろそんから付けられたと思われる。因幡を冠しているのは他に社駅が存在したからか、それとも読みが同じの長野県にある屋代駅などと区別するためだろうか。

今では1面1線という簡素な駅だが、線路の向こうには石積みのホームが遺跡のように残されていて、かつては相対式ホームの交換可能駅だったことが伺える。よく見れば構内踏切の痕跡も見つけられた。いつ頃まで使用されていたのか知る由もないが、雑草と木々に覆い尽くされた様子には長い歳月を感じさせた。

廃止されたホームが残る構内。
廃止されたホームが残る構内

木造駅舎が気になるけどその前に隣りにあるトイレに向かった。柱に取り付けられた管財表に目をやると大正12年の日付が記されていた。外見からもしかしてとは思ったけど実際に年号を目にすると驚きを感じる。これは便所と呼ぶのが相応しいだろう。恐る恐る入ってみると意外ときれいに維持されていた。古い駅舎はあちこちに残されていてもトイレだけは新しい事が多く、ある意味駅舎より貴重な建造物といえる。

当然駅舎の方も開業当時からそのまま残ると思われるが、期待して待合室に入ると改装されているせいか、百年近く経過してるようには感じられなかった。定番ともいえる作りつけの木製ベンチも見当たらない。そんな中で異彩を放つのが窓口で、ここだけは時が止まったかの如く年季の入った木材に囲まれていた。

待合室。
待合室

しかもこの窓口は現役で、かつての駅務室に入居した理髪店が切符販売もしている。それを知っていたので楽しみにしてきたけど「本日は休業させて頂きます」の紙切れがむなしい。せっかくだから散髪でもと考えていたけど、それどころか切符を購入することすら叶わず、津ノ井に河原と因美線ではとことん窓口に縁がない。

指をくわえて窓口を眺めていると、見れば見るほど変な姿形をした窓口だと思えてきた。大きな枠の中に半分くらいの面積の窓口がはめ込まれている。明らかに開業当時のままの姿ではなく何かしら手が加えられている。

どうしてこうなったのかモヤモヤしていたが、ふと隣りの用瀬駅で見た光景を思い出して何だかスッとした。まさにこの位置と形で小荷物扱い所があったのだ。恐らく小荷物扱い所だった大きな窓枠の中に、隣りにあった窓口を移設して、元々窓口があった場所には理髪店の出入口を設置したのではないだろうか。

理髪店の出入口に掲げられた本日休業の文字。
理髪店の出入口には…

駅を出るとほんの50mほど先を横切る国道に向けて道路が伸びていた。一応の駅前通りではあるが人気はなく、住宅がいくつか固まる程度で賑わいとは無縁の様子。駅舎のすぐ脇には貨物扱いをしていた名残りだろうか、雑草に埋もれた荒れ地が広がっていた。

犬山神社

まずは近くの小高い山上に鎮座する神社に向かうことにした。この集落は宮原という名前で今は鳥取市に属しているが古くは社村であり、地名に社と宮が付く神社とは長い歴史と由緒正しきものを感じさせる。加えて宮原は因幡の白兎で知られる八上姫の出身地という説もあり、因美線沿線では幾度もこの伝説に触れてきた縁もあり、そのような土地にある神社という点でも気になるところだ。

まずは国道に出るとすぐにバス停があり何となく時刻表に目をやる。山間のこの景色だし忘れたころに走る程度かと思いきや、毎時1本くらいの頻度で鳥取行きがあった。鉄道と合わせればかなりの本数になり山間にしては交通の便が良い。

田んぼと大きな家の点在する農村らしい景色の中を歩いていくと、田起こしが始まるらしくトラクターが騒々しく走りまわり、千代川対岸では山の斜面を満開の桜が包み込んでいた。どこを見ても聞いても春を連想させるものが飛び込んでくる。

穏やかな宮原集落。
穏やかな宮原集落

集落のもっとも上流部まで進んでくると参道が見えてきた。山々が千代川に迫り平地が姿を消す辺りから山上目指して伸びていた。驚かされるのが参道入口を線路が横切ることで、それだけなら多々ある光景だが、ここの場合は何と踏切がないのである。

