目次
プロローグ
2016年10月21日の早朝、こんぴらさんの参道沿いにある宿で目覚めた。
粛々と支度を済ませると6時を少し回ったところで宿を出た。乗車するのは6時58分発の阿波池田行き普通列車なのだが、乗り遅れると次は9時過ぎまでないという閑散区間なので、乗り遅れを避けるため早めの行動だ。
薄明の街を足早にやってきた琴平駅は、本来の駅舎が改修工事中なので、隣に用意された小さな仮駅舎に向かう。時計に目をやるとまだ30分も余裕があり、急ぎすぎた気もするけど乗り遅れるよりはマシかなと思う。
窓口は閉まっていたが、駅舎に同居するコンビニは仮駅舎でもしっかり営業していたので、軽く食料品を買い込んできて人気のない待合室で朝食をとる。ついでに前回箸蔵までの旅では沿線に食事処がなくて飯抜きとなった教訓から、菓子パンをひとつバッグの底に忍ばせておく。
やがて学生が続々とやってきて、静かだった待合室は朝らしい喧騒に包まれた。この頃になると駅員も姿を表して窓口を開け、盗難対策で片付けていたのか、どこからともなく駅スタンプを持ってきて設置していった。ようやく駅が目覚めたという感じがする。
程なく駅舎に接する長いホームに単行のディーゼルカーが入線してきた。阿波池田からやってきた当駅止まりの普通列車で、これが折り返しの阿波池田行きとなる。近くに停車する高松行きには学生の列が続くというのに、こちらに乗る人はほとんどなく、わずか数人の乗客を乗せて出発した。
最初の目的地である佃は、この列車の終点となる阿波池田のひとつ手前と遠く、到着まで40分近くかかる。こういった目的はあるのに何もしなくていいという移動時間が好きで、これ幸いと車窓を楽しむ。
琴平を出ると車窓は徐々に山深くなり、こまめに停車する無人駅に人の気配はない。県境に横たわる猪ノ鼻峠を長いトンネルで抜けると香川県から徳島県に入る。すぐに秘境駅として名高い坪尻駅に差しかかるが、この列車は普通列車ながら通過するので、駅で泊まった物好きでもいないかと目を凝らすが、ここにもまた誰も見当たらなかった。
箸蔵を発車すると大きく弧を描くようにして距離を稼ぎつつ、眼下を流れる吉野川に向けて少しずつ下っていく。そして長い鉄橋に差しかかれば峠越えは終わりを告げ、車窓にはゆったり流れる川面が広がった。当分この四国三郎こと吉野川が車窓の友となる。
鉄橋を渡り終えると大きく右にカーブして上流へと進路を向ける。同時に左手からは徳島線の線路が近づいてきて、合流したと思ったらもう佃駅のホームに滑り込んでいた。
佃
- 所在地 徳島県三好市井川町西井川
- 開業 1950年(昭和25年)1月10日
- ホーム 1面2線
列車を降りるとやけにホームが狭く感じた。足元を見ると点字ブロックの内側には、一人が歩けばもう一杯という程度の幅しかない。加えてその場所にベンチや上屋の支柱などが陣取るため、自然とそれらを避けてホーム端を歩くことになり一段と狭く感じるようだ。
当駅は吉野川沿いに徳島に向かう徳島線の分岐駅で、今では土讃線から分岐する徳島線という感じになっているが、先に開通したのは徳島線の方だった。後から建設された土讃線を分岐するための信号所として開設され、やがて当駅から三縄までの区間が土讃線に編入されたり、信号所から駅に昇格するなどして現在の形に落ち着いている。
そんな歴史もあってか、分岐駅という響きから想像するよりずっと小さな駅だ。ホームは分岐する線路に挟まれるようにして島式ホームが1面あるだけ。それも元々が信号所だったせいか線路の間に強引にねじ込んだように狭い。
まずは目と鼻の先にある駅舎に向かう。目の前にありながらホームとの間に線路が1本横切るため、跨線橋を渡って大回りしないとたどり着けない。こうなると線路を横断しようと横着する人が居るからか、駅舎の周りはフェンスでがっちり囲まれ、跨線橋を通らないと物理的に行き来できなくされている。
