目次
プロローグ
2016年10月20日、午前6時少し前の高松駅へとやってきた。夏場であればもう駅舎のガラスには朝焼けが反射しているのだが、10月ともなるとまだ薄暗く肌寒さすら感じる。
今日最初に向かうのは前回到達駅である琴平の隣、塩入という駅だ。特急列車の停車しない小さな駅なので、ひとつ手前の琴平まで特急を利用して、そこで普通列車に乗り換えることにした。
まず乗車するのは特急「しまんと1号」中村行き。時計を見ると発車まで5分ほどしかなく慌ただしい。急いで乗車券と特急券を購入すると、四国ではここ高松と高知の2駅にしかないという、自動改札機を抜けてホームへと向かった。
9番線まである広い構内に人の姿はまばらで、私だけが慌ただしく動き回っているよう。6番線に停車する3両編成の列車に乗り込むと、車内の方も片手で数えるほどの乗客しか見当たらず早朝とあってはこんなものか。
車両中ほどの席に腰を下ろし、ようやくひと息つくと程なくして発車する。前の座席下にスペースがないのであまり足は伸ばせないが座り心地はよく、リクライニングさせると快適で眠くなってくる。
坂出・丸亀・多度津とこまめに停車していき、そのたびに少しずつ乗客が増えていく。もっともガラ空きであるという点では何も変わりないが…。
多度津を出ると予讃線と別れ、ようやく目的の土讃線に足を踏み入れる。ここから琴平までは僅か10分ほどなので、そろそろ降りる準備をと考えていると車掌がやってきた。検札は済んでいるし何の用だろうと思ったら、この時間の琴平駅は無人なので先回り切符を回収するそうである。
琴平駅には駅舎に接した2番線に到着。夏をはさみ半年ぶりに降り立った琴平駅ホームは、朝らしく通勤通学客で賑わっていた。
ここで阿波池田行きの普通列車に乗り換えとなるのだが、まだ20分ばかり時間があり列車の姿はどこにもない。とりあえずホームに並ぶコインロッカーに不要な荷物を詰め込むが、あとは手持ち無沙汰となってしまう。
大正時代の洋風建築が気に入っている駅舎でも見てくるかと、言われたとおり無人の改札を抜けると何かおかしい。待合室がひどく狭苦しい上に、窓口や駅舎に同居するコンビニの位置まで変わっているではないか。
戸惑いつつも駅前に出ると原因が判明。おなじみの琴平駅舎は工事中で、今は仮駅舎で営業中なのだった。まさかの建て替えかと思ったが、耐震補強に加え開業当時の姿への復元工事中ということだった。
いちおう本来の駅舎前まで行ってみるが、青い工事用ネットに囲まれて輪郭しか見えない。いつもは観光客や車で賑わっている駅前通りに目をやると、歩行者はおろか車の姿もなく、こんぴらさんの玄関口といえど早朝とあってはこんなものか。
ホームに戻る途中で待合室のコンビニに目がとまり、朝食でも買っていこうか一瞬迷ったが、旅でコンビニはつまらないよなと素通り。しかし結果的にこの判断が間違いだったわけだが…。
まもなく1両だけの普通列車がゆっくりと入線してくる。この列車は阿波池田からやってきた当駅止まりの列車で、折り返しの阿波池田行き4223Dとなる。車内には学生の姿が目立ち、その下車が終わると入れ替わりに乗り込んだ。
この列車は6時58分発と、ずいぶん遅いながら普通列車としては始発で、しかもこれを逃すと次は9時6分までない。これは朝の利用者が集中して混雑するかと思いきや、わずか1両の車内は拍子抜けするほどに空いていた。
こんな時間が始発なのは単に需要がないからだと納得する光景で、すぐとなりの高松行きが混雑しているのとは対照的である。
琴平を出発するとすぐに街並みは途切れ、小高い山と田畑が広がるという、のどかな景色の中を快調に走っていく。
塩入
- 所在地 香川県仲多度郡まんのう町帆山
- 開業 1923年(大正12年)5月21日
- ホーム 2面2線
高松から1時間ほどかけて午前7時5分、ようやく最初の目的地である塩入に到着した。周辺には田畑や住宅が点在するが、朝もやに包まれてひっそりしており、早朝の田舎町らしい景色が広がる。やはりというか当然というか乗降客は私だけだった。
跨線橋に上がって構内を見まわすと、木造駅舎や古びたホームが歴史を感じさせる。ホームは中央1両分だけ新しい舗装で点字ブロックまであるが、その両側には古びた舗装が続き、端までいくと舗装すらされていない。時代とともに列車が短くなっていくのを物語っているようで面白い。
誰もいないと思いきや、忙しく掃除をするおっちゃんの姿を見かける。仕事なのかボランティアなのか、はたまた単なる趣味なのかよくわからないが、しばらくして姿が見えなくなった。
駅舎は改装こそされているが、その造形から古い木造駅舎であることは一目瞭然である。気になるのは内部で、跨線橋を下りて待合室に入ると、こちらも改装されてこざっぱりしていた。
待合室に何か面白いものでもないかと少し期待したが、壁際にベンチが置いてある以外は何もなく、かつての窓口跡もカーテンが引かれるを通り越して、完全に塞がれている。ベンチがあるだけの小部屋といった感じである。
駅前に出ると、今どき珍しく舗装すらされていない場所が多く、すぐ向かい側には畑があったりと、あまり駅前らしい発展や賑わいは感じられない。朝もやと静寂の中で全体的に寂しい雰囲気のする駅だ。
そんな駅前であるが、なぜこんな所にと思うような大きな銅像があったり、案内板が2つ並んで建っていたりと、何か面白いものに出会えそうな期待も感じさせる。
まずはいったい何があるのか案内板に向かう。新しい方(といっても古そう)は公共施設の案内といった感じで、旅にはあまり役立ちそうにない。町名や施設名の変更でか、あちこちシールで修正が施され、そのシール上の文字も消えていたりと、なんとも哀れな状態である。
その隣にあるのが、四国の旅ではよく目にする「四国のみち」案内板だ。これは小さな見所まで細かく載っている上に、徒歩前提の地図なので非常に役立つ存在で、これがあるとないとではえらい違いだ。
どうするかなと考えていると、マイクロバスがやってきて駅前に停車し、ドアを開けたままエンジンが止まった。意外にも路線バスが接続しているんだと思いきや、車体には自動車教習所の文字が…。
満濃池
