因美線 全線全駅完乗の旅 4日目(用瀬〜智頭)

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年3月30日、およそ3ヶ月ぶりとなる鳥取駅は快晴だった。冷え込んでいて風も強いけど日差しのおかげで過ごしやすい。いっぽう日陰に入るとここのところ暑い日が続いたことから薄着できたこともあって肌寒かった。

県庁所在地の代表駅というと聞こえは良いが、改札内でパンのひとつすら手に入らない困った駅なので、コンビニで簡単な朝食を仕入れてからホームに向かう。ちょうど列車が到着したらしく、下りてくる大勢の会社員らしき人たちを避けながら階段を上がった。

乗車するのは8時発の智頭行きで、目的地の因幡社いなばやしろまで1時間ほどかかる。この時期は6時前に日の出を迎えるので、もっと早い列車でもよかったのだが、昨夜は米子に宿泊したので始発でやってきてもこれが精一杯だった。

発車まで時間があり空いていたのでボックス席にゆったり陣取り朝食をとる。学生を中心にして徐々に座席は埋まっていくが相席になるほどには混まない。

鳥取駅を抜け出すと駅ごとにどんどん下車していき、郡家までくると片手で数えられるような乗客数になった。すれ違う特急も空席が目立つ。がら空きとなった車内は学生と入れ替わりに乗車してきた、小学校低学年くらいの姉弟の遊び場として活用されていた。

車窓を流れる山々には芽吹いたばかりの淡い緑色が広がり、その中に山桜の薄紅色が点在している。ときどき目前を満開の桜が横切り目を奪われる。特に郡家駅の桜並木は見事なものだった。柔らかな陽光のそそぐ車内、心地いい温度と振動、春らんまんの車窓、どこまでも乗って行きたくなる気分であった。

因幡社いなばやしろ

  • 所在地 鳥取県鳥取市用瀬町宮原
  • 開業 1923年(大正12年)6月5日
  • ホーム 1面1線
路線図(因幡社)。

列車を降りるとうなり声を上げるような風が吹きつけてきた。山々に囲まれた千代川沿いの小さな集落で、乗降客の姿はなく草木のざわざわ揺れる音ばかりが目立つ。空気はひんやりしているけど青空から注ぐ暖かな日差しと混ざり合って暑くも寒くもない。満開の桜と涼しいけど暖かいこの陽気に春を感じる。

大きな神社の最寄り駅を想像させるこの駅名は、昭和30年までこの地に存在した社村から付けられたと思われる。因幡を冠しているのは他に社駅が存在したからか、それとも読みが同じの長野県にある屋代駅などと区別するためだろうか。

今では1面1線という簡素な駅だが、線路の向こうには石積みのホームが遺跡のように残されていて、かつては相対式ホームの交換可能駅だったことが伺える。よく見れば構内踏切の痕跡も見つけられた。いつ頃まで使用されていたのか知る由もないが、雑草と木々に覆い尽くされた様子が長い歳月を感じさせる。

木造駅舎が気になるけど隣に同じくらい古めかしいトイレがある。近づいて柱に取り付けられた財産票に目をやると大正12年という開業当時の日付。外見からそんな気はしたけど実際年号を目にすると驚きを感じる。これは便所と呼ぶのが相応しい。きちんと清掃してありきれいに維持されているのもいい。古い駅舎はあちこちに残されているけど、トイレだけは新しいことが多く、ある意味駅舎より貴重な建造物といえる。

当然駅舎の方も開業当時からのものだと思われるが、待合室に入ると改装されているせいか、百年近く経過してるようには感じられなかった。定番ともいえる作りつけの木製ベンチも見当たらない。そんな室内で異彩を放つのが窓口で、ここだけは時が止まったかの如く年季の入った木材に囲まれていた。

無人駅のようだけどこの窓口は現役で、かつての事務室に入居した理髪店が切符の販売もしている。せっかくだから切符を購入して散髪もしていけたらと思うけど「本日は休業させて頂きます」の紙切れがむなしい。同じ委託駅の津ノ井や河原でも窓口は閉まっていたし、因美線ではとことん委託窓口に縁がない。