その跨線橋の上から列車が走り去るのを見送ると、国道と徳島自動車道が近くを走っているせいか、列車の音が遠ざかるのに比例して車の走行音が目立ってきた。
やってきた駅舎は当然の無人駅だが待合室は意外と広い。思えばこの駅で広く感じたのはここだけかもしれない。広いといってもベンチは少なく、乗客もさっさとホームへ行ってしまうから、ほとんど通路としてしか使われてなさそうではある。
閉鎖された窓口の片隅には、小さな花瓶に黄色いコスモスが生けてあった。近づくと花びらが周囲に散っていて造花ではない。誰が生けているのか知らないけれど、待合室の寒々しさを緩和してくれる貴重な存在だ。
壁の時刻表に目をやると、土讃線と徳島線の列車がやってくるから意外と本数が多い。特に隣りの阿波池田までは両線の列車が重複して走るから、わずか数分間隔で同じ阿波池田行きがやってきたりと、田舎駅らしからぬ運転間隔を目にすることができる。
駅前に出ると元々が信号所だったせいか、自転車くらいは野ざらしでよければ置けますよという程度の空き地があるのみ。それでもそれなりに利用者はあるらしく10台ほどの自転車が並んでいた。そこにまた新たな自転車がやってきて、いつも通りといった感じに手際よく止めながら、ホームのベンチに座る人と線路越しに言葉を交わしていた。
桜ヶ丘公園
線路伝いに近くの踏切を目指して歩きはじめた。右手には枕木を再利用した柵がどこまでも続き、その苔むした表面には錆びついて千切れかけた有刺鉄線が絡み、なかなか味わい深い姿を見せている。左手には住宅が並びいくつかの店舗らしき建物もあるが、出歩く人の姿はなく風だけが勢いよく吹き抜けていく。
目的地は駅裏の高台にある桜ヶ丘公園だ。桜という季節ではないが、駅前には観光案内板のような気の利いたものはないし、地図で目に留まったそこに行ってみようという訳である。
歩行者専用の小さな踏切に立ち、土讃線と徳島線が左右に分かれていく様子を眺めたら、その先に伸びる細々とした道を上がっていく。稲刈りを終えた田んぼ、たくさんの実をつけた柿の木、木枯らしが古びた建物のトタンをめくる音、否が応でも秋の気配を感じる。
まもなく踏切が鳴りはじめ徳島線の普通列車がやってきた。2両編成の阿波池田行き普通列車で、車内に目をやるとかなり混み合っている。同じ阿波池田行きなのに、1両でも空いていた土讃線とは対照的な姿であった。
まもなく行く手に国道が立ちはだかる。横断しようにも交通量が多く信号がないときたから厄介だ。仕方がないので車の切れ間を求めて道ばたに立つが、この時間が何だか晒し者にでもなったようで嫌いだ。ふと遠くを見ると同じように道ばたに立つ、婆さんの姿があり、なんとなく仲間意識を感じる瞬間である。
国道という名の関門さえ突破してしまえば、あとはさして車も通らない道を山へ山へと上がっていくだけと気楽なもの。
その途中には八幡神社の鳥居があり、高台の拝殿へと向けて石段と玉垣が伸びている。目的の幸福神社ではないが、石造りの構造物が並ぶ重厚な雰囲気は魅力的で、引き寄せられるように鳥居をくぐった。
参道は緩やかな傾斜地にあるので、石段と石段の間には長めの平坦箇所が続く。こういう所は玉砂利が敷かれていたり、コンクリートで固められていたりと様々だが、ここは隙間なく石が敷き詰められている。そんな石畳は長い歳月によるものか、きっちり水平ではなく右へ左へと傾いているのがまた趣があってよい。
石段・石畳・玉垣、どれもみな同じような古びた風合いをしているためか、その統一感が美しい参道だ。最近流行りのステンレスの手すりがないのも大きい。拝殿の前にある大きな石灯籠は、自然の造形を活かした形もさることながら、立てかけられた