次の列車まで2時間もあるので、3kmほど離れた場所にある、日本最大のため池という満濃池に向かう。周辺には香川の保存木が沢山あるので、そちらを巡っても面白そうなのだが、場所が分散しすぎて、ひと通り回ると半日くらいかかりそうなので止めておく。
駅から満濃池までは距離こそあれど、近くを走る県道をひたすら道なりに進むだけなので、迷う心配はなさそうだ。さっそく駅を出発すると小学校の登校時間にあたったらしく、ここまでの様子からは意外なほどに大勢の小学生が歩いていて賑わしい。
寂しい場所に思えたが急に華やいだ雰囲気に変わり、人の気配があるかどうかで町の印象というのは大きく変わってくる。
駅周辺にある住宅や小さな商店の混在するところを抜けると、いよいよ田畑が主体の景色に変わってくる。
満濃池までは県道を歩くのが手っ取り早いが、歩道もない上に交通量もあっていまいち楽しくない。そこでちょっと目にとまった、稲刈りを終えた田んぼの中を伸びる、細い道路へと足を向ける。多少遠回りになろうとも、人も車も通らない静寂の中を歩くほうが好きだ。
思った通りに歩きやすい田んぼ道は、ゆるやかな下り坂になっており足取りも軽い。景色としてはヒンヤリ感があるのだが、思ったより気温が高いのか、目的地まで遠いのでつい早歩きになるからか、徐々にじっとり汗ばんでくる。
このまま先へ進みたいところだが、満濃池からは遠ざかっていく感じがするので、ほどほどのところで元の県道に戻る。こちらは山沿いを地形なりに右へ左へとカーブしており見通しがよくない、加えて平日とあってか工事中で片側交互通行をしていたりと相変わらず歩きにくい。
右手には水のない大きな池があり、水底をむき出しにした荒々しい景色が広がっている。満濃池に隣接する新池のようだが、なぜこんなに水がないのかと近くにあった工事用の看板を見ると、改修工事で水を抜いているそうである。
その新池が満濃池と接する付近を横断するように、2車線歩道付きで並木まで整備された道路が現れる。そちらに進むと満濃池森林公園があるようだ。このあたりからこちらの県道にも、歩道や満濃池まであと何キロといった標識が現れ、観光色が出てくる。
途中で山中へと分け入っていく小道があり、その道沿いにはズラリとお地蔵様が並んでいた。いったいどういう所なのか興味を引かれるが、説明もないのでそのまま先へと進むと、すぐ近くに現れた神野寺の境内へと続いていた。駅前の四国のみち案内板には、神野寺近くにミニ八十八ヶ所という表記があり、きっとこれがそうなのだろう。
神野寺の前までやってくると、緩やかに弧を描く満濃池の大きな堤に、およそ池という言葉から想像される規模ではない、広々とした鏡のような水面が広がっていた。広いのも当然で周囲は約20km、水量は東京ドーム12杯分もあるそうだ。
神野寺は四国別格二十霊場の第十七番札所ということで、こうしている間にも続々と白装束に身を包んだ中高年の団体がやってくる。
せっかくだから神野寺にも立ち寄りたいところだが、目の前ではタイミングよく立ち込めていた朝もやが晴れてきて、そこへ雲の切れ間から顔を出した太陽の光が差し込むという、実に神々しい光景が展開されており、吸い寄せられるように堤の上へと足を進める。
広い堤上は駐車場も兼ねており数台の乗用車の姿も見られるが、神野寺と違いほとんど人の気配はなく静かだ。おかげでひとり満濃池の美しい姿を堪能することができた。
周辺には石碑や標柱があれこれと立ち並び、その中にあった満濃池の略史が刻まれた石碑を見ると、およそ1300年前に作られてから延々と決壊と復旧、そしてかさ上げ工事が繰り返されてきた事がわかる。
神野寺から堤上を通り谷を越え、対岸までやってくると、少し高台に満濃池の守護神という
参拝しようと石段を上がっていくと、上がりきった所に満濃池を見下ろすようにして、年季の入った小さな鳥居が立っていた。これが文明二年(1470年)建造という歴史ある鳥居で、その上には参拝者が投げ上げていくのだろうか、小石がたくさん乗っている。
この神社は満濃池のかさ上げに伴い遷座しているそうだが、その際に鳥居も移築しているのか、鳥居だけが周囲の構造物に比べて小柄かつ歴史を感じさせる風合いをしている。
鳥居の奥にはこざっぱりとした境内が広がり、最近建て替えたと思われる新しい拝殿が建っている。神野寺とは対照的にまったく人の気配がなく、落ち着いた雰囲気の場所だ。
参拝を済ませるとそろそろ時間が気になり始める。まだ1時間あるから余裕といえば余裕なのだが、駅まで3キロ以上ある事を考えて早めに満濃池を後にした。
再び神野寺の前を通ると、こちらは相変わらず白装束姿の中高年で賑わっている。先ほどは満濃池に気を取られて通り過ぎてしまったが、来たからには立ち寄っておくべきだろう。そこでまずは山門に向かおうと奥へ進んでいくと、山門はないらしくそのまま本堂前に出てしまった。
時間が押しているので本堂から高台にある空海の像までを、足早にひと通りまわったところで駅に向かう。行きがけに目にしたミニ八十八ヶ所も気になる存在だが、このあたりの土讃線は普通列車の本数が少なく、乗り遅れると2〜3時間待たされてしまうので立ち寄ってはいられない。しかし急ぎすぎたか駅に到着すると列車まで30分近くもあった。
なにもない待合室で座っていても退屈なので、駅前でひときわ存在感を放っている謎の銅像を見に行く。大きな台座には益田穣三と名前が彫られているが、それ以上は特に説明があるわけでなく謎の人物のままである。駅前の案内板からも無視された存在で、これこそ説明板のひとつでも建てておいてほしいものだと思う。
駅の跨線橋にあがり琴平行きの列車を眺めていると、駅裏に寺と思われる建物があることに気がついた。行ってみると駅裏の小路に面して、土壁の崩れかかった小さな本堂と鐘楼が並んで建っていた。本堂には消えかかった文字で正円寺と記された大きな表札が掲げられていた。
こんな狭い道路に面していきなり本堂とは面白いような不思議なような。実は他の場所に山門などあったりするのだろうかと思っていると、タイミングよく自転車に乗ったおばさんが現れた。すかさず声をかけると怪訝な顔をされたが、尋ねると山門などはないそうである。
ようやくやってきた阿波池田行きに乗り込む。さきほど乗ったのと同じ車両で、私が満濃池に行っている間に阿波池田まで行き、そこから琴平に向かって、再び阿波池田行きとしてやってきたのだ。乗降客は私だけだった。