残念な気持ちで窓口を眺めるが、見れば見るほど妙な姿形をした窓口だなと思う。大きな枠の中に半分くらいの面積の枠がはめ込まれてそこが窓口になっている。どう見ても大きな窓口を小さく作り直したものだろう。

どうしてそんな面倒なことをしたのかと不思議に思うが、ふと隣の用瀬駅で見た光景を思い出して腑に落ちた。まさにこの位置と形で小荷物扱い所があったのだ。想像するに小荷物扱い所だった大きな窓枠の中に、隣にあった窓口を移設、そして元々窓口があった場所に理髪店の出入口を設置したのだと思われる。

駅を出ると50mほど先を横切る国道に向けて道路が伸びていた。一応の駅前通りではあるけど沿道には住宅がいくつかある程度で人の気配はなく賑わいとは無縁の様子。駅舎のすぐ脇には貨物扱いをしていた名残りだろうか、雑草に埋もれた荒れ地が広がっていた。

犬山神社いぬやまじんじゃ

まずは近くの小高い山上に鎮座する犬山神社に向かう。この集落は宮原という名前で今でこそ鳥取市に属しているが古くは社村だったところ、社と宮の付く地名にある神社とは、長い歴史と由緒正しきものを感じさせる。加えて宮原は因幡の白兎で知られる八上姫の出身地という説もあり、因美線沿線では幾度もこの伝説に触れてきた縁もあり、そのような土地にある神社という点でも気になるところだ。

駅前通りを進んで国道に出るとバス停があり、山間のこの景色だから忘れたころに走る程度だろうと思いつつ時刻表に目をやると、毎時1本くらいの頻度で鳥取行きがあった。鉄道と合わせればかなりの本数になり、山間にしては交通の便が良い。

田んぼと大きな家屋の点在する農村らしい景色のなかを歩いていく。田起こしがはじまるようでトラクターが騒々しく走りまわっている。

集落のもっとも上流側までくると、犬山神社参道入口という大きな看板があり、石材で丁寧に作られた石段が伸びていた。行く手には狛犬や鳥居が並んでいるのも見える。

困惑するのが参道入口を線路が横切っていることで、それだけならよくある光景だが、ここの場合は踏切がないのである。恐らく参道があったところを線路が横切り、当初は渡り板くらい敷いてあったのだろうが、大人の事情で撤去されたのだろう。傍らには列車の通過時刻表が立ててあり公認の勝手踏切のようになっている。いっぽうで近くの踏切を渡りましょうの看板もあり、渡れとも渡るなとも言い切れない微妙なものを感じる。

参道入口の看板には犬山神社と並んで「因幡葦男いなばあしおさん」という、どこか謎めいた名前が併記されていて、なんだろうかと気にしながら足を進める。

くぐり抜ける鳥居には大正三年と刻まれていて因美線の開業より少し早い。鳥居の立てられた数年後に線路が横切ったというわけだ。さらに鳥居の先では舗装された道路までもが右へ左へと参道を横切っていた。

緩やかな石段を上っていくと美しく手入れされた祈祷殿があった。住宅もあるので宮司さんがいるらしい。傍らにはたくさんの絵馬が奉納されていて、犬山神社というだけに犬を形どったペット用の絵馬があるのが面白い。この様子からすると平日だから空いているだけで、休日はそれなりに参拝者がありそうだ。今年は戌年だからなおさらである。

上まで行けない人のための遥拝所があったことに道のりの険しさが察せられたが、やはりというか社務所を過ぎると参道の雰囲気は一変した。辺りには県の天然記念物というシイやカシの茂る社叢が広がり、石段もこれまでの立派なものから、大きさも形もまちまちの自然石を並べたものに変わった。表面は苔むしていてどこかの古道に迷い込んだ気分だ。

湿り気のある谷底のようなところで、頭上からは木々がざわざわ揺れる音、足もとからは湧水が静々と流れる音が聞こえてくる。穏やかで心を洗われるような参道だと思ったが、ほどなくして再び表情を変えはじめた。

今度は山上にある社殿を目指して斜面をつづら折りに登っていくのだ。道幅は狭くなり石段もますます簡素になってきた。どこかの登山道にでも迷い込んだ気分だが、どこまでも掃き清められている様子が参道であることを認識させる。

