牟岐線 全線全駅完乗の旅 4日目(南小松島〜羽ノ浦)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2019年4月2日、時刻は午前5時を少し回ったところ。白みはじめたばかりの空、人通りのない街並み、冷たい風にかじかむ手、春だというのに冬を思わせる朝だった。寒さをふりきるように足早にやってきた徳島駅も閑散としていて、方々から上がる列車のエンジン音だけが賑やかに響いていた。

阿波赤石までの切符を手に牟岐線の始発列車に乗り込むと、車内はこれ以上ないほど空いていた。寒かっただけに貸切りの暖かい車内は自室のように快適そのもので、終点まで乗り通したいような気分になっていく。

徳島駅で発車を待つ、普通列車の海部行き 4525D。
普通 海部行き 4525D

発車を待つ間にも刻一刻と明るくなり、徳島駅を抜け出すころには東の空は光があふれださんばかりに輝いていた。やがて太陽が顔を出すと車窓は赤く染まり、眩しい光が車内にまで差し込みはじめた。

車内は片手で数えられるほどの乗客だったものが、駅ごとに少しずつ増えてゆき、中田の辺りまでくると座席はすっかり埋まってしまった。学生や会社員の中に溶け込むように、白装束に身を包んだお遍路さんの姿があるのが四国らしい。

南小松島を出るとまもなく内陸から山稜が伸びてきて、線路はそれを避けようと海側に向かうが、とうとう逃げ場がなくなりレンガ積みの短いトンネルに入った。牟岐線で初めて遭遇するトンネルだ。そしてそれを抜けたところが阿波赤石駅であった。

阿波赤石あわあかいし

  • 所在地 徳島県小松島市赤石町
  • 開業 1916年(大正5年)12月15日
  • ホーム 1面1線
路線図(阿波赤石)。
阿波赤石駅舎。
阿波赤石駅舎

徳島駅を出てから開けた平野の中ばかりを進んできた線路が、四国山地から海に向けて伸びてきた山稜に押し出されるように、海と山に挟まれた隙間を通り抜けていく箇所である。駅裏には山が迫り、駅前には小松島湾に注ぎ込もうとする立江川が流れ、周辺の駅では特に自然豊かな環境にある。

単式ホームがあるだけの小さな駅で、朝に降りる人はないだろうという予想通り、降りたのは私だけであった。視界を遮る列車が去ると満開の桜並木が広がり、その美しさに次の徳島行き待つ人たちがしきりとカメラを向けている。ローカル線の朝といえば大抵は学生専用列車のようなものだが、ここでは会社員の姿も多々見受けられ、地域の足として機能していることが感じられた。

阿波赤石駅ホーム。
阿波赤石駅ホーム

建てられて間がなさそうな真新しい駅舎は、通路と小さな待合室があるだけの簡素な作りをしている。こざっぱりしてきれいだが、単なる箱を置いただけのような外観に、もう少し地域色を出せないものかとも思う。

駅舎から想像する利用者は少なそうだが、駅前には大きな駐輪場が2箇所、それもローカル線ではあまり見かけない有料のものがある。軽く100台以上は止められそうだが止めてあるのは4〜5台でしかない。代わりに近隣の道路上にずらりと並んでいた。

さらに先には換金所を思わせる小さな窓口のある小屋があり、なにかと思えば駐輪場の管理を兼ねた切符売場であった。一見すると無人駅だが実は委託駅なのだ。委託駅の切符販売といえば駅舎や駅前商店などが定番で、こんな小屋で販売しているのは珍しい。せっかくなので記念に切符を買っていこうとするが「ただいま留守にしております」の札が掲げられていた。

駅前の有料自転車置場。
駅前の有料自転車置場

駅を見下ろす高台に草木に埋もれゆく石碑があることに気がつく。表面には肖像のようなものが彫られ、なにやら著名人に関するものらしい。詳細不明だが答えとなる碑文が裏面に刻まれているはずだと、藪をかきわけるように高台に上がっていく。忘れ去られた石碑のようだが、かすかに踏み跡があり、私のような物好きが訪れることがあるらしい。

