目次
プロローグ
2017年8月7日、早朝6時前の福井駅にやってきた。
目的地は九頭竜線の愛称でも呼ばれる越美北線だ。起点は隣りの越前花堂だが、全ての列車は福井まで乗り入れているので、宿の確保も容易な福井から旅をはじめることにした。乗車するのは始発の越前大野行きで、発車は6時30分とまだまだ時間があるが、勝手の分からない路線なので余裕を持って早めにやってきた。
県庁所在地といえど時間が時間だけあって人気は少なく、日中は送迎車やタクシーでごったがえすロータリーも静かなもの。福井県は日本屈指の恐竜化石の産地とあってか、いたるところにモニュメントや絵画といった形で恐竜が潜んでいる。
天候は雲こそ多いものの朝焼けで赤みを帯びていて雰囲気としては悪くない。ただ猛烈な雨を降らせている台風5号が四国付近までやってきており、こちらに接近中なのが気になる。その影響だろうか朝早いというのに蒸し暑かった。
まずは改札脇にある券売機で越前花堂までの乗車券を購入。それから向かった越美北線ホームは、大きな北陸本線ホームの片隅にある切り欠き部分という、影の薄い所にあった。まだ列車の姿はなかったのでベンチに座る。頭上は雪国らしくホームから線路まで全体が大きな屋根で覆われ、それ故に風通しが悪く一段と暑かった。
6時を少し回ったところで越美北線の小さなディーゼルカーが入線してきた。始発列車だから回送かと思いきや、越前大野からやってきた上り始発列車だった。1両と短いが利用者は意外と多く、30人くらいの乗客がどっと降りてきた。
乗客の去った車内では運転士が忙しく動き回り、折り返しの越前大野行き列車に仕立て直していた。それを横目にボックス席に収まり発車の時を待っていると、作業を終えた運転士はどこかへ消えてしまい、車内は私だけの貸切り状態になった。その後もたいして乗客が増えることはなく、4〜5人程度のわずかな乗客を乗せて出発した。
福井を出るとすぐに桜の名所として有名な足羽川を渡る。続いて何本もの側線やコンテナの並ぶ、南福井という貨物駅を通り抜けていく。国鉄時代はこの貨物駅が越美北線の起点で、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」にその辺りの話があったことを思い出す。
まもなく前方に越前花堂のホームや跨線橋が近づいてきた。速度を落とした列車はホームの手前で、まるで駅を避けるかのように、左に分岐する細々した単線の線路に進入した。どこに向かうのかという感じだが、実はこれが目的の越美北線の入口で、分岐した先にはしっかり越美北線専用のホームが用意されていた。
ここで越美北線についておさらいしておくと、越前花堂から九頭竜湖までを結ぶ路線で、全長は57.8km。沿線は福井平野や大野盆地といった平地では田畑に、それ以外の大半は山々に囲まれたローカル線で、大きな街は中ほどの越前大野くらいしかない。特に末端部分は岐阜県を目前にした山深い場所だ。
路線名は越前(福井県)と美濃(岐阜県)を結ぶ、越美線の北側部分として建設されていた事に由来する。片割れの越美南線もあり、こちらは岐阜県側の美濃太田から北濃まで72.1kmが開通していて、現在は第三セクターの長良川鉄道として存続している。工事は県境部分の残り約24kmを残して中止され現在の形になっている。
越前花堂
- 所在地 福井県福井市花堂
- 開業 1960年(昭和35年)12月15日
- ホーム 3面3線
下車したのは私だけで入れ替わりに中年男性が1人乗車していった。降り立ったホームは3両分程度の長さに小さな待合所があるだけ。周辺は倉庫や工場などが点在しているが、あまり人気の感じられない静かな場所で、背後の北陸本線を走り抜ける列車の音だけが騒々しい。県庁所在地駅の隣にして随分とローカル色が濃い。
まずは唯一の建物である待合所に向かった。外観はコンクリートブロックに木材という昭和を感じさせる作りだ。中をのぞくと昭和ではなく芳香剤の香りがした。所々ペンキの剥げた作り付けの木製ベンチがあり、年季は入っているが新しい木材で補修もされていて、古いなりに大事に使われていた。
さて駅を出ようにも越美北線ホームから直接駅を出る道はない。まずは案内板に従い雑草に囲まれた30mほどの通路を進み、近くにある北陸本線ホームに移動した。こちらは跨線橋で結ばれた相対式ホームに駅舎まである。ちょうど金沢行きの普通列車が到着するところで、大勢の通勤通学客で賑わい、同じ駅とは思えない対象的な雰囲気である。
