越美北線 全線全駅完乗の旅 2日目(越前東郷〜市波)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2017年8月9日、昨日は台風で全列車運休という憂き目に遭ってしまい、乗車計画が1日遅れてしまった。朝起きてみると台風一過で青空まで顔を出しているが、問題は列車が運行しているかどうかだ。ニュースをつけると8月の観測史上最高の雨量などと伝えており、水害で不通になっていないか気が気でない。

テレビはローカル線の状況をまるで教えてくれないので、早朝の福井駅にやってきて恐る恐る運行情報を確認。そこで平常運転であることを確認して胸をなでおろした。

台風一過の福井駅。
福井駅舎

一乗谷までの乗車券を購入して意気揚々とホームに上がり、発車案内板に目をやると、なぜか乗車予定の6時30分発の列車が表示されていない。それどころか後続の9時8分発が表示されている。戸惑いつつ改めて運行情報を確認すると、越美北線は徐行運転になっている。運休とは出ていないし6時30分発の列車はどこに消えたのか。

困ったことになったが、念のため少し間を置いてから発車案内板に目をやると、何事もなかったかのように「6時30分 越前大野」と表示されていた。何が何だかよくわからない。

こうなれば根比べだとばかり腰を据えて待っていると肉声の案内放送があった。それによると越前東郷から先の区間で徐行運転のため到着が遅れるという。6時30分発は当駅止まりの列車の折り返しなのだ。そんな肉声放送の合間には「定刻で運転しています」と自動放送が繰り返されるなど混沌としていた。

45分遅れでやってきた 720D。
遅れてきた列車

大幅に遅れながらも無事やってきた列車に乗車、約30分遅れで福井を発車した。乗客はざっと10人弱といったところで、前回の同じ列車で見かけた顔ぶれも多い。みんな顔なじみのようなもので、きっと私だけが異質な存在なのだろうと思う。

福井駅を抜けだすとすぐに、越美北線沿いを流れてきた足羽川を渡るが、増水して濁流の流れる様に不安なものを覚える。やがて福井平野の田園地帯に差しかかると、雨上がりの澄んだ空気のなか濡れた稲穂が朝日にきらきら輝き、これを見れただけでも来てよかったと思える光景だった。

越前東郷を過ぎると左右から山並みが迫り、空には厚い雲が広がりはじめ、なんだか暗く険しい雰囲気に変わりはじめた。福井平野はまもなく終わり、これまで好き勝手に進んできた国道や足羽川と並ぶようにして谷間に入っていく。

一乗谷いちじょうだに

  • 所在地 福井県福井市安波賀中島町
  • 開業 1960年(昭和35年)12月15日
  • ホーム 1面1線
路線図(一乗谷)。
一乗谷駅ホーム。
一乗谷駅ホーム

福井を出発してからというもの乗降は越前花堂で降りたひとりだけ、ここで降りたのも私だけだった。列車が去ると目の前には緑あふれる山並みと、ふもとに広がる田んぼという緑鮮やかな景色が広がる。雨上がりのしっとりした空気感と相まって、これまで降り立った越美北線の駅では最も美しかった。

一乗谷は越前国を支配していた戦国大名朝倉氏の拠点であり、かつては政治や文化の中心地として栄華を誇ったのだが、そんな地とは思えないほど静かに自然が広がっている。

駅はホームが一面と待合所があるだけの小規模なものでトイレすらない。作りとしては六条にそっくりで、待合所の中にある備品に至るまで同じだ。きっとこの先も同時期に開業した駅は、同じような姿をしているにちがいない。

一乗谷駅の待合所。
待合所

ホームには電話で迎えを頼む学生の姿がある。ダイヤの乱れを今知ったようだ。さらに観光客のような装いをした若い女性の2人連れもやってきた。近くに宿でもあるのか、それともこう見えて地元住民なのか、この駅には似合わない不思議な存在だった。

そこに自転車に乗った爺さんまで現れ、慣れた調子でホーム出入口に自転車を止め、ゆっくりとホームに上ってきた。利用者かと思っているとそのまま線路に飛び降りてしまい、何をしているのかと呆気にとられていると、線路の向かいにある田んぼに入っていく。なんのことはない、単なる田んぼへの近道としての駅利用者なのであった。

