牟岐線 全線全駅完乗の旅 5日目(羽ノ浦〜阿南)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2019年4月3日、午前7時を過ぎた徳島駅は通勤通学客でごった返していた。雑踏に急かされるように切符を購入すると、人波に逆らうように改札を抜け、目の前に停車していた阿南行きに乗り込んだ。発車まで時間はあるが、既にほとんどの席は学生と会社員で埋まり、夜逃げかと思うほど巨大なリュックを背負った外国人お遍路さんの姿まであった。

辛うじて見つけた空席に落ち着き発車を待っていると、隣に高松からの列車が到着、そこから人並みが押し寄せてきて、あっという間にすし詰めとなってしまった。

徳島駅で発車を待つ、普通列車の阿南行き 531D。
普通 阿南行き 531D

通路まで一杯になるのを待っていたかのように列車は動きはじめた。これだけ混雑していると降りるにも一苦労だと案ずるが、最初の停車駅で通勤客がごっそり降り、その次の停車駅では学生もごっそり降り、わずか2駅目にして車内はすっかり空いてしまった。いつしかお遍路さんも去り、目的の西原に到着するころには空席が目立つほどになっていた。

西原にしばら

  • 所在地 徳島県阿南市那賀川町大京原
  • 開業 1964年(昭和39年)10月1日
  • ホーム 1面1線
路線図(西原)。
西原駅ホーム。
西原駅ホーム

広大な平野を碁盤のようにして、住宅と田んぼという碁石が場所を取り合う、そんな対局の中に置かれたような駅である。全体の人口は多そうだが中心地というほど発展した所が見当たらないせいか、開業は戦後になってからと新しい。場所も両駅のほぼ中間という、どこに作っても同じようなものだから真ん中にしてみたという風である。

乗降客は私くらいのものかと思いきや、どこに向かうのか数人が一緒に降り、スーツ姿の中年男性や高校生が乗っていく。まだ春休み中だと思うがなんだろう、赤いランドセルを背負った小さな子供の姿まであった。

駅は線路脇にホームを置いただけの簡素な作りで、小さな屋根とベンチを載せている。意外なのはそこにトイレまで載っていたことで、それも仮設のようなものではない男女別の立派なものだ。遠目には待合室と見紛うような位置と大きさをしている。取り付けられた銘板には寄付者の名前が記され、生活利用者を目にした直後ということもあり、地域にとって大切な駅であることが伝わってくる。

駅に隣接する陸橋下には、駐輪場・電話ボックス・郵便ポストが並ぶ。
駅に隣接する陸橋下

ホームを降りると狭い道路があるだけで駅舎はもちろん商店もない。駅前であることを匂わせるのは公衆電話と駐輪場くらいのものだ。それすら近くの陸橋下を間借りする恰好で後付の感がある。国鉄時代には朝晩数本の列車が停車する程度で、あとは普通列車にすら素通りされるという、まさに通勤通学のためだけにあるような駅だったので、それを思えばいかにもという駅前風景であった。

阿波公方あわくぼう

この地には室町時代から江戸時代にかけ、足利将軍家の一族である阿波(平島)公方が暮らす平島館があった。それは将軍継承争いに破れた室町幕府第11代将軍の次男・足利義冬を、阿波守護・細川持隆が迎え入れたことに始まる。やがて息子の義栄が第14代将軍に就任するに至るが、在任半年ほどで病死、後を追うように室町幕府も終焉を迎えた。それからも当地で代を重ねていくのだが、江戸時代に入ると藩主・蜂須賀氏からの扱いに不満を募らせ、ついには阿波から去っていったのである。

主を失った平島館はすぐに撤去され、一部は移築されて現存するが、当地には何も残されることはなかった。建物どころか敷地すら農地にされてしまい、文字通り跡形もなくなっていたのであるが、現在そこに「阿南市立阿波公方・民俗資料館」が建っているという。

もちろん私は資料館を目指して歩きはじめた。開けた平野だけに冷たい風に煽られるが、日差しが強いので寒くはない。歴史の深さを喧伝するような曲りくねる道沿いには、水の張られつつある田んぼが広がり、流れ込む水音や、代掻きに勤しむトラクターに春を感じる。