車内は数少ないボックス席にポツポツと人の姿が見受けられる程度で、がら空きといってもいい状況だ。きっと朝晩の通学時間を除くと1日中こんな感じなのだろう。
さてこの先の予定だが、当初は黒川、讃岐財田、坪尻、箸蔵と順番に下車していこうと思ったのだが、そうすると箸蔵に16時55分着と日没が17時半のこの季節にしては遅すぎる。ならばひとつ手前の坪尻までにしようかと思ったが、坪尻には普通列車ですら通過する列車があるものだから、なんと19時25分まで琴平に帰る列車がないのである。仕方ないのでさらに手前の讃岐財田までにしようと思うと、今度は12時18分着と最後の駅にしては時間が早すぎる…。
どうにもうまくいかず迷った結果、上下列車を組み合わせることにして、まずはここで2駅先の讃岐財田に向かうことにした。その後は上り列車で黒川に戻り、再び下り列車に乗って坪尻、箸蔵と進んでいく予定だ。これならば各駅でほどよい時間を確保しつつも、最後の箸蔵には14時59分に降り立つことができる。
讃岐財田
- 所在地 香川県三豊市財田町財田上
- 開業 1923年(大正12年)5月21日
- ホーム 2面3線
列車は駅舎とは反対側にある2番線に到着した。小さな駅にしては珍しく3番線まであり、さらに珍しいことに跨線橋がなく構内踏切のある駅だ。緩やかにカーブしたホームの中央部分は舗装もされておらず、植木が並ぶ様子に昔日の雰囲気を残している。
まずは駅舎に行こうと思うが、停車した列車のすぐ前が構内踏切のため、当然ながら遮断器が降りて警報音が鳴り響き渡れない。これは早く出発してもらわないと、ホームに閉じ込められた状態である。
ところが間の悪いことに特急列車と行き違いのため、しばらく停車するときた。これは参ったなぁと思っていると、間もなく警報が止み遮断器が上がった。助かったとばかりに素早く列車の前を横切り、駅舎側の1番ホームに移動した。
せっかくなので駅舎の前で特急列車を待ち、車体を大きく傾けて勢いよく通過する様子を眺めてから駅舎に入る。小さな木造駅舎は四国ではおなじみの改装が施されており、予想通りカーテンの降ろされた窓口に、窓際にベンチがあるだけというガラーンとした待合室であった。
見まわすと壁に表彰状が掲げられているのが目に留まる。駅で表彰状とはいったい何だろうかと近づいてみると、駅施設の環境美化に対する奉仕活動に対して、国土交通大臣からタブノキ会に対して贈られたものであった。詳しい事はわからないが、駅の清掃活動などを長年やっている会があるのだろう。
駅前に出ると出入口のすぐ脇に驚くほど大きな巨木が立っており、駅舎に覆いかぶさるように枝を広げている。駅に隣接してこれだけ大きな木がある所も滅多にないだろう。
説明板によると樹齢700年ともいわれるタブノキで、かつては祠があり御神木とされていたというのも頷ける存在感である。駅舎建設の際には切り倒すことになったそうだが、工事関係者に事故が相次いだことから、村人が祟りだと騒ぎはじめた結果、このような形で残されることになったそうである。
太い幹の周りは丸く鉄柵で囲われており、どこか動物園のオリを連想させる。その丸い柵に沿うようにして、同じようにカーブしたベンチが設置されていて、随分と年季が入った物だからだろうか、どこか懐かしさを感じさせる。
きっと昔はこの鉄柵があるだけだったのだろうが、今ではさらに外側に新しく柵ができ、石造りの椅子やテーブルまで設置されている。周囲には新しいものから古いものまで、様々な案内板や標柱などが並び、切り倒さなかったおかげで今ではちょっとした観光地の様相である。
タブノキを眺めていると時々車がやってきては、トイレに立ち寄りまた去っていく。なんだか鉄道利用者よりトイレ利用者の方が目立っている。そんなに良いトイレがあるのかと思いきや、そういう訳でもなかった…。
宝光寺
周辺はすっかり平地も少なくなり、山々に囲まれた緩やかな傾斜地に住宅や農地が点在する、農村らしい景色が広がっている。駅前にはかつては小さな商店があった気配もあるが、今は住宅がいくつかある程度だ。ちょうど軒先の花を手入れする住人の姿があったので、近くに何かないか尋ねようかと思っていると家の中に入ってしまった…。
そんな駅前の一角には「四国のみち」案内板に加え、あまり使われてなさそうだが木製のベンチやテーブルも設置されている。見ると付近には県境を越えて箸蔵寺へと至る箸蔵街道や、轟の滝といったものもあり、意外と1日ぶらぶらしても楽しめそうな場所だ。
とはいえ今から向かうには少し遠いので、付近を散策することにして、駅前を伸びる道路を下っていく。道端にはススキや黄色い花が鮮やかなセイタカアワダチソウが生い茂り、風に揺れる様子が秋を感じさせる。
道路の先には寺の本堂と思われる大きな屋根が見えているのだが、その近くにある周囲から少し盛り上がった小高い場所にも、同じような大きな屋根が見えている。しかも隣接して塔まである随分と規模の大きそうな寺で、自然とそちらへ足が向かう。
見えてきたのは宝光寺という真宗興正派の寺であった。入口付近には大きな駐車場が整備されているが車の姿はなく、奥には高台にある宝光寺へ向けて石段が伸びているのが見える。
これは良い雰囲気の所へきたと上がりはじめるが、至るところにジョロウグモの大きなクモの巣があり行く手を阻まれる。壊すのも気が引けるので隙間をアクロバティックにくぐり抜けつつ進む。出入口にしてこの人の通った気配のなさは何だろうかと思う。
やや不思議に思いつつも石段を上がりきると、目の前には大きな山門が現れる。その周囲には何台もの車が止まっており、どうりで下の駐車場や石段が閑散としている訳である。何をしているのか車の近くでブラブラしている女性の姿に加えて、寺の飼い猫なのか首輪をした白っぽい猫が歩きまわっている。かわいいので近づくも触れそうな距離まで近づくと、その度にサッと距離を空けられてしまう。
山門を抜けて境内に入ると庭が広がり、その背後には本堂と三重塔が並んで建っている。ゆっくり回りたい所ではあるが、どうやら工事中らしく本堂の前では大工さんが中休み中で、その前を歩き回るのは気が引ける。
