目次
プロローグ
2017年12月30日、名古屋から亀山へと向かう普通列車に揺られていた。9時という時間帯によるものか、それとも晦日だからか、ボックス席を専有できるほど空いていた。車窓には枯草色の田畑と清々しい青空が広がり、差し込む朝日は顔を背けたくなるほど眩しかった。
紀勢本線は三重県の亀山駅を起点に、紀伊半島の外周をめぐり、和歌山県の和歌山市駅までを結んでいる。両駅の直線距離は約136kmでしかないが、海岸沿いに大回りするため384.2kmもの営業キロを有する。駅数に至っては96駅もある。完乗まで数年がかりになること間違いなしの長大路線だ。
やがて何本もの線路が並びはじめると、亀山駅の広々としたホームにすべり込んだ。長い長い紀勢本線の旅の始まりである。
亀山
- 所在地 三重県亀山市御幸町
- 開業 1890年(明治23年)12月25日
- ホーム 3面5線
三重県中北部に位置する亀山市の代表駅。江戸時代には亀山藩の城下町にして東海道の宿場町という立地から栄え、明治時代の中頃からは鉄道の町として栄えてきた。戦後徐々に人や物の流れが当駅を経由しない形に変わり昔日の活気は失われたが、関西本線と紀勢本線が交わるのみならず、JR東海とJR西日本の境界駅という要衝であることに変わりはない。
眠気を催すほどの暖かな車内から降り立つと、眠気が覚めるような冷気に包まれた。遥か先まで伸びるホームには、肩をすぼめて足早に改札に向かう人がちらほら見えるだけで閑散としている。それは繁栄と衰退を同時に感じさせる光景であった。
ホームは3面が並べられて跨線橋で結ばれている。5番のりばまで用意されていて地方の駅にしては充実している。中でも特筆すべきは中央のホームで、都市部の駅を彷彿とさせるほど幅が広く、上を見れば大柄な木造上屋が連なり、下を見れば石積みであるなど、歴史と風格を兼ね備えたものだった。
短い普通列車が発着するばかりで持て余し気味だが、かつて関西本線には大阪や名古屋方面に向かう優等列車が行き交い、伊勢方面に向けては伊勢神宮の参拝者を乗せた列車がはるばる東京からもやってきたという。さらに機関区や操車場などを擁していた当駅の繁栄は推して知るべしというもの。堂々たるホームはそんな時代の置き土産のようなものなのである。
自動改札を通り抜けて駅舎に入ると、みどりの窓口や券売機が並び、地方では目にすることが少なくなったキヨスクも営業していた。観光情報を集めた一角にはパンフレットや写真が並んでいる。ひと通り揃っているが利用者は少なく、窓口の駅員もキヨスクのおばさんも、どこか手持ち無沙汰にしていた。
当駅から奈良方面は災害により不通のため、駅前には代行バスが待機していた。列車が到着すると乗り換えの案内放送が流れ、駅舎内外では代行バスを案内したり、利用者を誘導する係員の声がひびき、静かな駅が少しだけ賑やかになった。
目の前には駅と向かい合うようにして、文字通り見上げるように大きな能褒野神社の大鳥居が立つ。これほどの鳥居を擁する神社がどこにあるのかと思うが見当たらない。それもそのはず地図によると5〜6kmも北に鎮座しているのだ。鳥居があることだし参拝しておくかと、後先考えず向かうと大変なことになる神社である。
亀山宿
駅前通りを10分も歩くと曲りくねる狭い道路と交差する。数多ある街路のひとつといった何気ない通りだが、これこそが江戸時代の大動脈たる東海道であり、活況を呈していたであろう亀山宿のあった所だ。それを誇示するように座る「東海道亀山宿」と刻まれた大きな石碑を横目に足を踏み入れた。
そこは全長2.5kmにも及ぶ亀山宿の中でも、西側に位置する西町という一角で、台地の上にあるため緩やかな坂道を上がっていく。そして上がりきった所に待っていたのは江戸時代に引き戻されたかのような町並み、といったものではなく、張り巡らされた電線の下に住宅や商店が並ぶ、ひとことで言えば見なれた現代の町並みであった。
拍子抜けするものがあるが、建物ごとに「ひのや跡」「おわりや跡」「かどや跡」などと屋号の記された木札が掲げられ、街角に立つ古びた道標や曲りくねる道筋など、そこかしこに街道の香りを漂わせている。
ほとんど人通りはなく、たまに車が走り抜けていく程度だが、街道歩きの旅でもしているのかリュックを背負った中年夫婦とすれ違った。これが亀山の町で目にした唯一の行楽客になろうとは、この時は思いもしなかった。