人知れず鎮座する小さな神社ならともかく、目の前には犬山神社参道入口という大きな看板が立ち、切り出した石材で丁寧に作られた石段が伸びているのだ。奥には狛犬や鳥居が並んでいるのも見えた。それにも関わらず線路が行く手を阻む。犬山神社だけあって餌を前にして待てをされた犬の気分である。

神社の方がはるか昔からあるのだから渡り板くらい敷いてありそうなものだが、大人の事情で撤去されたのかもしれない。傍らには列車の通過時刻表が立ててあり、公認の勝手踏切のようにも見える。一方で近くの踏切を渡りましょうの看板もあり、渡れとも渡るなとも言い切れない微妙なものを感じさせる。

参道を横切る因美線。
参道を横切る因美線

入口に立つ看板には犬山神社と並んで「因幡いなば葦男あしおさん」という、どこか謎めいた名前も併記されていた。はて何だろうかと気にしながらも足を進めた。鳥居には大正三年と刻まれていて因美線の開業よりすこし早い。立てられて数年後に線路が横切ったという訳だ。その先では線路だけでなく道路までもが右へ左へと参道を横断していた。

緩やかな石段の先には美しく手入れされた祈祷殿があり、隣りには住宅もあるので宮司さんがいるらしい。ここには上まで行けない人のための遥拝所が用意されていて、この先に控える険しさを予感させる。傍らにはたくさんの絵馬が奉納されていて、犬山神社というだけに犬を形どったペット用の絵馬があるのが面白い。この様子からすると平日だから空いているだけで、普段はそれなりに参拝者があるのかもしれない。しかも今年は戌年なのだ。

犬山神社参道。
犬山神社参道

社務所を過ぎると参道の雰囲気は一変した。視界から生活感が消えていき県の天然記念物というシイやカシの茂る社叢の中に入っていく。石段もこれまでの存在感ある立派なものから、大きさも形もまちまちの自然石を並べたものに変わった。表面は苔むしていてどこかの古道に迷い込んだ気分だ。

湿り気のある谷底のような所で、頭上からは木々がざわざわ揺れる音、足元からは湧水が静々と流れる音が聞こえてくる。穏やかで心を洗われるような参道だが程なくして再び表情を変えた。今度は山上にある社殿を目指して斜面をつづら折りに上がっていくのだ。道幅は狭くなり石段もますます簡素になってきた。登山道にでもやってきたかのようだが、どこまでも掃き清められている様子が参道であることを認識させる。

つづら折りに斜面を上がる参道。
つづら折りに斜面を上がる参道

石段とも山道ともいえる参道を上がりきり、社殿が見えるというその直前だけ入口のようなきれいな石段になっていた。特に傾斜がきついため一段上がるごとに、地平線から日が昇るかの如く社殿がその姿を表してきた。

思いのほか開けた所で社殿の上には青空が広がっていた。どうやら背後の山から緩やかに降りてきた尾根が、千代川に切れ落ちていこうという先端あたりになるらしい。上がってきた正面だけならず右も左も下り斜面なので、ちょっとした小山の頂上のようにも見えた。

高台で風を遮るものがない境内には涼しい風が吹き抜け、周囲を取り囲む木々は大きくしなりながら勢いよく揺れていた。坂道で温まった体が冷やされていき心地よい。夏の神社を訪れて涼しい風に癒やされるあの感覚を思い起こさせた。

犬山神社拝殿。
犬山神社拝殿

参拝しようと拝殿に向かうと手書きの由緒書きが掲げられているのに気がついた。読み進めるとここまでの疑問に答えてくれる面白いものだった。

それによると参道入口で見かけた因幡葦男いなばあしおというのは、大国主に多数ある別名の1つ葦原醜男あしはらしこをを略したもので、古くはこの神社を葦男大明神と呼んでいたという。そして五柱ある御祭神には大巳貴おおなむちというこれまた大国主の別名が記されていた。大国主と八上姫の名はこの地方を歩くと本当によく出会う。

また古くから周辺にある九つの村々が氏子で、この郷を葦男の社と云ったことから明治以降は社村を名乗ったともある。因幡社という駅名に神社との関係を想像したが、あながち間違いではなく、この神社がなければ社村にはならず違う駅名になっていたのかもしれない。

