徳島線 全線全駅完乗の旅 1日目(佃〜阿波加茂)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2019年4月1日、四国は徳島県の山間にある阿波池田駅に降り立った。時刻は7時を回ったばかり。雨上がりの空には鈍色の雲が垂れ込め、夜が明けたばかりのように薄暗い。足元はしっとりと濡れていて肌寒かった。

目的地は徳島県を東西に横切る徳島線。四国有数の大河である吉野川に寄り添いながら、中流域の三好市と、河口近くの徳島市とを結んでいる。北側には香川県との県境をなす讃岐山脈が迫り、南側には高知県に向けて広がる四国山地が迫る。吉野川がふたつの山塊を隔てるように作り出した巨大な谷を走る路線だ。

その歴史はとても古く、百年以上も前の1899年(明治32年)に徳島から鴨島まで開業したことに始まる。それを皮切りに吉野川をさかのぼるように少しずつ延伸を繰り返し、1914年(大正3年)に阿波池田まで達した。

両端部分は後から建設された高徳線や土讃線の一部として持っていかれ、今は佃と佐古という、どこにあるか分からないような小駅同士を結んでいる。もっとも列車の方は昔と変わらず徳島や阿波池田を起終点としており、実質的には徳島と阿波池田を結ぶ路線である。

大きな三角屋根が特徴的な阿波池田駅舎。
阿波池田駅舎

まず向かうのは徳島線の起点になっている隣駅の佃。それなら最初から佃で旅を始めれば良いようなものだが、元々はここ阿波池田も徳島線の駅であり、今でも列車の始発駅なので、徳島線の旅はここから始めるのがふさわしいと、あえて阿波池田からの旅立ちとした。

乗車するのは7時53分発の徳島行きで、2両編成の列車が、長いホームの中ほどにちょこんと停車していた。均等に散らばるように座る乗客は、2両全体でも10人程度でしかない。小さな子供が2人乗っていて、ホームには見送る母親の姿があった。

阿波池田駅ホームで発車を待つ、普通列車の徳島行き 444D。
普通 徳島行き 444D

発車するとすぐに市街地を抜け出し、右手から迫る山体に押し出されるように、左手を流れる吉野川に近づいていく。それは国道や高速道路も同じで、線路と道路が土地を奪い合うように交錯する。残るわずかな隙間に田んぼや住宅が詰め込まれ、利用できる土地の少ない山間部であることを感じさせる。駅もまた例外ではなく、ねじ込まれたように窮屈そうな佃駅ホームが車窓に流れ込んできた。

つくだ

  • 所在地 徳島県三好市井川町西井川
  • 開業 1950年(昭和25年)1月10日
  • ホーム 1面2線
路線図(佃)。
佃駅舎。
佃駅舎

土讃線と徳島線の分岐駅という要所であるが、その姿は山すその小さな集落にある小さな無人駅にすぎない。大正時代には徳島線の線路があるだけで駅すらなかったほどの所だ。ところが昭和に入ると新たに建設された土讃線を分岐するため、信号所が設置されたことで状況が変わる。後に信号所から阿波池田方面の線路が土讃線に編入されたり、信号所から駅に昇格するなどが重なり、いつしかこの小駅が徳島線の起点となった。

列車を降りるとホーム上に溢れんばかりの人がいて驚く。学生を中心に大きなスーツケースを手にした外国人の姿まである。ところが列車に乗り込んだのは老人ひとりだけ、どういうことかと思っていると、数分後にやってきた土讃線の琴平行きで全員去っていった。

誰もいなくなった構内を跨線橋の上から眺める。元々が信号所だったせいかホームは線路の間に強引に押しこんだように狭い。駅の先では土讃線と徳島線が左右に分かれ、駅前には無人の駅舎が静かに佇み、駅裏の国道には車が行き交っている。ここに立つのは3年前に土讃線の旅で訪れて以来だが、季節の他はなにも変わっていない。

佃駅ホーム。
佃駅ホーム

跨線橋を降りて駅舎に入るとツバメが忙しく飛び回っていた。巣が見当たらないあたり待合室を狙っているのだろう。閉ざされた窓口のある薄暗い待合室はうら寂しいが、よく見れば壁にはさくら祭りの案内が貼り出され、窓口跡にはスイセンと梅の花が飾られ、頭上からはツバメの声が降り注ぎ、春の気配を漂わせていた。