近くまでくると浅石恵八翁寿碑と刻まれた文字がはっきり読み取れた。明治から昭和初期にかけての政治家で、当時この付近に存在していた坂野村の出身であった。坂野村の村議から徳島県議、さらには衆議院議員まで経験した人物である。

裏面を覗き込むと思ったとおりびっしりと文字が刻まれていた。しかし困ったことに古すぎて何が書いてあるのかさっぱり分からない。といっても風化しているという意味ではない、謎の古代文字を思わせる難解な綴り方なのだ。解読していては時間がかかると拾い読みしていくと四国循環鐵道という文字が目に留まる。加えて駅を見下ろす位置や、当地出身の有力者とくれば、鉄道建設に尽力した方なのかなと想像する。

草木に埋もれる浅石恵八の石碑。
草木に埋もれる石碑

駅周辺は土地がないだけに駐輪場と数軒の建物が並ぶくらいのものだが、目の前を流れる立江川の対岸には、浅石恵八の故郷である旧坂野村が広がっている。なぜこんな窮屈な土地に駅をと思えたが村の入口ならば納得できる。有料の自転車置場が存続できているのも、村の中心ではなく入口という、遠距離から利用者が集まってくる立地にあるのかもしれない。

義経上陸の地

源平合戦も終りに近い1185年(元暦2年)2月18日、平家の陣取る屋島を攻略すべく、源義経が率いる軍勢が嵐の海を越えてきた。出港したのは現在の大阪市にあたる摂津国の渡辺津、上陸したのが勝浦と呼ばれたこの辺りだったと云われる。そして遠く屋島に向けて夜を徹して駆け抜け、またたく間に勝利をものにしたのである。

そんな義経が源氏の白旗を掲げて気勢を上げたという小さな山、その名も旗山が近くにあるので、まずはそこを目指して歩きはじめた。

駅から徳島方面に少し進むと、牟岐線の鉄橋近くに「勢合」と刻まれた大きな石碑が立っている。嵐の海を越えて散り散りに着いた船を集めたという所だ。なにやら大群で押し寄せてきた感もあるが、わずか5艘で戦力としては150騎ほどであったという。よくそんな規模で平家の拠点を攻めようとしたものだと思う。

牟岐線の列車。
勢合の地をゆく牟岐線の列車

旗山は山といっても海沿いから山裾へと広がる平地の中にぽつんとあるため、ひたすら平坦で直線的な道路を歩くだけの楽な道のりだ。もっとも義経は曲りくねる山沿いの小路をたどったというから、当時この辺りは浅瀬か湿地のような所で、旗山はそこに浮かぶ島だったのかもしれない。空は雲ひとつない快晴で、神経を尖らせながら山道を急いだであろう義経とは対称的に、眠気を催すような田んぼ道をのんびり歩く。

見えてきた旗山は田んぼや住宅に囲まれた小山で、ふもとに立つ鳥居から石段が山上に向けて伸びている。木々が茂っているが山頂部には社殿がちらりと見える。おばさんが下ってきたので参拝者かと思いきや、下りきると反転してまた上っていく。どうやら近所の人の運動場になっているらしい。

遊歩道から山上に上がっていくと、文字通り見上げるほどに巨大な義経の銅像が現れた。その高さは6.7mで義経像としては日本一だという。騎馬に跨り弓を手にした雄々しい姿で、傍らには源氏の白旗が青空にはためいている。義経一行はこの山で源氏の白旗を掲げ、士気を鼓舞したと云われ、それをよく体現した力強い姿をしていた。

騎馬に乗った義経の銅像。
旗山の義経像と白旗

義経つながりで近くにあるという弁慶の岩屋にも足を伸ばす。竹林に囲まれた墓地の奥深くという分かりにくい場所にあったが、充実した標識類のおかげで迷うことなく進んでいく。人の姿はなく、道は入り組み、竹がそよそよと揺れる静かな墓地で、標識がなければ途中で引き返すか迷ってしまいそうな所だ。

