目次
プロローグ
2018年3月27日、青空と桜と海を求めて四国は徳島にやってきた。目的地は徳島県の海沿いを南下する牟岐線である。春に旅をするなら桜が見ごろの所、天気が良いので山より海が近い所、中国地方に向かう予定があったのでその近く、色々な条件から絞り込んでいくと、最後に残ったのがこの路線だった。
牟岐線は徳島を起点に紀伊水道や太平洋沿いを南下、県内では最南端の駅、高知県を目前にした海部までを結ぶローカル線である。全長は79.3km、駅は30箇所ある。駅が多いのみならず夏季限定で営業する臨時駅もあり、容易には完乗できない手強い相手といえよう。
開業は起点の徳島側が1913年(大正2年)と百年以上の歴史を有している一方で、終点の海部側は1973年(昭和48年)と新しい。実に60年もの歳月をかけて延伸していったのだ。古くて新しいとはこのことかと思う。
時刻表を開くと徳島から阿南までは毎時1〜2往復と本数が多く、近郊路線という顔を見せているが、そこから先で一気に半減しているのが印象的だ。終点付近まで行くと特急列車すらなくなる。進むほどに沿線が寂れていくことが手に取るように分かり、ローカル線好きとしては先に進むのが楽しみになる路線である。
徳島
- 所在地 徳島県徳島市寺島本町西
- 開業 1899年(明治32年)2月16日
- ホーム 2面4線
市内の安宿を出たのは午前7時半だった。ヤシ並木が南国らしさを漂わせる大通りを進んでいくと、県の代表駅らしい大きな徳島駅舎が見えてくる。駅前ロータリーにはバスやタクシーが絶え間なく出入りし、走行音や人々の雑踏に信号機の音などが混ざり合い、朝のターミナル駅らしい喧騒に満ちていた。
空は晴れてこそいるが薄雲が広がりスッキリしない。気温は春先とは思えないほど高く歩いているだけで汗ばんでくる。それだけに山からくるのか海からくるのかよく分からないが、時々吹き抜けていく冷たい風が気持ちよかった。
バス停の長い行列を横目に駅舎に入ると、金剛杖を手にしたお遍路さんが歩いているのが四国らしい。入場券を手にホームに向かうと特急を待つ旅行者や用務客が列を作り、高徳線・鳴門線・徳島線・牟岐線から先を争うように入線してくる普通列車からは、通勤通学客がどっと吐き出されてくる。列車が入線する度に阿波おどりのお囃子が流れ、次々発着する列車のエンジン音が響き、その中を人々が行き交う活気あふれる構内である。
活気はあるけどホームは2面4線でそのうち1線は行き止まりと、ローカル線の主要駅くらいの規模でしかない。4つもの路線から列車が乗り入れる駅としてはこじんまりしている。ただ駅裏には多数の側線が並び、種々雑多な車両がたむろする車両基地があるため、全体としては広々とした敷地を持つ大きな駅である。
駅のすぐ裏手には標高わずか61mの緑に包まれた小山がある。かつて徳島城の天守や本丸があった城山だ。そのまた向こうは市街地を挟んで海が広がる。つまり駅裏の方が海側ということになる。ホームに立つと大きな駅舎に阻まれ表側にある山は見えないが、この城山はよく見えるため、つい山の見える裏側を内陸方向だと錯覚してしまう。そのため列車が行き先とは逆方向に動き出すように見えて混乱させられたことは数知れない。
歴史ある駅だけに古びた設備もそこかしこに残る。幅の狭いレンガ積みのホームや、レールを骨組みに木製の窓枠という跨線橋など、近代的な駅舎とは対照的なものも多い。県庁所在地の駅としては珍しく電化されていないので頭上がすっきりしているのも印象的だ。この雰囲気と活気が古き良き地方の主要駅を想起させ、どこか懐かしさを感じさせる駅である。
徳島城址
徳島市内の名所といえば眉山・阿波おどり会館・新町川・徳島城址などが有名だが、その中でも駅にもっとも近い城址を目指す。ホームからもその姿がよく見えるので前々から気になっていた所だ。駅と城址が隣接しているのは、堀を兼ねていた寺島川を埋め立てて鉄道を敷いたからで、おかげで城下町の鉄道といえば町外れにあることが多い中、徳島は中心部に乗り入れることができている。
