目次
プロローグ
2018年1月1日、三重県の千代崎海岸で初日の出を迎えた。
暖かみのある光に照らされた砂浜では、目的を同じくする大勢の人たちが思い思いの時を過ごしている。気勢を上げる集団や、写真撮影に走りまわる爺さん、黙して耽る若者など様々だ。ちょっと前まで暗さと寒さに縮こまっていた人たちかと思うと、太陽の力というのは計り知れないものがある。
ここは津と四日市のほぼ中間で、最寄り駅は近鉄名古屋線の千代崎、つまるところ紀勢本線の旅とはまったく関係がない。全国的に雲が広がるなか、晴れて、東が開け、駅が近い、の条件を満たした数少ない地点として、初日の出のためだけに始発列車でやってきたのだ。
太陽が直視できないほど眩しくなると、ひとりふたりと去ってゆき、海岸には静けさが戻っていく。私もまた紀勢本線の旅をはじめるべく腰を上げた。
千代崎から近鉄電車に揺られること約30分、津で紀勢本線に乗り換える。伊勢神宮の玄関口である伊勢市行きだったので、初詣客で混雑しているかと思いきや、横になって眠れそうなほど空いていた。そういう人たちは早くて快適な特急や快速を利用するのだろう。
8時46分、津を発車した列車は伊勢平野を南下していく。進むほどに沿線の建物は低くまばらとなり、10分ほどで田畑が広がりはじめると高茶屋に到着する。
高茶屋
- 所在地 三重県津市高茶屋
- 開業 1893年(明治26年)12月31日
- ホーム 2面3線
東の海沿いに広がる低地と、西の山沿いに広がる台地、両者の境目となる約15mの段差のふもとを、伊勢街道と線路が南北に伸びている。街道には古くからの家並みがあり、線路には当駅が設けられている。いかにも茶屋があったと思われる地名は、やはり街道を伊勢参詣者が往来した時代に、たくさんの茶屋があったことが由来だという。
軽装の地元住民らしき人から、トランクを引く帰省らしき人まで、4〜5人と降り立つ。冷たい空気にぞくりとするけど、広がる澄んだ青空と降り注ぐ陽光が気持ちいい。
ホームには主要駅を思わせる大きな木造上屋があり印象深い。普通列車しか停車しない地方の小駅といえば、上屋があっても申し訳程度であったり、そもそも存在すらしないことがほとんどだ。取り壊しを待つ過去の栄華の忘れ形見のようでもあるけど、老朽箇所は真新しい部材に交換されていて、まだまだ現役だと誇示していた。
駅裏には大きいと思った旅客ホームの上屋より、さらに大きな上屋を備えた貨物ホームが据えられている。線路は剥がされて草地となっていることから廃止されて久しいようだけど、残された上屋は鉄骨で支えられた近代的なものであり、取り付け道路もしっかり舗装されているあたり、遠い昔に廃止されたという訳でもなさそうだった。
周辺には新しい住宅が並びはじめており、役目を失った貨物ホームは早晩撤去され、住宅地に飲み込まれていくのかなと思う。
木造モルタル造りで天井の高い駅舎は、瓦屋根で白壁で、出入り口には太い柱を並べた軒が張り出し、なにやら和洋折衷の趣がある。外観からはいい駅舎だなと思うけど、内部は無人駅らしい状態なうえ、列車に乗るでもない若者が2〜3人たむろしていた。
駅を出ると閑静な住宅街のような景色が広がった。すぐ先を江戸時代の主要道で茶屋があったという伊勢街道が横切っているけど、往来する人も車もなくひっそりしている。明治から大正時代には内陸遠方からの鉄道利用者が多くあり、駅前には馬車や人力車が並んで賑わったそうだが、いまは自転車が並ぶばかりである。
香良洲海岸
南に約2kmのところに雲出川という県下有数の大きな川がある。この川は河口まで約2.5kmという地点でV字に分かれ、そのまま海に注いでいるため、結果として海と川に囲まれた三角形の低地、いわゆる三角州が作り出されている。4〜5千人が暮らす大三角形だ。その海に面した一辺は香良洲海岸と呼ばれ、春から夏にかけて潮干狩りや海水浴客で賑わうという。
ここでは駅の名所案内に唯一記載されたこの海岸を目指そうと思うが、その前に逆方向になるけど近くにある神社に向かう。深い意味はなく単なる初参りである。
駅前から伊勢街道を北に向かうと、数分で小ぶりな鳥居と高茶屋神社の標柱が現れた。傍らには街道をゆく旅人を照らしてきたであろう大きな石灯籠がある。それらを見上げたり刻まれた年号を調べたりしていると、ぽつりぽつりと近隣住民らしき老若男女がやってくる。
石段を上がっていくと正月らしく化粧をした拝殿と社務所のある平場に出た。静かに参拝しては去っていく人たち、ぱちぱちと音を上げる焚き火、観光色のなさもあって落ちつくものがある。地元の神社にいるような気分で賽銭を投げた。