弁慶の岩屋は巨岩を組み合わせて人為的に作られた岩屋で、これほどの岩を積んで造作するとなど弁慶ほどの力持ちでしかできまい、ということからこの名前で呼ばれているという。実際のところは弁慶とは関係なく、その正体は6世紀頃に作られた横穴式古墳で、墳丘が流出して石室だけが残ったものだった。

巨岩を持ち上げるとなると地方問わず弁慶を想像するものなのか、富山県の雨晴にも弁慶が持ち上げたという岩があり、その岩陰で義経が雨宿りをしたという伝説が残る。ただしそちらは弁慶岩ではなく義経岩と名付けられていた。

弁慶の岩屋。
弁慶の岩屋

義経にまつわる名所旧跡は屋島に向けて続いているが、これ以上は阿波赤石駅とは関係のない領域に入っていくので、後を追うのはここまでにしておく。しかし日本各地に足跡が残されているかと思うと旅心をくすぐるものがあり、いつか幼少期を送った京都から、英雄への階段を上る屋島や壇ノ浦、落日の吉野、そして終焉の地である平泉へと、義経の足跡をたどる旅というのもしてみたいものだと思う。

古の遍路道

旗山から駅に戻るにあたり少し遠回りになるが、近くの山間にある恩山寺を経由することにした。四国八十八箇所の十八番札所として知られるが目的は寺ではなく、その前後に残るという古い遍路道の方だ。歴史や佇まいから国史跡に指定されるほどの古道だという。

恩山寺と記された古色豊かな道標を横目に道路を上っていると、民家の裏庭にでも向かうかのような脇道に出会う。地図から判断するにこれが件の遍路道と思われた。草は刈ってあるものの踏み跡は薄く、それらしい標識や案内板もないため、本当に国史跡の道だろうかと半信半疑で足を進める。やがて石仏や丁石を見つけてようやく確信することができた。

あぜ道のような恩山寺道。
あぜ道のような遍路道

程なく恩山寺の古びた飾り気のない山門が現れた。古の遍路道を通ってきた人しか通らないような位置にあるだけに通路まで草むしている。深山にある無住の寺を思わせる佇まいは古道とよく似合い、全体としてとても魅力的な景色を作り出していた。

ビランジュの大木を見上げ、数多くの石仏が並ぶひなびた参道を上り、やがて旗山の義経像にも負けず劣らずの大きな修行大師像が見えてくると恩山寺だ。

ひと休みしていると次々お遍路さんが現れては去っていく。それも高齢者ばかりなので歩くのは大変だろうと思ったが、近くの駐車場に車が出入りするのを見て拍子抜けした。どうりで遍路道では全然見かけなかった訳だ。お遍路さんではない私がてくてく遍路道を歩き、本当のお遍路さんは車で移動しているとは何ともおかしな話である。

恩山寺道の先にある山門。
恩山寺の山門

恩山寺を後にすると次の立江寺に向かう遍路道を行く。満開の桜やウグイスの声が春を感じさせる沿道には、お遍路さんに向けてか無人販売所があり、みかんが10個くらい入って100円と格安で並んでいた。思わず手が出そうになるが量が多すぎるが故に諦める。

やがて薄暗い竹林に囲まれた細々とした山道になる。山林の作業道を思わせる小路だが、至る所にお遍路さんに向けた標識や、古びた道標があるので間違いはない。たまに強い風が吹き抜けると竹同士が激しく叩き合い、折れるのではないかと思うほどの音がこだまする。日が暮れたら心細くなるような道だが、近代的な道路が整備される以前は、こんな道が四国中にめぐらされていたのだろう。

竹林を行く立江寺道。
竹林を行く遍路道

ふもとの集落まで下りてきて遍路道を抜け出すと、汗を浮かべながら足早に駅を目指す。今日は2駅先の羽ノ浦まで行きたいと考えていたので、1本でも早い列車に乗りたいのだ。

駅が見えてくるとその入口にある切符売場の窓口に、先ほどはなかった生花が飾られているのに気がついた。よく見ると小屋内におばさんの姿がある。これ幸いと次の立江までの切符を求めると、あろうことか売り切れだという。指定席券ならともかく単なる乗車券が売り切れとは面食らうが、印刷済みのものを用意している関係でそういうこともあるようだ。