北陸本線ホームにやってきたが出てきた場所といえば、跨線橋の裏側という目立たない場所で屋根すらなかった。跨線橋脇を通り抜けて表側に回り込むが、これがまたすれ違いも厄介な狭い通路だ。それからようやく跨線橋を渡り駅舎側のホームにたどり着いた。
この後から取ってつけたような立地の越美北線ホームだが、実はこちらの方が先に設置されているのだから面白い。元々この駅は昭和35年に越美北線の単独駅として開業し、昭和43年になって近くを走る北陸本線にも駅が設置されたのだ。線路の離れている場所に別々に作ったこともあり、同じ駅なのに別な駅かの如く一体感がない。
駅舎は新しくも古くもない直線的でシンプルな外観の平屋建てで、いかにも昭和40年代らしい合理的な作り。とはいえ外壁がタイル張りだったり、まるで石造りのような重厚感ある表面仕上げのラッチが設けられていたり、簡素な中にもそれなりに意匠には凝っていた。
待合室に入るとコンビニくらい営業できそうな広さだ。ベンチは壁際にしかなく中央部はがら空き、加えて列車が去ったばかりで人気はなく、それらが一段と広さを際立たせている。窓口にはカーテンが引かれていて、その代わりか簡易な券売機が置いてあった。
駅を出るといきなり車が所狭しと並ぶ光景が飛び込んできた。さらに駐輪場からは自転車が溢れ、駅前広場ならぬ駅前駐車場とでもいった様子だ。通勤通学では賑わってそうだが、周辺はなんだか活気の感じられない商業地という感じがした。
八幡山展望台
このあたり観光施設は見当たらないが、八幡山という標高100mほどの小さな山があり、その稜線上に展望台という気になる文字を見つけた。高さは大したことないが福井平野に浮かぶ小島のような山なのだ、確実に眺めは良いだろうと行ってみることにした。
駅前を300mばかり進むと福井鉄道の踏切に出た。福井と武生を結ぶ福武線で、大正時代の開業と百年近い歴史がある。線路伝いに少し歩くと花堂という小さな駅があり、ちょうど列車がやってきたので眺めていると真新しい車両がやってきて驚いた。福井鉄道といえば骨董品のような地方私鉄らしい車両だったのに、随分と様変わりしたものである。
さらに進むと京福バスの花堂バス停があった。なんだか路線や交通機関ごとに花堂が存在していてまとまりがない。この辺りから八幡山のふもとにかけてが古くからの街らしく、狭い道路沿いに住宅や個人商店が建ち並んでいる。越前花堂の駅前では感じなかった生活感というものが漂いはじめた。
時々冷たいものが顔にあたる怪しい空模様だったが、ここにきてとうとう本格的に降りはじめた。こんな事もあろうかと持ってきた折りたたみ傘を開く。それにしても山に上がろうというタイミングで降り出すとは意地が悪い。
八幡山のふもとまでやってきたが登り口が見当たらない。標識くらいあるだろうと進んでいくと、いつしか山を通り過ぎてしまった。引き返していると古びた石柱の立つ山道があり、表面には「木田村 忠魂碑参道」と刻まれている。木田村というのは戦前に福井市に編入されているので相当古い。ほかに道も見当たらないので、とりあえずここから山に入っていく。
山中はうっそうと茂る雑木や竹林に囲まれ、日没が迫っているかのように薄暗い。聞こえてくるのは木々を叩く雨音ばかり。うら寂しい雰囲気に不安なものを感じはじめるが、程なくしてコンクリートで舗装された歩道に出た。これが実によく整備されていて、街路灯まで付いているあたり遊歩道のようなものらしい。
平日の朝に雨降りの山中を歩くなんて、私くらいのものかと思いきや、途中で一度ならず二度までも70歳くらいの男性とすれちがった。しっかりレインウェアを着込んで準備が良い。地元住民のウォーキングコースにでもなっているのだろうか。
延々続く階段と蒸し暑さで汗が流れ、そこに雨も加わり何とも気持ち悪い。それを見計らったかのように水飲み場のある小さな芝生広場が現れた。幸いにして雨は小康状態になってきたので傘を片付けながら休憩を取る。ふもとの貨物駅では貨車の入れ替えでもしているのか、姿は見えないけど機関車の警笛が時折響いていた。
