目次
プロローグ
2016年9月10日、富山県中部を走る氷見線にやってきた。
氷見線は高岡から氷見までを結び、距離にして16.5km、駅数は8駅という短い路線だ。短いながらも変化に富んだ車窓が楽しめる路線で、高岡の市街地から、能町や伏木の工場・港湾地帯を通り抜け、風光明媚な富山湾沿いを氷見へと至る。
列車本数は毎時1往復くらいあるので、頑張れば1日で全駅訪問も可能そうだが、慌ただしいことになるので2日かけてゆっくり楽しむ予定だ。1日目となる今回は、氷見線の起点である高岡から、路線のほぼ中間に位置する伏木までをめぐることにした。
高岡
- 所在地 富山県高岡市下関町
- 開業 1898年(明治31年)1月2日
- ホーム 4面7線
午前8時半、青空の広がる秋晴れの高岡駅に降り立った。秋とはいっても9月も半ばとあって、少し歩けば汗ばむような陽気だった。
高岡駅は交通の要衝とあって、通過や乗り換えで利用する事は頻繁にあるが、実際に下車するのは二十数年ぶりである。氷見線・城端線・あいの風とやま鉄道線と、3つの路線が乗り入れる構内は7番線まであり広々していた。
列車から降りると人波に流されるようにホームから駅舎に向かう。数年前に建て替えられた新しい駅舎は、以前のどこか雑然とした地上駅舎から橋上駅舎に変わっており、昔とさして変わらない雰囲気のホームとは対照的に、近代的な装いに様変わりしていた。
橋上駅舎の改札を抜けると、そのまま駅の南北を結ぶ自由通路に出て、どちら側にでも出られる。この通路は外に出ると駅前の道路を挟んだビルにまで続いており、駅前を行き交うバスやタクシー、路面電車といった様々な交通機関を見下ろすように見渡すことができた。かつての駅前は狭く雑然とした印象だったが、随分ときれいに小ざっぱり整備されている。
列車から下車した一団が去ってしまうと、通路脇に設置された休憩所で休む老人の姿が見られる程度となり静かになる。しかし数分もするとまた列車が到着したらしく、どっと改札から人が吐き出されてくる。どうにも朝の大きな駅は人の動きが慌ただしくて落ち着かない。
高岡大仏
まずは氷見線の列車に乗る前に、高岡の街をぶらりと歩いてみる。高岡は富山県第二の都市という大きな街であるが、観光地といって思い浮かぶのは高岡大仏と古城公園くらいのもので、実際以前に来た時もそのコースをたどっている。それは随分と昔の話で記憶も薄らいでいるので、今回もまた高岡大仏から旅を始めることにした。
駅前に設置されていた観光用の地図で大仏までの道のりを確認。記憶にあるよりずっと近くにあり、こんなに近ければ迷いようもないだろうと、大体の見当をつけて歩きだす。
適当に選んだ道沿いには小さな商店や住宅が立ち並び、昔ながらの生活感を感じられるいい街並みだ。まもなく住宅に囲まれるように神明社という小さな神社が現れ、小さいながら趣のある拝殿へと伸びる参道では、掃き掃除をするおばさんの姿がある。その朝らしい雰囲気に吸い込まれるように立ち寄る。
拝殿の前まできて賽銭をと思い財布を探すと見当たらない。あたふたとバッグの中を引っ掻き回していると、通勤途中とおぼしき人が脇を通り抜け、軽く手を合わせ去っていく。なんだろう、この身近に神社がある光景は何だか良い。
無事財布も出てきて参拝を済ませると、再び適当に方角の見当を付けて、あっち行きこっち行きと進んでいく。我ながらいい加減だと思いつつもウロウロしていると、突然目の前に大仏様が現れる。その唐突な出現に「アレっ?」となってしまった。
街中にある大仏だという印象は残っていたが、本当に住宅や商店に取り囲まれるように鎮座している。その佇まいは鎌倉や東大寺の大仏とは違い、実に庶民的な感じがして悪くない。
周囲では高岡大仏祭りの準備をするおっちゃんと、ベンチに腰掛けて読書をする兄ちゃんがいる程度で、あとは2,3人の観光客がたまに姿を表す程度という静けさだ。高岡大仏祭りでは1年間の汚れを拭き取る「お身ぬぐい」という行事があったり、提灯の並ぶいつもとは違った光景が見られるようだが、まだ10日以上先の話である。
この高岡大仏の台座内部には、仏画の並ぶ回廊が円を描くように配されており、一周して出てこられる構造になっている。