石の神社という感じの八幡神社で半ば満足しつつも元の道に戻り、農地や住宅の点在する斜面をぐいぐい上がっていく。標高を上げるにつれ周囲は山林が主体に変わり、遠くに目をやれば吉野川とそれを取り巻く街並みが広がる。
駅には何の案内も見当たらなかったが、ここにきて「日本一長いボタン桜の通り抜け」なる案内板が目に止まる。桜の品種は数十種類あり大阪造幣局と同種の桜も多いそうで、こんなに桜が充実していると春に再訪したくなる。そして思いがけない大阪造幣局の文字に、以前訪れた「大阪造幣局桜の通り抜け」の喧騒や桜が頭に蘇ってきた。
そんなことを思い出しつつ急斜面上の道路を上がっていくと、その先には意外にも緩やかな傾斜地が広がり住宅も点在している。先へ進むほど山深くなると思いきや、逆に開けてきたのだから拍子抜けである。
このあたりが桜ヶ丘公園のようで、それを案内する大小さまざまな看板や標識があちこちに立つ。その名の通り多数の桜が植えられていて、先ほどのボタン桜の通り抜けというのもここにあるのだろう。
ここ最近の暖かな陽気のせいなのか、はたまたそういう品種なのか、もうピンク色の花を咲かせる枝もあった。桜の近くでススキが揺れる光景はどこか不思議だ。
そんな公園脇の斜面には数百年前の千枚田跡なるものがある。あの吉野川から石を運んで作ったそうで、歩くだけでも疲れるここまで運ぶとは、もう少し川の近くによい場所がなかったのかと思ってしまう。いったいどんなものかと斜面を覗きこむが、一面に草木が生い茂りるばかりで千枚田の”せ”の字も見当たらなかった。
何もないようで何でもあるこの場所には、大展望台・足湯・かずら橋といった案内板も立っている。まるで人の気配がないのが気になるが面白くなってきた。
まずは高台へきたのだから大展望台とやらで景色を楽しもう。そう思って歩いていると見た目でそれとすぐわかる足湯が現れた。お湯どころか水すらなく、落ち葉が片隅にたまっているだけだったが…。舗装の隙間から雑草が生い茂るあたり長らく使われてなさそう。そして肝心の大展望台がどこにあるのかは今になっても謎のまま。
近くの高台には長さ75メートルという日本一長いかずら橋がある。といっても千枚田と同じく「跡」なので今は跡形もなく、辛うじて橋のたもとにあったらしい、小さな小屋だけがポツンと佇んでいた。小屋の窓には当時の写真がたくさん貼られ、長いかずら橋やコスモスに覆われた山の姿はどこか別世界である。
幸福神社というありがたい名前の神社が鎮座しており、その見るからに新しく簡素な作りからすると、公園の整備と一緒に作られたのだろう。当然ながら先ほどの八幡神社のような重厚感や歴史は感じさせず、どこかレジャー施設感が漂う。
ほとんど手入れはされていないらしく、周辺は草木に覆われ鳥居は破損したまま。その姿は廃村の神社を連想してしまい、名前とは裏腹にあまり幸福な感じではない。戸を開けて中に入ると、意外にもお守りを販売していて近くのゴルフ練習場に置いているそうだ。
どこか消化不良だがまあこれでよしとして、桜並木の間を駅へと向かっていく。道ばたには生い茂る雑草に埋もれるような休憩所や、駐車場と化したテニスコートなどもあり、華やかさと寂しさが同居するような景色だ。
中でも印象的なのが、小さな広場に敷かれた廃線を思わせる錆びついた線路だ。ここにはよく見かける遊具に加えて、幅十数センチ程度の小さな線路が一周している。子供たちを乗せた車両が走るのだろうが、足湯と同じでこちらも長らく使用された形跡がない。
近くには「ミニ新幹線始終駅」の張り紙がされたトタン張りの小屋が建ち、最初見た時はこんな四国の山中で新幹線とは何だろうかと不思議に思ったが、どうやら新幹線型の車両がこの線路を走るらしく謎が解けた。意外な所に走っていた四国新幹線である。