公園から先は車道になっていたが車は滅多に通らないので歩きやすい。ただヤブ蚊の多さときたらウンザリするほどで、目の前をいくつも飛び回っているのがはっきり見える。振り切るように自然と足が早くなりまた汗が流れる。何を採っているのか荷台に網などを載せた軽トラが止まっていて、こんな蚊の巣窟のような場所でよくやると感心してしまう。
到着した展望台は山上だけあって遮るものはなく、福井から武生方面まで福井平野を見渡すことができ、予想通りの眺めの良さであった。遠く微かに白山の姿まで見える。風当たりも抜群で、全身に吹き付けてくる風で一気に汗が引き、蚊も近づいてはこない。この景色にこの風が心地よくてしばらく立ち尽くしてしまった。
帰りは勝手知ったる同じ道をたどる。展望台から少し下ると途端に風は止んで蒸し暑さがぶり返してきた。さらにヤブ蚊も待ってましたとばかり、執拗に追い回してきて堪ったものではない。一瞬にして不快レベルが0%から100%に跳ね上がった気分だ。
足早に下っていく途中でふと思い立ち、気分転換がてら往路と異なる道に進む。山中の道はあちこちで離合していたので、すぐ元の道に戻れるだろうと思ったのだ。ところが見覚えのない谷間に降りていき、途中で気がついたものの坂道を引き返す気にはなれず、もうどうにでもなれと勢い良く下っていく。
ふもとまで降りてくると神社の境内に出た。地区の氏神様といった雰囲気の小さな神社で、扁額には八幡神社とあった。八幡山だから八幡神社なのか、それとも八幡神社があるから八幡山なのか、はたまた両者は無関係なのか、名前の由来はよく分からない。神社の前には住宅街が広がり、どこか分からないが下山はできたらしい。
道に迷いつつも駅に戻ってくると、事務室に明かりが灯っているのに気がつく。不思議に思いながら待合室に入ると窓口が開いている。どうやら完全な無人駅ではなかったらしい。まもなく北陸本線の列車が来るらしく続々と人が集まってくるが、なぜか券売機ではなく窓口で切符を購入していくので発券に忙しそうである。
次の目的地は隣りの六条なので券売機で買えることは確実だ。そこで窓口の前にある券売機に向かうと、すかさず窓口から「こちらで発券しますよ」と声をかけられた。
それならばと窓口に向かい六条までと告げる。すると滅多に購入する人はないらしく、少し間を置いてから「ああ、越美線ですね」とつぶやき、発券にも少々手間取っていた。越美北線は地元では越美線と呼ばれているのだろうか、意外な所で未成線となった越美線の名前を耳にすることとなった。
列車が去り誰もいなくなった待合室で休むも風通しが悪くて暑い。事務室にもクーラーはないのか、窓口の中でも汗を拭いつつ暑そうにしてる。うちわが置いてあったけどそんな程度では追いつかない。外にいたほうが涼しそうなので早めに越美北線ホームに移動する。するとやはり風が通り抜けて幾分快適だった。
9時13分発の九頭竜湖行きは2両編成でやってきた。ここでは2人下車して、入れ替わりに私ともう1人が乗車した。各車両にはざっと10人ずつ乗っていて思いのほか利用者が多い。越美北線の輸送密度はJR西日本の中でも下から数えたほうが早いほどで、通学時間を外れたら空気を運んでいるようなものだと想像していたので少し意外だった。
越前花堂を発車すると大きく左にカーブして北陸本線から離れていく。これでようやく越美北線の旅になったという訳だ。進路を内陸に向ける頃には早くも宅地は途切れ、青々とした田んぼの広がる福井平野を一直線に進んでいく。
六条
- 所在地 福井県福井市天王町
- 開業 1960年(昭和35年)12月15日
- ホーム 1面1線
田園地帯の中にある見るからに利用者の少なそうなホームに停車した。やはりというか当然というか乗降客は私だけ。こういう駅は列車が去ると静寂に包まれるものだが、ここは近くを走る北陸自動車道から、ひっきりなしに走行音が聞こえてくる。静かな景色の広がる見た目とは裏腹に騒々しい所であった。
列車から降りると待っていたかのように再び雨がこぼれはじめ、風を遮るものがない場所だけに横殴りの雨となった。待合所に駆け込んで収まるのを待つ。時刻はまだ9時を回ったばかりで、次の列車は13時近くまでないので慌てることはない。
待合所は清掃が行き届いていて休憩するには申し分ない。室内には見覚えのある木製ベンチや清掃道具が並び、芳香剤の香りまで越前花堂の待合所にそっくりだ。昭和中頃の開業ともなると、近隣の駅は既製品のごとく同じ作りになっている。