北にある神社からいったん駅まで戻り、線路を越え、南東にある香良洲海岸に向かう。名所案内には3.6kmとあったけど、地図だと4.5kmはありそうに思える。もしかして名所案内に記されるのは直線距離なのだろうか。
線路を越えて数百メートルほどで近鉄道路と呼ばれる道路を横断する。妙な名前は津と伊勢神宮を結んでいた近鉄伊勢線の廃線跡を利用したことに由来する。ちょうどこの辺りに雲出駅があったそうだが跡形もない。周辺にも駅前らしさは感じられない。廃止されたのは半世紀以上も昔のことなのでこんなものかなと思う。
続いて現代の街道ともいえる国道23号線を横断する。鉄道も伊勢街道も閑散としていたけど、こちらは絶えず車が行き交っていた。
騒がしい主要道を避けて石仏のある細道をゆくと、お堂を思わせる古風でちんまりした白壁黒瓦の木造家屋に出会う。目を引くのが玄関前に車寄せのように大きく張り出した屋根で、鬼瓦をいくつも載せた貫禄ある造りをしている。そこだけは立派な造りだけど後ろの建物は小さいため、なんともいえない不自然さもある。
お堂なら手を合わせようかと思ったけど、鰐口もなければ賽銭箱もなく、秘仏のごとく板戸ですき間なく閉ざされている。それどころか建物自体がハリボテであることに気がついた。
なんだこれはと思うが、ありがたいことに説明板が用意されていて、それによるとこれは雲出小学校旧校舎の玄関とのこと。高茶屋駅の開業から間もない1895年(明治28年)に建てられたもので、市内に現存する最古の学校建築だという。明治の学校玄関かと思うと確かにそんな感じだ。不自然に映るのも背後の校舎がないからだと思えば納得である。
冷たい風に背中を押されながら単調な田園地帯を抜け、長い橋を渡り三角州に入り、ようやく海岸沿いの松林が見えてきたのは昼近くのことであった。寄り道していたせいもあるけど想像以上に歩いたことで足がだるい。名所案内には海水浴に好適、徒歩50分などと記されていたけど、歩いて泳ぎにくる人などいるのだろうかと思う。
さらさらの砂を崩しながら波打ち際に下りていく。およそ2.5kmもある砂浜は人影を探すにも苦労するほど誰もいない。閉ざされた海の家や、吹き抜ける寒風が、冬の海に特有の寂しさを演出する。熱気と歓声にあふれた夏の海はいいものだけど、この雰囲気もまた悪くない。
日当たりのいい砂浜に腰を下ろし、道中のコンビニで買ってきた肉まんを頬張る。聞こえてくるのは風音と波音ばかり。勢いある雲に晴れたり曇ったりが繰り返される。ぼんやり眺めていると、どこからともなく親子連れがやってきて浜辺で貝殻を拾っていた。
三角州にある見どころとしては香良洲海岸のほか、天照大神の妹とされる稚日女尊を祭神とする香良洲神社がある。社殿を造り替える式年遷座が20年ごとに行われるという、全国的に見ても珍しい行事のある神社である。
訪ねてみたい気もするけど神社があるのは駅とは反対方向で約1.5kmの道のり、そして日没までは約4時間しか残されていない、参拝などしていたら次の六軒駅では何をする間もなく日が暮れてしまうことだろう。六軒駅を諦めれば問題ないけど、最低でも2駅はめぐりたいという思いがあって、引き返すという結論しかなかった。
押し戻されるような強烈な向かい風に悩まされながらも、香良洲神社と引き換えの13時54分発の鳥羽行きに間に合った。どこに行くのか外国人を含む7〜8人が降りて、4〜5人が乗り込むのを眺めてから乗車。
動き出した列車は2〜3分もすると、川幅400mほどある雲出川を渡り松阪市に入った。気持ちの上では大きな前進であり新鮮さを伴うが、車窓的には田んぼと住宅が流れていくばかりで、津市の側からこれといって変化はなかった。
六軒
- 所在地 三重県松阪市小津町
- 開業 1894年(明治27年)1月10日
- ホーム 2面2線
古くから家屋の集まる伊勢街道沿いであるが、数百メートルばかり脇道に入り込んだ位置にあるため、周辺には田んぼが広がっている。松阪よりを流れる三渡川の対岸には、大和に向かう初瀬街道との追分で、江戸期に六軒の茶屋があったといわれる六軒町がある。
車内から見て利用者の少なそうな駅だという印象を受けたが、それを証明するように乗降客は私だけだった。周囲に山も林も街もないため、内陸から吹き下ろしてくる寒風が手や頬を切りつけてくる。ここにきて曇りがちになったことで寒さが厳しい。
風に抗いながら跨線橋に上がり上下線ホームを見下ろす。屋根も花壇もない合理的な作りだけど、長々と連ねた列車が走っていた名残りか、延長だけはたっぷり用意されている。東西南北どちらを向いても広々とした平和な景色だけど、国鉄時代には死者42名を出した列車衝突事故があり、近くの線路脇には慰霊碑が建てられている。