まあ本堂までは来たことだし、これ以上は行く所もなかろうと、他の場所に向かおうと考えていると、ちょうど住職が通りかかり「裏手にも庭がありますよ」と案内される。せっかくなので本堂と三重塔の間を通り抜け、本堂の裏手へと回ると、そこには緑あふれる庭園が広がっていた。
池を中心にして、趣のある苔むした石畳や木橋が伸びており、その通路をたどり一周できる、いわゆる池泉回遊式庭園となっている。私ひとりだけの貸切りということもあり、静かに水の流れる音だけが響く中をゆっくり散策して歩く。
紅葉の季節に来れば美しそうな場所だが、頭上から足元まで緑で覆われているところへ、木々の葉を通り抜けた淡い光が回り込み、その一面に緑がかった世界がこれはこれで美しい。
と、ここまでは良かったのだが、油断しているとクモの巣が顔にくっついてきたり、最近の季節外れの暖かさに水辺とあってか、蚊に刺される始末である。あまり人が居ないのも良い事ばかりではない…。
何気なく立ち寄った寺で偶然住職が通りかかったことから、このような庭園に出会うという意外な展開に満足して駅へと戻った。
次はさきほど飛ばした黒川駅に向かうため、琴平行きの普通列車4230Dを待つ。まもなくやってきた1両の列車はまたまた同じ車両で、特急列車の通過待ちのため3番線に入線した。車内に入ると相変わらず空いており、途中駅から乗っても確実に座れるのはありがたいが、先行きが心配になる利用者の少なさである。
特急が通過するまで5分ほど待つことになり、先を急ぐ人にはイライラする時間だろうが、忙しく乗ったり降りたりを繰り返す旅ではむしろ嬉しい時間だ。発車すると待ち時間より短いわずか3分で黒川に到着した。
黒川
- 所在地 香川県仲多度郡まんのう町新目
- 開業 1961年(昭和36年)10月1日
- ホーム 1面1線
小高い築堤上にある黒川駅に到着すると、珍しいことに私の他にも下車する人がいた。見るからに地元のおっちゃんだが、この辺りでも特に利用者が少なそうな駅だけに少し意外である。
このおっちゃんが曲者で、ズボンから財布を取り出しつつ財田からいくらかと運転士に尋ねている。あそこで乗ったのは私だけだったので「えっ?」と思うが、運転士も同じような反応なので話が噛み合わない。早く運賃を教えないから運転士に向かって「あんたもわからん人やねえ」と呆れ気味に言い出したところで、ああ乗ったのは箸蔵からだったときた。
そんなやり取りが続き一向に下車できないので、横から運賃を手渡し列車を降りる。
狭く年季の入ったホームが一面あるだけ、という小さな駅で、ここまでの土讃線の旅では初めて駅舎のない駅だ。その立地も幅のある谷間を横断するための築堤上にあり、いかにも後から駅を設置しましたという雰囲気を漂わせている。調べてみればやはり昭和36年の開業と、両隣の駅が大正時代の開業であるのに比べて随分と新しい。
とはいえ50年以上は経過している訳で、開業時のままと思われるホームの舗装はボロボロ、黄色い塗装の残る鉄製の柵も錆びついている。中央部分だけは最近になり1両分だけ嵩上げされたようで、ここだけ新しい舗装に点字ブロックまで設置され、趣を異にしている。
ここは南北方向に伸びる土讃線と、東西方向に伸びる財田川が交差する地点で、遮るもののない築堤上のホームからは、川沿いに広がる平地に、田畑や住宅が点在する様子がよく見える。
ようやく支払いが終わったらしく、先ほどのおっちゃんが列車から降りてきて、この駅の出口はどこなのかと聞いてきた。教えてあげるとすぐに消えてしまい、同時に列車も去りホームはすっかり静かになった。それにしてもあのおっちゃん、手ぶらな上に初めて来たから出口がわからないと言っていたが、いったい何者なのか興味深い。
ホーム上には板張りのベンチと、それを覆う小さな屋根がある程度なのだが、そのベンチの上にくたびれたプラスチック製のケースが置いてあり、開けてみると意外なことに駅ノートが入っていた。特に何がある訳ではないが、周辺の駅とはちょっと毛色が違うだけあってか訪れる人が居るようで、それなりに書き込みがある。
しかし、せっかくのノートだが、雨に濡れてベコベコに波打っていたり文字が滲んでいたりと状態は良くない。そのためのケースなのだろうが、ケース自体がすでにボロボロになっており、直射日光に風雨にと何かを置いておくには過酷な場所だ。
駅ノートをパラパラめくりつつ、ふと顔をあげると先ほどのおっちゃんが戻ってきているではないか。近づいてきたので今度は何かと思ったら、駅の時刻表を探しているそうで、下になかったから戻ってきたようだ。ホームにある事を教えてあげると納得して去っていった。
私もこれ以上駅に居てもやることはないので、おっちゃんの後を追うようにしてホームを後にする。ホームの端からは築堤下の道路に向けて、レールや枕木を組み合わせて作られた階段が伸びているのだが、これが半分崩れかかったような状態で、重力に負けて全体にかたがっている上に枕木も腐ってボロボロと、まあ歩きにくく危なっかしい階段である。とはいえこのくたびれた感じがまた魅力的なのだが。
階段を下りた所には、駅に不釣り合いな程に大きな自転車置き場があり、ざっと40台くらいは置けそうなのに、わずか数台の自転車が点在するだけである。平日でこの状況は寂しい限りだが、これだけ大きく作ったくらいだから、かつては通勤通学客でにぎわっていたのだろう。
ずいぶん昔の話になるが、この辺りで夕闇迫る中を走る普通列車を見かけた事があり、それは今と違い3両くらいの編成であったことを思い出す。前後の出来事はまったく記憶にないのに、そのシーンだけはなぜだか印象に残っている。
これからどこへ向かうかだが、朝から何も食べていない上に昼も近いので、飲食店でもないかと思うものの、元々駅がなかった場所だけの事はあり、あたりを見まわしてもまったく期待できそうにない。次の坪尻駅には飲食店どころか自販機すらない事を知っているので、今更ながら今朝の琴平駅でコンビニに立ち寄らなかった事が悔やまれる。
とりあえず近くを走る県道に出てみようと、駅前にある土壁の崩れかかった蔵を横目に歩きはじめる。線路伝いに少し進めばもう土讃線と交差する県道なのだが、ここから先は右折して西へ向かうか、左折して東へ向かうかという悩ましい二択となる。