ホーム中ほどに出入口の階段が設けられ、その傍らに観光案内板が立っていた。国の特別史跡にも指定された一乗谷朝倉氏遺跡の最寄り駅なのだが、それを感じさせるのはこの案内板くらいのもので、せめてトイレくらい設置してほしいものだと思う。

観光案内板の立つ一乗谷駅の出入口。
ホーム出入口

駅前には数十台は並べられそうな大きな駐輪場があったが、片隅に1台ぽつねんと佇んでいるだけという寂しさ。利用者の多かった時代の名残りか、はたまた夏休みのせいだろうか。

周辺は足羽川沿いにできた平地で田んぼの中に住宅が点在している。山間ではあるものの山が低いことや谷間が広いことから明るく開放感がある。近くには国道や足羽川が横切り、一乗谷朝倉氏遺跡資料館の大きな建物も見える。

西山光照寺跡

ここでは当然のように一乗谷遺跡に向かう事にしたが、その前に駅のすぐ裏手にある西山光照寺跡に立ち寄ることにした。天台宗真盛派の寺院でかつては一乗谷最大の寺院だったそう。その遺構はホームや車窓からも目にすることができ、降り立った時から気になっていた。

すっかり曇り空だと思っていたが、歩き始めるとタイミングよく日が差しはじめた。途端に汗が滲んできて、ありがたいようなそうでないような複雑な気分である。

寺院跡は近づくほどにセミの声が賑やかになってくる。隣接する駐車スペースには既に15台ほどの車が並び、朝早くからこんなに観光客が訪れていることに驚かされる。熊出没注意の看板を横目に寺院跡に立ち入ると、これまた驚いたことに誰もいなかった。

西山光照寺跡。
西山光照寺跡

あの大量の車は一体なんだろうかと思っているとまた新たな車がやってきた。見ていると駐車スペースに止めるとそのまま寺院跡とは逆方向に歩いて行ってしまう。向こうに一体何があるのか知らないが、寺院跡とは関係のない駐車場として利用されているようだ。

西山光照寺跡には大きな四角い池があり、それを取り囲むようにして約40体の石仏が並んでいた。自分の身長かそれ以上はあろうかという石仏がずらりと並ぶ様は壮観だ。今でこそ覆屋の下でしっかり管理されているが、一体一体を見ていくとあちこち破損していて、平穏とはいかない歴史があったことを物語っている。

西山光照寺跡の石仏群。
西山光照寺跡の石仏群

周辺には伽藍が建ち並んでいたであろう空き地が広がる。セミの声だけが騒々しい人気のないその様子には、栄枯盛衰を感じずにはいられない。散策している間にも駐車スペースには頻繁に車が出入りするが、こちらを訪れる人は誰ひとりいなかった。

一乗谷遺跡

次はいよいよ地域最大の見どころともいえる一乗谷遺跡に向かう。およそ百年にわたり朝倉氏の拠点にして越前の中心地として繁栄した所だ。1573年(天正元年)織田軍に攻め落とされ灰燼に帰し、その後に越前を治めた柴田勝家が、現在の福井市中心部に位置する北ノ庄城を拠点にしたこともあり、そのまま歴史と田畑のなかに埋もれていた街である。それ故に室町時代の遺構がよく残された貴重な遺跡でもあるという。

西山光照寺跡から遺跡に向けては歩道が整備されていて、迷う心配もなければ車の心配もなく快適に進んでいく。こうして歩いてみると一乗谷駅はすぐ近くの資料館を皮切りに、点在する史跡をめぐり歩くには絶好の立地であることに気がつく。

歩道はあまり通る人もいないのか路面が苔むしていて、雨上がりで濡れていることもあり何度も滑って転びそうになった。危険を感じる箇所は慎重に進んでいくが、足元にばかりに注意を払っていると今度はクモの巣に引っかかる。上にも下にも気が抜けない。

西山光照寺跡から続く歩道。
西山光照寺跡から続く歩道

少しすると安波賀あばか町という変わった名前の小さな集落に入り込んでいた。ここは足羽川と支流の一乗谷川の合流点が近いところで、両者に挟まれるような小高い山のふもとには春日神社が鎮座していた。一乗谷で唯一現存する朝倉氏の時代から続く寺社だそう。

せっかくなので参拝していこうと、両脇を住宅に挟まれ、目の前に洗濯物が下がる窮屈そうな小路に入り込んでいく。そこから山中にある拝殿に向けては、左右に傾いた歴史ありげな石段を上がっていく。吹き下ろしてくる冷たく湿った風、薄暗く茂る木々、シダ類や苔に覆われた山肌に石段、生活感あふれる入口とは打って変わって神秘的な雰囲気が漂う。