代掻きの進む水田。
代掻きの進む水田

迷いながらも30分ほどかけて平島館跡に到着。そこに建つ資料館は鉄筋コンクリートで造られた近代的なものだが、古代より宝物庫などに使用されてきた校倉造を思わせる形で、いかにも貴重なものを収めてますといった佇まいをしている。

その傍らには高さ2〜3mほどの小山がちょこんと置いてあり、周囲には桜の木が並び、ふもとには年季の入った石仏や墓石のようなものが並んでいる。いかにも歴史ありげな様子に近づいてみると、山頂部に平島館跡と記された標柱が立っていた。

なんだか分からないが館跡とあるのだから遺構にちがいない。庭の築山か土塁かと想像をめぐらせ楽しむ。ところが後日資料館で購入した書籍を読んでいると、館跡を農地にすべく整地した際の残土というようなことが記されていた。どうやら単純にこの辺りに平島館がありましたよという標柱だったらしい。

平島館跡に残された小山。
平島館跡に残された小山

ようやく資料館に足を踏み入れると、初代阿波公方こと足利義冬を中心に、義父で第10代将軍の足利義稙、息子で第14代将軍の足利義栄、3体の木像に出迎えられた。義冬は七福神を思わせる穏健な表情をしているのに、義稙と義栄は鋭い目つきの険しい表情で、こちらの方が親子に映る。そんな木像にはそれぞれスポットライトが当てられているが、義栄だけライトが切れて薄暗い中に座っている。在任期間の短さもあり歴代室町将軍でも影が薄い存在であることを視覚的に表しているようでもある。

展示室では阿波公方の成立から退去に至るまでの流れを、20分ほどにまとめたビデオ鑑賞からはじまる。これが存外に分かりやすく仕上げられていて、阿波公方の概要を掴むにはすぐれたものであった。

展示品に目を移すと足利家や阿波公方にまつわる品々が並び、中には阿波退去時に蜂須賀家から送られた退去慰留状なる興味深いものもある。そこには「行く末も決まらぬまま累代の地を捨ててまで退去するとは笑止」などと記されていて、真意としては心配しているのか嘲笑っているのか、どちらだろうと思わず見つめてしまう。

足利義冬の木像(許可を得て撮影)。
足利義冬の木像(許可を得て撮影)

併設された民俗資料の展示室など、ひと通り見学したところで資料館をあとにする。次に向かうべき場所として阿波公方の菩提寺であった西光寺をおすすめされ、阿波公方の史跡が記された地図をいただいた。

地図には平島館にあった神社の合祀された、古津八幡神社が載っていて、ちょうど駅に向かう途上にあるので立ち寄ってみた。どこにでもありそうな小さな神社であるが、風化した鳥居が歴史を感じさせる。境内には義冬が寄進したという石灯籠が立っていた。

古津八幡神社にある足利義冬寄進の石灯籠。
足利義冬寄進の石灯籠

駅に戻ってくると列車は出たばかりだった。古津八幡神社に寄らなければ間に合ったかもしれないが仕方がない。幸いにして運転本数が多いので次の列車を待つ。

さえぎる物のないホームには冷たい風が絶えず吹き抜け、肩をすぼめて待つこと約20分、阿南行きの単行列車がやってきた。もうすぐ昼を迎えようかという通勤通学と縁のない時間帯だけに空いていた。

西原駅に入線する、普通列車の阿南行き 4541D。
普通 阿南行き 4541D

車窓には歩いて眺めた景色そのままの景色が流れていく。どこまでも住宅と田んぼのせめぎ合いが続いている。全体的には田んぼが優勢かなと思っていると、徐々に住宅が勢力を伸ばしはじめ、いよいよ住宅ばかりが連なるようになると、そこが阿波中島駅であった。

阿波中島あわなかしま

  • 所在地 徳島県阿南市那賀川町赤池
  • 開業 1936年(昭和11年)3月27日
  • ホーム 1面1線
路線図(阿波中島)。
阿波中島駅舎。
阿波中島駅舎