そんな寺島川は駅と城址のわずかな隙間に痕跡を残している。城址に向かう途中で目にしたそれは、単なる用地境界の窪みに雨水が溜まった程度の姿であった。それでも城址側にはしっかりした石垣が残され堀があったことを物語る。
城を攻めるなら門からだろうと向かったのが徳島城の正門だった鷲の門。明治の廃城令で城を取り壊すとき、これだけは記念に残したという貴重な遺構である。といっても本物は太平洋戦争の戦火で失われたため復元されたものだ。そのため姿形は同じでも新しさは隠しきれず、両側が空いていて門としての意味を成していないこともあり、木造の立派な門でありながら観光施設によくあるハリボテのようにも見えた。
鷲の門のすぐ脇には大きな堀とそれに面した興味深い石垣が残されていた。石材は片手で持ち上げられるような小さなものから、両手でも抱えきれないほど巨大なものまでさまざま。荒々しく角ばっていて、よじ登ろうと指をかけたら怪我をしそうなほど鋭利だ。かち割り氷を巧みに組み合わせて積んだかのような姿は、繊細でありながら力強いものを感じさせる。
造形のみならず石垣全体が青白い輝きを放っているのに目を引かれる。緑色と白色のまだら模様で、それが混じり合いながら光を反射して青白く見える。阿波青石とも呼ばれる緑色片岩である。近くにそびえる眉山ふもとで採掘できたというから、城造りにはもってこいだったに違いない。石垣全体を眺めたとき力強さだけでなく気品も感じさせるのは、庭石としても使われるこの石の為せる技であろう。
城址の奥深くへ進んでいくと、徳島中央公園として整備されていることもあり、ウォーキングに興じるお年寄り、満開を迎えようとする桜を眺める家族連れ、通勤通学で忙しそうに通り抜けていく人々などで賑わっていた。自然豊かで鳥のさえずりが聞こえる一方で、街の喧騒もどこからともなく伝わってきて、市街地にある城址らしい空気を漂わせていた。
まず足を止めたのが蜂須賀家政の銅像。戦国時代から江戸時代にかけ信長・秀吉・家康などに仕えた武将である。徳島藩の藩祖であり当地に城を築き徳島と名付けた人物でもある。それだけに名前から思い浮かぶのは人柄や功績より、彼が徳島ではない名前を付けていたら、現在の徳島県・徳島市・徳島駅などは、どんな名前になっていたのかということだったりする。
銅像は扇子を手にした裃姿で生真面目そうに立っているが、かつては野太刀と長槍を手にした甲冑姿という猛々しい姿をしていたという。ただそのモデルは家政ではなく父の小六だったというからもはや別物である。そんな初代銅像は戦時供出で失われ、戦後再建した際には時代を反映してか現在の穏やかな姿に変わったようである。
さらに進むと満開の桜に囲まれるように鎮座する蒸気機関車が現れた。説明板によると牟岐線を走っていた車両で、廃車後まもなく当地に保存されたという。傍らには見学スペースを兼ねたホームがあり、その上には駅舎風の休憩所や駅名板などが設置されていた。走る訳ではないがレールは車両前方に長く伸びている。現役時代の駅に停車する姿を再現したような展示は好印象である。
目の前が徳島駅なので行き交う列車の音がよく聞こえてくるのがまた良い。駅のホームからこちら方向はよく眺めていたけど、こんな車両が眠っていたとは気が付かなかった。
近寄ると全体が柵に囲まれ、車両自体にも足回りに金網が取り付けられていたりと、なんだか物々しい。盗難・いたずら・事故防止など色々仕方のないところか。それでもよく見ると破損や劣化が目につくのが残念なところ。力を入れて整備したものの維持管理が追いついていないようで、車両保存の難しさを考えさせられる。
城山にも上がってみようと蒸気機関車の脇にある石段に向かう。標高は61mと大したことはない。序盤は樹林に囲まれた単調な景色だが原生林というから驚かされる。徐々に勾配がなだらかになると、周囲には古色を帯びた石垣が現れ始め、平坦な所には櫓跡や二の丸跡などの標柱が立てられていた。原生林に囲まれ苔むした石の構造物とは、深山に眠る遺跡を思わせ、都市の中心部とは思えない所である。