洗足山せんぞくさん不動院

次に向かったのは千代川対岸に見える鳥居野という集落だ。「宮のある原」の対岸にある「鳥居のある野」とは、犬山神社と関係ありそうな地名で訪ねない訳にはいかない。それだけではなく数多くの桜が固まるようにして咲いている姿にも惹かれた。

橋の上から眺める千代川は随分と川幅が狭くなっていた。澄んだ水面からはごつごつした岩が顔を出し、河川から渓流に変わりつつあるようだ。眺めは良いけど今日一番ともいえる強風が吹き荒れていて、欄干から下をのぞき込んでいると背中を押されるようで恐ろしい。

逃げるように橋を渡りやってきた鳥居野は、高台の緩やかな傾斜地に田んぼと結構な数の住宅が点在するところだった。名前の由来になってそうな鳥居は見当たらないが、満開の桜は散りはじめる直前でまさに見頃だ。大きな桜が枝を広げている姿は見事なものだ。これだけ多くの桜が駅や学校でもない、単なる斜面上にあるのが不思議に思えた。

鳥居野の桜(奥が宮原)。
鳥居野の桜(奥が宮原)

そのまま傾斜地を山すその杉林まで上がってくると、大きな案内板や休憩用のベンチが置かれていた。なにかと思えば洗足山の登山口だという。山頂からは日本海まで望めるというこの辺りでも名の知れた山だ。登る余裕はないけど近くの谷間にある洗足山不動院を訪ねてみることにした。人里離れた所にある寺社というのは見るとつい行きたくなる。

木々に囲まれたそれらしい歩道から谷間に分け入っていく。足元はコンクリートで固められていて歩きやすい。徐々に沢の音が大きくなってきて清々しい気分だ。沢の上には欄干すらない簡素な橋がかかっていて、見下ろせば冷たそうな水が滔々と流れ下っていた。上流側は比較的緩やかなのだが、下流側は千代川に向けて半ば滝のような急流で、落ちたら命はなさそうで少しぞくぞくした。

ここで沢伝いに谷間を上がっていく道と、山すそを千代川沿いに進んでいく平坦な道に分かれていた。標識の類は見当たらないが、沢伝いの道には不動明王が睨みを効かせていて、どうやらここが不動院への入口のようである。

入口には不動明王が鎮座していた。
入口には不動明王が鎮座していた

杉林に囲まれた緩やかな坂道を上がっていくと、昔は農地があったのか石積みのなされた平場も見られた。蛇行しながら流れる沢の水は豊富で、木漏れ日に照らされながら涼し気な音を立てている。山からは冷たい風が吹き下ろしてきて夏に訪れたら気持ちよさそうな所だった。

道はどこまでもコンクリートで舗装されていて頭上には細々とした電線が続く。随分と整備されているのに人気はなく路面も苔と落ち葉が目立つ。よく見れば電柱には朽ち果てた街灯が付いていて、かつては夜でも人が往来するほど賑わっていたのだろうか。人里はなれた所にある人工物というのは想像を掻き立て、この先に何があるのか期待と不安が膨らんでいく。

歩道沿いを流れる沢。
歩道沿いを流れる沢

やがて見えてきたのは意外にも生活感あふれる住宅のような建物だった。薪が積み上げられていたり物干し竿があるだけならず、屋根には衛星アンテナまで付いていた。玄関には郵便受けまであるのだから驚いてしまう。このような所にどんな人がと思ったが、近くで見ると荒れていて人の気配は感じられなかった。

思わぬ展開に戸惑いつつも先に進むと、狛犬のようにして大きな蛙の石像が鎮座していた。全体が苔に覆われていて相当年季が入っている。よく見れば石像の足元には手のひら大の蛙もちょこんと座っていた。蛙にどういう云われがあるのか分からないけど面白い光景だ。

その奥には石州瓦の赤茶色も鮮やかなお堂のようなものがあり、傍らにある石柱を見ると洗足山不動院と刻まれていた。到着したようだが草木が生い茂り荒れていて、参拝しようにも扉は固く閉ざされ賽銭箱もなくどうしたものやら。窓からは使われたままの急須や茶碗がいくつも置かれたままなのが見え、急に人だけが消え去ったかのような雰囲気だった。

洗足山不動院。
洗足山不動院

それにしても洗足山不動院とは何なのだろうか。犬山神社のような由緒書きでもあれば良いのだが何もない。洗足山には弘法大師が不動明王を祀ったという逸話があるので、それと関係がありそうな気もするが…。