県下では吉野川と並ぶ大河である那賀川、その河口近くに位置する町で、入り組んだ道路沿いに住宅が軒を連ね、寺社や小学校なども配されている。少し歩けば広々とした農地、さらには和歌山県と向かい合う紀伊水道に至る。現在は阿南市に属する小さな駅でしかないが、昭和の大合併までは中島村、平成の大合併までは那賀川町の代表駅であった。

見るからに生活利用者という数人に続いて降り立つ。駅を囲むようにアパートが並んでいるのが印象的だ。徳島や阿南という県下有数の都市に乗り換え不要で、それも多数運転されているのだから、鉄道利用で生活するには便利な所かもしれない。

足下にあるのは離島のように小さな島式ホーム。しかし駅舎側にあるべき線路が取り払われて島ではなくなっている。かつての交換可能駅も残された線路は1本のみと寂しい。跡地は一部が花壇に再利用されているが、大部分は茶色いバラストと雑草の天下だ。駅舎に向かう構内踏切も線路が消えて単なる通路になっている。

阿波中島駅ホーム。
阿波中島駅ホーム

構内踏切跡を踏みしめ向かった駅舎は、内外ともきれいにリフォームされていたが、いかにも地方の木造駅舎といった佇まいを残している。おかげで線路1本の駅でありながら駅としての貫禄がある。いつの時代のものかと観察していると、取り付けられた建物財産票に昭和11年の文字を発見。築83年という開業当時を知る駅舎であった。

待合室にはベンチがあるだけで余計な物はなにもない。名実ともに待合室である。広い事務室を擁する外観は有人駅を思わせるが、窓口はカーテンどころか板で塞がれ、二度と駅員は配置しないと言わんばかりの様子。それでも券売機だけは置いてあるあたり、利用者は多くもないが少なくもないらしい。

駅前にある山田隆二翁碑。
駅前にある山田隆二翁碑

開業から70年も村町の代表駅だったと聞くと、駅前に古びた商店や公共施設が集う光景を思い描くが、現実には住宅やアパートが目立つ。

そんな中に肖像まで刻まれた立派な石碑があるのが目を引く。山田隆二翁碑とあるが誰だか分からない。碑文に頼ると明治時代に当地出身という鉄道省技師で、東京帝大や米国留学といった経歴に、当駅の開設誘致に尽力したことなどが記されていた。こうした郷土の偉人に出会えるのも旅の醍醐味である。

西光寺さいこうじ

なにはさておき駅前寺院とも呼べるほど近くにある西光寺に向かう。阿波公方の菩提寺であるのみならず、初代阿波公方の足利義冬が平島館に移るまでの一時期逗留した寺にして、阿波公方資料館でおすすめされた所である。つまり訪ねないという選択肢はなかった。

ものの2〜3分も歩くと本堂の屋根が見えてきた。駅に背を向けるようにして建っているため表側に回り込む。近所の方々だろうか掃き掃除に勤しむ数人の姿があり、軽く挨拶を交わしつつ古びた山門をくぐる。収められた仁王像も長年睨みをきかせている様子。

静かで暖かな境内には、本堂・焔魔堂・地蔵堂・庫裏などがぎっしり並び、見頃を迎えた桜を求めて現れては去っていく人の姿がある。最も大きな建物である本堂は山門に比べていかにも新しい。それというのも以前の本堂は、1942年(昭和17年)の火災で、旧国宝の阿弥陀如来像もろとも焼失したからだという。

西光寺本堂。
西光寺本堂

塀に囲まれた一角があり、足利二つ引きの家紋を従えた門の向こうに、時代がかった三基の墓が並んでいる。それは足利将軍や阿波公方の墓所で、10代将軍の義稙、第14代将軍の義栄、初代阿波公方の義冬のものであった。真言宗の寺院らしく緑濃いコウヤマキが供えられ、頭上に置かれた桜や青空とのコントラストが鮮やかに映る。

思えば資料館に展示されていた木像と同じ顔ぶれである。あちらは義冬を中心に据えているのに対し、こちらは義稙を中心に据えている。どういう経緯によるものか義稙と義冬はどちらも立派な五輪塔なのに、義栄だけ抱えて持てそうな小ぶりな墓石である。義栄だけスポットライトの切れていた木像と同じく、どこか影の薄い存在である。