ないものは仕方がないが、せめて記念に何か買っておこうと、在庫のある中で最も安いものを所望する。おばさんが少し怪訝そうな顔をしたので、「記念に」と一言付け加えると、納得した表情で「ああマニアの方ですか」と言いながら、羽ノ浦まで210円の切符を出してくれた。反応から察するにコレクション目的に買い求める人は珍しくないのだろう。

阿波赤石駅の常備券。
阿波赤石駅の切符

ホームで列車を待っているとたまに人がやってくる。利用者かなと思うと桜をひとしきり眺めて写真に収めると去っていく。ホームからの桜を目当てに訪れる人は多いが、車でやってくる上に無人駅だから、鉄道会社には1円の収入にもならないのは複雑な気持ちになる。

やがて姿を現した列車は単行列車だったので混雑を覚悟したが、楽々と座れるほどに空いていた。通勤通学の時間帯を過ぎればこんなものかと思う。

阿波赤石駅に入線する、海部行き普通列車4539D。
普通 阿南行き 4539D

このような快適に過ごせる列車には長く乗っていたいが、次の立江駅は座るまでもないほどに近い。距離にして約1.4km、時間にして約2分である。その慌ただしさに車窓は鉄橋を渡ったということくらいしか記憶になく、なんとも印象の薄い区間となった。

立江たつえ

  • 所在地 徳島県小松島市立江町
  • 開業 1916年(大正5年)12月15日
  • ホーム 1面2線
路線図(立江)。
立江駅舎。
立江駅舎

小松島市から阿南市に入ろうかという市境に接する小さな町。四国八十八ヶ所の十九番として知られる立江寺の門前町だ。狭い道路が右へ左へと入り組む古くからの町であるが、それだけに鉄道が中心部に入り込む余地はなかったらしく、町外れのような所に位置する駅である。

高校生くらいの若者と一緒に降り立つと、目の前には住宅よりも農地が目立ち、のどかな香りのする駅だった。先ほどまで快晴だった空には急速に雲が広がりはじめ、照ったり陰ったりが忙しく繰り返されている。雲足が速いだけあって強風が吹き抜け寒い。

島式ホームの交換可能駅で、ホーム上には駅名板より存在感のある大きな名所案内板と、鉄骨に支えられた上屋がある。徳島・二軒屋・中田・南小松島、それぞれ島式ホームに木造上屋という組み合わせだったが、中でも小さなこの駅が鉄骨なのはなぜだろう。そんなことを考えていると徳島行きの普通列車がやってきて、おじさんと若い女の子が駆け込みで乗っていった。

立江駅ホーム。
立江駅ホーム

構内踏切を渡った先にある駅舎は新しく簡素で、ガラス張りの狭い待合室があるだけの四角い箱といった作りは、隣りの阿波赤石と双子のようにそっくりだ。大きなクスノキが茂る広い駅前を見ると、近年まで開業当時からの木造駅舎があったことは想像に難くない。

開業から百年以上が過ぎた駅前なので、看板を下ろした商店がいくつか残されているかと考えたが、意外にも新しい住宅が数軒並ぶ程度だった。タクシーの営業所だけが駅前らしさを演出するが、そこには人気もなければタクシーの1台すら見当たらない。駅舎から住宅まで作りが新しく、一見しては百年もの歴史があるとは思えないような雰囲気であった。

立江寺

立江駅における名所といえばホームの案内板が示すように立江寺である。四国八十八箇所の第十九番札所として知られる寺院だ。これだけ近くにあるとお遍路さんでなくとも自然に足が向かう。四国の鉄道旅をしていると、こうして訪れる寺院だけでもかなりの数に上り、なんだか札所めぐりでもしている気分になってくる。

のんびり歩くが10分とかからず立江寺が見えてきた。周辺では建物が押し合い、先の見通せない路地がめぐらされ、佇まいにはあまり歴史を感じないが、古くからの街であることは間違いない。往来少なく空き店舗が目立つのもまた、今どきの歴史ある街の姿といえる。