わずかに残された趣ある建物は旧舘家住宅で、蔵を従えた格子の美しい構えは、亀山宿を代表する建築物だという。呉服商を営んでいたというから内部も相当なものだと思われ、無料公開の文字に引き寄せられるが、残念なことに年末年始は休館であった。
京都まで付き合う訳にはいかないので町外れで脇道に逸れ、武家屋敷跡や外堀だったという池などを眺めつつ亀山城址までやってきた。
小中学校に囲まれるようにして立ち上がる石垣上には、朝日を受けて眩しいほどに輝く白漆喰に包まれた多門櫓が載っている。塗られて間がないのかシミひとつないほど白い。櫓であって天守や御殿ではないのでちょっとした建物なのだが、亀山城のみならず県内でも唯一という原位置のまま残る江戸時代の城郭建築だという。内部も公開されているが、これまた年末年始は休館であった。
天守閣もあったという本丸周辺は、正月準備に忙しそうな亀山神社や、親子連れで賑やかな公園などになっていた。鉄道の町だけあって本物の蒸気機関車まで置いてある。城としての面影はほとんどなく、宿場町がそうであったように往時の姿は想像の中にのみある。
駅に戻ってくると意外な光景に驚かされた。閑散としていた待合室が代行バスを待つ人たちで賑わっているのだ。それにも関わらず先ほど営業していたキヨスクは閉まっていた。午前中に閉めてしまうキヨスクなんて初めて目にした。
のんびり待合室で過ごす状況ではないので、そそくさ改札を抜けて空席ばかりの車内で発車を待つ。空気を運んでいるようなものだと思っていると、名古屋からの列車が到着してぱらぱらと乗り継いできた。もっともそれでも1両に10人いるかどうかといった程度でしかない。
12時16分、定刻通りにエンジンが唸りを上げた。構内の外れで紀勢本線に入ると、大きく右にカーブして関西本線から離れていく。紀伊半島を目指して南に進路を取ると、行く手に広がる丘陵地帯を縫うように進んでいく。車窓に流れるのは穏やかな里山風景で、歴史ありげな集落が点在していて味わい深いものがあった。
下庄
- 所在地 三重県亀山市下庄町
- 開業 1891年(明治24年)8月21日
- ホーム 2面2線
草木に包まれた丘陵の狭間に数軒が集まるひなびた所。亀山から5.5km、一身田まで6.6kmという位置からすると、利用が見込めるから開設した駅というよりも、列車の行き違いのために開設した駅といえそうだ。現在では駅裏に横たわる丘の向こうに、ニュータウンが造成されていて、見た目の割には利用の見込める立地になっている。
列車を降りたのは私だけだったが、入れ替わりにこの景色に似つかわしくない、都会的な若い女性が乗り込む姿が目に留まった。
構内は地形に合わせて緩やかに弧を描いている。屋根というものが全然ないため頭上が開放的で日差しが眩しい。いかにも田舎の小駅という佇まいをしているが、伊勢神宮を目指す長い列車が走っていた名残りか、複線と見紛うほど遠くまで2本の線路が並び、添えられたホームも端まで歩く気にならないほど伸びている。
長方形の箱を思わせる簡素な駅舎に入ると、内部も負けず劣らずの簡素さでベンチがちょこんと設えてあるだけだった。不思議なのはベンチが木製の作り付けということで、木造駅舎から抜け出してきたような作りをしていた。
駅前には数え切れないほどの自転車が並び、遠距離からの利用者が多いことを伺わせる。強風が吹き荒れているせいか横倒しになったものが多い。きっと朝晩は通勤通学の利用者で賑わうのだろうが、昼下がりとあって人の気配はなく、吹き抜ける風の音ばかりが目立つ静かな駅であった。
下庄観音山
行く宛もなく降りたら途方に暮れてしまいそうな駅だが、亀山駅から持ってきたパンフレットをめくっていると、千年以上の歴史がある江神社という文字を見つけた。延喜式にも記載のある古社だそうで、その歴史の深さに導かれるように歩きはじめた。
駅を出ると薄暗い谷間を下っていく。その先には日当たりの良い開けた土地があり、中ほどを流れる小川を境に、こちら側には農地が広がり、あちら側には住宅がぎっしり並ぶ。駅から離れるほど人家が増えていく。
さえぎる物のない農地まで下りてくると猛烈な風に襲われた。駅前の自転車が倒れていたことが納得できるほど強い。追い風なら助かるが意地の悪いことに向かい風だ。帽子が飛ばされそうで頭から手がはなせない。見上げれば台風を思わせる勢いで雲が流れていた。
文字通り風を押すように進んでいくと道が左右に分かれていた。江神社を目指すのであれば右なのだが、左を差して「下庄観音山」という標識が立ってるのが気になる。地図にもパンフレットにも見当たらない謎の山だ。距離は記されているが色あせて、近いのか遠いのかすら分からない。そのミステリアスさの魅力に負けて思わず左に曲がってしまった。