雨はじきに収まったので出発する。駅舎はないのでホーム端のスロープを下ると、そのまま道路に出てしまう。出入口の脇には車が何台か止められそうな小さな空き地があり、境界杭を見ると鉄道用地の様子、何か施設でもあったのだろうか若干気になる。
近くを横切る道路まで出てくると電話ボックスがあった。列車運休時はここが代行バス乗り場になると、待合所に写真入りで掲示してあった。その傍らに「天王町の今昔」という案内板が立ち、百年前と現在の比較地図が載っていて面白い。道路の位置は大きく変わりすぎて、もはや同じ場所だと分からないほどだ。
案内板には越美北線に関する興味深い話も載っていた。なんでも昭和10年に路床工事が着工され、使用する土砂は近くにある山からトロッコで運んできたというのだ。どこまでも平地が広がるが昔はちょっとした山があったのだろうか。ちなみに路床は完成したものの戦争で工事は中止となり、紆余曲折を経てようやく開業したのが1960年(昭和35年)のことである。
周辺は駅近くこそ会社関係や地区のコミュニティセンターの建物が見られるが、大半は田んぼであり、そこに蔵や庭のあるような大きな住宅が点在していた。開業が遅いだけあってか特に駅前らしさはなく昔からこんな景色だったのだろう。
神社めぐり
田園地帯は進む方角にすら悩むところだが、ここでは案内板で目にした白山神社に行ってみることにした。この辺りで百年前から場所の変わっていない数少ない施設である。それからその近くにある正善寺に立ち寄って帰ってくるという計画だ。
傘を差すほどでもない小雨の中を進むと、道沿いには少し大きめの水路が流れていた。案内板にはこのあたりに六条用水という、これまた百年前にもあった水路が載っていたのだがこれがそうだろうか。何となくそんな気もするし違うような気もする。
下水工事がはじまるらしく、道路沿いに重機が何台も並んでいて物々しい。まだ工事の開始時間になっていないのか、手持ち無沙汰にたむろする作業員の姿を見かける。
駅から数分も歩くともう白山神社が見えてきた。鳥居は両脇を住宅と保育園に挟まれて窮屈そうだが奥行きはかなりある。参道沿いにはマツやスギが、適当に植えたような不揃いな太さと間隔で並んでいる。その枝葉は頭に触るような高さにまで茂り、緑の多さが落ち着く。保育園では昼食の調理中らしく、境内には腹の空くようないい匂いが漂っていた。
奥にある小じんまりした拝殿は風雪対策かガラスで囲われていた。北陸では神社だけでなく寺でもこの姿をよく見かけるが、アルミサッシが目立ってどうも味気なく感じる。民家にお邪魔するようにカラカラと引き戸を開けて参拝してきた。
境内には上部に欠けのある特徴的な形をした石塔が建っていて、どうしてこんな場所が破損したのかと近づいてみると、表面に震災記念之塔と刻まれていた。
説明によると1948年(昭和23年)の福井地震(東日本と阪神淡路に次ぐ戦後3番目の規模の震災)でこの辺りは大きな被害を受け、この神社も神殿から一の鳥居と二の鳥居まで倒壊したという。石塔は惨事を後世に伝えると同時に鳥居を保存するため、倒壊した鳥居で作られているということだった。破損しているのはそのためかと納得する。
次は近くにある正善寺に向かう。このあたりが地区の中心地らしく住宅が密集しはじめ、酒屋やカメラ屋といった看板だけ残るような個人商店も散見される。農協や病院に小学校といった大きめの建物もあった。その中を通り抜ける県道は交通量が多く、車のみならず人の姿も見かけ、駅前とは打って変わって賑やかな雰囲気がある。
そこにまた小さな神社があり立ち寄ってみると白山神社だった。同じ町内に2つの白山神社とはどういうことかと思いきや、ここはもう隣の上莇生田という町らしい。
境内は石畳の参道を残して絨毯のように苔に覆われていた。苔を踏まないように足元を選びながら進む。奥には緑の苔によく似合う板張り黒瓦の拝殿。まるで古い木造校舎の正面玄関だけ切り出したような形だ。出入口にはがっちり鍵がかけられて参拝どころではなかった。
交通量が多くて落ち着かないので静けさを求めて田んぼの方に逃れると、下六条町というまた別な町に入り込んでしまった。この辺りは少し歩けば別な集落があり、そしてそれぞれに神社がある。下六条にあったのは越前花堂にあったのと同じ八幡神社だった。境内に殆ど使われてないブランコや滑り台があるところまで似ていた。