桜ヶ丘公園

駅裏に迫る綱付山の中腹には、数多くの桜に包まれた桜ヶ丘公園がある。土讃線の旅で当駅に降り立った時に訪ねた思い出の公園だ。その時は秋であったため桜の名所でありながら桜の花とは無縁で、そのせいか人気のない閑散とした寂しい所という印象が残った。以来いつか華やかな春の姿も見てみたいと思っていて、好機到来とばかり再訪することにした。

雨が降りはじめたので傘を開いて出発。近くの踏切から駅裏を通る国道に出て、少し進んだところで公園に向かう脇道に入り、山間を上がっていく。覚えのある道なので迷うことなく快調に足を進めていく。じっとしていると肌寒く感じる冷たい雨だが、歩いている分には暑からず寒からずで丁度良い。

途中に石畳の参道などが気に入った神社があったので、こちらにも再訪しようかと思っていたが、祭りでもあるのか集落総出といった様子で大掃除をしていたので、鳥居の外から眺めるに留めておく。そこから徐々に傾斜を増す道路を上がりきれば桜ヶ丘公園だ。

桜ヶ丘公園。
桜ヶ丘公園

徐々に雨は小降りとなり雲間からは日が差し込みはじめた。これで雨は上がるだろうと安堵していると、それをあざ笑うかのように急速に黒雲が広がりはじめ、ついにはあられが降ってきて面食らう。

桜は全体的に見ると七分咲きくらいだが満開を迎えたものも多く、秋とは打って変わって華やかな景色が広がる。当然ながら桜を目当てに訪れた人たちで賑わっていると思ったのだが、悪天候のせいか月曜日のせいか誰もいない。静寂の中で雨に打たれる桜は、華やかでありながら淋しさを漂わせ、得も言われぬ美しさを醸し出していた。

山肌を覆う桜。
山肌を覆う桜

いくつもの区画に仕切られた大きな東屋に公衆トイレ、稼働することはあるのか空っぽの足湯などが並ぶ一角があり、そこは双眼鏡の設置された展望地でもある。雨に煙るその眺めは、谷とは思えないほど大きな谷間をゆったり流れる吉野川や、次に向かう辻駅周辺の町並みなどが視界に広がる。

桜の名所といえば人混みで思うように鑑賞できないことが間々あるが、ここはシカの鳴き声が聞こえる程度で人に出会うことすらない。おかげで誰に気遣うこともなく、右へ左へ近く遠くと思うままに散策して歩ける。さくら祭りの案内が貼り出されているのを見るに、好天の週末ではこうはいかないと思われ、雨の平日のおかげといえそうだ。

雨に打たれる花びら。
雨に打たれる花びら

しっとり静かな公園を通り抜け、隣接するゴルフ練習場の近くまでくると、ボールを叩く音が聞こえはじめた。そこの駐車場だけは車が何台も並んでいる。花より団子ならぬゴルフという人がこんなに多いのかと思う。

迫る列車時刻に汗を浮かべながら小走りに駅に戻ってくると、ホームにはおばさんや学生らしき若者など数人が立っていた。意外と利用者がある。まもなく阿波池田行きが入線してきて、少し遅れて9時54分発の徳島行きがやってきた。2両編成の車内は日中のローカル線らしく空いていて、わずか数人が座っているだけだった。

佃駅に入線する普通列車の徳島行き 450D。
普通 徳島行き 450D

手近なボックス席に腰を下ろすと列車は動き出す。すぐに土讃線の線路が左に遠ざかり徳島線の線路に入った。いよいよ徳島線の旅の始まりだ。この路線に足を踏み入れるのは初めてのことで自ずと気持ちが高揚する。しかしそれに浸る間もなく辻駅の到着がアナウンスされて慌ただしい。ここは駅間が1.5kmしか離れていない。

つじ

  • 所在地 徳島県三好市井川町御領田
  • 開業 1914年(大正3年)3月25日
  • ホーム 1面2線
路線図(辻)。
辻駅舎。
辻駅舎

吉野川と四国山地の山並みに挟まれた小さな町。古くは刻みたばこで栄えた、うだつの上がる建物が残る歴史ある町。平成の大合併で三好市となるまで存在した旧井川町である。駅はその中心地にほど近い所にある。駅名が井川ではなく辻を名乗っているのは、昭和の大合併で井川町になるまで、この辺りが辻町だったことに由来する。