春日神社の参道。
春日神社の参道

拝殿は相当に古い木造建築で周囲を大きな木々が取り囲む。当然のように社殿や社叢は福井市の有形文化財になっていた。じっくり眺めていたい気分になるが、座って休めるような場所がないのが残念。適当な場所に座ろうにも苔むしていてそういう訳にもいかないのだ。

湿り気のある環境によるものか蚊の多さには辟易とするものがある。立ち止まると途端に刺してくるから油断ならない。座れたところで休むどころではないことに気がつく。せっかくの厳かな神社も蚊に気を取られて堪能するどころではない。どんどん集まってくる蚊から逃げるように神社を後にした。

春日神社の拝殿。
春日神社の拝殿

これより先は足羽川支流の一乗谷川をさかのぼる。足羽川に比べれば小さな川だが、それでも川幅は広いところで20mほどあり豊富な水が勢いよく流れている。台風の影響だろう若干濁りがあり、河原の雑草がなぎ倒されているのが目につく。

そんな谷に入ってすぐの場所に待ち構えているのが「下城戸しもきど」だ。左右から山が迫る谷幅の特に狭まった箇所で、ここに10tを越えるという巨石を積み上げた石垣、それに壕や土塁などが行く手を阻むように横たわる。石垣で形作られた通路は、途中で直角に曲がって先が見通せない上に幅も狭く、大群で攻めようにもここで大渋滞は必至である。

下城戸を抜けると城戸ノ内きどのうちと呼ばれるかつての一乗谷の中心地に入る。城下町や居館だけでなく周囲の山々にも城や見張り台があり、人口は1万人を越えたという。いまはわずかな農地や住宅が点在するのどかな景色が続いていた。

折れ曲がった通路の下城戸。
下城戸

一乗谷川に沿うように点在する集落の中を進んでいくと「平面復元地区」と呼ばれる城下町の遺跡が現れた。数百年に渡り田畑の下に埋もれていたというだけに、建物こそ何もないが町割りは当時のままきれいに残る。足元の様々な区画を見ていると、見たこともない往時の街並みが目の前に浮かんでくるようだ。

遺跡の中を歩くと様々な職業の家から大きな寺院跡、それに墓地の跡まであった。最初はこんな小さな家に暮らしていたのかと思うような小さな区画だったのが、奥に進むにつれて大きな区画に変わっていく。これは武家屋敷の跡だそうで今も昔もお偉いさんの家は大きい。それはともかく広大な上に日陰もないので、暑さと喉の渇きに若干参ってきた。

これだけのものがありながら観光客の姿はまるで目にしない。忘れたころに車が止まり、道路脇から一瞥して去っていく程度で、ほとんど私の貸し切りであった。

一乗谷遺跡の平面復元地区。
一乗谷遺跡 平面復元地区

さらに谷をさかのぼると「復原町並」があり、遺跡上に当時の町並みが再現されていた。有料だがせっかく訪れたのだからと受付に向かう。すると駅近くにある資料館との共通券があったので、帰りに立ち寄ることにして思わずそちらを購入した。

入場するとちょっとした茶店や自販機があったので、まずは喉をうるおし一息つく。これまで観光客はほとんど見かけなかったが、ここには大勢の老若男女が歩いている。ただ茶店に入るような人は全然いないため、店員のおばさんが手持ち無沙汰に佇んでいた。

復原町並は一本の通りに面した家並みが再現されており、建物や塀がまるで時代劇のセットのように続く。途中には着物姿のエキストラのような人も座っていた。これは実に本格的だと門の中を覗き込むと、塀の向こうは遺跡そのもので建物は何もなく拍子抜けする。とはいえ全体がハリボテという訳ではなく、中には内部まで復元された建物もあった。

一乗谷遺跡の復原町並。
一乗谷遺跡 復原町並

次は朝倉氏の居館があった一乗谷の核心部、城下町とは一乗谷川を挟んだ対岸にある「朝倉義景館跡」に向かう。堀に囲まれた十数棟の建物からなっていたという屋敷の跡で、城下町には大きな武家屋敷や寺院跡もあったが、それらと比較しても桁違いの規模である。さすがは朝倉氏の居館といったところ。