遊具があるだけに広場のような明るい境内には、コンクリート造りの重厚感ある拝殿が鎮座していた。参拝しようと思ったが重々しい金属製の扉で閉ざされ、中を伺い知ることはできない。鉄格子の入った窓といい宝物殿のように厳重な建物だ。隣りには摂社らしき小ぶりな神社があり、そのまた傍らには小さな祠、なんだか親・子・孫のように社がある。
いつのまにか意図せず六条の神社めぐりとなってしまったが、お互い徒歩数分の距離にありながら、それぞれまるで異なる雰囲気と造形なのが面白い。最後に当初の目的地だった正善寺に立ち寄ってから駅に向かった。
震災電車
次の列車まで1時間半もあり、この時間をどうすべきか考えていると、再び雨がこぼれはじめたので待合所で様子を見る。傘を差すべきか迷うような半端な降りかたで、こういうのはかえって困りものだ。空を見上げると雲がすごい勢いで流れていて台風の接近を感じさせる。雨も真上というより、どこか遠くから風に乗ってきている感じだ。
地図を見ているとホーム向かい側に広がる田んぼの先に、福井市美術館や大きな公園があるらしい。腹も減ってきたことだし食事処を探しがてら向かうことにする。
広大な田園地帯を歩いていると、台風らしい生暖かい風が吹き抜け、稲穂をざわざわ揺らす音が心地いい。歩いても歩いても田んぼで腹は満たされぬが気分は満たされていく。
ようやく到着した福井市美術館は、広々とした駐車場を擁しているが車はまったく見当たらない、辛うじて片隅にキャンピングカーが1台止まっているのみである。当然ながら人の気配はまったくない。
美術館らしく美しく整備された緑あふれる敷地内を進むと、黒川紀章の設計というガラス張りの巨大な建屋が現れた。ここもまた猫の子一匹いない静寂に包まれていて、おかしいと思ったら休館日なのであった。
隣接する芝生広場に行ってみると周囲を木立に囲まれ、サッカー場の如く広々とした芝が広がる美しいところだった。広すぎて歩き回るのが若干面倒にも感じる。大型の遊具なども用意され、休日ともなれば親子連れで賑わいそうだが、台風の迫る平日とあって美術館同様に閑散としている。目にしたのは弁当を食べるおじさんだけだった。
駅に引き返そうかと考えていると、古びた鉄道車両が鎮座しているのを視界に捉えて思わずそちらに足が向かう。無数に飛び交う赤とんぼのなかをやってくると、クリーム色と紺色だろうか、懐かしいツートンの塗装ですぐに福井鉄道の車両だと分かった。シンプルな食パンのような形をした車両で、しっかりとした屋根に覆われ、大事に保存されているようで状態は良さそうに見える。
説明板によると「モハ121-2号」という1933年(昭和8年)製の電車だった。単純に古いだけではなく経歴がすごくて、1948年(昭和23年)の福井地震で全焼の被害に遭いつつも復活して、平成9年まで現役だったという車両だった。田んぼの中にある小さな六条駅で、立て続けに震災を伝える者に出会うことになるとは驚きだ。
気がつけば列車時刻が迫っていて急ぎ足に駅に向かう。運転本数が少ないから1本逃すと大変なことになるのだ。しかし空腹と蒸し暑さにやられて力が出ない。しかも意地の悪いことに、このタイミングで傘を差しても濡れるほどの激しい雨が降ってきた。
どうにか駅に戻ってくると、なにげなく待合所にある運行情報モニターに目をやる。そこには「台風5号が接近しているため、越美北線に運転取りやめの可能性あり」と流れていて不安にかられる。ここで取り残されたら一体どうやって帰ろうかと本気で思案する。
そんな不安をよそに定刻通り、12時57分発の九頭竜湖行きが姿を表した。とことこ近づいてくる小さな単行列車にローカル線らしい姿だと思ったが、目の前までくるとそんな印象を覆すように混雑しているのが見えた。ざっと30人くらいで立ち客まで出ている。すぐ降りるとはいえワンマン運転で混雑すると、車内を運賃箱まで移動するのが困難になるから嫌だ。
六条から足羽までの区間は田んぼが広がるばかりで、変化といえば北陸自動車道の下をくぐり抜けることくらいだった。両駅は肉眼でも見えそうな近距離とあってすぐに到着。
足羽
- 所在地 福井県福井市稲津町
- 開業 1964年(昭和39年)5月20日
- ホーム 1面1線