列車を降りると切符を拝見しますと車掌が走ってきた。一緒に降りた高校生2人は定期券を見せると足早に去っていく。後を追うように跨線橋に上がると、収まりつつあった雨が突如として激しく降りはじめたので傘を開き、去っていく列車を見送った。

構内は島式ホームの交換可能駅で、駅舎とは跨線橋で結ばれている。文字の上では先ほどの佃駅と同じであるが、大正時代に開業しただけあってホームの幅は広くゆったりしていて、軽く倍くらいはありそうに見える。中ほどにある上屋が木造であったり、貨物用だろうか側線の跡が残されていたり、駅としての長い歴史を感じさせる。

辻駅構内。
辻駅を通過する特急列車

駅舎は原型がよく分からないほどに改装されているが、辛うじて姿を留める木柱などから中身は木造駅舎だと思われる。内部はどうなっているかなと待合室に入って驚いた。そこには表に向かう通路があるだけなのだ。壁際にベンチが並べてあるから待合室といえなくもないが、通路にベンチを置いたという表現の方がしっくりくる。

どういうことかは表に出て分かった。かつて存在しただろう事務室から待合室の大半まで店舗スペースとして改装されているのだ。しかし撤退したらしくテナントを募集する文字が寂しく並んでいる。駅も店舗も無人というのが地域の現状を表しているようである。

今宮神社

いつだったか当地にある今宮神社の社殿が、たばこ産業の繁栄を今に伝えるとして、国の登録有形文化財に登録されるという新聞記事を目にした。内容は興味深いもので、たばこの専売制導入により廃業した刻みたばこ業者が、政府から受け取った保証金の一部を寄付するなどして建設費を賄ったという。刻みたばこで栄えたこの地と深く関わりのある社殿が、どのような姿をしているのか見てみたいと思っていて、この機会に訪ねてみることにした。

駅から街へと伸びる細道はかつての街道だろうか沿道には古びた民家が並ぶ。不動様の祀られた祠では、通りかかった老人が手を合わせる姿があった。

旧井川町の中心地に入っていくと、見通しのきかない曲りくねる道路沿いに、ぎっしり建物が詰まっている。旧役場や郵便局があり商店の構えを残す建物も多い。今や営業している店はわずかなものであるが、昔はにぎやかな商店街だったことが偲ばれる。折からの雨で暗く人通りがないこともあり、なんとも寂しい街並みに映った。

辻駅周辺の古びた町並み。
駅周辺の町並み

見えてきた今宮神社の参道は、通りに連なる建物をひとつ抜き取ったような所にあった。両側を建物に挟まれて窮屈そうな石段が、町の背後に迫る高台に向けて伸びている。見上げる先に社殿は見えないが、石段・鳥居・狛犬・瑞垣などが整然と配され、周囲の雑然とした街並みとは対照的な佇まいをしていた。

町並みの中にある今宮神社。
町並みの中にある今宮神社

境内まで上がってくると思ったほど広くはないが、幾本もある大きなクスの木が歴史の長さを誇示しているようだ。街と同じで人の姿は見当たらないが、傍らの谷を流れる清冽な音、ざわざわ揺れる木々の音、寂しさよりも心地よさを覚える。振り返れば家々の瓦屋根が連なり、その向こうには先ほど訪ねた桜ヶ丘公園の桜までが見渡せる。

奥には拝殿と瑞垣に囲まれた本殿が鎮座している。刻みたばこ業者などの寄付で建設されたというと、豊富な財力を背景にした壮大な建物を想像するが、最小限といえるほどこじんまりしていて意外に映る。建てられたのは1915年(大正4年)で、設計者は徳島県立工業学校の福永嘉吉と記されている。派手な装飾もなく簡素な作りであるが、それでいて手は抜いていないという精巧さは、寄木細工を思わせる上品な美しさを漂わせていた。