広々とした芝生広場を抜けて最初に見えてくるのが、堀にかかる木橋と、その向こうで口を開ける唐門だ。小さいながら存在感のあるこの門は、朝倉義景の菩提を弔うためにかつて館跡に建てられていた松雲院の寺門で、豊臣秀吉が寄進したものと伝わるそう。

その周囲では10日後にあるという「越前朝倉戦国まつり」に備えてか、それとも台風で片付けていたのだろうか、事情はよく分からないが越前国朝倉と書かれた、のぼりや提灯などを立てる作業の真っ最中であった。

朝倉義景館跡に建つ唐門。
朝倉義景館跡 唐門

館跡は跡というだけあって建物は何も残ってないし復元もされていないので、その基礎の形と広大な土地だけが往時を偲ばせる。片隅には朝倉義景の墓がぽつんと佇んでいた。

背後に迫る山に上がると遺跡を一望できるだけでなく、山中にはいくつもの庭園跡が残されていた。特に庭園の中でも最大規模という諏訪館跡庭園は往時の景観が復元されており、緑に覆われた美しい石組みの中を、滔々と水の流れる優美な姿を見せている。山をさらに上っていけば山城跡などの遺構もあるそうで気になるが、それ以上に時間や熊が気になるので程々のところで下りてしまった。

右往左往と思いつくままに歩き回ったが、とにかく広大な遺跡なので歩いても歩いてもきりがない。こんなに歩き回ったのにまだまだ訪れていない所が多くあり、全てを見てやろうと思えば1日がかりでも厳しいくらいだ。

広大な朝倉義景館跡。
広大な朝倉義景館跡

先ほど復原町並で入手したパンフレットに目を通していると、近くにそば屋の文字があるのを見つけた。昼が近く小腹が空いた事もあるが、これを逃したらもう食べる所はなさそうな予感がして足を運ぶ。そこには駐車場の周りにそば屋だけでなく、土産物店や公衆トイレがあり、さらに遺跡の広大さを表すように無料のレンタサイクルまで用意されていた。

そば屋に入ると休憩所も兼ねた建物で、観光PRの流れるテレビやパンフレット、それに自販機までもが並んでいた。どちらかというと休憩所の方が主のようで、駅の待合室にある立ち食いそば屋を連想させる佇まいだ。

注文に向かうとこの暑さとあってか、こちらが尋ねる前に冷たいのは「ざるそば」と「おろしそば」との説明があった。ざるそばを注文しつつもカウンター上にラップに包まれた、ゆかりのおにぎりが並んでいるのが気になる。懐かしくもあり美味しそうでもあり思わず手に取ってしまった。このような場所で手作りおにぎりとか遠足を思い出す。

昼飯のざるそば。
昼飯のざるそば

ゆっくり食べたいところだが休憩所を兼ねて冷房が効いているものだから、何するでもない人たちが頻繁に出入りして落ち着かない。慌ただしく食べ終えて時計に目をやると、ちょうど昼になるところだった。次の列車までは1時間ほどなので駅に戻ることにした。

店を出ると観光客が大勢歩いている。この周辺を中心に朝倉義景館跡までが主要な見どころらしく賑わいがある。車で訪れる人がほとんどなので、駅に向かって歩いていると徐々に人気はなくなり、最後は私ひとりの世界になった。

小さな集落の中に瓜割清水うりわりしょうずという不思議な名前の湧水があり、名前も然ることながら、あまりの暑さに喉が渇くこともあって立ち寄ってみる。案内板によると朝倉氏の時代から枯れることなく湧き続け、今でも生活用水に使われているという。

近くまで行ってみると長靴を履けば歩き回れそうな浅い池があり、なんだか水を張ったばかりの田んぼのような姿をしていた。中ほどに立派なお堂が鎮座しており、歴史ある大切な清水であることを伺わせる。池からは静々とあふれるように水が流れ出しており、じっと底に目をやると砂が動いているのが見える。手を入れると冷たくて気持ち良かったが、池の底から湧き出す水を飲むのは難しく、喉を潤すことはできなかった。

瓜割清水。
瓜割清水

清水の周りにも庭園跡などもあるようだが、寄り道ばかりでいよいよ時間が危なくなってきたので、足早に谷を下り足羽川の堤防までやってきた。一乗谷川に比べるとはるかに川幅は広く水量も豊富だ。台風の影響で茶色く濁った水が轟々と怖いような勢いで流れていた。