突然広々とした空間に出るとそこが山頂の本丸跡だった。付近には天守跡もあるが建物は何も残されていない。気温の上昇する中を一気に上がってきたものだから汗が流れる。周囲には健康のためか息を上げながらやってきた老人が、休憩を取りながら歓談する姿が目立つ。少しすると遠足なのか園児がどやどや上がってきて一気に華やかな雰囲気に変わった。石段を駆け上がり山頂を走り回る子供のエネルギーには圧倒されるものがある。これを見るに私の体力は子供より老人の方に近いようだ。
街中にある独立した山だから眺めはさぞかし良いだろうと思ったが、木々に囲まれてほとんど視界は開けなかった。ふもとから踏切の音や列車のがたごと走る音がよく聞こえ、街の雑踏も感じられるが、その姿は想像に頼るばかりである。
城山を下りるとふもとの遊歩道を散策して歩く。沿道には蓮の浮かぶ弁天池、縄文時代から弥生時代のものという貝塚、かつて付近が海であったことを表す海触跡など、見どころには事欠かない。人出は増えるばかりでレジャーシートを広げて宴会中の一行も目につく。
気がつけば時刻は昼近く小腹が空いてきた。園内にある茶店のような食堂に向かうと花見客を見込んでか、店頭には三色団子からたこ焼きまで手軽に食べれそうなパック物が所狭しと並べられていた。それらを桜を眺めて食べるのもいいかと思ったが、大鍋に入ったおでんが格別美味そうに見えて、その湯気に誘われるように入店してしまった。
店内はどこか雑然としてひんやりした空気が漂う。ラジオの声と風鈴の音色だけが聞こえる静かな空間だ。店員はおばあさんで昔ながらの小さな食堂を連想させる。
おでんを注文するとすぐに店先の鍋から持ってきてくれた。それを行き交う花見客を眺めながらいただく。味付けは甘みの強いこってり濃厚なもので、甘いだけではなく甘辛いといったほうが良いかもしれない。それが具材の中にまでよく染み込んでいてうまかった。
空腹が満たされたところで徳島城博物館に向かう。この辺りにあった御殿を模したのか豪壮な建物である。館内には蜂須賀氏の資料などが展示されていたが、それより興味深かったのが往時の徳島城を再現したジオラマや古地図で、城山のふもとを流れる堀を兼ねた寺島川が、徳島駅の形に実によく似ているのだ。パズルのピースのように駅がピタリとはまりそうで、埋立地に駅を作ったというのがよく分かる。
博物館に隣接する旧徳島城表御殿庭園にも立ち寄る。江戸時代初期に作られた築山泉水と枯山水の両様式を組み合わせた広大な庭園で、鳴門や大歩危と共に徳島県では数少ない国の名勝に選ばれている。
まず現れたのが石垣と同じく阿波青石を用いた大きな池で、それを芝生と庭木と城山が取り囲んでいる。石と緑の組み合わせが美しいだけに、背後にビルが借景のようにして顔を出しているのが少し残念。入場料が惜しいのか公園の人混みが嘘のように人影はなく、奥にある枯山水庭や冷たそうな水が滔々と流れる水路を、ひとり静かに鑑賞して歩く。あまりに誰もいないから立入禁止の場所ではないのかと不安にかられるほどである。
見どころが多すぎて気がつけば13時を回っていた。次の駅に向かわなければと焦りが出はじめるが、案内板にある竜王さんのクスが気になって仕方がない。迷いつつも巨木を素通りすると悔いが残りそうなので思い切って向かうことにした。それは午前中に訪れた蒸気機関車のすぐ近くで、あのとき立ち寄っておけば効率が良かったのにと今更ながら思う。
竜王さんのクスは木材の塊のような姿をしていた。本来なら上に伸びているはずの太い幹が地面に横たわっているからそう見えるのだ。普通なら見上げるような部分が目の前にどんとあるのだから迫力がある。昭和の三大台風のひとつ、1938年(昭和9年)の室戸台風で倒れたという。これほどの巨木をなぎ倒す台風もすごいが、それに負けじと半ば朽ちかけのようにしながらも葉を茂らせるこの木の生命力もすごい。