どこか釈然としないが帰りは下り坂ばかりなので足取りは軽い。さらに楽をしようとバス停に立ち寄るも出たばかりで結局20分ほど歩いて駅に戻ってきた。理髪店が営業してないかと淡い期待をしつつ待合室に入ると、降りた時と何も変わらず風だけが元気良く吹き抜けていた。これはもう洗足山にでも登りがてら再訪するしかなさそうだ。

次の列車は鳥取発の上郡行きという、日本海と瀬戸内の近くを結ぶ長距離列車だが単行でやってきた。さあ乗ろうと思ったら待合室からスッとおばちゃんが出てきて先に乗り込んだ。いつから居たのか気配もなくて全然気が付かなかった。降りる人はなかったけど日中のローカル駅にしては大勢ともいえる2名の乗車となった。

上郡行き 633D。
普通 上郡行き 633D

車内に入ると珍しく混雑していてボックス席は全て埋まっていた。仕方ないので後方の小さなロングシートに座った。進行左側なので千代川を眺めるには悪くないと思った。ところがいざ景色を眺めようとすると、首を後ろに回すことになり若干辛いものがあった。

列車は千代川を見下ろしながら進んでいく。水面は透き通るように澄んでいて、淵などの深みで見せる青とも緑ともつかない淡い色合いが美しい。今までほとんど見かけなかった鉄橋やトンネルが連続して現れ、平地が少なく川も蛇行していることが想像された。水量が減りそこらかしこに岩が顔を出していて、河口からの舟運が手前の用瀬で終わるのも納得できるような流れであった。

列車は千代川沿いを進む。
列車は千代川沿いを進む

両岸からは山が迫り農業から林業に変わりつつあるのを感じる。それだけに人口は希薄らしく次の駅まで7kmもあり延々と自然の中を進む。それが急に視界が開けてきて突然街らしい街が現れると智頭に到着した。

智頭ちず

  • 所在地 鳥取県八頭郡智頭町智頭
  • 開業 1923年(大正12年)6月5日
  • ホーム 2面3線
路線図(智頭)。
智頭駅舎。
智頭駅舎

智頭町の中心市街にほど近いこの駅は、路線のほぼ中間に位置する特急停車駅にして智頭急行の分岐駅でもある。線路はこの先どちらに進んでも長いトンネルによる県境越えが控え、鳥取側から見れば千代川上流にある最後の町らしい町という訳だ。それだけにまるで終点に到着したかの如く乗客は一斉に席を立ち、車内に残されたのは3〜4名であった。

周囲を見まわせば山々に囲まれた開けた土地で、都市というほどは発展していないが、降り立った乗客で賑わう様子からは、田舎というほど鄙びた印象も受けない。山間にある「市」でもなければ「村」でもない「町」という感じがした。

因美線は当駅を境にして対照的なまでに表情が変わる。鳥取方面は智頭急行を経由して関西や岡山方面を結ぶ特急列車が行き交うが、津山方面は普通列車だけがのんびり走るローカル線でしかない。直通する列車もほとんどないので別路線のようですらある。

2面3線の駅構内。
2面3線の駅構内

ホームは多数の列車が発着するだけでなく折り返しとなる列車も多いため、因美線が2面3線に智頭急行が1面2線とたくさんある。両者は別々の駅舎を持っているが、構内同士が繋がり直通する列車も多いので、別な駅のようでもあり同じ駅のようでもあった。

すっかり人気のなくなった構内を歩けば、大正時代に開業してから改良が繰り返されてきたのだろう、さまざまな時代の設備や遺構が目に留まる。中でもホーム上屋は木造と鉄骨が混ざるだけでなく、その姿形もさまざまなものが継ぎ足されるように並んでいて面白い。智頭は杉の名産地だからか杉玉が吊るされていた。

ホームに吊り下げられた杉玉。
ホームに吊り下げられた杉玉

仮設かと思うような質素な外観の待合所をのぞくと、見た目によらず冷暖房が完備されていて居心地は良さそう。因美線で初めて目にする跨線橋もあり、ここまでの各駅からすると少ない予算ながら手が加えられ続けてきたという感じだ。駅舎の隣りには乗務員の宿泊所もあり、全体的に因美線における中核駅といった風である。