すぐ目の前には復原町並で共通券を購入した「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」があるのだが、時刻を確認すると次の列車まで30分しかない。時間的に厳しすぎるので諦めて駅に行こうか迷ったが思い切って資料館に向かった。それは資料館を見たいというより、せっかく買ったのに勿体ないの気持ちによるところが大きい。

誰もいないだろうと入館すると2〜3人の先客があった。車で移動する人ばかりで歩く人がいないから出会わないだけで、それなりに訪れる人はあるようだ。展示室には一乗谷遺跡から出土した品々や資料が所狭しと並ぶが、眺めるのが精一杯で解説文を読む暇はなく、時計を気にしながら駆け足にまわる。今朝の列車の30分遅れが悔やまれるところである。

一乗谷朝倉氏遺跡資料館。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館

慌ただしく資料館を出ると汗をにじませながら、およそ半日ぶりとなる駅に戻ってきた。駅には特に変化はないが、ホームから見える西山光照寺跡の駐車場には、さらに車が増えて30台くらい止まっていた。相変わらず寺院跡に人気はなさそうで謎の車である。

ほどなくして13時7分発の九頭竜湖行きがやってきた。車内はかなりの混雑で20人ほど乗っていた。日中の越美北線は意外なほど混雑する。すぐに降りるのでそのまま最前部に立ち、景色を眺めたり、小銭がなかったので両替機で両替をしたりで過ごす。

普通列車の九頭竜湖行き 727D。
普通 九頭竜湖行き 727D

車窓には緑あふれる山並みと茶色く濁った足羽川が広がる。蛇行する足羽川両岸には山が迫りすっかり平地は姿を消した。列車は行き場を求めるように鉄橋を渡りつつ進んでいく。この辺りは2004年の水害で鉄橋が流出して長期不通になった区間だ。

越前高田えちぜんたかだ

  • 所在地 福井県福井市高田町
  • 開業 1964年(昭和39年)5月20日
  • ホーム 1面1線
路線図(越前高田)。
越前高田駅ホーム。

山すその集落に接するホーム一面の小さな駅で、周囲には住宅や畑が点在する穏やかな景色が広がる。ここでは高校生からお年寄りまで私を含めて4人も降りた。近隣住民らしく立ち止まることもなく消えていき、列車が去ったホームには私とセミの声だけが残された。

待合所に入ると締め切られていた室内は熱気がこもり暑い。そこに芳香剤の香りが充満したこの感じ、炎天下に止めておいた車に入った直後を思い起こさせる。真夏だというのに締め切られているのは昨日の台風のせいだろうか。窓を開けて換気しておく。

奥行きのある室内には座面も背面も直線的なベンチがあり、片隅には清掃道具や過剰ともいえる大きなゴミ箱がある。先日訪れた足羽駅で見た光景そのままだ。ベンチには手作りだろうかカラフルな座布団がいくつも並び、清掃も行き届いているので居心地が良い。この辺りの無人駅は何れもきれいに管理されていて好印象が残る。

越前高田駅の待合所。
待合所

ホームはレールを再利用した支柱の上にコンクリートを敷いた構造で、待合所と同じく足羽にそっくり。開業が昭和39年と同じなので設計も同じなのだろう。昭和35年に越美北線が開業した時からある駅同士もまたそっくりなので、作りを見れば開業年まで分かってしまう。

それにしても路線の開業からわずか4年後に複数の駅が追加された訳で、どういう経緯でそうなったのか気になる。最初から設置しておけばよかったのにと思ってしまう。

駅名板は待合所を挟んだホーム両端にあるのだが、なぜか片方だけ今では珍しい国鉄様式のものが残されていた。所在地に今では福井市となっている足羽郡美山町の名前が読み取れる。立っているのは出入口と反対側の乗降客が訪れることもなさそうな場所で、すっかりボロボロになったその姿は、残っているというより放置されているという方がしっくりくる。

ホームに残された国鉄様式の駅名板。
国鉄様式の駅名板

越前大野寄りのホーム端に設けられた階段から道路に降りると、近くを流れる沢から涼し気ないい音が響いてくる。意外にも駐輪場があり錆の目立つ鉄骨にトタン張りという味のある建物だ。一乗谷のそれに比べると小規模で10台くらいしか並べられなさそう。この駅の利用者数を物語っているようでもある。