中に入って薄暗い回廊を半周ほど進むと、回廊の中心にある小部屋への入口があり、明治33年の大火で消失を免れたという、二代目高岡大仏(現在は三代目)の大きな木造の仏頭が安置されている。その存在感には一瞬ドキッとしてしまうが、仏頭やその周囲に配されている十二光仏の姿など、印象に残っていた場所なので何だか懐かしさも感じる。
関野神社
まだ9時前と時間も早いので近くに立っている観光地図に目をやると、駅近くに関野神社という大きな神社がある。これは駅に戻りがてら立ち寄ればちょうど良さそうだ。高岡大仏のすぐ近くには桜の名所としても有名な高岡古城公園があるが、そこは次の越中中川駅からも近いので後で行く事にする。
目的地が決まり意気揚々と歩き出したのだが、どういう訳だか目の前には後に回したはずの高岡古城公園が現れた。まさか反対方向に歩いているとは自分でも驚いてしまった。慌てて高岡大仏の前まで戻り、改めて地図を頭に叩き込んで再出発。そこは緩やかな下り坂の明るい通りで、昭和を思わせる商店の建ち並ぶいい通りだった。
昭和を思わせる商店の並ぶ通りを抜けると、地図で確認したとおりに路面電車の走る大通りに出た。そこを横断してさらに進むと、徐々に道が狭くなり、そろそろ関野神社だろうかと思っていると、突き当りに現れたのはどう見ても神社ではなく寺だった。
一瞬どういう事なのか混乱してしまったが、あろうことか見当違いな方向に歩いてきている事が判明、まさか2回連続で道を間違えるとは間抜けすぎる。
改めて関野神社へと向けて、
再び路面電車の走る通りに出ると線路伝いに高岡駅の方に向かう。この線路は高岡駅前まで通じているので、たどっていけば自然と駅近くにある関野神社にもあたるはずだ。交通量が多くて騒々しいのが気に入らないが、あまり変な道に入ってこれ以上迷っている時間もなくなってきたので仕方がない。
ところがしばらくして現れたのは高岡駅ではなく高岡古城公園の文字だった。なんという事だろうか線路伝いに駅とは逆方向に歩いてきたのだ。我ながら酷い方向音痴だ。右往左往している間に氷見線の列車時刻が迫ってきて、関野神社は鳥居を横目に眺めただけで、小走りに高岡駅に向かった。
乗車予定の列車は9時43分発で、これを逃すと11時過ぎまでないので逃せない。汗を流しながらホームに下りてくると既に列車は入線しており、全員乗りこんだあとらしくホームには誰もいない。時計を見ると発車まで3分しかなく危ないところだった。
車内は10時近いこんな時間にしては学生が目立ち、そこに観光客も加わり非常に混雑していた。なんとか後ろのドア横に立っていると、発車間際にも数人が駆け込んできて、文字通りのすし詰めになってしまった。
動きだした列車は構内の外れまでくると、大きく左にカーブして富山湾に進路を取り、延々と広がる住宅地のなかを進んでいく。頭上のスピーカーからはのんびりと、忍者ハットリくんの声で観光案内が流れているが、混雑の酷さに車窓どころではない。
越中中川
- 所在地 富山県高岡市中川一丁目
- 開業 1916年(大正5年)4月1日
- ホーム 1面1線
高岡の隣りとは思えない古い木造駅舎が残る越中中川に到着した。ワンマン列車なので前降り後乗りだが、この混雑する車内をどうやって前へ行ったらいいのか困惑するが、幸いにして有人駅のため後ろのドアからも降りる事ができた。
ようやく混雑から開放されたと思いきや続々と学生が降りてきて、ホームでもまた人混みに揉まれる。ゆっくり駅を見たいので隅でやり過ごした。
大正時代の開業でしっかりした木造駅舎まである駅だが、構内は片面ホームがちょこんとあるだけで簡素な構造をしている。どこかアンバランスさがあるが元々はもうひとつホームがある相対式ホームの駅だったという。駅裏側にあったホームは緑地の一部と化して、それらしい痕跡はほとんど残されていなかった。
委託駅ながらしっかり改札業務もしており、切符を差し出すときっちり日付の確認までしていたのが印象に残る。なかなかと真面目な仕事をしている。
木造駅舎は外観全体が何ともカラフルに彩られており、近くにある高岡工芸高校デザイン科の手によるものだった。内部は一体どうなっているのかと思ったが、こちらはどことなく安っぽさも漂うリフォームがなされた平凡な作りだった。ただ清掃は行き届いているので雰囲気は良かった。