阿波公方の墓所。
阿波公方の墓所

三基とは別に阿波公方一族や家臣の墓もある。それらの集う一角には、六代義辰之墓、七代義武之墓、などと記された立札が並んでいた。誰々の母や弟といったものまで多数あるが、件の火災により古文書が失われ、誰なのか分からないものもあるという。

ひとつひとつ眺めていると、遠い昔のぼんやりした存在であった阿波公方が、徐々にくっきりした確かな存在に変わっていく。資料館を訪れたならば併せて訪ねるべき場所である。

那賀川橋梁なかがわきょうりょう

徳島から南下してきた列車は阿波中島駅を過ぎるとまもなく、那賀川に架かる長い鉄橋に差しかかる。終戦直前の1945年(昭和20年)7月30日の16時頃、当時終点だった牟岐を目指していた列車が米軍機に攻撃され、多数の死傷者を出した那賀川橋梁である。それを後世に伝える碑が建立されたと、なにかの記事で目にしたことがあり訪ねてみたいと考えていた。

駅前通りの先に横たわる堤防上に立つと、視界いっぱいに豊かな流れが広がり、はるか対岸に向けて件の鉄橋が伸びている。いくつものトラス桁を連ね、全長は500m近くに達する、その規模はJR四国でも指折りのものだ。

地図を開くと阿波中島駅を設置するためだけに、わざわざ川幅の広い河口近くに架橋したように見える。そうでなければもっと上流に架橋することもできたはず。そう考えると駅前に顕彰碑の立つ山田隆二氏による、駅誘致の結果生まれた存在なのかもしれない。

那賀川橋梁。
那賀川橋梁

目的の碑は探すまでもなく視界に飛び込んできた、平和之碑と刻まれたそれは想像よりはるかに大きく存在感があり、それが見通しのよい堤防脇にあるのだから見落としようがない。

びっしり刻まれた碑文を追っていくと、当日は乗客を満載した5両編成の列車が阿波中島駅を発車、鉄橋に差しかかったところで2機の艦載機が襲来、爆撃と機銃掃射を浴びせ、立ち往生した列車になお攻撃を繰り返し、車内は血の海と化したとある。正確な犠牲者数は分からないようだが、死者だけで30名以上にのぼり、仮通夜は先程の西光寺で執り行われたという。

碑の脇にはかなり古そうな不動明王の石仏があり、通りかかった老人が静かに手を合わせている。これも何か関係があるのだろうかと声をかけると、昔この辺りで自殺する人が多いことから安置したものだと説明された。

那賀川橋梁近くの堤防脇に立つ平和之碑。
橋梁近くに立つ平和之碑

目前に迫ってきた鉄橋は両側に歩道を併設しているのが特徴的だ。歩道付きの鉄道橋というのは全国的に見ても珍しい。明らかに後付けという造作からして、対岸をちょいと歩けば阿南の市街地なのに近くには道路橋がないという、住民の便宜をはかったものだろう。とはいえ歩くのが面倒に思えるほど対岸は遠い。マイカーの普及したこの時代に需要はあるのかと思っていると、さっそうと自転車が走り抜けていった。

歩道からは鉄橋を間近に観察することができ、細かな傷や穴など、米軍機の攻撃によると思われる傷跡をそこかしこに確認できる。ぐにゃりと曲がる鋼材が攻撃の激しさを物語る。これでは鉄道車両などひとたまりもないだろう。おまけに逃げも隠れもできないこんな場所では絶望でしかない。まさに生きるも死ぬも運しだいである。

那賀川橋梁に残る傷跡。
橋梁に残された傷跡

事の詳細が記された碑文と生々しい傷跡に、当時の光景が浮かんできて陰鬱とした気持ちになるが、轟音を上げて走り抜ける列車がそれを吹き飛ばしてくれた。目前を通過する列車は少し怖いくらいで、自ずと神経はそちらに集中する。

対岸には列車で渡ることにして、駅に戻るとタイミング良く列車がやってきた。13時13分発の阿南行きだ。車内は学生を中心に混み合い補助席まで使用されていたが、たまたま席を立つ人があったため入れ替わりにボックス席に収まることができた。地方で列車が混雑するかどうかは学生の動向にかかっている。