石段とも山道ともいえる参道を登っていき、いよいよ社殿が見えるというその直前だけ入口のようなきれいな石段になっていた。傾斜がきついため一段上がるごとに、地平線から日が昇るかの如く、社殿がその姿を表してくる。

思いのほか開けたところで社殿の上には青空が広がっていた。どうやら背後の山から緩やかに伸びてきた尾根が、千代川に切れ落ちていこうという先端あたりになるらしい。上がってきた正面だけならず右も左も下り斜面なので、ちょっとした小山の頂上のようにも見えた。

高台で風を遮るものがない境内には涼しい風が吹き抜け、周囲を取り囲む木々は大きくしなりながら勢いよく揺れていた。坂道で温まった体が冷やされていき心地よい。夏の神社を訪れて涼しい風に癒やされるあの感覚を思い起こさせた。

参拝しようと拝殿に向かうと手書きの由緒書きが掲げられているのに気がついた。読み進めるとここまでの疑問に答えてくれる面白いものだった。

それによると参道入口で見かけた因幡葦男いなばあしおというのは、大国主に多数ある別名のひとつである葦原醜男あしはらのしこをを略したもので、古くはこの神社を葦男大明神と呼んでいたという。そして五柱ある御祭神には大巳貴おおなむちというこれまた大国主の別名が記されていた。大国主と八上姫の名前はこの地方を歩くと本当によく出会う。

また古くから周辺にある九つの村々が氏子で、この郷を葦男の社と云ったことから明治以降は社村を名乗ったともある。この神社がなければ社村にはならず、因幡社はちがう駅名になっていたのかもしれない。

洗足山不動院せんぞくさんふどういん

犬山神社から下りてきたら千代川対岸にある鳥居野という集落に向けて橋を渡る。「宮のある原」の対岸にある「鳥居のある野」という地名には興味を惹かれ、犬山神社とも深い関係がありそうで訪ねないわけにはいかない。

橋から眺める千代川は随分と川幅が狭くなっていた。澄んだ水面からごつごつした岩が顔を出していて渓流の趣がある。眺めは良いけど今日一番ともいえる強風が吹き荒れていて、欄干から下をのぞき込んでいると背中を押されるようで恐ろしい。

逃げるように橋を渡りやってきた鳥居野は、緩やかな傾斜地に田んぼと住宅が点在するところだった。名前の由来になってそうな鳥居は見当たらないが、満開を迎えた大きな桜がたくさん並んでいて見事なものだった。どうしてこんなに桜があるのか由来が気になる。

傾斜地が田んぼから杉林に変わるところまで上ってくると、大きな案内板や休憩用のベンチが置かれていた。なにかと思えば洗足山の登山口だという。山頂からは日本海まで望めるというこの辺りでは名の知れた山のようだ。登る余裕はないけど近くの谷間に洗足山不動院なるものがあるのでそこまで行ってみることにする。人里離れたところにある寺社というのは見つけるとつい訪ねてみたくなる。

木々に囲まれたそれらしい歩道から山中に入り込んでいく。足もとはコンクリートで固められていて歩きやすい。徐々に沢の音が大きくなってきて清々しいものがある。

沢までくると手すりすらない簡素な橋が架けられていた。橋から見下ろす沢には冷たそうな水が滔々と流れている。上流側は比較的緩やかだけど、下流側は千代川に向けて滝のような急流になっていて、落ちたら命はなさそうで少しぞくぞくした。

ここで沢伝いに谷間をさかのぼる道と、山すそを進んでいく平坦な道に分かれる。標識の類は見当たらないけど、沢伝いの道には不動明王が睨みを効かせている。雰囲気からしてここが不動院の入口とみて間違いないだろう。

緩やかな坂道で冷たい風の吹き下ろしてくる谷を詰めていく。沿道には杉林が広がるけど石積や平坦な土地があるので昔は農地だったのかもしれない。蛇行しながら流れる沢は水が豊富で、木漏れ日に照らされながら涼し気な音を立てている。

道は狭いけど舗装はしてあり頭上には細々とした電線が伸びている。随分と整備されているのに人気はなく路面も苔と落ち葉が目立つ。

電柱には朽ち果てた街灯が付いていて、かつては夜でも人が往来するほど賑わっていたのだろうかと思う。人里はなれたところにある人工物というのは想像を掻き立て、この先になにが待ち受けているのか期待と不安が膨らんでいく。