名前の由来は荒々しく地を這うような姿からと思いきや、竜王神社が近くにあったからだという。樹齢はおよそ600年と城址では最大級の巨木だ。このくらいの樹齢の木は日本各地にあるけど、このような姿形となると珍しく、時間に追われつつも訪れて正解だった。
急いで駅までやってくると牟岐線の列車は出たばかりだった。竜王さんのクスに寄り道しなければ乗れただろうが仕方ない。発車直後とあって人気の少ない静かなホームでは、ベンチに座って白装束のお遍路さんと、手提げかばんを持った地元のおばちゃんが話し込んでいた。恐らく1番札所のある坂東に向かう列車を待っているのだろう。お遍路さんの5回目ですという声にすごいなあと思っていると、おばちゃんが私は6回行ったというのに驚かされた。
徐々にホームに乗客が増えてくると、牟岐線の海部行きと高徳線の板野行きが、時を同じくして入線してきた。お遍路さんは高徳線に向かい私は牟岐線に向かう。ワンマン運転の単行列車はまたたく間に満席となり立ち客も出る混雑となった。
発車するとすぐに牟岐線に入り加速しながら市街地を抜けていく。実は徳島駅は高徳線に所属しているため、これでようやく名実ともに牟岐線の旅になったという訳だ。
車窓を楽しむ間もなく減速しはじめ、ゆるゆると新町川を渡れば早くも最初の停車駅に到着である。路面電車かと思うほど隣駅が近い。これほど短距離で降りるのは私だけかと思いきや、発車時から列車前方に立っていた数人が、定期券を見せつつ降りていった。
阿波富田
- 所在地 徳島県徳島市かちどき橋
- 開業 1986年(昭和61年)11月1日
- ホーム 1面1線
雑居ビル・マンション・アパートなどが並ぶ一角にある。徳島駅からわずか1.4kmという距離にして徳島県庁も近いところだが、繁華街というほど賑やかではなく、住宅街というほど閑静でもない。かといってオフィス街ともまた違う。本通りを外れて雑多な裏通りに入ってきたような印象のするところである。
列車を降りた人たちは足を止めることなく去っていき、列車の去ったホームには私だけが残された。取り巻く道路はたまに人や車が通るくらいで静かなものだが、カラオケの歌声がどこからともなく漏れ聞こえてくる。気温の上昇はとどまるところを知らず、こうして立っているだけで汗が滲み、3月なのに5月を思わせる陽気だ。
構内は狭いホームが1面あるだけで、待合所もベンチの上にちょっとした屋根をかけてあるのみ。中心市街の近辺とは思えないほど簡素で飾り気がなく、駅というより停留所というほうがしっくりくる。開業が1986年(昭和61年)という国鉄末期のせいか、乗れさえすれば十分だろうと言わんばかりである。
ホーム端にある階段を降りるといきなり線路に並行する道路に出てしまう。当然駅舎どころか駅前広場すらない。駐輪場もないので道ばたに自転車がぎっしり並んでいる。土地のない街角に無理やりホームを押しこんだように見える。当然ながら駅員の姿はない。
そのような駅ではあるが街中だけに利用者は多いらしく、出入口の階段脇に券売機が置いてある。しかも特急停車駅という顔も持っていて、券売機では特急券を買うこともできる。人は見かけによらぬというが、駅もまた見かけによらぬものである。
眉山
徳島市の観光といえばシンボルともいえる眉山を外すわけにはいかない。徳島駅の正面で街を見下ろすようにそびえ、眉のように穏やかな形をした山だ。駅周辺が海沿いの平地なので高く見えるが標高は290mしかない。市街地から近いだけに山上は開発されていて、ふもとからは道路・登山道・ロープウェイなどが延びている。気持ちとしては歩いて登りたいが、すでに日が傾いていることもありロープウェイに決めた。
まずは乗り場を目指して出発。実のところ眉山に向かうなら徳島駅の方が近いのだが、城址と眉山の両方をめぐると、牟岐線に乗ることなく今日が終わりそうなので、あえての阿波富田駅からである。それに数百メートルの違いでしかない。