阿波中島駅に入線する、普通列車の阿南行き 4547D。
普通 阿南行き 4547D

発車するとすぐに堤防上に駆け上がり那賀川橋梁を渡る。歩いては対岸が果てしなく遠く見えたが、列車では惨劇を思い起こす暇もないほどあっという間に通過してしまう。こんなに短い橋だったかなと思う。

列車はラストスパートとばかり快調に駆け抜け、速度を落としながら桑野川を渡り、市街地をかすめるようにして阿南駅にすべり込んだ。

阿南あなん

  • 所在地 徳島県阿南市富岡町
  • 開業 1936年(昭和11年)3月27日
  • ホーム 2面2線
路線図(阿南)。
阿南駅舎。
阿南駅舎

古くから阿波九城のひとつ牛岐城の城下町として、また阿波南部における政治経済の中心地として栄えてきた町である。開業時は富岡町であったため阿波富岡を名乗っていたが、阿南市が発足するとほどなく現在の駅名になった。市の代表駅という地位にある当駅は、牟岐線の駅としては最大の利用者数を誇り、徳島から南下してくる列車の約半数が終点とするなど、線内でも中心的存在の駅である。

乗ってきた列車も終点なので全員が去っていく。人波を見送りながら見上げた先には近代的な橋上駅舎が横たわり、さすがに大きな駅だなと思う。ところが視線を落とすとそう広くもない2面2線の相対式ホームがあるのみで、随分こじんまりしているとも思った。誰もいなくなった列車とホームを眺めていると、近代的な装いでも隠しきれないローカル線の香りが漂う。

時刻表によると当駅をねぐらとする列車が数本あり、駅の裏手にはその寝床と思われる2本の留置線が並んでいる。光沢のあるレールが日々使用されていることを物語る。

阿南駅ホーム。
阿南駅ホーム

エレベーターを併設した階段を上がっていくと、温室を思わせるガラス張りの明るい空間に出た。そこに改札口の置かれた光景はひなびた駅の並ぶ牟岐線とは思えない。どこか大都市近郊の駅に迷い込んだようだ。これだけ近代化してなお自動改札の類がないのが、牟岐線というかJR四国らしいところで、徳島駅ですら人の手に頼っている。

切符を手渡した先には駅の東西を結ぶ自由通路があり、窓口・券売機・旅行代理店などが整然と並ぶ。足りないのはキヨスクくらいのものだ。日当たりのよい窓辺には椅子が用意されていて、爺さんがひとり日向ぼっこをしていた。

阿南駅の改札口と窓口。
阿南駅改札口

橋上駅舎から駅前に降りてくると、思いのほか商業施設は少なく、人通りの少なさも相まってあまり活気が感じられない。ホテルなど大きな建物もあるが、営業しているのか不詳の店舗や空き地もある。発展はしているのだが県下第二の都市の玄関口かと思うと寂しい。駅前が賑わう時代じゃないよとばかり、車だけが元気よく走り抜けていく。

牛岐城うしきじょう

この町はかつて城下町であった。となると向かうべきは城趾である。牛岐城と呼ばれたその城は南北朝時代の築城と云われ、阿波南部における拠点として攻守に活かされてきたが、江戸時代の一国一城令により破却された。それから400年近い時が流れ、痕跡など消え去っているのではと思わせるが、どっこい牛岐城趾公園として生きながらえているという。

駅から城趾に向けては市街地が広がり、商業や公共施設に住宅まで種々雑多な建物が連なる中を通り抜けていく。例によって人通りは少なく閑散としているが、個人商店の構えを残した建物が数多く残り、活気にあふれていた時代を想起させる。

閑散とした商店街
閑散とした商店街

見えてきた城址公園は、建物はもちろん堀や石垣といった遺構も見当たらず、街中にある明るく開けた広場といった面持ち。中ほどにある高さ20mほどの小山だけが城趾を匂わせる。桜に彩られた暖かく静かな園内では、老人や親子連れが花見や散歩を楽しみ、昼寝でもしたくなるような穏やかな情景であった。