道は薄暗い樹林の中に入っていく。何も情報がないだけに少し不安になる中で、点々と設置された標識が頼もしく映る。人にも車にも出会うことはなく、草むらで物音がすると猪でも飛び出してこないかヒヤリとさせられた。
やがて舗装は途切れ、ついには車道ですらなくなると一体の石仏が現れた。こんな所になんだろうかと思いながら先に進むとまた石仏がある。それどころか進んだ分だけ新たな石仏が現れてくる。大半は雨風に打たれているが、中には石やレンガで囲われたり瓦屋根の下にあるものも。よくよく観察してみれば三番や四番といった具合に数字が刻まれていて、観音山の意味するところがなんとなく頭に浮かぶ。
石仏に刻まれた番号を追うように進んでいると展望台まで現れた。上がってみると周辺に高い山がないだけに思いのほか見晴らしがよい。凸凹した丘陵が果てしなく広がり、はるか彼方には伊勢湾や知多半島らしきものまで横たわっている。
相変わらず風は吹き荒れていて、かちかち竹のぶつかり合う音や、ざわざわ木々の揺れる音が流れてくる。意外と線路が近いらしく足下から走り抜ける列車の音まで聞こえてきた。
周囲が開けてくると一軒の小屋があり、そこに立つ説明板や案内板でようやく山の正体をつかむことができた。それによると石仏群は西国三十三箇所を模したもので、33体の観音菩薩像が安置され、小屋と思ったのは本堂で近くには地蔵堂もあるようだ。歴史は大正時代にまでさかのぼり、有志の手により整備され、地区の平和と安全を祈願して開山、いつしか観音山と呼ばれるようになったという。
桜やツツジが植樹されていて、彩られる春には観音まつりが開催され、子供相撲大会や演芸会などで賑わったとある。そんな説明が過去形で倒木や雑草が目立つのが少々気になるが、近年植樹された桜には子供会の札が吊るされ、忘却の山という訳でもなさそうだ。標識がなければ訪れることはなかった山であり、遠目にはひたすら地味な山であるが、地区のシンボル的な山のようであった。
帰りは本堂から伸びる小路をたどってみる。整備はされているが踏み跡は薄く往来は少なそうだ。右へ左へ曲がっていると方角が分からなくなり、どこへ連れて行かれるのか不安を感じていると、意外なことに駅のすぐ裏手に出てきた。思いがけず振り出しに戻ってしまい、どうしようか迷ったが、乗りかかった船なので江神社まで往復してから列車を待った。
乗車するのは普通列車の新宮行き。亀山から約180km、紀勢本線の半分近くを走破する長距離鈍行だ。こういう列車に乗り通してみたいものだと思ったが、いざ乗車してみると車内は通勤電車さながらのロングシートばかり、こんなのに5時間も座っていたくないと思い直す。のんびり駅弁をつつきながら景色を楽しむ車両ではない。
車内は所々に空席がある程度という盛況ぶりで、すぐ降りるのだからと無理に座らず運転席の後ろに立つ。すぐにやってきた車掌から一身田までの乗車券を購入した。
しばらくは右へ左へと複雑な地形なりに進んでいくが、丘陵地帯を抜け出すと線路は直線的になり、田園地帯の中に集落が点在する開けた景色に変わった。もはや海まで行く手を阻む山も丘もありはしない。やがて広々とした平野の先に、単なる途中駅らしからぬ広くどっしりした構えの一身田駅が見えてきた。
一身田
- 所在地 三重県津市大里窪田町
- 開業 1891年(明治24年)8月21日
- ホーム 2面2線
田園地帯の中に取って置いたようにある四角い町は、高田本山専修寺の寺内町という深い歴史を有する町である。亀山から伸びてきた線路は一旦当地を終着駅として開業した。すぐに津まで延伸したので終着駅としての歴史は3ヶ月にも満たないが、結果として紀勢本線の所属駅としては下庄と並び、もっとも歴史ある駅となっている。
人気のないホームに2〜3人と一緒に降り立つと、単なる途中駅とは思えないほど風格ある上屋や駅舎に目移りがした。そこに車掌が小走りにやってきて、購入したばかりの切符を回収すると、ゆっくりと列車に戻っていった。
構内にはレンガや石積みを見せる長いホームが2面あり、どちらも木造のどっしりした上屋を備えている。昔は上下線の間にもう1本線路があったらしく、向かい側のホームが妙に遠くに映る。さらに非電化路線なので架線がないのはもちろんのこと、意外にも地下道が用意されていて跨線橋もないため、違和感を感じるほどに空が広かった。