やがて見えてきたのは意外にも生活感あふれる住宅のような建物だった。薪が積み上げられていたり物干し竿があるだけならず、屋根には衛星アンテナまで付いている。玄関には郵便受けまであるのだから驚いてしまう。どんな人が暮らしているのかと思うけど、近くで見ると荒れていて人の気配は感じられない。

先に進むと狛犬のようにして大きな蛙の石像が鎮座していた。全体が苔に覆われていて相当年季が入っている。よく見れば石像の足もとには手のひら大の蛙がちょこんと座っている。蛙にどういう云われがあるのか分からないけど面白い光景だ。

終点には石州瓦の赤茶色が鮮やかなお堂のようなものがあり、傍らにある石柱を見ると洗足山不動院と刻まれていた。到着したようだが草木が生い茂り荒れている。参拝しようにも扉は固く閉ざされ賽銭箱もない。窓からは使われたままの急須や茶碗がいくつも置かれたままなのが見え、急に人だけが消え去ったかのような雰囲気だった。

それにしても洗足山不動院とはどういう存在なのだろうか。犬山神社のような由緒書きでもあれば良いのだがなにもない。洗足山には弘法大師が不動明王を祀ったという云われがあるそうなので、それと関係がありそうな気はするがよくわからない。

疑問を抱きながら鳥居野集落まで下り、バス停に立ち寄るけど出たばかりだったので、国道を歩いて駅まで戻ってきた。理髪店や窓口が営業してないか期待しつつ待合室に入るが、変わらず閉じたままで残念。いつか洗足山に登りがてら再訪しようと思う。

乗車するのは11時45分発の上郡行き。乗り慣れた智頭急行の車両が単行でやってきた。降りる人はなかったけど、列車が停車したところで待合室からおばさんが現れ、日中のローカル駅にしては大勢ともいえる2名の乗車となった。

車内は思いのほか混雑していてボックス席はすべて埋まっていた。仕方ないので後方の小さなロングシートに座る。首を後ろに回さないといけないのがちょっと辛いけど、千代川を眺められる進行左側なので悪くはない。

列車は千代川を見下ろしながら進んでいく。水は透き通るように澄んでいて、淵などの深みで見せる青とも緑ともつかない淡い色合いが美しい。水量が減りそこらかしこに岩が顔を出していて、河口からの舟運が手前の用瀬で終わるのも納得できるような流れである。

流れが蛇行しているうえ両岸から山が迫るので、これまでほとんど出会わなかった鉄橋やトンネルが連続して現れる。それだけに人口は希薄らしく次の駅まで7kmもあり延々と自然のなかを進む。このまま山深くに連れて行かれそうな雰囲気だけど、急に視界が開けてきて街らしい街が現れると智頭に到着した。

智頭ちず

  • 所在地 鳥取県八頭郡智頭町智頭
  • 開業 1923年(大正12年)6月5日
  • ホーム 2面3線
路線図(智頭)。

智頭町の中心市街にほど近いこの駅は、路線のほぼ中間に位置する特急停車駅にして智頭急行の分岐駅でもある。線路はこの先どちらに進んでも長いトンネルによる県境越えが控え、鳥取側から見れば千代川上流にある最後の町らしい町といえよう。それだけにまるで終点に到着したかの如く乗客は一斉に席を立ち、車内に残されたのは3〜4名であった。

周囲を見まわせば山々に囲まれた開けた土地で、都市というほどは発展していないが、降り立った乗客で賑わう様子からは、田舎というほど鄙びた印象も受けない。山間にある「市」でもなければ「村」でもない「町」という感じがした。

因美線は当駅を境にして対照的なまでに表情が変わる。鳥取方面は智頭急行を経由して関西や岡山方面を結ぶ特急列車が行き交うが、津山方面は普通列車だけがのんびり走るローカル線でしかない。直通する列車もほとんどないので別路線のようですらある。

ホームは多数の列車が発着するだけでなく折り返しとなる列車も多いため、因美線が2面3線に智頭急行が1面2線とたくさんある。両者は別々の駅舎を持っているが、構内同士が繋がり直通する列車も多いので、別な駅のようでもあり同じ駅のようでもある。