説明板には、細川氏、三好氏、長宗我部氏、蜂須賀氏と、支配下に置く権力者の移り変わりや経緯などの略歴が記されている。江戸時代に取り壊されると、石垣は灌漑施設の建設などに転用されたとあり、遺構が見当たらないのはそういう事情があるようだ。また牛岐城という謎めいた名前は、かつての地名で、江戸時代を前にして縁起のよい富岡に変更したという。そのため牛岐城には富岡城という別名がある。

牛岐城址。
牛岐城址

本丸跡だという小山の上に向けて階段を上がっていく。遠目には桜に包まれて穏やかな表情をしていたが、近くで見るとコンクリートで固められた厳めしい表情をしていた。上に載せられた模造天守のようなものには、「牛岐城址公園産業展示館」という表札が掲げてある。およそ城趾らしさのない城趾であるが、展示館の窓ガラス越しに、屋内に取り込まれる形で保存された石垣がちらりと見えた。発掘されたという数少ない遺構だ。

公園事務所に申し出れば展示館内を見学できるとあるが、そこまで往復する面倒さに負けてしまい、素通りして山頂部に向かった。

本丸跡に咲く桜。
本丸跡に咲く桜

そこにはキラキラ・ドームと名付けられた、細いパイプをドーム状に組んだオブジェが座っていた。骨組みだけなので雨宿りすらできないが、数万というLEDで装飾されていて夜には光り輝くという。しかし太陽の下ではLEDが束になっても出番はなく、町並みをぐるりと眺めたら階段を下るのみである。

鍛冶ヶ峰かじがみね

時刻は14時を回ったばかりである。時間的には次駅に向かうことも可能で、どうしようか迷いながら、街の背後にそびえる鍛治ヶ峰を目指すことに決めた。地図によると標高228m、山頂まで登山道らしき点線が伸びている。これなら明るいうちに往復するのも余裕だろう。そしてなにより那賀川平野の南端にあるので、朝から歩いてきた所を一望できそうなことが、一日の締めくくりにふさわしい場所に思えた。

西に傾きつつある太陽が早くしろとせっつくが、まずは腹を満たしてからと商店街に足を向ける。そこで一軒の小さな大衆食堂が目に留まった。安くて美味そうな面構えに迷わずのれんをくぐると、愛想の良いおばさんに迎えられた。

メニューを見ると丼や定食が500円からと安い。目移りするが低山とはいえ山に登ることを考え、活力を与えてくれそうなとんかつ定食に決めた。これまた780円と安かったが、質量ともに満足のいくものだった。満足しすぎて立ち上がるのが億劫にすらなってきたが、時計に促されるようにして、お茶をぐいっと飲み干すと席を立った。

とんかつ定食。
とんかつ定食

桑野川沿いに市街地を抜け出し上流を目指す。空には雲ひとつない青空が広がり、強い日差しに川面がきらきら眩しく輝く。汗の流れるような陽気だが、冷たい風と相殺されて暑からず寒からず、しかも追い風とあって足取りはすこぶる軽い。

登山口のある井関地区まで来たところで鍛治ヶ峰に進路を向ける。緩やかな上り坂を住宅や農地が尽きるまで進むと、山懐に消えていく登山道らしき小路に行き当たった。駐車スペースには数台の自転車が並べられ、手書きの案内板や標識、そして立てかけられた木の杖など、地元で愛される里山の雰囲気を醸し出していた。

鍛治ヶ峰の登山口。
登山口

いよいよ山頂に向けて歩みはじめると、右手に大きな溜池が現れ、水辺をなぞるように進んでいく。平坦で舗装までされて散策路を思わせる。水をせき止めた堤上では満開の桜並木が風になびき、その下で高校生くらいの女の子たちが楽しげに花見をしていた。どうやら自転車の主は彼女たちのようだ。その賑やかな声はどこまでも背中についてきた。

登山口に接する溜池。
登山口に接する溜池

池を過ぎると水源のひとつと思われる谷をさかのぼっていく。やにわに傾斜はきつくなるが変わらず舗装されているので歩きやすい。両側に立ち上がる山肌が日差しも喧騒も遮り、街の近くとは思えないほど薄暗くひっそりしている。傍らを下っていく細流の、ささやくような水音が耳に心地よい。