あれほど大勢居た学生はまたたく間に去ってしまい、後に残っているのは何をしているのか窓口内でパソコンに向かう駅員と、駅前でスマホに興じる少年だけであった。
高岡古城公園
ここでは予定通り先ほど2回も近くまで行った高岡古城公園に向かう。名前のとおり高岡城の跡を利用して作られた公園で、東京ドーム約4.5個分という広大な敷地を有している。
近くの陸橋で線路を越えて先へ先へと進んでいく。ところがどこまで進んでも単調な市街地が続くばかりで、先ほどは行く気もないのに現れた公園が見当たらない。嫌な予感がして地図を確認すると、やはり見事に逆方向に歩いてきていた。そもそも線路を越える必要などなかったのである。
今日は何度目の迷走だろうか、急いで引き返して再び線路を越えて先へ進むと、すぐに高岡古城公園が見えてきた。
緑あふれる園内に足を進めると、まずは小竹薮広場と呼ばれる桜の木に囲まれた芝生の美しい広場が現れる。周囲にはキャッチボールをする親子や、雑談に興じるお年寄りなどが散見され、休日の公園らしい景色が広がっていた。
園内には遊歩道に加え様々な施設があるのだが、まずは公園のほぼ中央に位置する、本丸跡にある射水神社に向かう。富山県に4つもある越中国一宮のひとつで、そのなかでは最も社格の高い神社だ。ちなみに氷見線の沿線では、越中国分駅の近くにある気多神社も越中国一宮のひとつである。
本丸跡は周囲を水濠に囲まれているため、小竹薮広場から朝陽橋という赤い太鼓橋を渡り立ち入る。橋のあたりは深い緑に囲まれていて、市の中心部が近いとは思えないほど森閑としている。こんな公園が近くにある街とは羨ましいものがある。
本丸跡にやってくると半分は射水神社になっているが、もう半分は広大な芝生広場になっていた。広場は広いだけでなく人気がほとんどないので何とも開放感がある。ゆったりと歩いていると、隣接する弓道場から威勢のいい大きな声が聞こえてくる。
射水神社の前までやって来ると、金属を思わせる独特な風合いをした鳥居が目をひく。高岡は銅器の街だから銅製だったりするのかなと思っていると、本当に銅板で覆ってあるという。
鳥居をくぐり境内に立ち入ると、大きな手水舎や神明造りの社殿があり、さすがに規模の大きな神社だと思う。全体に建て替えられているのか手水舎も拝殿も新しい。
ここにも二十数年前に訪れた事があるのだが、こうした施設に関する記憶はまったく残っていない。その時は雪化粧したモノトーンの世界だった上に周囲には人影もなく、しっとりと落ち着いた神社という印象だけが残っていたが、今回は夏を思わせる陽気で、人の姿もあちこちにあるため正反対の印象を受ける。
同じ道筋から戻るのも芸がないので、帰りは公園の周囲に広がる水濠沿いを歩こうと、本丸跡から水濠に向かう小路に進む。途中両者のあいだには崖のような段差があるため、想像以上の急斜面を下っていく。ここは単なる公園ではなく城跡なのだと実感させられる。
本丸跡から水濠まで下ってくると、本丸橋という実にわかりやすい名前の橋があり、対岸の市街地に出ることができる。橋上からは築城当時の状態で残るという大きな水濠と、その周囲を取り囲むように立ち並ぶ家並みを見渡せ、広がる青空と相まって開放的な眺めだ。
水濠沿いに公園を抜けだし早歩きで駅に向かっていると、歩道上にあった謎の突起を思いきり蹴ってしまい指に激痛がはしる。タンスの角に小指をぶつけたような状態を、まさかこんな場所で味わう事になろうとは、腹立たしくもあり貴重な体験でもある。
待合室にたむろする数人の学生を横目に、ホームに出て待つこと約10分、11時15分発の氷見行きがやってきた。車両はここまで乗ってきたのと同じものだった。公園まで往復しているあいだに、氷見に高岡とめぐって再び氷見に向かっているのだ。きっと日中はこんな感じで同じ車両が行ったり来たりしているのだろう。
車内もまた先ほどと同じように混雑していて満席状態。ワンマン列車なので下車しやすい位置が良いだろうと、前側のドアから乗車してそのままドア横に立っていく。
能町
- 所在地 富山県高岡市能町
- 開業 1900年(明治33年)12月29日
- ホーム 1面2線