この駅は観光とは無縁らしく案内板の類いはまったくないが、塩入や讃岐財田の駅前にあった「四国のみち」案内板はこのあたりもカバーしており、東に進めば社叢が見事という鷲尾神社がある。問題は逆の西側に行った方が国道が走り、食料が手に入りやすそうという点である。
道路の先を見つめつつ少し迷ったが、次の列車まで1時間ほどしかない事を考えると、有るか無いかわからない食料探しをするよりも、確実に存在する鷲尾神社に向かう方が正解という結論に至る。
鷲尾神社
ホームは線路の西側にあるが神社は東側なので、まずは財田川と県道をまとめて跨ぐ土讃線の鉄橋下をくぐり東側に出る。あとはひたすら県道を道なりに進めばよいのだが、歩道がない上にときどき大型車が脇を走り抜けるものだから居心地わるく、並行する近所の人しか利用しなさそうな名も無き道を通っていく。
晴れたり曇ったりハッキリしない天気だが、気温はぐんぐん上昇しており、足早に歩いているとあっという間に汗が噴き出してくる。天気予報によると今日は26℃まで上がるそうで、とても11月が近いとは思えない。
駅から10分ほど歩いたところで、県道脇に建つ鷲尾神社の鳥居が見えてくる。拝殿は山を少し上った高台にあるので、鳥居から山裾の石段へと向けて、石灯籠や狛犬の並ぶ参道が100メートルほど続く。その道沿いには裸電球のある古びた建物もあり、この昭和レトロな雰囲気がたまらない。
石段のたもとまでやってきて見上げると、両脇に広がる高い石垣や大きな木に加え、上がりきったところには木造の門が見えている。このちょっと意外な門の存在にどんな所なのか期待が膨らむ。石段には最近よく見かけるステンレス製の手すりが設けられていたが、幸いにして目立たないので雰囲気が壊されることもない。この手すりがやたらと存在感を放ち、全体の雰囲気を壊している神社も多いのだ。
門まで石段を上がってきて後ろを振り返ると、鳥居から真っすぐに伸びる参道と周囲の様子が視界に広がる。ちょうど日が差し込んできて暖かみを感じさせるその光景は、初めて見るのにどこか懐かしく感じる。
そんな門の脇にあるベンチの上にはビールの空き缶が転がっていて、こういう人気のない所に空き缶があると色々想像を掻き立てられる。
拝殿はさらに一段高い場所にあり、飾り気のない入母屋造りが落ち着いた印象を受ける。一帯を含めて近代的な物があまり見当たらないからだろうか、鳥居から拝殿へと続く一連の佇まいがとても素敵で居心地の良い神社だった。
次の列車まであまり時間がないので再び足早に駅へと戻るが、途中に円宗寺という浄土真宗の寺があり、駐車場と真っ白な塀に囲まれた中に、これまた立派な庫裡や本堂が見えており、鐘楼が見えていなかったら豪邸と勘違いしそうである。
行きがけに見かけて気になっていたので、時間はないがせっかく来たのだからと立ち寄ってみるも、鷲尾神社とは対照的ともいえる雰囲気がどうも落ちつかず早々と退散することに。
ホームの築堤下まで戻ってくると、さっきのおっちゃん居るのかな? と思いつつ、歩きにくい階段を上がっていくと人の姿はなかった。次の列車は阿波池田行きの普通列車4233Dで、やってきたのは朝から4回目となる車両だ。車内は各ボックス席に誰かしら居る感じで、まあ多少はマシな乗車率といったところか。
次はテレビや雑誌にもよく登場する、秘境駅として有名な坪尻に向かう。先ほど降り立った讃岐財田を過ぎると、琴平から続いてきた山間の農村といった穏やかな景色は終わりを告げ、香川・徳島の県境にそびえる讃岐山脈が迫ってくる。
まもなく突入するのが全長4キロ近い猪ノ鼻トンネルで、昭和4年の開業当時は日本で2番目に長いトンネルだったというから、険しい地形であることが想像される。長いトンネルを抜けるとそこはもう徳島県だ。
まもなく車窓右手に目的の坪尻駅が横切る。ここはスイッチバック駅なので一旦駅を通り過ぎてから停車し、進行方向を変えて駅へと進入する。平日ということもあり遊び目的でしか来る人のいないような秘境駅は誰もいない、そう思っていたが予想に反してホーム上には数人の人影があった。
坪尻
- 所在地 徳島県三好市池田町西山
- 開業 1950年(昭和25年)1月10日
- ホーム 1面1線
坪尻は周囲を山に囲まれた深い谷底にある駅で、秘境駅として知られているだけの事はあり、車内からスマホで撮影する女性の姿に加え、私以外にも下車する人が居た。秘境駅の方がここまで下車してきたどの駅より、遥かににぎわっているのだから何ともおかしな状況だ。
列車を降りると舗装のされていないホームに枕木を使った柵が並び、奥にはペンキすら塗られていない板張りそのままの木造駅舎と、よく写真で見かける昭和の田舎駅といった佇まいがそのまま残っている。元々はこんな場所ゆえに手付かずで残っていたのだろうが、柵など最近整備された物もあり、今では意図的にこの雰囲気を残そうとしているようだ。
まもなく岡山行きの特急が勢いよく通過していき、乗ってきた普通列車も阿波池田へと向けて去っていった。これで山間の小駅はひっそりと静まり返るのが普通だが、ここでは駅舎の内外に人の姿や話し声があり、すっかり観光地と化している。
まずは駅舎に向かうと無人駅にしては珍しく、正面側と改札側の双方に引戸が付いている。害虫が入るので閉めておくように注意書きのされた戸を開けて待合室に入ると、定期的に掃除もなされているらしく、思いの外きれいな状態が維持されていた。
待合室には年季の入った木製のベンチが置かれており、しっかり戸があり周囲に人家がないことから寝泊まりしても快適そうな所である。壁面には坪尻駅や秘境駅に関する種々雑多な印刷物や新聞の切り抜きが所狭しと貼られていて、読んでいるといっこうに駅舎から出られなくなりそうだ。
四国の駅はどこへ行ってもゴミ箱が置いてあり、先ほどの黒川駅にもあったのだが、ここもその例外ではなくしっかりと設置されていて印象がよい。しかしゴミを回収する方は大変そうな場所である。駅舎には汲み取り式なのだろうトイレが併設されているが、さすがにこちらは使用中止になっていた。
片隅に置いてある小さな棚には、駅ノートやスタンプといった定番の品が設置されていて、過去の駅ノートが大量に並ぶあたり訪れる人の多さを物語っている。
表側の戸を開けて駅前に出ると、当然ながらどこを見ても山があるだけで、家など生活感のある物は何も見当たらない。せいぜい遠くから国道を走る車の音が聞こえてくる程度である。谷底という立地ではあるが時間帯がちょうど良く、駅舎には日が差し込んできていて、駅前に新しい砕石が敷き詰められているせいだろうか、全体に明るい雰囲気で秘境感を感じない。