咲き始めのしだれ桜に彩られた古色帯びた楼門をくぐり抜けると、左手に本堂があり、右手に多宝塔や大師堂などが並んでいた。狭い敷地にぎっしりといった様子。ぽつりぽつりとお遍路さんが現れては去っていくだけで、観光客でごった返すようなこともなく、静かで落ちついた時が流れていた。ベンチに腰掛けてゆっくり眺めていたくなるような情景である。

立江寺。
立江寺

もう少し歩いてみることにして、宮前という地名に歴史を感じさせる神社に向かうと、田んぼや住宅の広がる中にある樹林が見えてきた。こんもりした緑は平地でありながら小山のように見える。そんな緑に包まれた空間への入口には、八幡神社と記された鳥居が立っていた。

遠目には鬱蒼として見えたが、木々は周囲を囲むように茂っているため、内部は公園のように開けていた。平坦であるため鳥居から大きな社殿まで視界に収まる。地方の小さな神社といえば人気がなくひっそりとしているのが常だが、明かりが灯された拝殿には地元の方らしき爺さんが手を合わせ、広い境内には子供が賑やかに走り回り、どこか懐かしさのある暮らしに溶け込んだ雰囲気の神社であった。

立江八幡神社。
立江八幡神社

駅に戻ってくると利用者の姿はなく、加えて先ほどの列車は空いていたので、次もまた空いていると予想する。そして間もなく現れたのは阿南行きの単行列車。窓ごしに車内に目をやると予想をあざ笑うかのように混み合っていた。

空席はなさそうなので乗車するとそのままドア横に立つ。それから改めて車内を見渡すと補助席まで活用された状態で立ち客まで出ている。先ほどは空いていたというのに、日中の利用者が多いのか少ないのか全然読めない路線だ。

立江駅に入線する、阿南行き普通列車4545D。
普通 阿南行き 4545D

動き出した列車は広大な平野の中を進む。車窓には田んぼと住宅がどちらが主というでもなく入り混じるように流れていく。この辺りは小松島市と阿南市の市境なのだが、それを匂わせる山や川のような地形の変化はなく、気がつけば阿南市に入っていた。

羽ノ浦はのうら

  • 所在地 徳島県阿南市羽ノ浦町宮倉
  • 開業 1916年(大正5年)12月15日
  • ホーム 1面2線
路線図(羽ノ浦)。
羽ノ浦駅舎。
羽ノ浦駅舎

県内有数の人口を擁する阿南市に入って最初の駅、平成の大合併で阿南市に編入されるまでは羽ノ浦町の代表駅であった。山側には四国山地から延びてきた山稜の先端部があり、海側には那賀川が作り出した広大な沖積平野が広がる。徳島・小松島・阿南など周辺市街へのアクセスが良く広い土地があるだけに、古くからの宅地に加えて新興住宅地も多く、牟岐線でも指折りの利用者数を誇る特急停車駅である。

いつものように運転士に運賃を手渡そうとすると駅で払ってと告げられた。すっかり牟岐線といえば無人駅という考えが染み付いていたがここは有人駅なのだ。それだけに降りる人も多くて、学生を中心に10人くらいが駅舎に吸い込まれていく。

木造上屋のある島式ホームの交換可能駅で、駅舎とは構内踏切で結ばれ、牟岐線では見慣れた姿をした構内である。少しだけ異なるのが駅裏に2本ばかり側線があることで、それも放置されたものではなく現役の様子。保線車両が発着しているようで車庫があったり、レールや枕木などの資材が積み上げられていたりする。

羽ノ浦駅ホーム。
羽ノ浦駅ホーム

木造駅舎は大正と昭和どちらの生まれだろうか。そして建てたのは私鉄と国鉄のどちらだろうか。当駅は1916年(大正5年)に阿南鉄道の駅として開業、1936年(昭和11年)に国有化されて国鉄駅になったという歴史がある。年齢不詳ながらきれいにリフォームされて清掃も行き届いているため古めかしさは感じない。

改札には男性駅員の姿があり運賃を支払う。ゆとりある広さの待合室にはベンチが並べられているだけだが、片隅には売店の痕跡が残されている。沿線では南小松島でのみ目にした営業中の窓口に券売機もあり、なかなかと駅らしい姿をした駅だ。