大きな木造駅舎と広い構内を持った駅ではあるが、それらの大半はJR貨物が利用しているものであり、氷見線では初めてとなる無人駅だ。ワンマン列車ではあるが運転手は切符の確認をするでもなく「はいどーぞ」な感じで割りと適当である。下車したのは自分だけで、乗車したのもJRの保線作業員らしき人だけだけだった。
広々とした駅構内には何本もの側線が並んでおり、もう随分と昔になるが貨物列車の発着していた時代にこの辺りまで来た事を思い出す。当時は貨車が並び活気の感じられた構内だったが、今では草や錆に覆われたレールが並ぶだけの寂しい雰囲気に変わっており、貨車どころか人の姿すら見当たらない。
この駅には跨線橋といった物はなく、ホームの端からスロープで線路の高さまで下りて、そのまま線路を横断して駅舎に入る。いわゆる構内踏切という奴で、安全性の事もありどんどん姿を消しているが、楽にホームに行けるという点ではこれが一番だったりする。
大きな駅舎なので待合室もそれなりに広いかと思う所だが、これが想像以上に狭い待合室で、申し訳程度に設置されたベンチでは、高岡行きの列車を待っているのか読書中の若い女性がいた。この古びた駅舎とはどこかアンバランスな存在で、しかもスマホではなく読書というのがなんだか新鮮に映る。
狭いだけに読書する前を行ったり来たりするのは気が引けるので、そのまま駅舎を通り抜けて駅前に出た。振り返ってみると表には3つも入口が並ぶ面白い構造で、駅舎の大半はJR貨物が使用しているらしく、そちらへの出入口になっているようだ。見れば見るほどに増改築を繰り返した感が漂う駅舎である。
庄川
この辺りに観光名所のような所はないようだが、東には庄川、西には小矢部川という大きな川が流れている。どちらかに向かおうと考えると、小矢部川は昨年末に河口付近を訪ねていたことや、世界遺産の白川郷や五箇山から流れてきた魅力もあり庄川に決めた。
能町駅舎は庄川に向かって建っているので、駅前の通りを真っ直ぐ歩いて行く。駅周辺は住宅しかないと思いきや、駅からわずかの場所にそば屋があった。時間があればここで食事にするのも良いかもしれない。
閑静な住宅地の中を歩いていると、八幡社という小さな神社があったので立ち寄る。拝殿は近年建て替えられたのか新しいものだ。豪雪地だけに冬場の風雪対策だと思うが、全体が温室のようにガラスで囲われているのが特徴的だ。
せっかくなのでガラス戸を開けて参拝していく。開け放ったままにする人がいるらしく「必ず閉めてください」「開放厳禁」といった文字が目に留まる。
やがて周囲は工場地帯へと変わってくるが、休日だからか住宅地のように静かで活気が感じられない。工場の間を通り抜ければいよいよ堤防道路に出た。かつて高徳線の旅をしていた時、徳島の吉野川堤防で、ひっきりなしに車が来て渡れなくて困った記憶がよみがえる。ここは幸いにして交通量こそ多いものの、切れ間が多いので難なく横断できた。
堤防上からは青空の下を悠々と流れる庄川が見渡せ、周辺に高い建物もないので広々と開けている。なんとも開放的な眺めだ。河川敷には多数の小さな畑があり、あちらこちらで収穫に勤しむ姿が見らる。のどかな秋の日といった景色である。
しばらく庄川を眺めてから来た道を引き返す。ぼんやり川面を眺めているには良い気候なのだが、足早に駅に向かっていると汗ばんでくる。ちょうど昼になるので駅前のそば屋に入ろうかと思ったものの、次の列車の時間が迫っていたので素通りして駅に急ぐ。
待合室ではまださっきの女性が読書をしていたので、こちらも素通りしてホームに向かい列車を待つ。まもなくやってきたのは氷見行きではなく高岡行きだった。先ほど乗車した車両で本日3回目の対面だ。ドアが開くと学生が大勢降りてきて、静かな駅が一瞬だけ華やぐ。
ほどなく氷見行きの下り列車も現れ、当駅ですれちがいとなる。やってきたのは今日初めて見る車両であり、初めて見る2両編成の列車だった。これならやっとで座れそうだと思ったものの、車内は観光客らしき人たちで満席、すぐに降りるとはいえゆっくり座って景色を眺めたいものだと思う。
次の伏木は有人駅なので後ろドアから乗車すると、そのまま後ろドアの横に立っていく。混雑するワンマン列車が続くが、うまい具合に有人駅と無人駅が交互に現れるので、有人駅では前ドアから乗車、無人駅では後ドアから乗車して、後はそのまま立っていれば乗車したドアから下車できて効率が良い。