薄暗さが日没を錯覚させるほどになると、焦りから自然と足が早くなり、いつしか汗がにじみ息が乱れはじめた。ところが腕時計に目をやるとまだ15時半と早い。なんだ余裕ではないかと歩度を緩めて呼吸を整える。

水飲み場の設けられた源流部を過ぎると、頭上に明るさが戻りはじめ、まもなく眩しいほどの西日に照らされた。光があるとそれだけで何ともいえない安堵感が漂う。谷間を抜け出したことで、なりを潜めていた風も勢いを取り戻し、街のざわめきが届きはじめた。

どこまでも舗装された登山道。
登山道

明るく開けた尾根上には鳥居が立っていた。山上に鎮座する鍛治ヶ峰神社のものだ。背後には社務所もあるが人の気配はない。ベンチや清掃道具が並び、落ち葉のひとつも見当たらない様子からは、毎朝登ってきて掃除をする人でもありそうな雰囲気。視界に映る建物はどれも新しく歴史は感じないが、鳥居には大正の文字が刻まれている。

鍛治ヶ峰神社の由来という石碑に足を止める。女人禁制の行場であったことや、ふもとにある興隆寺の奥の院であること、名刀を鍛える鍛冶が住居していたことから鍛治ヶ峰と称されたなど、興味深い事実が記されていた。

大師堂・五社神社・石仏など、神仏習合を感じさせる小路を進むと、岩陰に隠れるようにして佇む社殿が現れた。参拝しようと引戸を開けると、授与品や絵馬に忘れ物までが所狭しと並べられ、訪問者の声が記されたノートまで置いてあり、どこかの秘境駅のようだった。

そこにツーリング途中といった装いの手ぶらの兄さんが現れた。午後も遅くから登ってくるとは物好きがいるものだと驚くが、向こうも同じことを思ったのか一瞬ながら驚いた表情を見せた。そして軽く挨拶を交わすと展望台という標識の方に消えていった。

鍛冶ヶ峰神社。
鍛冶ヶ峰神社

あとを追うように社殿からさらに上にある展望台とやらを目指す。行場だったというだけのことはあり、山肌には岩や石仏が目立つ。道は明瞭ながらロープが垂らされていたりして、今頃になって登山道らしくなってきた。

登りきると山頂らしき所に出た。それを示す標識の類は見当たらないが、もう上がないのだから山頂にちがいない。石祠を載せた大岩や、大岩権現と刻まれた石を載せた大岩が座し、いかにも宗教的な山である。

大きく開けた北側には展望デッキがあり、腐食した床板にそろりと上に立つと、那賀川平野が視界いっぱいに広がった。背後には紀伊水道が横たわり、そのまた奥には淡路島が蜃気楼のように浮かんでいる、景色が広大すぎて訪れた駅は見つけられなかったが、那賀川橋梁だけは見つけることができた。文句なしの絶景に登ってきて良かったと思う。

鍛治ヶ峰からの眺望。
鍛治ヶ峰からの眺望

いつしか兄さんは姿を消し、日差しは微かに赤みを帯びはじめ、そこはかとなく寂しい空気が漂いはじめた。名残惜しいが時間切れである。同じ道では芸がないので、駅近くまで緩やかに伸びる尾根筋を下っていく。思いのほか歩きやすい山道が用意されていて、日没と競り合うように軽快に足を運び、あかね色に染まる街に飛び出した。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

徳島までは1時間近い乗車時間なので立っているのはご免である。夕方なので朝と同じように混雑することを予見して発車15分前には席を確保した。ところが意外なことに待てど暮らせど乗客は増えない。そしてとうとう空席ばかりの状態で動きはじめた。単行ワンマン列車なのを不思議に思ったが、そうなるのも納得の利用状況であった。

阿南駅で発車を待つ、普通列車の徳島行き 4576D。
普通 徳島行き 4576D

列車は那賀川平野を快走する。残照に照らされた空が暗い群青色に変わっていく。家々や街路に灯りはじめた明かりが流れてゆく。列車の揺れに身を任せ、心地よい疲労感にまどろみながら車窓を見つめる。一日の最後に訪れる至福の時である。

(2018年4月3日)

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