すっかり人気のなくなった構内を歩けば、大正時代に開業してから改良が繰り返されてきたのだろう、さまざまな時代の設備や遺構が目に留まる。中でもホーム上屋は木造と鉄骨が混ざるだけでなく、その姿形もさまざまなものが継ぎ足されるように並んでいて面白い。智頭は杉の名産地だからか杉玉が吊るされていた。

仮設かと思うような質素な外観の待合所をのぞくと、見た目によらず冷暖房が完備されていて居心地は良さそう。因美線で初めて目にする跨線橋もあり、ここまでの各駅からすると少ない予算ながら手が加えられ続けてきたという感じだ。駅舎の隣りには乗務員の宿泊所もあり、全体的に因美線における中核駅といった風である。

郡家以来となる久しぶりの有人改札を抜けて待合室に入る。みどりの窓口と券売機があり、中ほどに並べられたベンチを取り囲むように小物やパンフレット類が並ぶ。このくらいの駅には以前なら必ずといって良いほどキヨスクがあったのだが、残念ながら跡地らしきスペースに自販機が置いてあるだけだった。

見た目としては駅らしい駅であるが、婆さんがひとりぽつんと座っているだけで窓口も留守と、因幡社と大差ない静けさであった。

駅を出ると美しく整備されていて開放的で明るい。正面には古民家風の大きな観光案内所まであり観光地に来たという気がした。

駅前にある庭園はこの手のものとしては大きく、手入れもよくされていて、因美線開通七十周年記念という石碑が立っていた。振り返れば手が加えられながら使われ続ける古い駅舎が佇んでいる。石州瓦の切妻屋根が山陰の木造駅舎らしくて好ましい姿をしていた。

智頭宿ちずしゅく

まずは目の前にある観光案内所でどこに行こうか計画を立てる。見どころが想像以上に多くて悩ましい。見どころは多すぎても少なすぎても頭を抱えさせる効果がある。時間的にあまり多くはめぐれないし、智頭は智頭急行の分岐駅だからそちらの旅でも再訪するだろうから、今回は智頭町でも最大の観光名所となっている智頭宿を歩くことにした。

さっそく向かおうと思ったけど駅前にある「ホルそば」の看板に引き寄せられる。ホルモン入り焼きそばの略で鳥取県東部では有名らしい。隣の津山市はホルモン入り焼きうどんが有名だが、県境を挟んで麺が変わるというのが面白い。

ちょうど昼なので迷わず入店して注文してみる。出てきたそれは色味が薄くてなんだかソースをケチったような焼きそばだったが、。口にすると見た目に反してこってり濃厚な味わいで美味い。すぐに完食してしまい大盛りにしてもよかったなと思う。

腹が満たされたところで改めて智頭宿に向かう。ここは畿内と因幡を結ぶ主要道である因幡街道沿いにあり、行き交う旅人や商人で大変賑わったという。参勤交代に利用された街道でもあり、大名などの宿泊する本陣も置かれていた。鳥取から丸一日で到着するという立地、行く手に控える志戸坂峠という難所、美作に向かう備前街道の分岐点であるなど、発展すべくして発展した宿場町である。

駅前通りをしばらく歩くと千代川に架かる橋が見えてきた。因美線沿いを流れ下るこの川には随分楽しませてもらったが、ここから先は支流の土師川はじがわ沿いを進むので見納めだ。

川沿いの土手は桜の名所だというので、見納めにふさわしい華やかな光景を期待して橋を渡るが、そこから桜並木を見てがっかりした。鳥取から延々と満開の桜が続いてきたというのにまだ咲きはじめの段階なのだ。この町はよほど気温が低いのだろうか。

気を取り直して千代川対岸にある古くからの入り組んだ街並みに進む。適当に路地裏のようなところを歩いていたら石谷家住宅という標識が現れはじめた。石谷家住宅は観光パンフレットでも大きく扱われる智頭宿を代表する建造物だ。まずはここから訪れてみることにして標識に従い進んでいく。

ほどなくしてかつての街道筋らしき風情を残す通りに出た。案内板を見ると昔はこの中央に水路も流れていたようだ。沿道には格子戸や土壁などの見られる古びた家屋がいくつも残されていた。古いといっても中山道の妻籠宿のような凄いと思わせる江戸期のそれではなく、大正や昭和初期を感じさせる新鮮さと懐かしさを同時に漂わせるような古さだ。