周囲には坪尻駅還暦記念というモミの木や、なぜこんな場所にと思うような、アメリカオレゴン州の訪問団による桜の木など、植樹された木が並ぶ。加えてしつこい位に「マムシ注意」の看板が立っていて、マムシ被害でも多発しているのだろうか? こんな所で噛まれたら病院に行く手立てもなく割りと絶望的な気分になりそう…。
この駅には20年以上前に訪れた事があり、当時の記憶は曖昧になりつつあるが、もっと人気がなくて草木に覆われた鬱蒼とした場所、そんな印象が残っていた。それが今回訪れてみると全体にこざっぱりしているというか、何だか明るい雰囲気でイメージが変わった。
駅前を散策していると国道から下りてきたらしい、杖をついた2人連れが新たにやってきた。ほんとに入れ替わり立ち替わり、人が現れては消えていく場所で、若い女性の姿もよく見かける。
次の列車まではたっぷり2時間以上あるので、駅から続く山道を歩いてみる事にする。かつては1日100人ほどの利用者が居たこともあるそうで、彼らがどんな道を使ってここまでやってきたのかも興味がある。
駅舎を出ると車道こそないものの、左右方向に細々とした山道が伸びており、右に行けば駅前に立ちはだかる急斜面の上にあるという木屋床集落があり、左に行くと線路と川を横断して、対岸にそびえる山の中腹を走る国道32号線へと至る。
木屋床集落への道
まずは木屋床集落に向かう事にして駅を出ると右方向に向かう。駅前は敷かれて間がないと思われるキレイな砕石で覆われていて歩きやすいので、これは楽勝かと思いきやすぐに砕石は途切れて山に分け入っていく。
その入口には”木ヤ床”と書かれた標識が立っていて、この文字が妙に立体的だとよく見ると、木の枝を組み合わせて文字を描くという、手の込んだ作りをしているではないか。屋がカタカナになっているのを一瞬不思議に思ったが、こういう作りならちょっと納得(笑)
手の込んだ標識を設置するくらいだし、ハイキングコースばりに道も整備されているかと思ったのも束の間、あっというまに道なき道に様変わりした。一応草木がない所が道だとはわかるものの、堆積物に覆われて斜面と変わらない傾斜になってしまっている。
それでも見た目にはしっかりしているが、実際歩くと細かい土砂や落ち葉が溜まっているだけなので、歩くたびにガサガサと足元が崩れて足が滑り、黒川駅の階段など比ではない歩きにくさだ。
こんな調子で集落までたどり着けるのかと不安になってきたが、急に斜面に高い石積みのなされたしっかりした場所に出て途端に歩きやすくなる。こんなにしっかり石積みをするあたり、この辺りには何かあったのだろうか?
さらに奥には小さな谷を跨ぐように、歩行者用の小さな橋が架けられていて、これはちょっと面白い事になってきた。入口の酷い道が延々と続くならどうしようかと思ったが、奥の方は結構しっかり整備されていて、これなら小走りに行ける位で余裕ではないか。
意気揚々と橋のところまでやってくると、これが近くで見ると結構錆びついていて、足元の鉄板には小さな穴が空いていたりと、あまり楽しい状態ではなかった。まさか踏み抜いたりしないだろうなと恐る恐る足を進めていく。
そんな状態だけに足元を注視しながら半分くらい渡ったころだろうか、とうとう奴を発見してしまった。そう散々注意の看板が出ていたマムシである…。
よりによって避けては通れない狭い橋の上で待ち受けているとは、いったい何の嫌がらせだと言いたくなるが、考えようによってはこんな場所だから慎重に歩いていて気が付いたとも言える。
それはともかく問題はここをどうやって突破するかだ。またぐと噛み付いてきそうだし、去るのを待っていては日が暮れそうだ。近くから木の枝を持ってきて格闘するが、この橋は左右がしっかりネット状になっていて横にどけるわけにもいかない。こいうなったら山伝いに橋を迂回するかとも思ったが、冷静になって考えるとどうしても集落に行く必要がある訳でもなく、なんだか段々とどうでもよくなってきた。
結果、触らぬマムシに祟りなしで駅へと引き返した。
国道32号線への道
予定外に早く戻ってきたものだから、次の列車までまだ1時間半も時間が余ってしまった。そこで国道32号線へと至る、もうひとつの道に行ってみることにした。
駅舎を出ると先ほどとは逆の左方向に向かうと、すぐに駅の脇にある小さな踏切で線路を越える。前回訪れた時には線路に踏み板が敷かれただけの簡素な踏切だったのだが、枕木で作った柵に手動で押すだけという簡単な仕組みながら、遮断棒まで取り付けられ踏切らしく進化していた。
線路を越えると道は山へと分け入っていくのだが、それとは別に線路沿いにも草が刈られた歩きやすそうなスペースが続いている。そういえば線路沿いを通学で歩く古い写真を見た記憶があり、この先がどうなっているのか興味が湧いてきて行ってみることにする。
だが少し進んだところで足元が背の高い草に覆われ、踏み跡すら見当たらない状態になってしまう。かき分けて行きたいところだが、先ほどのマムシの姿が頭をよぎり、どうも足元が気になり引き返してきた。
気を取り直して国道への道を進むと、踏切のすぐ先に平屋建ての廃屋があり、どこか不気味な雰囲気を漂わせている。これが雑貨屋だったというから驚きだが、考えてもみればどちらの山から降りてきた人も利用でき、鉄道利用がメインの交通手段だった時代には商売に絶好の場所だったのかもしれないな。
中を覗き込むと色々な物が散乱していて、足の踏み場もないといった状態になっている。廃屋を見ると当時はどんな様子だったのか、住んでいた人はどこへ行ったのかと色々な思いが巡ってくる。
徐々に川の流れる音が大きくなってきて、木々に遮られてほとんど姿は見えないが、
かつては坪尻駅の場所をこの鮎苦谷川が流れていて、導水用のトンネルを掘って強引に川の流れを変え、水が流れなくなった谷底に線路を敷いたそうだ。駅が谷底にあるように見えるが本当に底にあるのである。その導水トンネルはこの山道の下を通っているようで、その結果として橋を渡っていないのに、いつの間にか川を越えて対岸の山を歩いているという不思議な道になっている。