田んぼの中にぽつねんとホームがあるだけの駅だったが、私の他にも降りる人がいた。周囲はどこをどう見ても田んぼしかなく、遠巻きに取り囲むように中学校の大きな建物や住宅が点在している。騒々しい北陸自動車道から離れたこともあり見た目通りに静かな駅だった。
この駅は越美北線の開業4年後に新設されているが、田んぼに囲まれているだけでなく六条からわずか1.4kmしか離れていない。この立地にわざわざ設置したのを不思議に思う。
ホームの造りは開業年の違いからか前の2駅とは明らかに異なる。これまでの土盛りから一転して、レールを再利用した骨組みの上にコンクリートを敷いた構造で、何となく安っぽく見えた。表面はすっかり劣化してザラザラになり鉄筋が顔を出していたりするが、出入口周辺だけは補修されて滑って転びそうなくらいキレイになっていた。
待合所の造りにも変化があり室内は明らかに六条より広い。ただベンチは進化したのか退化したのか、これまでの体に沿うような曲線を持った形から、座面も背もたれも水平垂直のざっくりした形になった。その平坦で奥行きのある座面はまるで寝台車のようで、田んぼに囲まれた立地といい、寝るにはすごく良さそうなどと考えてしまった。
壁には足羽第一中学校の生徒会による「清掃しました」の張り紙があり、そのおかげか無人駅のベンチによくある、座るのもためらうような汚れもなく快適なものである。
駅前の道路に出るとやたらと自転車が行き交っていた。乗っているのはジャージ姿の中学生ばかりだ。学校に向かう自転車に去る自転車と、夏休み中というのにご苦労なことである。
ホームの裏側には駅の規模には似ても似つかない、ざっと40〜50台くらいは止められそうな大きな駐輪場があった。なぜここに駅を設置したのだろう思ったけど、これを見ると六条よりずっと利用者は多いのかもしれない。何といってもこれだけ中学生が通るのだから、高校の通学利用者もそれなりにあるだろう。
駅を観察しているとまた雨がこぼれはじめた。列車を降りた時には降った形跡がないほど乾いていたというのにこれだ。朝から雨雲に追いかけられている気がする。
足羽川
周辺には田んぼと中学校しか見当たらない。ここに行こうという所がないので、まずは近くを流れる足羽川という、駅と同じ名前をした川に向かう。14kmほど上流にある美山駅の辺りから越美北線沿いを流れてきた川で、2004年の福井豪雨では越美北線の鉄橋を5つも流出させ、あわや廃線という状態にした犯人でもある。
駅から川までは1kmほどの距離なのですぐに到着。六条で出会えなかった食事処でもないかと探しながら歩いてきたが、田んぼの中に点在するのは住宅ばかりだった。せいぜい昔は何かの商店だったらしき建物を見かけた程度である。
堤防に上がると広々とした足羽川が視界に広がった。ゆったり流れる穏やかな川面には、小雨によって無数の波紋が広がっていた。実はこの川は福井駅を出発した直後にも渡っているのだが、上流にも関わらずかえって広くなったように見える。
対岸には駅周辺よりはるかに多数の住宅があり、背の高い木立に囲まれた神社らしき一角も見える。これなら食堂の一軒くらいありそうだ。そうでなくとも何か面白いものに出会えるかもしれない。目の前には橋まで架かっているのだから行くしかない。
稲津橋という橋を渡ると、そこにあるのは稲津町だが、地図によると駅があるのもまた稲津町で、最初からこの町を歩いているだけだったりする。川が町の境界になりそうなものだが、川を挟んで駅の場所まで町域が伸びた不思議な形をしている。
町の中心地らしき所は狭い道路が入り組み、寺院が複数あるなど、比較的大きな古くからの町といった様子。六条でもそうだったが駅から遠ざかるほどに住宅が増えていく。右往左往しているとコミュニティバスのバス停まであった。しかし食堂どころか人の姿すら全くといっていいほど見かけない。
対岸から見えた木立の所までやってくると、やはり神社があり鳥居脇の石柱には本日3社目となる白山神社の文字があった。北陸や中部は白山のお膝元だけに白山神社が多い。石柱の側面には「内閣総理大臣 岡田啓介 謹書」とある。福井県出身では唯一の総理大臣だ。
神社自体は古くからあるようだが、鳥居から玉垣に狛犬に至るまで何を見ても真新しい。このような神社に出会うことは滅多にないので何か違和感を感じてしまう。拝殿は小じんまりとした入母屋造りで、鈴や賽銭箱などもあり、見るからに神社という姿をしているのだが、すべてが新しいからなんだか不思議な気分である。