プレハブ小屋を思わせる長方形の簡素な駅舎に入ると、内部も負けず劣らずの簡素さで、あるのは木製ベンチくらいのものだった。閉め切ることすら叶わないため、風が筒抜けで外にいるのと変わらない。どうやらこの駅に寒さを凌げる場所はないらしい。
広く閑散とした駅前広場に出ると、コンクリートの基礎が顔を出していたり、取り残されたように庭木が立っていたりして、大きな木造駅舎があったことが偲ばれる。正面に伸びる細い通りには駅名を具現化したように六軒くらいの家屋が並んでいた。
西山
紀勢本線に並走する伊勢街道を歩けば、大和や伊賀といった国に至る初瀬街道や奈良街道との追分があり、いまなお見上げるように大きな道標や灯籠を目にすることができる。また北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の生家もある。それらをめぐるのは魅力的だけど、紀勢本線沿いの街道には何度か触れてきたので、ここでは三重県でもっとも低い山といわれる西山に登ってみることにした。
西山は北西に約2.5kmのところにあり、気になる標高は30.8m、仲間の山々から遠くはなれて広大な伊勢平野のなかに、ちょこんと頭を出している。
からっ風に煽られながら田園地帯を黙々と進む。気をつけていないと帽子が飛ばされそうになるほどで身を切られるように寒い。日差しを期待して空を見上げるけど、台風前夜のような勢いで雲が流れていて、照ったかと思うとすぐまた陰ってしまう。
ぐねぐねした細道と寺のある、いかにも古くからありそうな集落までくると、集まる家屋が壁となって風が弱まった。呼応するように日差しも安定して届きはじめ、冬から春に変わったかと思うほど暖かく感じた。
赤みを帯びはじめた陽光のなか気持ちよく歩いていると、うっかり行き過ぎてしまい、大回りする形で西山に到着。ふもとには農業研究所や農業大学校などの大きな建屋が並び、その関連と思われる温室や畑が広がっている。正月とあってか人の気配はない。
案内板があったので近づくと西山古墳と記されていた。被葬者などは不詳のようだけど四世紀前半の古墳と想定されるそうである。西山には東西ふたつの頂があり、最高点があるのが東側で、古墳があるのが西側だ。
みつけた歩道で山上を目指していると、東西どちらの峰にも道が通じていたので、まずは西峰に上がってみた。そこは古墳と知っていなければ単なる荒蕪地としか思えないような草木の茂る空間であった。
特に見どころのない西峰は早々と辞して、足を取られて転倒しながら急ぎ足に下り、東峰に登り返していく。訪れる人などなさそうな地味な山だけど、草刈りはしてあるし、擬木で階段が作ってあるし、思いのほか手入れがなされていた。
ふもとから数分ほどで東屋と三角点のある山頂に立った。木々が取り巻いているため眺望はまったくない。平野のなかだけに開けていれ眺めがいいだろうに惜しいと思う。吹き付ける風に木々がざわめき、足下にはどんぐりがたくさん落ちていて、住宅や農地に囲まれた低山にいることを忘れさせるような情緒であった。
登山としては三角点を眺めただけでは物足りないものがあるけど、ありがたいことに手作りの山名板があった。低山でも眺望がなくても山頂にきたという気分に浸れる嬉しい存在だ。
朝から歩き詰めでもう歩きたくないので、こまめに地図を確認しながら、最短距離で六軒駅を目指す。津に向かう近鉄線の駅が10分ほどのところにあるのに、それに背を向けて40分ばかり歩くのだから、紀勢本線の旅とはいえ我ながらアホなことをしていると思う。
茜色をした太陽が山並みに沈むと、景色は蒼暗くなり体感温度は一気に下がり、吹き付けてくる風が心身にこたえる。寒さから逃げるように自ずと足が早くなる。
エピローグ
照明の灯りはじめたホームで16時57分発の亀山行きを待つ。立っていると体が芯まで冷えていくのを感じる。手がかじかんで指先が思うように動かなくなってきた。初日の出を待つ未明の千代崎海岸もかなりのものだったけど、それ以上に厳しいものがある。
暖かな車内が待ち遠しくて毎分のように時計を確認する。発車時刻になるのにヘッドライトの明かりすら見えてこなくて嫌な予感がしていると、踏切の非常ボタンが押されたとかで遅れを告げる案内放送が流れてがっくりする。それだけにようやく近づいてくる列車が見えたときは実に頼もしく映った。
待ちかねていた列車に乗り込むと、明るさと暖かさに気持ちが安らぎ、やれやれという具合に腰を下ろす。寒さから開放されたら途端に空腹が気になりはじめた。
(2018年1月1日)
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