鳴瀧なるたき

どこに向かうかだが駅前に案内板の類はない。元よりあるとも思っていないので慌てず騒がず地図を開いて考える。ここは足羽川が作り出した小さな盆地の最下流部に位置しており、上流側は大きく開けている一方で、下流側は山が迫る険しい地形だ。そんな下流側にある鳴瀧という滝が気になり、まずはそこを目指すことにした。

下流側へと向けて昭和を感じさせる集落を抜けていく。ゆるやかに右へ左へと曲がる狭い道路沿いには住宅や畑が並んでいる。飲食店どころか自販機すら見当たらず、一乗谷で食べてきたのは正解だったなと思う。

駅周辺に広がる景色。
駅周辺の風景

集落の外れには冬季通行止めの標識が立つ踏切があり、この先に人家がない上に除雪も難しいような場所であることを想像させる。足を進めると思った通り人家はパタリと途絶え、道路も木立に囲まれた薄暗い林道のような姿に変わっていく。道を間違えたのではないかと不安になるようなところだ。それだけに中部北陸自然歩道の標識に安心感を抱く。

越美北線はすぐに鉄橋で対岸に渡ってしまい、道路だけとなった足羽川へと落ち込む斜面上を進む。左手には木々の隙間から川面が見え、右手には植林された山が広がる。

見た感じは木立に囲まれて涼しげな道路だが半端なく暑い。密集する木々や雑草に阻まれ風が通らないうえ、太陽は真上にあるので遠慮なく日が差し込んでくるのだ。つい先ほどまで木陰で湿っていたらしき地表からは、蒸し蒸しとした熱気が上がってきてたまらない。全身から汗がしたたり、うだるような暑さとはこういう事を言うのだろう。

鳴瀧に向かう道路。
鳴瀧に向かう道路

途中には寺院だろうか荒れ果てた建物があったくらいで、後はひたすら足羽川のごう音と緑の中を黙々と進んでいく。すると突如として水浴びでもしているようなザバザバと心地よい水音と共に、冷蔵庫を開けた時のようなヒンヤリした風が吹き付けてきた。見ればすぐ右手には想像以上に大きな滝があり、傍らには鳥居と小さな祠が祀られている。

滝壺に落ちた水はそのまま細かな水しぶきとなり、滝の流れによって引き起こされた風に乗り道路の方にまでやってくる。真夏だというのに肌寒さを感じるくらいの冷気で、何という気持ちよさだろう。温まっていた体が芯から冷やされていくのを感じる。霧のように細かな水しぶきは、木々の間から差し込む光でキラキラと輝いていた。

しばらく立ちすくむように眺めてから、鳥居をくぐって滝の脇に設けられた階段を上がり、祠に参拝を済ませると、名残惜しいが駅に引き返した。

鳴滝。
鳴滝

帰途はまたあの異常に蒸し暑い場所を通り抜けるので、せっかく冷やされた体からは再び汗が吹き出してきた。道端にいい水が流れ出している所がありペットボトルに詰めてみるが、中をよく見ると思いのほか土砂が混じっていて捨ててしまう。台風でよほど降ったらしく、山水ですら濁り気味である。

集落まで戻ってきたが次の列車まで1時間以上もあった。何か面白いものでもないかと、その足で上流側に向かうが、これがまた見渡す限りの農地で何もなかった。下流側とは対照的に開けているので風はあるが、それを打ち消して余りあるほど日ざしが強い。ただひたすらに暑いばかり。ここから6キロばかり歩いて山を越えれば永平寺にたどり着くらしいが、そこまでやる時間も気力も体力もない。

駅の上流側に広がる田んぼ。
駅の上流側に広がる田んぼ

喉が渇くので冷たい水でも湧き出していないかと山沿いまで行ってみるも、水の一滴すら見つけられなかった。天気予報では曇りという話だったので帽子を置いてきたこともあり、このまま歩いていると熱中症になりかねない危険性を感じる。とりあえず見つけた自販機で飲み物を手に入れると駅に向かった。

待合所は窓を開け放てばそれなりに風も通って涼しい。まだまだ暑いがひぐらしの声が目立つようになり、夕方が近づいていることを感じさせる。ホーム裏手にある畑では農作業をする爺さん、線路沿いでは草刈りをするおばさん、この目まいがするような暑さのなかで、よくそんなに精力的に動けるものだと感心する。