駅に戻ろうかと思うが深刻な空腹でまるで力が出ない。昨日からろくに食べていないのだから登山でいうところのシャリバテである。我慢している訳でもないのに食べ物が全く手に入らない。ローカル線ではよくあることだが参ってしまう。
とぼとぼ歩いていると軽快に走るおばさんに追い抜かれた。誰もいないと思っていたので突然すぐ脇に現れて驚いた。後ろ姿はあっという間に遠ざかっていく。こちらは歩くのも面倒といった状態だというのに、きびきび羨ましいような動きである。
遠く田んぼの向こうに見える駅を目指して、最短でたどり着けそうな道を選んで進む。見えているのになかなか到着しないのがもどかしい。ようやく目の前まで来たと思ったら線路に阻まれ、近くの踏切まで余分に歩かされて疲れた。
待合所のベンチに座り込み時刻表を確認すると、次の列車は15時4分で1時間もあった。まだどこかへ行けそうだけど近場には田んぼしか見当たらない。何より単なる空腹から体調不良に変わってきて歩く気にもなれず、列車が来るまで休もうとベンチに横になる。吹き込む風と稲穂のざわざわ揺れる音が心地よかった。
休めば体調も良くなるだろうと思ったが、全然快方に向かわないまま列車がやってきた。もし福井行きだったら飛び乗って帰りたいくらい調子が悪いが、残念ながらやってきたのは越前大野行き。これは次の駅に行けということだと思って乗り込んだ。
車内は相変わらず立ち客も出るほど混雑していた。平日日中の越美北線がこれほど利用されているとは思わなかった。それは良いことだけど途中駅から乗ってもろくに座れない訳で、この先の旅が思いやられる。仕方がないので運転席の後ろに立っていく。
車窓に広がるものが徐々に田んぼから住宅に変わっていく。久しぶりの街らしい空気になってきた。間もなく前方に見えてきた駅も、これまでのホームだけという姿ではなかった。
越前東郷
- 所在地 福井県福井市東郷
- 開業 1960年(昭和35年)12月15日
- ホーム 1面1線
簡素なものだが駅舎にホーム上屋まで備えた、久しぶりの駅らしい姿をした駅だった。東郷は古くからこの辺りの中心地であり人家も多い。前方には低い山並みが迫っていて福井平野の端であることを感じさせる。ここから線路は山間に入っていくことを考えると、まとまった下車があるのではないかと予想したが、降りたのは私を含めて4名だけであった。
人の流れに乗って待合室に入ると体調不良もあってそのままベンチに座り込んだ。他の人たちは徒歩や自転車であっという間に去っていき、待合室には私だけが残された。開け放たれた窓からは風が勢いよく吹き込んできて涼しい。
駅舎はコンクリートブロックを積み上げた質素な造りだが、同時期に開業した能登線でこういう駅舎をよく見たので懐かしくもある。かつての窓口は完全に塞がれていて寒々しいが、待合室には生花が飾られていたり、ベンチには座布団が並んでいたりと、地元の人により管理されている様子が伝わってきて少しほっこりする。
落ち着いたところで素通りしてきたホームに引き返す。駅舎とホームの間には島式ホームの交換可能駅だった名残りで、錆びついた線路とそれを横断する構内踏切が残る。その線路の先に視線をやれば今でも片側だけは本線と繋がっていた。保線車両でも利用しているのかと思ったけど、構内踏切部分の線路はアスファルトで埋められ利用できなくなっていた。
ホームは中央部に小さな上屋とベンチがある。駅舎同様に簡単な造りをしている。使われなくなった上り線側に柵がしてあるが、それ以外は開業当時とほとんど変わってなさそうだ。
駅の裏手には貨物輸送の名残りなのか、側線があったらしき跡地が広がっている。よく見るとバラストのすき間から古い枕木が顔を出していたりする。そんな空き地は桜並木や花壇として利用され、ちょっとした公園のようになっていた。
待合室に戻ると車でやってきた二人連れが窓を閉めていた。台風に備えて見回っているらしく駅舎の内外を一通り歩いている。ここまでの無人駅は窓もドアも開け放たれ、このまま風雨が強くなったら水浸しだと思ったけど、心配の必要はないようだ。
駅前は広いが小さな庭園と槇山城跡の案内板があるくらいのもの。周囲には今週末に行われるという「おつくね祭り」の横断幕やのぼりが立ち、その関係なのだろうか駅舎から道路の頭上に至るまで、赤・青・黄色とカラフルな提灯が無数に吊り下げられている。「おつくね」とは東郷地区の方言で「おにぎり」の事だそうで、おにぎりで町おこしをしているのか、駅舎の出入口にも大きなおにぎりのパネルが掲げられていた。