郡家以来となる久しぶりの有人改札を抜けて待合室に入る。みどりの窓口と券売機があり、中ほどに並べられたベンチを取り囲むように小物やパンフレット類が並ぶ。こういう駅には以前なら必ずといって良いほどキヨスクがあったのだが、残念ながら跡地らしきスペースに自販機が置いてあるだけだった。

見た目としては駅らしい駅であるが、おばあさんがひとりポツンと座っているだけで窓口も留守と、因幡社と大差ない静けさであった。

窓口と改札口周辺。
窓口と改札口周辺

駅を出ると美しく整備されていて開放的で明るい。正面には古民家風の大きな観光案内所まであり観光地に来たという気がした。

駅前にある庭園はこの手のものとしては大きく、手入れもよくされていて、因美線開通七十周年記念という石碑が立っていた。振り返れば構内と同じく手が加えられながら使われ続ける古い駅舎が佇む。石州瓦の切妻屋根が山陰の木造駅舎らしく好ましい姿をしていた。

智頭宿

まずは目の前にある観光案内所に向かいどこに行こうか計画を立てる。見どころは想像以上に多くて悩ましい。印象だけでなく実際に観光地なのだと実感した。見どころというのは多すぎても少なすぎても困る厄介な代物だ。まあこの町には智頭急行の旅でまた訪れるだろうし、今回は鳥取有数の宿場町だったという智頭宿を中心に歩いてみることにした。

観光用の地図も入手してさあ行こうと思ったけど、駅前にある「ホルそば」の看板に引き寄せられた。なにかと思えばホルモン入り焼きそばの略らしい。隣りの津山市はホルモン焼きうどんが有名だが、県境を挟んで麺が変わるというのが面白い。

ちょうど昼だし食事難民にもなりたくないので迷わず入店した。小洒落た店で混んでいたけど辛うじて座れた。待つことしばし出てきたのは色味が薄いためソースをケチったような焼きそばだった。ところが食べると見た目に反してこってり濃厚な味わいなのだ。名物になるだけの事はあり普通に美味しく、大盛りにしても良かったかなと思った。

ホルモン焼きそば。
ホルモン焼きそば

腹も満たされたところで改めて智頭宿に向かう。ここは畿内と因幡を結ぶ主要道である因幡街道沿いにあり、行き交う旅人や商人で大変賑わったという。参勤交代に利用された街道でもあり、大名などの宿泊する本陣も置かれていた。鳥取から丸一日で到着するという立地、行く手に控える志戸坂峠という難所、美作に向かう備前街道の分岐点であるなど、発展すべくして発展した宿場町である。

駅前通りをしばらく歩くと千代川を渡る橋が見えてきた。因美線沿いを流れ下るこの川には随分楽しませてもらったが、ここから先は支流の土師川はじがわ沿いを進むので見納めになるだろう。

川沿いの土手は180本の桜が並ぶという桜の名所なので、見納めにふさわしい美しい光景を期待したのだが、橋の上から桜並木を見て愕然とした。鳥取から延々と満開の桜が続いてきたというのにまだ咲き始めの段階なのだ。この町はよほど気温が低いところなのだろうか。因幡社の理髪店といいどうもタイミングが悪い。

千代川沿いの桜土手。
千代川沿いの桜土手

多少気落ちしつつ千代川を渡ると古くからの入り組んだ街並みに入っていく。適当に路地裏のような所を通っていたら石谷家住宅という標識が現れはじめた。石谷家住宅は観光パンフレットでも大きく扱われていて智頭宿を代表する観光施設と思われる。まずはここから訪れてみようかと標識に従い進んでいく。

程なくしてかつての街道筋らしき風情を残す通りに出た。案内板を見ると昔はこの中央に水路も流れていたようだ。沿道には格子戸や土壁などの見られる古びた家屋がいくつも残されていた。古いといっても中山道の妻籠宿のような凄いと思わせる江戸期のそれではなく、大正や昭和初期を感じさせる新鮮さと懐かしさを同時に漂わせるような古さだ。

平日とあってか観光客はほとんど見かけず地元の方すら滅多に通らない。因幡街道における最大の宿場町だったという賑わいは微塵も感じられないが、この街並みには時が止まったような静けさと穏やかな日差しがよく似合っていた。