乗車するのは15時16分発の越前大野行き。車内は先ほど同様に混んでいたので、先ほど同様に立っていく。

普通列車の越前大野行き 729D。
普通 越前大野行き 729D

車窓には左右どちらにも田んぼが広がり、なんだか福井平野に逆戻りしたかのよう。そのなかを気ままに蛇行して流れる足羽川を渡ると早くも市波駅であった。駅間距離はわずか1.2kmとまるで私鉄のように短い。

市波いちなみ

  • 所在地 福井県福井市市波町
  • 開業 1960年(昭和35年)12月15日
  • ホーム 1面1線
路線図(市波)。
市波駅ホーム。
市波駅ホーム

下車したのは私だけだったが入れ替わりに高校生くらいの若者がひとり乗車した。周辺は田んぼと民家の点在する開けた場所で、どこにでもありそうなローカル線の小駅といった趣。青空と緑とセミの声に囲まれて、夏らしい雰囲気が漂っていた。

海とはまったく関係なさそうな駅だが駅名に波が付く。今では廃止されたが能登半島の海沿いを走っていた能登線には、沖波・前波・矢波など波の付く駅がたくさんあり、ここと似た簡素な作りの駅も多数あったのでどこか懐かしく感じる。

当然のように駅舎はなくホームが1面と待合所があるだけの駅だ。越前花堂・六条・一乗谷にそっくりな作りで、ひと目で昭和35年に開設された駅だと分かる。あまりに似すぎて特に興味を引くものはなく早々と後にした。違いといえば座布団の柄くらいのものである。

市波駅の待合所。
待合所

駅前には広々とした空き地があり周囲には桜の木が並ぶ。切り株も目立ちかつてはさらに多くの桜の木があった事が想像される。ホーム1面の駅にしてはやたら広い敷地で、一部にはコミュニティセンターのような建物が建っていた。戦前の着工時には駅舎や交換設備でも設けるつもりだったのだろうか、そんなことを考えてしまうほど広い。

駐輪場は先ほどの越前高田のそれに比べると2倍かそれ以上はありそうな規模だ。各駅の駐輪場を比較すると設置当時の利用者数が何となく見えてくる。一部は机や梯子などが詰め込まれて物置と化しており、利用者が減っていることも何となく見えてくる。

広い駅前と駐輪場。
広い駅前と駐輪場

駅前をぶらついていると、どこからともなくお年寄りが1人また1人と現れ、待合所に消えていく。時刻を確認するとまもなく福井行きの列車がやってくるようだ。ローカル線の小駅では利用者が誰もいない光景に慣れきっているので少し意外にすら見える。思えばこの越美北線で乗車と降車のどちらも私だけだった駅は、今のところ六条だけだ。

市波集落

例によってここにも案内板の類はなく地図を頼ることになるのだが、困ったことに地図を見てもこれといった所がない。仕方がないので勘だけを頼りに適当に歩くことにした。

駅前周辺を歩いてみるとここは思ったより大きな集落だった。住宅が建ち並ぶ中には久しぶりに見かける商店や、以前は何らかの商店だったと思われる構えをした建物も点在する。ただ人の気配がほとんど感じられないのはどこも共通するところで、国道も近くにバイパスがあるためか交通量は少なく静かなものであった。

駅近くを通る国道。
駅近くを通る国道

駅前の道路を真っ直ぐ山すそまでやってきたところには寺があった。正確には小高い山の上にある寺に向けての石段があった。ふもとからざっと50段くらいの石段が、山門に向けて伸びている。その石段は表面がすっかり苔に覆われており、大きな杉木立の中を真っ直ぐに伸びる様は、実に美しいものがあった。

石段の上り口には大量の丸太が転がり通行止めさながらの状態になっている。不審に思っていると石段の中ほどで丸太を切り出していることに気がつく。その運び方ときたら豪快なもので、丸太を投げ捨てるように、石段の上から下に向けて放り投げている。結果として上り口は丸太の山という訳だ。いきなり投げないでよと思いつつ足早に山門まで上がっていく。

苔に覆われた石段。
苔に覆われた石段

山門まで上がってきてようやく寺の名前が本向寺であることを知る。大きな本堂をしばらく見上げてから境内をめぐる。本堂の脇にしっかりした道路が通っているのを見て、石段は通る人がいないから、あんなに苔むしているのだなと納得する。