羽ノ浦駅の窓口周辺。
羽ノ浦駅の窓口周辺

表に出ると建物が並ぶ狭い通りが伸びているが、シャッターを下ろした商店や空き地が目に付き、繁栄と衰退を同時に感じる。近くに高校があるのか賑やかに駅に向かってくる学生の姿があり、寂れた通りと明るい声のコントラストが印象に残る。

ちょうど昼なので駅前食堂でもあればと思うが、通りを見渡しても営業していると分かるのはパン屋の一軒だけしかない。歩きながら食べれるのでこれはこれで悪くないと入店、狭い店内には同じパンを作らない拘りでもあるのかというほど種々雑多なパンが並び、選んでいる間にも新しい種類のパンが補充されてくる。目移りして選びようがないため、これは美味いに違いないという勘でいくつか買い込んだ。

古庄支線

かつて羽ノ浦から古庄に至る延長2.9kmの貨物支線が存在した。いかにも取って付けたような線路だが開業当時は古庄こそが本線の終着駅で、その先に広がる地域とを往来する人や物資の中継点として賑わった所なのである。

その歴史は1916年(大正5年)に阿南鉄道が中田から古庄までを開業させたことに始まる。なんだか半端な区間に見えなくもないが、起点が中田なのはすでに徳島からの線路が存在していたからで、終点が古庄なのは県内有数の大河である那賀川が行く手を阻んでいるからだ。船運との接続に便利というのもあっただろう。建設費を抑えながら利用の見込める区間を、そんな苦心の見て取れるような区間である。

古庄支線の地図。

昭和に入ると阿南鉄道を延伸する形で、那賀川を越えてさらに南を目指す国鉄牟岐線が着工され、両者の接続駅には古庄の計画もあったが最終的には羽ノ浦が選ばれた。そして1936年(昭和11年)に開業すると程なく阿南鉄道は国有化され全体が牟岐線となった。結果として羽ノ浦から古庄までの区間は取り残される形となり、本線から支線の立場に転落することになったのである。

そうして誕生した古庄支線は旅客営業を廃止して貨物支線となり、戦時中は不要不急路線として休止に追い込まれるなど衰退していくことになる。戦後復活するも1963年(昭和36年)には命運尽きて現在に至っている。

そんな牟岐線とは縁の深い支線で距離も短いことから、終点の古庄まで廃線跡をたどってみることにして羽ノ浦駅を出発。駅の外れまでくると直進する牟岐線から逃げるように右にカーブする小路があり、その緩やかな曲がり具合と道幅は紛れもなく線路の跡地である。

牟岐線から右へ別れていく古庄支線跡。
羽ノ浦駅の阿南よりで右へ向かう古庄支線跡

パンをかじりながら道路となった線路跡を歩く。最初の大きなカーブを終えると直線ばかりとなり、沿道からは進むほどに住宅が減り田んぼが増えていく。新しい建物が目立つあたり徐々に宅地化が進んでいる様子。それだけに若い世代が多いらしく、徒歩や自転車に乗った子供によく遭遇し、公園では歓声を上げる姿を目にする。

どこまでも道路が伸びているだけで鉄道遺構は見当たらないが、水路をまたぐ箇所で道路下をのぞき込むと、思ったとおりレンガ積みの古い橋台が残されていた。コンクリートでないあたり、大正時代に阿南鉄道が建設したものとみて間違いなさそうだ。田園地帯だけに横切る水路は数多く、そのようなレンガ積みの橋台はいくつも確認することができた。

道路橋の下には…

やがて住宅が密集しはじめると終点の古庄である。すると唐突に片側2車線くらい取れそうなほど広い道路が現れた。しかも両側には歩道まである。そこには住宅や営業しているのか判断に迷うような古びた店舗などが軒を連ねている。駅そのものは道路や宅地に変わって跡形もないが、駅前通りはひと目でそれと分かるほど面影を留めていた。

今となっては無駄に広々とした通りだが、終着駅だった時代は人や物資の中継点として、活気あふれる通りだったことが想像される。しかし中継点であるが故に、羽ノ浦から先へと線路が伸びると人や物資の流れはそちらに移り、波が引くように寂れていったのだろう。