今宮神社の拝殿。
今宮神社の拝殿

由緒書きに目を通すと、祭神は海上安全や商売繁盛のご利益がある事代主神で、刻みたばこを各地に出荷する商業の町らしい神様である。神社自体は戦国時代から存在したようだが、現在の社殿が建てられたのは1915年(大正4年)で、鳥居もその時に寄進とあり、全体的に大正時代の姿を色濃く残しているようだ。明治時代には境内にあった納屋を校舎として利用していたこともあるそうで、知れば知るほどこの街と密接に関わりのある神社であった。

美濃田の淵

辻の街に沿うように流れる吉野川に、いくつもの奇岩が浮かぶ深い淵がある。古くから吉野川中流域における景勝地として知られ、県の名勝天然記念物にも指定されたその淵は、美濃田の淵と呼ばれている。存在は知ってはいても目にしたことはなく、今宮神社から2〜3kmと近いこともあり足を伸ばしてみることにした。

しとしと降りの本通りに戻ると、食料品店・薬店・酒店・時計店・畳店・旅館、色々な看板とそれを掲げた建物を眺めながら歩く。板張り・土壁・タイル張り、中にはうだつの上がる建物もあり、歴史ある街はただ歩いているだけでも楽しい。

うだつの上がる家。
うだつの上がる家

町外れまでやってくると叩きつけるような激しい雨が襲ってきた。傘を差していても足下から濡れてきてたまらない。そこに救いの神とばかり小さな神社があり、思わず石段を駆け上がると社殿の軒下に逃げ込んだ。

境内には猿田彦神が美しく掘り出された笠付きの立派な庚申塔があり、近くに立つ説明板には「幕末から明治にかけての庚申さんには猿田彦神の文字や像の庚申さんが散見されるが、この像ほど巨大で美しいものはない。辻が刻みたばこで栄えた時代のシンボルでもあったのであろう。」と記されていた。雨の激しさには参ったが、結果的には雨が導いてくれた良い出会いとなった。

猿田彦神の庚申さん。
猿田彦神の庚申塔

小降りになったところで神社を後に、吉野川をひと跨ぎにする美濃田大橋を渡る。地図上では単なる橋でしかないが、いかにも昭和に架けられたという姿の年季の入った吊橋であることに驚かされる。各地にあった吊橋は架け替えられて主塔だけ残された姿が多く、現役というのはそれだけで貴重なものがある。今となっては狭苦しい橋であるが、誇らしげに大橋と名付けられているあたりに当時の存在感が伺える。

走り抜ける車に揺られながら川面を見下ろすと、豊富な水が流れを感じさせないほどゆったり流れている。徳島線の開業以前は多くの船や筏が行き交っていたことは想像に難くない。橋の袂には「辻渡し跡」という石柱が立ち、古くは渡船もあったらしい。

美濃田大橋。
美濃田大橋

美濃田の淵に到着する頃にはすっかり雨は上がっていた。それどころか時々日が差し込むほどで、川沿いに並ぶ満開の桜が鮮やかに映る。周辺には遊歩道やキャンプ場などが整備されているが閑散としていた。岸辺で遊ぶ家族連れと、テントを設営するバイクの男性くらいしか見当たらない。雨模様の平日だからか普段からこうなのか知らないが、人の声より鳥のさえずりの方が目立つ静かな所であった。

淵というだけあって流れの感じられない緑色をした水面を見下ろしながら、それを取り巻く岩から岩へと慎重に乗り移っていく。遠目には歩きやすそうな岩場であったが、いざ歩いてみると足場は悪く、意外と手に汗握るものがあった。対岸には走り去る列車の姿があり、こちらから見えるということは向こうからも見えるはずで、後で車内からも見てみようと思う。

川の中央部という目立つ所にある岩の上には、風化した橋脚と思われる残骸があり、橋を撤去した名残りかなと思ったら建設途中で放棄されたものであった。往来を渡船に頼っていた住民の願いに応え、地元有志により吊橋の人道橋として昭和29年に起工するも、間もなく資金繰りの悪化から工事は中断、後にはこの橋脚と多額の負債が残されたという。知らなければ景勝地に目障りだと思うが、住民の夢の跡かと思うとこれもまた悪くない。