平日とあってか観光客はほとんど見かけず地元の方すら滅多に通らない。因幡街道における最大の宿場町だったという賑わいは微塵も感じられないが、この街並みには時が止まったような静けさと穏やかな日差しがよく似合っていた。

石谷家住宅は通りから眺めた印象としては立派な住宅だなあという程度だった。ところが玄関から一歩足を踏み入れると想像以上に広々とした土間があり、吹き抜けの天井を見上げると何本も横切る大きな梁の存在感に圧倒された。これにはしばらく足を止めて見上げてしまう。

そこから靴を脱いで上がると畳廊下に沿っていくつもの部屋が連なり、本陣跡だと言われても納得しそうな作りをしていた。なんでも40の部屋と7つの蔵があるという。点々とさりげなく高尚な美術品などが飾られていたりする。いかにも和風の家ではあるが洋室があったりピアノが置いてあったりと、ここでもまた大正から昭和の雰囲気を感じさせた。

奥には鯉の泳ぐ大きな池泉庭園と枯山水庭園が並んでいた。表から見るよりはるかに豪壮な作りをしていて国の重要文化財になるだけのことはある。広いのに加えて貸し切りというくらい来館者が少なく静かで、庭沿いの縁側に並ぶ大きなガラス戸が風にカタカタ揺れる音だけが響く。思わずここで昼寝でもしたくなるような落ち着く所だった。

らせん階段から2階に上がると、階段上の吹き抜け空間に太鼓橋の架かっていて、子供ならこれだけで喜びそうな構造をしていた。2階の部屋には特別なにがあるというわけではなかったけど、窓からは枯山水庭園や向かいに建つ消防屯所の建物がよく見えた。

ひと通り見学したところで梁が目を惹く土間に戻ってきた。隣接する一室は食堂になっていて庭園を眺めながらの食事ができるという。ホルモン焼きそばを食べたばかりで腹は満たされていたけど、利用はしてみたいのでアイスコーヒーを注文した。ここもまた貸し切りだったので贅沢にも庭の眺めを独占しての休憩となった。

主家を出ると並んで建ち並ぶ蔵に向かう。全てが公開されているわけではないが、資料館や展示室として利用されていた。智頭杉の話であったり、ひな人形や写真の展示などがあった。主家の方でもうすっかりお腹いっぱいの気分なので、これでは街歩きをする時間がなくなるとばかりざっくりと見て回った程度で後にした。

石谷家住宅を出たらその正面に建つ消防屯所に向かう。火の見櫓が一体になった木造2階建てで、石谷家住宅と並んでこの通りを代表する建築物ではないだろうか。そのくらい特徴的かつ美しい容姿をしている。これが現役の消防屯所というから驚きだ。

内部が公開されていたので靴を脱いで2階に上がると、広々とした板敷きの間があり、壁には智頭町の古い白黒写真が何枚も飾られていた。窓からは石谷家住宅がよく見える。賑やかな声が近づいてきたと思ったら、表の道路をツアーらしき中高年団体が通り過ぎていった。

団体が過ぎ去るのを待ってから消防屯所を出て通りを先に進んでいく。格子戸と石州瓦の組み合わせが印象的な建物が目を引くが、それより杉玉工房という看板に興味を惹かれた。もとはなにかの商店だったらしき小さな木造家屋で、開け放たれた戸口からは杉玉作りをしている職人の姿が見える。杉玉といえば酒蔵に吊るされているのが定番だけど、この町では駅から民家まで至るところに吊るされていたことを思い出す。

作業が公開されていたので立ち寄ると、作り方の質問から撮影まで気さくに応じてもらえた。こういう手仕事は眺めているだけで楽しくなる。杉玉は販売もしていて5千円という手頃な価格に欲しくなるが、これを持ち歩くことを考えて思いとどまる。作るのに2日ほどかかると聞いてそれで商売になるのかと思ったがボランティアみたいなものだそう。