12時11分、能町を出発すると右手に貨物線が分岐していき、まもなく小矢部川を渡る。倉庫や工場を車窓に眺めつつ、貨物用の錆びついたレールが沢山見えてくればもう伏木だ。
伏木
- 所在地 富山県高岡市伏木古国府
- 開業 1900年(明治33年)12月29日
- ホーム 1面2線
しっかりとした駅舎を持つ有人駅で、氷見線の途中駅では唯一みどりの窓口まである。利用者が多そうに思えたが、下車したのは自分以外には学生がひとりだけであった。
ホームは幅の広い島式で、その大部分が鉄骨を使った大きな上屋で覆われている。幅は広いが長さは短いので、どこかずんぐりとした印象を受けるホームだ。駅舎とは木材を使った古びた跨線橋で結ばれていた。駅舎と線路の間には、石灯籠もある大きな庭園があるのだが、荒れるに任せた状態なのが少しもったいない。
駅舎に入ると高い天井で開放感があり、みどりの窓口に観光案内所のようなものが併設されている。さらにガラス戸で区切られた大きな待合室には沢山のベンチが並べられ、自販機置き場と化したキヨスクの跡があった。かつては凄く賑わったんだろうなあと思わせる作りの駅なのに、まるで人の気配が感じられなくて栄枯盛衰という言葉が思い浮かんでくる。
駅前に出るとこちらもタクシーが1台停まっているだけで静かなものだった。
勝興寺
まずは駅前から大きく標識が出ていて、ここ伏木では最も有名と思われる勝興寺に向かってみる。駅前から伸びる道路を標識に従い進むと、すぐに上り坂に差し掛かり、道路は観光地らしく美しく整備されていた。
勝興寺へと続く坂道を上っていると、左手に古びた木造平屋建ての、どこか木造駅舎を思わせる建物が現れる。脇にはこれまた古そうなコンクリート造り三階建の塔が立っていて、その趣のある佇まいに思わず立ち寄ってしまう。
ここは明治時代から気象観測を行っていた旧伏木測候所で、明治42年建築という歴史ある建物は伏木気象資料館になっていた。ただ残念ながら長期休館中という事で、外観を眺めただけで立ち去る。
坂を上りきると正面に勝興寺が見えてくるが門がなくそのまま境内に入っていく、本来ある総門は工事のために移動してあるそうだ。敷地に入ったすぐの場所には観光バスが1台停まっていて、今回の旅では初めて観光客らしい団体に遭遇した。
まずは受付で工事協力金300円を支払う、なにげなく訪れたので知らなかったが、いまは平成の大修理として、実に22年間もかけた修復復元工事の真っ最中なのであった。
受付を過ぎて最初に現れるのが、檜皮葺きの大きく風格ある唐門。京都の興正寺から移築されたもので、実に250年近い歴史を有しているという。ちょうど修理工事が終わったばかりという事もあり美しい姿であった。
唐門をくぐると巨大な本堂があり、その想像以上の大きさには圧倒される。全国の重要文化財建造物では8番目の規模というだけの事はある。
上がらせてもらうと内部もまた荘厳な作りをしていた。片隅にはヘルメットをかぶった一団がいて、どうやら表に止まっていた観光バスの団体らしい。話を聞いているとこれから修理工事の模様を見学に向かうようである。
賑やかな団体が裏手の方へ去っていくと、広い本堂には話に夢中のおばちさん2人と、ひとり旅らしい女性がいるだけとなった。沢山並べてある椅子に座って休んでいると、いい風が吹き込んできてなんとも心地よく、昼寝でもしたら気持ちいいだろうなあと思う。
ここ勝興寺には七不思議という興味深いものがある。実ならずの銀杏、天から降った石、水の涸れない池、屋根を支える猿、魔除の柱、雲龍の硯、三葉の松という7つで、それらを訪ねて境内を右へ左へとする。
すべてを訪ねることはできなかったが、なかでも実ならずの銀杏と呼ばれる、本堂の前に立つ大きな銀杏の木が青空に映えて美しく気に入った。巨樹はなんであれ好きなので、見かけるとつい足を止めて長居をしてしまう。
大部分が工事中で本来の姿を見れなかったのは残念で、いずれ工事が終わったら再訪しなければと思う。復元工事が終わるのはずっと先で、4年後の2020年ということである。
伏木北前船資料館
近くには伏木北前船資料館という施設があり、勝興寺の前には既に標識が出ているのでそちらへと向かう。この辺りの通りは特に観光化もされていない普通の街並みで、知らない街のこういった場所をぶらぶら歩くのは楽しい。