大柄な木造駅舎は重厚な瓦屋根を載せ、白壁や格子窓で装い、門前であることを意識したのか古風な姿をしている。観光用に古く見せているようでもあるが、柱には大正12年の文字が見て取れ、実際にも築百年に迫る古い建物だった。
大きな改札口の先には広々とした待合室があったが、利用者の姿はなく、がらんどうの空間に閉ざされた窓口があるのみ。ほのかに赤みを帯びた西日に照らされ物寂しさが漂う。否が応にも栄枯盛衰という言葉が頭をよぎる。
古びた駅には古びた駅前食堂を期待する。はたして駅前に出てみると期待通りの古びた家並みがあり、日通の営業所だったのか石造り風の建物が目を引く。残念なのはその中に食堂が見当たらないことで、飯抜きになるかもしれないと思った。
専修寺
駅を発つと間もなく大柄な瓦屋根がちらりと見えた。建物の素性は分からずとも伽藍の一部であることは間違いない。この町には真宗高田派本山の専修寺がある。町そのものが専修寺の中にある寺内町として発展したというから、町に寺があるというより、寺に町があるというべきかもしれない。かつては寺と町をひとまとめに環濠が取り囲み、架けられた橋には門まで設置され、夜になると閉ざされていたという。
まもなく息を呑むほどの存在感を放つ巨大な山門が現れて驚かされた。これが京都界隈であれば大きな門があるなあという印象で終わったかもしれないが、三重県の一隅にある小さな町で偶然目にしたものだから意表を突かれた。
彫刻を見上げるようにして山門を抜けると、広々とした境内に大きな御影堂が悠然と座っていた。親鸞聖人の坐像が安置されたそれは、江戸時代前期に建てられた県下最大の木造建築だという。全国的に見ても指折りの規模だろう。時間的なものか周囲には不思議なほど人の姿はなく静まり返っており、あかね色に染まりゆくなか、五色幕がゆったり風になびいている。それは何ともいえない厳かな光景であった。
敷き詰められた砂利の上を音楽でも奏でるようにざくざくと歩いて回る。御影堂の隣には負けず劣らず荘厳な如来堂があり、祝国宝の看板が立て掛けてある。歩けば歩いただけ文化財や史跡といった文字の記された説明板に行き当たり、歴史の宝庫のような寺院である。
規模にしては人気がないのもそうだが、拝観料を取らないのが不思議なくらいだと思っていると、通りかかった中年夫婦が「500円は取ってもいいな」と話している声が聞こえてきた。
沈みはじめた太陽に急かされるように寺内町に入り込んでいく。古びた家屋がそこかしこに残る風情ある町だ。人通りのない商店街に出ると意外にも明かりを灯す店が点在している。雑貨に洋服に菓子に酒、それに何を売っているのか謎の店まで、個人商店というのは眺めているだけでも楽しい。今の時代にこれだけ生きているなら、昔はさぞかし賑やかな商店街だったろうと思う。
歴史ある町らしく街角には「江戸みち」と刻まれた大きな道標が立ち、往時の姿を伝える説明板も数多く設置されていた。それらに目をやりながら外濠や門跡などを訪ね歩くが、みるみる景色は暗くなっていく。時代が時代なら門が閉められ外に出られなくなる時刻が迫っていた。
暗い群青色の空に赤みを帯びた飛行機雲が浮かんでいる。もう少し散策したい気持ちは残されていたが、日が沈むと暗いだけでなく寒くなりはじめ、空腹も重なり、最後にもう一度だけ専修寺の山門を眺めると迷わず駅に向かった。
エピローグ
とっぷり日が暮れたホームで列車を待つ。冷たい風に手はかじかみ身は縮こまる。このような無人駅にひとり佇んでいるのは淋しいものがある。それだけに遠く列車の明かりが見えた時には、何ともいえない安堵感のようなものを覚えた。
車内は暑いほどに暖房が効いていて気持ちよかった。乗車したのは私だけだったが降りる人は意外と多く、大人から子どもまで5〜6人くらいが降り、その精算に手こずっているようで数分ばかり停車していた。遅れを取り戻すように勢いよく走り出すと、事前精算で定時運行にご協力をとアナウンスが流れた。
さっそく協力して切符を購入しようと思うが待てど暮らせど車掌は来ない。そして姿を見せることなく亀山駅に到着してしまった。
仕方がないので切符を持たぬまま改札に向かう。しかし一身田から乗車したことを証明するものが何もないことが気がかりだ。ワンマン列車なら整理券があるが車掌が乗務していたのでそれもない。面倒なことになったと思いながらも、改札で一身田からと告げると、240円ですと即答であった。
(2017年12月30日)
コメント