道はつづら折りに高度を上げていき、徐々に川の音も遠ざかっていく。急坂があるかと思えば平坦な場所もあり、崖っぷちの急斜面を見下ろすような所や、竹林の中を通り抜けたりと、山の中とはいえ変化があって楽しい。
川の音が遠ざかるのに比例して徐々に車の音が近づいてくると、道端には国道から投げ捨てられたのだろうか、ゴミが目立つようになってくる。なぜこんな所にと思うような冷蔵庫などの大型家電まで転がっていて、こんなものが上から降ってきたら痛いどころではない。
国道のすぐ下あたりではそれはもう酷い有り様であり、どこを見てもゴミが転がっている状態でゴミ捨て場と化している。何か降ってこないか不安を感じる道だ。
このゴミ問題を除けば木屋床集落への道に比べ、しっかり整備された歩きやすい道のまま国道まで出ることができた。
出入口にはカゴに入った竹がたくさん置いてあり、さっき駅に竹の杖をつきながらやってきた人が居た事を思い出す。これから上り坂という駅側には置いてなかったということは、こちら側から往復利用する人向けか。
ようやく国道には出たものの、ここに何かあるわけでもなく右も左も山ばかりである。散策しようにも歩道がない上に曲がりくねった道路は視界が悪く、そんな所を大型車が飛ばしてくるのだから、とてもどこかへ行こうという気にはならない。
ある種マムシが徘徊している道より危険を感じる。
歩き回る気にはならないが、ほんの数十メートル先にバス停が見えるので、車の走行音が聞こえなくなるタイミングを見計らい小走りに行ってみる。バス停の脇には小さなお地蔵様が立っており、まだ新しい花が供えてあった。
バス停は四国交通の物で、駅と同じく坪尻を名乗っている。時刻表を見ると阿波池田駅行きが、7時37分・13時17分・15時33分と3便あり、意外と列車から乗り継ぐのにちょうどよい時間に走っていた。
帰りは一度通った道なので足を止める事もなく勢いよく下っていき、時計を見ると往復で30分程度のことであった。私の場合は寄り道が多くてこれだから、ひたすら歩けばもっと短いだろう。
戻ってきた駅では滞在する面子が変わっており、陸の孤島のような場所にありながら、少し離れている間にどんどん人が入れ替わっていくから面白い。
まだ時間はあるがこれ以上は行く所もなく、次の列車まで駅の周囲をブラブラしたり、待合室の掲示物を眺めたりと時間を潰す。現れた阿波池田行きの普通列車4239Dは、ついに朝から乗り続けたのと違う車両が現れた。
ワンマン列車なので普通は前降り後乗りなのだが、ここはスイッチバック駅でホームへの入線時は運転士が後ろ側の運転席に居るので、後降り後乗りとちょっと変わっている。そのせいかホームもここまでの駅は1両分かさ上げされていたのに、ここはドア1箇所分しかかさ上げされていない。
ドアが開くとまた新たな訪問者が降りてきて、国道から鉄道からと最後まで人が途切れる事がなかった。入れ替わりに乗車してひょいと整理券を取ると、そこには坪尻ではなく讃岐財田の文字が…。
箸蔵
- 所在地 徳島県三好市池田町州津
- 開業 1929年(昭和4年)4月28日
- ホーム 2面2線
車窓には久しぶりに沢山の民家が見え、ようやく人里に降りてきたという気がする。坪尻から乗ったのに讃岐財田の整理券を持った私は、運転士に無駄に説明をして降りることとなった。
このあたりは急峻な山の山裾から、吉野川の間に広がる緩やかな傾斜地になっており、駅はその傾斜地の最上部あたりに位置するので、駅裏には山が迫り、表側には吉野川へ向かって所狭しと住宅や農地がひしめいている。
跨線橋に上がるとそんな様子がよくわかり、谷底の坪尻とは対照的に開放感がある。
四国ではもはや定番ともいえる改装の施された木造駅舎に入ると、これまたお馴染みのガラーンとした待合室があり、窓口の方は完全に塞がれて跡形なく何とも殺風景だ。
そんな中で壁に取り付けられた小さな花瓶には、秋らしくススキとオレンジ色のコスモスが生けられており、造花でない事もあって少しだけ温もりを感じさせてくれる。坪尻にも同じようにしてヒマワリが生けてあったが、ホコリをかぶった様子はいかにも造花だった。
駅前に出ると現役の池があり、小さなミニチュアの橋がかけられた手の込んだ作りをしている。緑色をした水面を覗き込むと、大きな金魚なのか小さな鯉なのか赤い魚影がチラリと見えて、無人駅の池は荒れて枯れ果てている事が多いので珍しい。
駅前広場は近くを走る国道から上がってきた道路の終点になっているのだが、この道路わずか100メートルほどの距離ながられっきとした県道である。駅前に何か飲食店でもないかなと思ったが、営業しているのか謎な商店や住宅ばかり目にとまり、全体的に寂れた雰囲気が漂っていてこれはダメそうである。
箸蔵山ロープウェイと箸蔵寺
どこへ行くかだが箸蔵といえば、こんぴら奥の院とも称される
その箸蔵寺は駅から400メートル近い高所にあり、それを聞くと「うわぁ」という感じだが、幸いにしてロープウェイが整備されている。思えば難所にある寺ほど交通機関が発達していて、簡単にたどり着けるような…。
まずはロープウェイ乗り場に向かう事にして、駅前の短い県道を下り国道23号線に出る。ついさっき坪尻で訪れた国道で、歩道らしい歩道がなくて側溝の蓋が歩道代わりのような場所で、この危なっかしさは坪尻あたりと大して変わらない。
道の両側には住宅・商店・郵便局・駐在所とさまざまな建物が建ち並び、住宅であっても元は何かの商店だったと思われる作りをする家も多い。
大型車くるなよと思いつつ歩いていると、カタンカタンと列車の走る音が響いてくる。まだ先ほどの列車が近くを走っているようで、このあたりはまだまだ標高が高く、大回りをして緩やかに高度を下げてから吉野川を渡るので、直線距離にすると結構近い所を走っているのだろう。
ものの数分で到着した
毎時15分おきに運行されているそうで、腕時計に目をやると15時12分と発車時刻が迫っている。これに乗り遅れたら15分も待ちぼうけをくらうので、急いで窓口に向かい乗車券を購入。この時、片道と往復があったが、日の短い季節だけに日没まであまり時間がないし、発車時刻が迫っていて迷っている暇もなかったので、とっさに往復と言ってしまった。