気がつけば20分近くも滞在した杉玉工房を出て少し進むと、小じんまりした木造2階建ての洋風建築があり、白く塗装されたその姿は消防屯所と同じ雰囲気を漂わせていた。郵便局だろうかと思わせるような姿をしていたけど大正時代の役場だという。今は公民館として現役で働いているようだ。

大正から昭和初期にかけての建築というのは魅力的で見かけるたび足が止まる。江戸期ともなると凄いとは思っても異世界に来たようで懐かしさなど感じないし、昭和も中頃までくると馴染みがありすぎて目を奪われるような新鮮さが失われていく。その点で大正前後というのは実にバランスの良い古さだ。

すぐ斜向いには酒蔵があったけど少し眺めるだで通り過ぎた。歩き旅だと重くてかさばる酒類からは自然と足が遠のく。ただ酒蔵の裏手には魅惑的な路地があり入り込んでいく。人とすれ違うのさえ困難な狭さで傍らには水路が流れ、周囲を土壁や板壁に囲まれた様がたまらない。

街道筋から少し入ると旧塩屋出店という明治時代の建物や、西河克己映画記念館なるものもあった。作品は伊豆の踊子くらいしか見た記憶がないけど、せっかくだから立ち寄ろうかと思いきや、時間が遅すぎたらしく閉ざされていたので外観だけを眺めていく。本陣跡は石柱と案内板があるのみだった。

最後に石谷家住宅の裏山にある諏訪神社に上がっていくと、西日の差し込む明るい境内と、ざわざわ木々の揺れる音が心地いいところだった。人気もなくてこの雰囲気はとても落ちつくものがあり、特になにがあるでもないけど、ぼんやり長居をしてしまった。

なんとなく往路とちがう通りから駅に向かうと、古びた商店がそこらかしこに残されていて、昔は相当な賑わいだったと思わせる商店街に出た。山間でこれだけの商店街があるのは古くから栄えた町ならではだろう。どこを歩いても風情が残されたいい町である。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

智頭駅ホームで帰りの列車を待っていると鳥取から当駅止まりの列車がやってきた。到着すると隣に停車していた津山行きに、旅行者から高校生までが続々と乗り継いでいく。ここから先は1日8往復の普通列車があるだけの閑散区間になるので、ほとんど利用者はいないのではと思っていたがそうでもないらしい。

この列車が折り返し16時27分発の鳥取行きになったので乗車する。こちらのほうが利用者は少なくて、乗車した後ろの車両には私のほかに1人だけという有り様だった。

車両は例によって智頭急行のそれだが、智頭から津山にかけての区間には乗り入れていないので、この車両に乗るのも今回が最後になるかもしれない。

帰途はもう何もやるべきことはなく気楽なもので、早くも懐かしさを漂わせる駅と沿線風景を眺めつつのんびりと帰った。

(2018年3月30日)

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  1. 匿名 より:

    たまたまこのブログを拝見した者です。
    小生は因美線の因幡社の住民で昭和18年生まれ。後期高齢者の仲間入りをした老人です。

    因幡社の駅名のことですが、昭和の大合併以前は鳥取県八頭郡社村と称していました。それが用瀬町に吸収合併され、平成の合併では鳥取市となりました。
    ところが鳥取県には他に東伯郡社村がありました。これは昭和28年に倉吉市になりました。
    鳥取県は藩政時代は因幡の国と伯耆の国の二つから成っていました。東伯郡は字義のとおり伯耆の国です。
    この区別のため因美線の社には因幡を冠したと思います。ただし東伯郡社村を通る鉄道路線は存在しません。因みにここは国分寺や国庁があった伯耆の国の中心地です。
    よき旅を!

  2. Tokuvin より:

    因幡と伯耆の社村についてのお話、興味深く拝読させていただきました。
    駅名がかつての社村から取られたものだということは想像がつきましたが、単純に社駅にせず因幡を冠したのは少し不思議でした。色々と理由を考えましたが、伯耆にも社村があったというのは盲点でした。改めて地図で場所を確認すると、随分近いところに同名の自治体があったものだと驚かされます。
    大変参考になるコメントありがとうございました。

  3. 匿名 より:

    今はどこを旅しておられることやら。
    因美線の郡家(こうげ)からの支線、若桜鉄道を旅なさるのも一興かと。
    またまたよき旅を。
                             因幡住人

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