美濃田の淵と残された橋脚

駅に向かう前に美濃田の淵に隣接する吉野川ハイウェイオアシスの食堂に立ち寄り、名前から地元らしさを感じた美濃田そばを注文。出てきたのは刻んだ揚げをたっぷり載せた太めのそばであった。出汁はあっさりしていて鳥取で食べた砂丘そばと似ている。あれは何が砂丘なのかよく分からなかったが、これも何が美濃田なのかよく分からない。太めのそばか揚げが地元名産なのかなと想像しながらすする。

そばを食べたらすっかり汗をかいてしまい、冷たい風に汗冷えしながら駅に戻ってきた。乗車するのは14時38分発の徳島行き。やってきた列車は2両編成で、徳島線では2両が標準なのか目にする列車は一様に2両連ねている。どこへ行くのか2人連れの子どもと乗車、入れ替わりに何人かの高校生が降りていった。

辻駅に入線する普通列車の徳島行き 4460D。
普通 徳島行き 4460D

車内は下校時間なのか高校生で混み合っていた。後ろの車両は回送扱いで締め切られているため混雑に拍車をかけている。せっかく車両があるのに利用できないとは無駄なことだが、四国のワンマン列車は先頭車両しか利用できないのが常である。

幸いにして高校生というのは席が空いていても座らないことが多く、立ち客が出ているのに楽に座ることができた。しかし座った場所が悪かった、吉野川の流れる左側の窓に背を向けているため、車窓からも見えるはずと期待した美濃田の淵が見えない。かといって混み合う車内を動き回るのも迷惑なので、景色を見るでもなくぼんやり揺られていく。

阿波加茂あわかも

  • 所在地 徳島県三好郡東みよし町加茂
  • 開業 1914年(大正3年)3月25日
  • ホーム 1面2線
路線図(阿波加茂)。
阿波加茂駅舎。
阿波加茂駅舎

山々が連なるこの地域では数少ない大きく開けた土地に、田んぼや住宅を中心として商業施設などが広がっている。自治体は加茂村、加茂町、三加茂町、東みよし町と変貌していったが、当駅は常にその代表駅であり、阿波池田を出てから初となる特急停車駅である。

数人の高校生と一緒に降り立つと、ホーム上に太い幹をしたクスの木があり、なぜこんな所にと驚かされる。小さな庭木や花壇はよくあるが、目の前にあるのは山に茂っているようなそれである。これで枝葉を広げていれば、木漏れ日の中で列車を待つような風情あるホームになるところだが、丸坊主にされて幹だけが太い柱のようにして立っている。

見なれた島式ホームの交換可能駅であるが、それを両側から挟み込むように貨物輸送の名残りらしき側線が残る。駅舎側の側線は保線車両が利用してそうな様子だが、駅裏側の側線は錆と雑草に埋もれている。駅裏には木材の加工品が積み上げられた製材所があり、かつてはこれらを積み出すための側線だったのかなと思う。

クスノキがあるホーム。
クスの木が目を引くホーム

激しさを増してきた風雨から避難するように向かった駅舎は、古い木造ながら全体に手が加えられ、ペンションを思わせる瀟洒な姿に改装されていた。その外観にして特急停車駅ということから有人駅を思わせたが、窓口はカーテンで閉ざされ、片隅に置かれた券売機には撤去を予告する貼り紙がしてあった。どこか寂しい空気が漂っているが、清掃は行き届き、ベンチには色とりどりの手作り座布団が並び、無人駅にしては居心地が良い。

かつての事務室は地域の交流スペースのような施設になっていて、ガラス張りのドアから内部に目をやると木製のテーブルや椅子が並んでいる。喫茶店でもできそうな空間は待合室よりさらに居心地が良さそうだが、ドアは閉ざされ人の気配もない。

窓口と出札口。
窓口と出札口

表に出ると小さな個人商店が軒を連ねていて、古き良き昭和の駅前風景といった面持ちが好ましく映る。しかし例によってシャッターやカーテンで閉ざされたものが多く、人通りのなさも相まって、見つめるほどに寂れゆく平成の駅前風景といった面持ちに変わっていった。

加茂の大クス

日本各地に数多ある巨樹だが、国宝級といえる国の特別天然記念物に指定されたものは数えるほどしか存在しない。その顔ぶれには日本一の巨樹として知られる蒲生の大クス、悠久の時を生きてきた縄文杉、美空ひばりが願掛けをした杉の大杉など無類の大木が並ぶ。その中のひとつが当地にある加茂の大クスで、駅のホームにクスが植えてあるのも、これに由来するものだろうことは想像がつく。