やがて明治・大正期の建築と思われる、古くて趣のある建物が現れた。これは凄いとしばらく眺めていて気がついた、これが伏木北前船資料館であることに。今日は朝から道に迷うばかりだったが、今回は珍しく探すでもなくあっさり到着してしまった。
建物に入るとまずは受付があるので入館料210円を支払う。これから勝興寺にも行くか聞かれたのだが、どうやら共通券があるそうで残念。駅前には勝興寺の文字があり、勝興寺の前には伏木北前船資料館の文字があるのだから、必然的にこの順番で回ってしまうのだ。
受付の前で靴を脱いで母屋の見学から始める。先客はひとりだけで空いている。その人は職員の説明を受けながら周っているので自然とこちらにも、建物や伏木の歴史についての内容が耳に入ってくる。こういった歴史ある屋敷で説明を耳にしていると、香川県の引田で立ち寄った讃州井筒屋敷を思い起こさせる。
内部は北前船資料館という名前の通り、北前船の資料が沢山展示してあり、それに加えて当時の生活道具といった物も等も展示されていた。
母屋の後は建物の裏手にある衣装蔵と調度蔵という2つの蔵がある。特徴的なのは上部に望楼があることで、かつてはそこから港に出入りする船を見張っていたという。
望楼は見学できるというので、まずは蔵の2階に向けて踏み抜かないか心配になるような階段を上がっていく。一段一段踏みしめるごとにギシギシと音を立てるから不安になる。頭上も頭をぶつけそうな低さだった。
2階部分はちょっとした小部屋になっていて、ここから望楼へは梯子よりはマシという程度の急で狭い階段が伸びている。荷物が引っかかり身動きが取れなくなりそうになりつつ上がってきた望楼は、二畳程度の隠れ家のような狭い部屋で、障子の開けられた窓からは伏木の街を見渡すことができ、船を見張ったというだけあってわずかに海も見えた。1日こもって作業でもしたくなるような部屋である。
最後に蔵の内部に入ってみると引札という、江戸時代から大正時代にかけて用いられたというチラシが大量に展示されていて、これは実に見ごたえがあった。ゆっくり見ていたいが蔵だけあって風通しが悪く、見て回っているだけで汗が滴ってくるのには参った。
なにげなく訪れた資料館だったが、思った以上に面白い施設で、間違いなく入館料以上の価値があったと思う。
伏木散策
駅に戻ってくると次の列車まで1時間ほどある。遅めの昼食にするのにちょうど良いが、この街は住宅や小さな商店はあれど、食堂はまったく目にしなかった。かといって1時間をぼんやり過ごしてもしょうがないので、街中の散策に出かける。
せっかく港町へ来たのだから海でも見ようと、市街地を通り抜けて港の方向に向かう。海が近いらしく道ばたの草むらには廃船なのか小舟が転がっていたりするが、なぜだか海まではたどり着けず右往左往。
まあ海はいいかと適当な道を歩いていると、古びた洋風の建物が現れて足が止まる。明治43年建築という旧伏木銀行の建物だという。駅前の高台にあった伏木測候所と同時期の建物だ。古くから繁栄した街らしく、なにげなく歴史的に貴重な建物が残っている街である。
エピローグ
戻ってきた駅は相変わらず閑散としていたが、列車の時刻が近づくと少しずつ人が集まってきて最終的には10人ほどになった。
最初にやってきたのは高岡行きではなく、氷見行きの観光列車「べるもんた」で、車内を見ると概ね席は埋まっている。ホームの人たちがしきりとスマホで撮影をしており、地元の人たちにも人気がある様子。
まもなく14時41分発の高岡行きもやってきた。先ほど能町から乗車した車両で、車内は相変わらずの満席状態であった。
伏木を出た列車は途中駅での下車というものは殆どなく、伏木からずっとドア横に立ったままであった。思えば今日の氷見線では一度も座っていない。混雑するうえ途中駅での乗降が殆どないから、始発駅から席を確保しないとまったく座れないのだ。
帰りはゆっくり景色を眺めたかったが、往復ともにドア横に立ってばかりで、何だか沿線風景については殆ど印象に残らないままに高岡に戻ってきた。
(2016年9月10日)
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