それらしい雰囲気を残す、かつての古庄駅前通り。
広々とした古庄駅前通り(正面付近に駅舎があった)

駅跡のすぐ先には立ちふさがるように堤防が横たわり、そこに上がると豊富な水が滔々と流れる那賀川が視界に広がった。延長125kmに及ぶ大河だけあって、河口から約7kmも上流でありながら対岸が遠い。川幅は軽く300mはありそうだ。往時は船運や筏流しで活況を呈していたのだろうが、係留された小舟が静かに揺れているだけで人の姿すらなく、変わらないのは水の流れだけといった様子である。

那賀川を越えると約4km、歩いても1時間程度で、現在は阿南市の中心地となっている富岡町に至る。繁華な街を目前にして線路が途絶えるところに、架橋したくてもできなかった懐事情が察せられる。資金力に乏しい地方私鉄にしてみれば、越すに越されぬ大井川ならぬ、那賀川だったに違いない。

那賀川。
那賀川

周辺には製材所が点在していて、耳には加工する機械音、鼻には木の香り、視界には積み上げられた木材が飛び込んでくる。那賀川を筏流しで運ばれてきた原木を引き上げ、ここで加工して、古庄駅から貨車に積み込み出荷する、そんな時代の名残りなのかもしれない。

阿千田あせんだ越え

羽ノ浦駅から支線跡をたどり終点の古庄駅跡までやってきた。同じ道を引き返しても良いのだが、それでは少々つまらないので、近くにある阿千田越えと呼ばれる古道を経由して帰ることにした。それは羽ノ浦駅の裏手に迫る丘陵を越える峠道だが、標高は百メートルもなく、地図にも載らないという地味でうらぶれた山道だ。しかし江戸の昔は徳島と高知を結ぶ土佐街道の一部を成す主要道であったという。

峠には近くの山中にある立江寺の奥の院、取星寺から行けるそうなので、まずは取星寺を目指して那賀川をさかのぼるように進んでいく。

15分ほどで桜のトンネルを思わせる多数の桜に包まれた並木道に出た。色とりどりの提灯で飾り付けられ夜祭の準備までしてある。花見の名所らしくのんびり歩く人たちがどこからともなく湧き出てきて、迷惑そうに速度を落とした車が走り抜けていく。

桜並木に隣接する桜堤公園には出店が並び、桜に囲まれた池には貸しボートが浮かび、多くの花見客や行楽客で賑わっていた。弁当を広げて一杯やるご機嫌なグループもある。満開に少し早いのが残念であるが、右を見ても左を見ても桜という美しい公園である。

桜堤公園。
桜堤公園

賑やかな桜並木は山すそで終わり、中腹にある取星寺への静かな参道に変わった。樹林に囲まれた曲りくねる小路には、八十八体の石仏や、大正や昭和初期の年号が刻まれた馬頭観音などが点々と並び厳かな空気が漂う。全体によく整備されているが桜がないと人は集まらないらしく、出会ったのは上から降りてきた登山姿のおじさんひとりだけだった。

やがて本尊の虚空蔵菩薩が祀られたお堂に出ると、そこからは本堂・阿弥陀堂・大師堂などが連なるように点在する中をゆく。全体に建物は新しくこじんまりしていたが、創建は千年以上も昔のことで、弘法大師が人々を苦しめる妖星を祈り落とし祀ったという、長い歴史となにやら壮大な伝承を持つ寺院であった。

参道に並ぶ石仏。
取星寺の参道に並ぶ石仏

取星寺のすぐ先には駐車場からトイレまで完備された展望台がある。満開を迎えた桜並木があるために、それを撮影する人たちが訪れていた。桜があるとそれだけで人が集まる。

肝心の眺望といえば、いつの間にこんなに高い所まで上がってきたのだろう、というほど眺めが良かった。すぐ眼下には訪れたばかりの古庄の家並みや桜堤公園、そこから那賀川を挟んで阿南市街が広がり、背後には阿波三峰のひとつ津乃峰山がそびえている。那賀川の行方に目を凝らせば濃紺の紀伊水道が横たわり、海の向こうにはかすかに和歌山県の山並みらしきものまで見えていた。