地図で大クスまでの大まかな道筋を確認したら出発だ。うまい具合に雨は上がり明るくなってきた。わずかな店舗を残すばかりとなり、人影まばらどころか人影すらない商店街を、往時の姿に思いを巡らしながら通り抜けていく。

やがて国道に行き当たると景色は一変、横断もままならぬほど車が行き交い、沿道に並ぶ大型店には多くの人が出入りする。もはや鉄道と商店街の時代ではないことを否が応にも感じさせる。しかし活気があるといえば聞こえは良いが、代わり映えのしない大型店は眺めていてもつまらないし、騒音と排気ガスを浴びながら歩くのも不快で、早く抜け出そうと自然に足が早くなっていく。

閑散とした駅前通り。
閑散とした駅前通り

加茂の大クスと記された標識に導かれるように進んでいく。いつしか頭に刻んでおいた地図は消えてしまったが、そこはさすが特別天然記念物である、向こうの方から場所を教えてくれるので迷いようがない。

そろそろかなと思っているとそれは突然現れた。広々とした草原のような原っぱの中に巨大な木が悠然と立っている。あまりに大きいので樹林に包まれた小山のようですらある。これだけの木が開けた所にあれば台風や落雷で満身創痍になりそうなものだが、絵に描いたように均整の取れた美しい姿をしている。

加茂の大クス。
加茂の大クス

近くまでくると幹の太さに圧倒される。幹周りは16.72mあるという。そして樹齢はおよそ千年というから平安時代からこの地に息づいてきたのだ。人も木も老いてくると杖なしでは倒れたり折れたりするようになるものだが、幹から分かれて広く伸ばした枝に、それを支える杖はほとんど見られない。損傷の少なさと相まって実に若々しく力強い。飽きることなく眺められる木というのは、こういう木のことを言うのだろう。

均整の取れた美しい姿。
均整の取れた美しい姿

大きな木をさらに大きく感じようと、草地に寝転がるようにして見上げていると、背後で車が停まる音がした。ドアを閉める音に続いて足音が近づいてくる。行き倒れか不審者でもいると様子を見に来たかと立ち上がると、軽トラと気の良さそうなおじさんの姿があった。

「どこから来たね」目が合うと同時に気さくに話しかけてきた。「これだけ大きな木で、これだけ形の良いものは、ちょっと他にはないと思うんや」木を見上げながら誇らしげに語りはじめたおじさんは、近年の保存維持に関する苦労話や、子供の頃に登って遊んだ話など、次々とこの巨樹にまつわる興味深い話を聞かせてくれる。その熱い語り口から自慢の木であることがひしひしと伝わってくる。

話が一段落すると「家が近ければお茶でも飲んでいってもらうんやが」と言いながら車に乗りこむと、風のように去っていった。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

せっかくの特急停車駅なのだから特急で帰ろうと思い立ち、足早に駅に戻り時刻表を確認すると、タイミングの悪いことに出たばかりで次は2時間以上も先だった。普通列車なら間もなくやってくる上に、どちらにしても20分とかからない乗車時間の短さとあって、迷うまでもなくこちらを利用することにした。徳島線の旅は始まったばかりなのだ、そのうち特急を利用する機会もあるだろう。

ここにきて雨雲は去り、眩しい西日を浴びながら現れた16時27分発の阿波池田行きに乗りこむ。学生で混み合いはじめる頃かなと思ったが、高校のある方に向かう列車だからか空いていて、ゆったりとボックス席を専有することができた。

阿波加茂駅に入線する、普通列車の阿波池田行き 455D。
普通 阿波池田行き 455D

車窓からは美濃田の淵が見えるはずだが、往路は混雑でそれどころではなかったので、今度こそはと徐々に近づいてくる吉野川を見つめる。しかし線路沿いに茂る木々が視界を遮り、岩場や周囲の桜がちらりと見えたかと思ったらもう通り過ぎていた。拍子抜けしているとあっという間に阿波池田に到着、徳島線の旅の初日を終えた。

(2019年4月1日)

阿波加茂から佐古までの区間は公開未定。

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