駅から眉山に向けては新町川という川沿いの散策路をゆく。街中にあって車や信号を気にすることのない良い道だ。両岸には繁華街が広がり、見下ろす川面は海が近いこともあり、ほとんど流れはなく潮の香りがする。なんだか運河を歩いている気分になってくる。
レンガ造りの橋脚を見せる牟岐線の鉄橋が目をひく。この辺りは開業から百年以上が経過しており、牟岐線でも最古の区間だ。その下を遊覧ボートが水しぶきを上げながらくぐり抜けていく。船上にはライフジャケットを着込んだ観光客が楽しそうに並んでいる。乗ってみたい誘惑にかられるが、まずは眉山だと思いとどまる。
眉山のふもとまでやってくると脇道に入り瑞巌寺に向かう。この辺りは寺社が多数あり見逃すのは惜しいが、傾く日ざしがせっついてくるので、湧水や庭園が有名なこの寺に絞って立ちよることにした。
見えてきた山門は城址で目にした鷲の門とは比べるべくもない小さな門だった。しかし傍らにある満開の桜と大きく傾斜した松がよく似合う風情ある門である。眺めていると背後に自転車が止まり、降り立ったおばさんが足早に門の向こうに消えていく。私ものんびりはしてられないと、後を追うように門をくぐった。
境内はそこかしこから水音が聞こえ、背後に眉山の山体が迫っていることもあり、市街地にいることを忘れさせる。どこか山村の寺に訪れたような気分である。よほど良質な湧水なのか、車でやってきて水を汲んでいく人の姿もある。
奥に進むと本堂と向かい合うようにして件の庭園があった。ところが入口は閉ざされ真新しい張り紙に嫌な予感がする。読むと猪に荒らされたため当分非公開とある。非公開の理由が猪とは想像外で驚かされる。これには先行するおばさんもすごすご退散していく。いかなる庭園なのか気になるが生垣に囲まれ遠目にすら眺めることはできない。こちらもすごすご退散するより仕方がなかった。
15時半、ロープウェイ乗り場を兼ねている阿波おどり会館に到着。2駅目が始まったばかりとは思えない遅い時刻である。ここはその名の通り阿波おどりに関する様々な展示から体験施設が入居しているが、まだ次の駅に行ける可能性を残しているので寄り道している暇はない。脇目も振らずエレベーターに向かい乗り場のある5階に向かった。
先客は5〜6人で混んではいないが空いてもいない。顔ぶれは家族連れからひとりの爺さんまで様々だ。それを横目に券売機に向かいチケットを購入すると、タイミングよくゴンドラが降りてきた。降りる人はなくすぐに乗車となる。
眉山ロープウェイは樽のような形をしたゴンドラを2台連ねているのが特徴的だ。列車でいうところの2両編成のような姿をしている。遠ざかる街を眺めるため下側に位置するゴンドラのそのまた後方に陣取った。
慌ただしくドアが締められるとすぐに発車。するする音もなく地上が遠ざかる感覚が楽しい。所要時間は約6分もあるが徐々に小さくなっていく駅や城址を眺めていると、あっという間に到着して物足りないほどである。
山頂駅からは徳島市街から紀伊水道までを一望できる。四国随一の夜景スポットと称されるのも納得の眺めだ。徳島駅・城址・新町川、今日歩いた所は概ね視界に収まる。時として対岸の和歌山県まで見えるというがそれは残念ながら見えない。この場所に立つのは2回目なのだが何度訪れても飽きない眺めである。県の代表駅からわずかな距離を歩くだけで、この景色を手にできるのだから素晴らしい。
周辺はとても静かで朝から付きまとわれてきた雑踏からようやく開放された。それだけに何気ない話し声や歩く音がとてもよく聞こえる。風も心なしか下界より涼しく、暑さが和らいで過ごしやすい。ベンチに座ると眠気を催すような穏やかさであった。
山頂部にはさまざまな施設や石碑があり、その中から神社・一等三角点・パゴダ平和記念塔などをめぐりながら広場を歩く。付近には巨大なアンテナがいくつもあり、全体的な統一感もないというか、下界を眺めるには申し分ないが山頂部を眺めると雑然として映る。車で訪れることもできるのでロープウェイが空いていた割に観光客は多く、そこかしこで思い思いにくつろぐ姿が見られる。中には自転車で上ってきた人までいた。