展望台からの眺望。
展望台からの眺望

展望台から阿千田峠に向けては「羽ノ浦山並み遊歩道」と記された小路をゆく。山上の遊歩道とは眺めが良さそうだが、沿道にはサザンカの並木や雑木林が広がり眺望はない。日が傾くにつれて薄暗くなり、さわさわと冷たい風が吹き抜け、心なしか淋しい雰囲気が漂う。山中に取り残されたような気分に自然と足が早くなる。

東西に伸びる丘陵上を進んでいると、南北に横切る空堀のような窪みを橋でまたぐ。そしてこの橋下にある窪みの中を通る道こそが土佐街道で、この場所こそが阿千田峠なのであった。

とりあえず橋下にある峠に降りていく。降りて峠にたどり着くとは妙なものだが構造上そういうことになる。そこには昔日の土佐街道と記された標柱や、阿千田峠と記された看板などが立てられ、阿千田ギャラリーなるものまで作られていた。ギャラリーには大量の願い札が吊るされ、阿千田越えに関する史料などが掲示されていた。

遊歩道と古道が立体交差していて、コンクリート橋が頭上を横切り、ギャラリーの設置された峠とは珍しい。苔むした石仏がぽつねんとあるような姿を想像していると、面食らうこと請け合いの変わった峠である。

昔日の土佐街道、阿千田峠。
昔日の土佐街道「阿千田峠」

峠からは竹林や杉林に囲まれた土佐街道を下っていく。はるか昔から昭和初期まで利用されていたが、それから長らく手入れされることなく自然に帰りつつあったのを、近年になり地元住民の手で再整備したという。

そのような経緯からか足下には竹や丸太で作られた階段や土留が連なり、木板に手書きされた案内板が随所に設置されるという、手作り感あふれる道になっていた。古道というと長年酷使された厳しい表情を連想するが、ここはそれとは対照的な穏やかな表情をしている。なんだか個人が趣味で作った登山道を歩いているようだ。

道は谷筋をなぞるように下っていて、ちょうど風の通り道になっているらしく、下界から冷たい風が吹き上げてくる。唸りを上げるほどの強さで寒いほどだ。周囲の竹はカチカチと叩き合い、杉はザワザワと揺れ動き賑わしい。

峠から竹林の古道を下る

ふもとまで降りてくると一面に水を張ったばかりの水田が広がり、きらきら光を反射する様は塩田や干潟を思わせる。平野に出た途端に日は照りつけ風は収まり、先ほどまでの薄暗く寒かったのが嘘のように明るく暖かい。進むほどに住宅や往来が増えてゆき、ちょっとした峠ながら山を越えて里に降りてきたというのを感じさせる。

土佐街道はこの田んぼの中を立江に向かい、さらに徳島へと至るのだが、そこまで付き合いきれないので、ここで街道を逸れて羽ノ浦駅に足を向けた。

峠のふもとに広がる水田

エピローグ

路線図(エピローグ)。

駅に戻ってくると窓口にはカーテンが下ろされ、待合室には赤みを帯びた淡い光が差し込み、今日も終わりだと言わんばかりの物寂しげな雰囲気が漂っていた。

ホームに向かうと間もなく3両編成の阿南行きがやってきて、学生を中心にした20人くらいがどっと降り、家路を急ぐように去っていく。続いてやってきた徳島行きは単行列車で、こんな時間帯に単行とは少し嫌な予感がしたが、やはり帰宅する様子の人たちで混み合い座ることすらできない。

羽ノ浦駅に入線する、徳島行き普通列車4572D。
普通 徳島行き 4572D

車窓には真っ赤に染まる夕日が見え隠れする。しかし南小松島、中田、二軒屋、進むほどに混雑が激しくなり景色を楽しむどころではない。阿波富田を出る頃には通路までぎっしりで足の踏み場もない状態に。ようやく徳島に到着して混雑から開放された頃には、すっかり日は落ちて薄暗くなっていた。

(2019年4月2日)

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