智頭宿。
智頭宿

石谷家住宅は通りから眺めた印象としては立派な住宅だなあという程度だった。ところが玄関から一歩足を踏み入れると想像以上に広々とした土間があり、吹き抜けの天井を見上げると何本も横切る大きな梁の存在感に圧倒された。これにはしばらく足を止めて見上げてしまう。

そこから靴を脱いで上がると畳廊下に沿っていくつもの部屋が連なり、本陣跡だと言われても納得しそうな作りをしていた。なんでも40の部屋と7つの蔵があるという。点々とさりげなく高尚な美術品などが飾られていたりする。いかにも和風の家ではあるが洋室があったりピアノが置いてあったりと、ここでもまた大正から昭和の雰囲気を感じさせた。

石谷家住宅。
石谷家住宅

奥には鯉の泳ぐ大きな池泉庭園と枯山水庭園が並んでいた。表から見るよりはるかに豪壮な作りをしていて国の重要文化財になるだけのことはある。広いのに加えて貸し切りというくらい来館者が少なく静かで、庭沿いの縁側に並ぶ大きなガラス戸が風にカタカタ揺れる音だけが響く。思わずここで昼寝でもしたくなるような落ち着く所だった。

らせん階段から2階に上がると、階段上の吹き抜け空間に太鼓橋の架かっていて、子供ならこれだけで喜びそうな構造をしていた。2階の部屋には特別なにがあるという訳ではなかったけど、窓からは枯山水庭園や向かいに建つ消防屯所の建物がよく見えた。

一通り見学したところで梁が目を惹く土間に戻ってきた。隣接する一室は食堂になっていて庭園を眺めながらの食事ができるという。ホルモン焼きそばを食べたばかりではあるものの、利用はしてみたいという訳でアイスコーヒーを注文した。ここもまた貸し切りだったので贅沢にも庭の眺めを独占しての休憩となった。

土間にある見事な梁。
土間にある見事な梁

主家を出ると並んで建ち並ぶ蔵に向かう。全てが公開されている訳ではないが、資料館や展示室として利用されていた。智頭杉の話であったり、ひな人形や写真の展示などがあった。主家の方でもうすっかりお腹いっぱいの気分なので、これでは街歩きをする時間がなくなるとばかりざっくりと見て回った程度で後にした。

続いて石谷家住宅の正面に建つ消防屯所に向かう。火の見櫓が一体になった木造2階建ての建物で、石谷家住宅と並んでこの通りを代表する建築物ではないだろうか。そのくらい特徴的かつ美しい容姿をしていた。しかも単なる飾りではなく現役の消防屯所というから驚きだ。

内部は自由に立ち入れるようになっていたので靴を脱いで2階に上がると、広々とした板敷きの間があり、壁には智頭町の古い白黒写真が何枚も飾られていた。向こうからこちらが見えただけに窓からは石谷家住宅がよく見えた。静かな街並みが徐々に騒がしくなってきたと思ったら、表の道路をツアー客らしき中高年団体が通り過ぎていった。

消防屯所。
消防屯所

団体が過ぎ去るのを待ってから消防屯所を出て通りを先に進んでいく。格子戸と石州瓦の組み合わせが印象的な建物が目を引くが、それより杉玉工房という看板に興味を惹かれた。元は何かの商店だったらしき小さな木造家屋で、開け放たれた戸口からは杉玉作りをしている職人の姿が見えた。杉玉といえば酒蔵に吊るされているのが定番だけど、この町では駅から民家まで至る所に吊るされていたのを思い出す。

作業を公開しているようなので思わず立ち寄ると、作り方の質問から撮影まで気さくに応じてもらえた。こういう手仕事は眺めているだけで楽しくなる。杉玉は販売もしていて5千円という手頃な価格で欲しくなるが、これを持ち歩くのを考えて思いとどまった。作るのに2日ほどかかると聞いてそれで商売になるのかと思ったがボランティアみたいなものだそう。

静かに話を伺っていたが、先ほど通り過ぎたツアー客が戻ってきて、この杉玉工房になだれ込むように続々と入ってきたので、それどころではなくなってしまった。こういう集団の中に取り込まれると、1人静かに旅をする方が性に合っていると実感する。

杉玉工房(許可を得て撮影)。
杉玉工房(許可を得て撮影)