水路の流れる街
降り立ったからにはどこかへ行こうと思うがどうしたものか。ここのメイン観光地は恐らく案内板にある槇山城跡で眺めも良さそうだ。その近くにある石仏観察路というのも気になる。ただ現在の残存体力ではいかに低山といえど行き倒れになりかねない。高い場所は今朝の八幡山で十分だろうと適当な理由も考えつつ、街歩きでお茶を濁すことにした。
駅前からは2車線で歩道付きという道路が伸びていて、越前花堂と同じく駅の設置に合わせて整備した雰囲気がする。その途中にはトックリ軒という探し求めていた飯屋があり、見るからに個人経営の駅前食堂といった様子の、ごちゃごちゃした感じがたまらない。しかし残念ながら準備中の無情な文字が掲げられていた。
足取り重く進んでいくと道路の中央を大きな水路の流れる、見るからに歴史のありそうな通りに出た。この辺りは城下町というだけでなく、東郷街道と大野街道の交わる交通の要衝でもあるので、かつては商家や宿屋が建ち並び賑わっていたことだろう。もっともそんな歴史を感じさせる古い街並みは残っておらず、人気もないのでどこか寂れた感じがした。
往時を偲ばせる水路は堂田川という名前で、疏水百選にも選ばれた足羽用水の一部を成しているそう。同じ福井県の宿場町、疋田宿で見かけた船運用の水路に似ていると思ったが、こちらは主に農業用とのこと。川面を覗き込むと色とりどりの鯉が泳いでいた。
司馬遼太郎が街道をゆくのなかで、「手にすくって飲めそうなほどに澄んでいた」と記したのはこの水路の事だと思うが、雨の影響だろうか飲めそうにないほど濁りがある。
水路沿いは美しく整備された遊歩道が通り、それでいて観光客の姿など全くない実に落ち着いたところだ。街歩きを楽しみたい気持ちが湧いてくるも疲労困憊で、そこらかしこに配されたベンチで休んでばかり。少し歩いては少し休んで大年寄のようである。周辺の家屋では台風に備えてか花のプランターを片付ける姿が見られた。
この辺りは何か河童に縁があるのか河童の像が建てられ、その手には紫陽花を一厘握っていてなかなかと絵になる。この様子だと季節によって花の種類が変わったりしてそうだ。
街道から少し奥まった所には寺社が建ち並んでおり、その中のひとつ、ちょうど目の前にあった稲荷神社に立ち寄ってみた。境内は子供の遊び場らしく賑やかな声が聞こえてくる。
稲荷神社なので赤い鳥居や狐を想像したが、普通に石造りの鳥居や狛犬が並んでいた。いつの時代の鳥居だろうと彫られた文字に目をやると、皇太子御成婚記念とあり想像したよりずっと新しくて拍子抜け。奥の社殿はまるで白壁土蔵に大きな唐破風を付けたような建物で、近くの案内板によると江戸時代後期の建築と、こちらは想像以上に歴史があった。東郷がまだ宿場町として賑わっていた頃から佇んでいるのだ。
じっくり歩いたらかなり楽しめそうな街という印象で、特に山上にある槇山城跡がとても気になる。気にはなるが登る元気はなく、早く宿に帰って布団に潜りたい。今なら次の福井行きに乗れるとあって、名残惜しいが何れ再訪することにして駅に向かった。
エピローグ
駅舎に入ると意外にも5〜6人の先客がベンチに座っていた。夕方は福井からこちらへ帰ってくるばかりかと思ったけど、逆に福井に帰る人達もそれなりに居るようだ。どのような用事があってこの町に来ていたのか他人事ながら気になる。待合室には座る場所もなかったので、そのまま素通りしてホームに向かった。
本日最後となる列車は15時50分発の福井行き。これまでの列車を思うと混雑していることは必至であり、この疲労感のなか立っていくのは勘弁してほしいと思いつつ乗車すると、確かに混雑はしているのに不思議とボックス席がひとつだけ空いていた。これには天の助けとばかりにありがたく収まった。
帰途は景色を眺める余裕もなく、ほとんど眠ったようにして福井に戻ってきた。そして列車を降りるとホームのベンチに座り込む有様。これほど疲れた日というのは滅多になく、しばらく休んだところで真っ直ぐ宿に向かった。
(2017年8月7日)
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