道路はさらに寺の上の方に続いているので、面白いものでもないかと上がっていくが、墓地になっていたので、そのまま道路を引き返して山を降りた。

これで駅前周辺はひと通り歩いたので、次は駅の裏手を流れる足羽川やその対岸にまで足を伸ばす。相変わらず茶色く濁った足羽川を見下ろす橋の上からは、水害からの復旧で架けかえたからだろう、ローカル線らしからぬ越美北線の立派なトラス橋が見える。

駅裏手を流れる足羽川。
駅裏手を流れる足羽川

どんどん歩いて足羽川対岸までやってきたが、こちらは農地と小さな集落があるだけで、特に向かうべき所はなさそうだ。自家用らしき小さな畑で作業をする老人を、ひとり見かけただけと静かな所だった。

美山森林温泉

帰りの列車まで時間はたっぷりあるので、なにかないかと右往左往していると「美山森林温泉 60m先」という魅力的な標識を発見。あとは宿に帰るだけだし旅を温泉で締めくくるのは悪くない。何より目と鼻の先にあるのだから行くしかないというものだ。

看板に従い進んでいくと、先ほど寺に向かって歩いた道が入口だった。こんなところに温泉なんてあったかなと頭をかしげつつも先を急ぐ。やっぱりどこにもないが相変わらず標識は出ているので、もう60mは過ぎただろうと内心思いつつも足を進める。

いつしか集落は通り抜けてどんどん山深くなっていく。行けども行けども山の中という緑に囲まれた坂道を上がっていく。いまさら戻るのも悔しいので半ばやけくそである。

美山森林温泉への道のり。
美山森林温泉への道のり

結局20分くらい歩いただろうか、ようやく目的の美山森林温泉が見えてきた。みらくる亭というこの山間の雰囲気とは似合わないような名前の施設で、外観は何の変哲もないスーパー銭湯かと思うような建物だ。ここは日帰り温泉だけでなく食事や宿泊もでき、駐車場には車が何台も止まり賑わっていた。

建物内からは何やら大声が聞こえてきて、喧嘩でもしてるのかと思いきや、内容を聞いていると団体客が騒いでいるようだ。フロントで日帰り入浴を頼むと510円と手頃な価格。学生の団体が来ていて騒がしいかもしれませんがと断りを入れられた。言われるまでもなく既によく分かっている。

エレベーターで3階に上がってくださいというので、上が浴場とは変わってるなと思いながら言われるままに向かう。すると驚いたことに3階からは、建物背後にある山の斜面上に向けて通路が伸びていた。

山中には宿泊用の建物や浴場が点在しており、それぞれが斜面上を這うように伸びた階段や廊下で結ばれている。しかも木材をふんだんに使った温かみのある作りで、まるで山の中を歩いているような気分にさせる面白い構造だ。表側の外観もこうすればいいと思うほど雰囲気が良く、森林温泉の面目躍如である。

美山森林温泉、みらくる亭。
美山森林温泉

浴場には幸いにして大学生の姿はなく、先客はおじさん2人だけと静かなものであった。あの学生集団がここでも大騒ぎしていたらかなわんと思っていたので、温泉につかり二重の意味でほっとする。ただ帰りの列車まで1時間を切っているので気が気でなく、ゆっくり浸かる暇もなくカラスの行水で上がることになってしまった。

それでも体のねっとりした感じはなくなり、流れる汗も心なしかサラッとして気分が良い。先ほどは一体いつ到着するのかとテンション低めで上がった坂道も、ひぐらしの声をBGMにして意気揚々と下っていく。ようやく暑さも収まり過ごしやすくなってきた。

そして今頃になって気がついた、あの60mという標識は目的地までの距離ではなく、温泉へと通じる道路の入り口までの距離だったということに。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

駅に戻ってくると待合所では中年男性がひとり読書をしていた。それから10分ほどで17時39分発の福井行きが現れ、待合所の男性と共に乗りこむ。温泉にゆっくり浸かりたかったと後ろ髪を引かれる気持ちもあるが、この列車を逃すと次は20時近くまでないため、割と良い判断で帰ってきたなと思う。

普通列車の福井行き 732D。
普通 福井行き 732D

福井に帰るにはちょうどいい時間帯でありながら、1両だけという車内は混雑していた。今度は長時間になるので立っているのは御免だと何とか空席を探して収まる。疲れもあって帰途の車窓や車内の様子などはまったく記憶になく、気がつけば福井に到着していた。

(2017年8月9日)

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