気がつけば20分近くも滞在した杉玉工房から少し進むと、小じんまりした木造2階建ての洋風建築があり、白く塗装されたその姿は消防屯所と同じ雰囲気を漂わせていた。郵便局だろうかと思わせるような姿をしていたけど大正時代の役場だという。これまた現役で今は公民館になっているという。

大正から昭和初期にかけての建築というのは魅力的で見かけるたび足が止まる。江戸期ともなると凄いとは思っても異世界に来たようで懐かしさなど感じないし、昭和も中頃までくると馴染みがありすぎて目を奪われるような新鮮さが失われていく。その点で大正前後というのは実にバランスの良い古さなのだ。

すぐ斜向いには酒蔵があったけど少し眺めるだで通り過ぎた。歩き旅だと重くてかさばる酒類からは自然と足が遠のく。ただ酒蔵の裏手には魅惑的な路地があり入り込んでいく。人とすれ違うのさえ困難な狭さで傍らには水路が流れ、周囲を土壁や板壁に囲まれた様がたまらない。

諏訪酒造付近の通り。
諏訪酒造付近の通り

街道筋から少し入ると旧塩屋出店という明治時代の建物や、西河克己映画記念館なるものもあった。作品は伊豆の踊子くらいしか見た記憶がないけど、せっかくだから立ち寄ろうかと思いきや、時間が遅すぎたらしく閉ざされていたので外観だけを眺めていく。本陣跡は石柱と案内板があるのみだった。

最後に石谷家住宅の裏山にある諏訪神社に上がっていくと、西日の差し込む明るい境内と、ざわざわ木々の揺れる音が心地よい所だった。人気のないこの雰囲気はとても落ち着き、特に何があるという訳ではないけど、ぼんやりと長居をしてしまう。

何となく往路とは違う通りから駅に向かうと、古びた商店がそこらかしこに残されていて、昔は相当な賑わいだったと思わせる商店街に出た。山間でこれだけの商店街があるのは古くから栄えた町ならではだろう。どこを歩いても風情が残された良い町である。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

乗車する鳥取行きは鳥取からやってきた列車の折り返しだった。到着すると隣りに停車する津山行きに旅行者から高校生までが続々と乗り継いでいく。ここから先などほとんど利用者が居ないのではと思っていたがそうでもないらしい。逆に鳥取行きの方が利用者は少なく、乗車した後ろの車両には私の他に1人だけという有様だった。

車両は例によって智頭急行のそれだが、智頭から津山にかけての区間には乗り入れていないので、この車両に乗るのも今回が最後になるかもしれない。

鳥取行き普通列車。
普通 鳥取行き 638D

帰途はもう何もやるべきことはなく気楽なもので、早くも懐かしさを漂わせる駅と沿線風景を眺めつつのんびりと帰った。

(2018年3月30日)

コメント

  1. 匿名 より:

    たまたまこのブログを拝見した者です。
    小生は因美線の因幡社の住民で昭和18年生まれ。後期高齢者の仲間入りをした老人です。

    因幡社の駅名のことですが、昭和の大合併以前は鳥取県八頭郡社村と称していました。それが用瀬町に吸収合併され、平成の合併では鳥取市となりました。
    ところが鳥取県には他に東伯郡社村がありました。これは昭和28年に倉吉市になりました。
    鳥取県は藩政時代は因幡の国と伯耆の国の二つから成っていました。東伯郡は字義のとおり伯耆の国です。
    この区別のため因美線の社には因幡を冠したと思います。ただし東伯郡社村を通る鉄道路線は存在しません。因みにここは国分寺や国庁があった伯耆の国の中心地です。
    よき旅を!

  2. Tokuvin より:

    因幡と伯耆の社村についてのお話、興味深く拝読させていただきました。
    駅名がかつての社村から取られたものだということは想像がつきましたが、単純に社駅にせず因幡を冠したのは少し不思議でした。色々と理由を考えましたが、伯耆にも社村があったというのは盲点でした。改めて地図で場所を確認すると、随分近いところに同名の自治体があったものだと驚かされます。
    大変参考になるコメントありがとうございました。

  3. 匿名 より:

    今はどこを旅しておられることやら。
    因美線の郡家(こうげ)からの支線、若桜鉄道を旅なさるのも一興かと。
    またまたよき旅を。
                             因幡住人

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