チケットを受け取ると窓口の隣にある改札を抜けて、スイス製というオレンジ色をしたゴンドラに乗り込む。車内では車や安宿に寝泊まりしつつ巡礼中という方など、白装束姿の方4人と一緒になった。外観は小柄に見えるこのゴンドラだが、定員は32名とあってこの程度の乗客だと余裕の広さで快適だ。
まもなく静かに動き出したゴンドラはグングンと高度を上げていき、吉野川と周囲に広がる町から山並みまで一望できる。ちょっと前まで晴れていたのだが、いつのまにか何だかモヤモヤしてきたのに加え、ゴンドラの窓がクリアではないためスッキリしていないのは残念だが、それでもこの眺望には最初から最後まで釘付けである。
途中で下っていく黄色いゴンドラとすれ違うと、まもなく登山口駅から続く斜面を上がりきり、山頂部にある仁王門と高燈籠の間をかすめるようにして通り抜ける。歩いて登ってくれば箸蔵寺の入口となる場所だ。
ロープウェイはこの先ゆるやかに高度をあげつつ谷を越えて、山頂側の箸蔵寺駅に到着した。ゴンドラを降りて改札を抜けると、JRの無人駅さながらにガラーンとした空間が広がる。一応土産物類も置いてあるが、所狭しと並ぶ登山口駅とは対照的に、壁際に申し訳程度に置いてある程度である。そんな中にあって老夫婦だろうか、仲良く座る等身大の人形が存在感を放っていた。
一緒に乗ってきた方はすぐに去ってしまい、箸蔵寺駅には一人ポツンと取り残された感じだ。駅前には休憩所も整備されているが、どこもかしこも誰もいない。こんなに人が居なくてロープウェイは商売になるのか、余計な心配をするくらいに誰もいない。
誰もいない場所は落ち着くが、人がいてもよさそうな場所に誰もいないと、かえって落ち着かないものである。
ひと休みした所で箸蔵寺駅を出発する。すぐ近くには箸蔵寺の表札が掲げられた中門があり、その先に本坊という大きな建物があった。ここでは宿泊や食事に納経とさまざまな事をおこなうようだが、私にはあまり関係なさそうなので、見事な唐破風のある大きな玄関を眺めつつ先へと進む。
本坊のすぐ隣には護摩殿というこれまた美しい入母屋造りをした建物があり、その護摩殿の前には狛犬が鎮座していた。箸蔵寺はいたるところに、ここは寺なのか神社なのかと思うような構造物や名称があり、神仏混合の歴史をよく物語っていて面白い。
いよいよ現れた石段を上がると特徴的な形をして、一体なんだろうかと思うような建物が現れる。これが鐘楼堂だそうだが、見たところどういう仕組みかよくわからず不思議な鐘楼である。
こうして次々と現れる建物がどれも特徴的で面白く、おかげで遅々として先にすすまない。そしてそのほとんどが重要文化財で、周囲に誰もいなくて静寂に包まれている中で、こういった建物があるから余計に引き込まれるのかもしれない。
こうなると今度はロープウェイを利用せず仁王門から回ってみたくなる。
鐘楼堂を過ぎると次はいよいよ本殿なのだが、ここで金刀比羅宮を彷彿とさせる長い石段が待ち受けている。いっきに上がってやろうと思うも途中で息切れして、足を止めてふと下に目をやると、珍しいことに人の姿があった。これは追い越されてなるものかと、後を追われるように上がりきる。
汗をにじませながら石段を上がりきると、その正面に大きく荘厳な本殿が建っている。例によって人気はなくひっそりとしており、周囲に目をやると意外と広い平地に、いくつもの構造物が並んでいた。
まずは、何はともあれ本殿に向かい参拝を済ませる。ここには歴代の住職ですら姿を見たことがないという、金毘羅大権現がまつられているそうだ。
本殿の向かって右手には木々に囲まれて静かに佇む、こじんまりとした建物があり、箸蔵寺ではもっとも古い建物という観音堂であった。
近づいてみると細かな細工や彩色が施されており、ここまで見てきた建物とはまた違った美しさのある建物であった。特にこの彩色は随分と色あせてはいるが、それゆえに一番想像を掻き立てられた建物かもしれない。
後から来ていた人は本殿で参拝をするとさっさと去ってしまい、この観音堂を見ないとはもったいない。
本殿の左手には御影堂や、何が建っていたのか石を並べた大きな基礎の跡がある。いったい何がここに建っていたのか気になるが、説明板もなく謎のままであり、答えの見つからないもどかしさよ。
だがそれよりも目を引かれたのは、こんな季節に咲く桜の花だ。最近の暖かな陽気に誘われてなのか、それともこういう種類なのだろうか、何だか知らないがたくさんの桜が咲いていた。
境内をひと通り回ると、再びロープウェイ乗り場に戻ってきた。相変わらず誰もいない待合室で待つのだが、発車時刻が迫るというのに待てど暮らせど改札が始まらず、もしかして運行終了か、はたまたお客がいないと思われているのかと不安感が湧いてくるが、ギリギリになって奥から係員が現れた。
そんなわけでゴンドラに乗り込むと同時にドアが閉められ、すぐに動き出す。なんとも慌ただしいことで、当然ながら車内は貸切りだ。ロープウェイの貸切りは初めて体験したが、おかげで前に後ろにと、往路以上に思う存分景色を楽しむ事ができた。
足早に駅に戻ってくると本日最後の列車、琴平行きの普通列車4238Dに乗り込む。意外な事にここでは通学の高校生など数人の乗車があり、坪尻の観光客は別として生活利用者は琴平以外では初めて目にした。まあそれでも車内は各ボックス席がかろうじて埋まる程度の乗車率なのだけど…。
エピローグ
箸蔵駅を出ると再び讃岐山脈に向けて山間に分け入っていく。この列車は坪尻を通過するので、まだ誰か居るのだろうかと車窓左手を注視していると、過ぎ去る薄暗いホーム上に2人連れの姿があった。
後はゆっくりと夕闇迫る沿線風景を眺めつつ、今日の出来事を思い返しながらゆったりと過ごす。日中は忙しく乗降を繰り返すから、この1日の最後にまとまった時間乗車するのも楽しみのひとつになっている。
随分と暗くなった琴平駅は4番線に到着する。急ぐ必要もないのでゆっくりしていると、わずかな乗客はすぐに去ってしまいホームには私ひとりだけとなった。列車の方は折り返しの大歩危行きになるようである。
跨線橋を渡り駅舎側のホームに移動すると、コインロッカーから今朝入れておいた荷物を取り出し改札に向かう。今朝は無人だったがこの時間はしっかりと駅員の姿があり、箸蔵からの運賃450円を手渡し空腹を抑えつつ宿に向かった。
(2016年10月20日)
コメント