40分ほどの滞在で下山する。帰りは中国人の団体客と一緒になり、こんなに大勢乗れるのかと思ったが、案の定に乗りきれず次の便にまわされた。この辺りで次の二軒屋駅に行くのは無理かなと思いはじめた。
往路は下側のゴンドラに乗ったので、復路は上側のゴンドラに乗り込む。同乗したのは中国人ではなく日本人の兄さんたちであった。
次の駅に向かうには遅いが、宿に向かうのは早いので、阿波おどり会館の脇にある天神社に立ちよる。境内では朱色の鳥居や社殿が、満開の桜と雅楽の音色に包まれ、華やかさと厳かさが漂っている。平日だからか時間帯によるものか、宮司さんの姿はあれど参拝者はほとんどなく静かなのがとても良い。
混雑を避けて裏通りのような所から駅に向かっていると、脇道の奥に八幡神社の鳥居があるのが目にとまる。それだけならどうということはないが、鳥居の奥にまるで古寺を思わせる荘厳な門がある。通り過ぎかけたが思い直して行ってみると、江戸時代に作られたという随身門で、両脇には木製の神像が収められていた。門の向こうには南米の古代神殿を思わせる幅の広い石段の上に拝殿が鎮座している。
そのまた隣には蜂須賀家の歴代藩主を奉った国瑞彦神社もあった。眉山ふもとに密集する寺社は、ひとつひとつが興味深い歴史や姿を有していて飽くことがない。じっくり歩いてめぐればそれだけで朝から晩まで楽しめそうな所である。
街並みは少しずつ赤みを帯びて薄暗くなってきた。夜が近づいているが気温だけは日中とほとんど変わりなく、歩いていると喉が渇いて仕方がない。
ようやく駅に戻ってくるとタイミングが悪いことに列車は出たばかりだった。夕方の県庁所在地ともなればすぐ次の列車がやってくるだろうと楽観的に考えたが、そこはさすがローカル線である、1時間近くもなくて途方にくれる。
仕方がないのでこの時間を利用して夕飯にしようと頭を切り替えた。徳島名物を味わえる飲食店を探しながら散策していると県庁近くで中華料理店を発見。チェーン店なら興味が沸かないが、見るからに家族経営といった小さな佇まいが気に入った。土地の食べ物ではないけど土地の飲食店というのもまたいいものだ。
のれんをくぐると夕飯には早いせいか客の姿はない。母親らしき人が注文を取りに来たので、好物でありながら家でばかり食べている酢豚の定食にしてみた。素早く息子らしき人が調理してあっというまに出てきた酢豚は、こってりした味付けも酸味も実にちょうどよく、野菜もシャッキリしているけど柔らかい絶妙な火加減。やっぱりプロは違うなあと思う。
ゆっくり食べていたら気づいた時には列車時刻が迫っていた。残すところ10分しかない。これを逃せば元の木阿弥だと急いで会計を済ませ店を出る。ちょうど出前から帰ってきた父親らしき人と軽く言葉を交わしたら走って駅に向かう。列車に合わせて行動しなければならないのはローカル線の面白いところであり大変なところでもある。
エピローグ
ホームには帰宅時間とあってぽつぽつ仕事帰りらしき人たちが集まってくる。景色は刻一刻と暗くなり街灯も灯りはじめた。やがて踏切が鳴りはじめると列車のヘッドライトが近づいてくる。徳島行きの普通列車で、牟岐線の終点海部から、はるばる2時間以上かけてやってきた列車だ。
残照の中を滑り込んできた列車は意外にも単行だった。通勤通学客のある時間帯に長距離を走るにしては随分と短い。これは寿司詰めになるのかなと思ったが、ボックス席を専有できるほどの乗客しかなかった。単行にするのも当然だなと納得する。
ものの2〜3分であっという間に到着した徳島駅は、列車を待つ人に降りる人、両者が入り乱れて混み合っていた。ホームは人混みをかき分けるという表現がぴったりだ。押し流されるように改札を抜けると、その足で宿に急いだ。
(2018年3月27日)
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