こうして後にした桜ヶ丘公園、かつては美しく整備されていたようだが、今では風に揺れるススキと荒れた施設が目立ち、兵どもが夢の跡といった様子である。とはいえ桜の木はたくさん植えてあるので、春に訪れたらまた違う印象を受けるのかもしれない。いつか春に再訪してみようと思う。
駆け足に駅まで戻ってくると次の列車まで30分以上ありどうも間が悪い。仕方がないのですっかり誰もいなくなったホームのベンチに腰かけて列車を待つ。するとどうしたことか急激に体が冷えて寒くなってきた。気温が低めのせいもあるのだろうが、このホームの風通しが抜群すぎるのだ。唸り声を上げて吹き付けてくる風は、上屋に取り付けられた乗換案内の看板を揺らすほど。
立って座って歩いてと暇を持て余していると、ようやく阿波池田行きの普通列車4227Dが姿を現した。その車両は先ほど乗ってきたのと同じで、桜ヶ丘公園で遊んでいる間に琴平までもう一往復してきたと思われる。そんな訳で降りた車両に降りたホームから今度は乗りこんだ。
佃を出ると左手には山が迫り、右手には吉野川を眺めつつ進む。やがて車窓に住宅から久しぶりに見る大型店まで、大小様々な建物が密集するように広がると阿波池田に到着だ。
阿波池田
- 所在地 徳島県三好市池田町字サラダ
- 開業 1914年(大正3年)3月5日
- ホーム 3面5線
土讃線では琴平以来となる特急停車駅であり有人駅である。池田町は古くからこの地域における政治経済の中心地で、交通の要衝でもあったことから、四国の山間部としては指折りの大きな町だ。それだけに鉄道の開通も早く百年以上の歴史を持つ。深い山間部を通ったあとで突如現れる街だから、実際以上に発展して見える街でもある。
ゆっくり入線する列車の車窓には何本もの線路が広がっていく。3面あるホームは5番線まであり、さらにその外側には多数の側線が並ぶ。主要駅らしい構えをした駅だ。四国で当駅より乗り場が多いのは高松しかなく、このような山間の駅が県庁所在地の松山・高知・徳島より多いのだから面白い。
もっともそんな広々とした構内には短い普通列車がいくつか休む程度、かつては多数の車両で埋まっただろう側線も錆や雑草が目立ち、手持ち無沙汰にしていたのが印象に残る。
列車は3面あるホームのうち最も駅舎から遠いホームに到着した。要衝としての長い歴史を感じさせる幅も長さもある大きなホームで、その全体を上家が覆う様はなかなかの貫禄がある。待合室を配しても余裕のある幅は、先ほどの佃がベンチを辛うじて置ける程度だったのとは実に対照的だ。昔は数多くの駅弁が販売され、立ち食いそば屋もあったというが、今はこのホームの大きさだけが過去の賑わいを伝えている。
設備そのものは古くも新しくもない感じで、増改築を繰り返しているのかどこか継ぎ接ぎのよう。そのせいか特に興味を惹かれることもなく、一緒に降り立った乗客の流れに引っ張られるようにして改札口へと向かった。
大きな三角屋根が特徴的な駅舎までやってくると、久しぶりの有人改札が待っていた。その先のベンチの並ぶ待合室には、みどりの窓口やコンビニもあり、平屋建てながら幅のある駅舎には旅行センターまで同居している。閑散としていたホームと違い利用者で賑わっていたが、私には小さな無人駅のほうが性に合っているらしく落ち着かないので、これまた早々と通り抜けて駅を後にした。
駅前に出ると構内の広さに比べて随分小じんまりしており、タクシーや送迎の車が並べばもう一杯になってしまうような手狭な感じだ。そんな小さな駅前広場を挟んだ正面には、駅と対峙するかのようにしてアーケード商店街が大きな口を開けていた。
たばこ資料館
近くには観光案内所もあったが、まずは駅前で何より存在感を放つアーケードに向かう。下を見ると歩道すらない単なる道路なのに、上を見ると全体を覆う大きな屋根がある。普段利用するアーケードといえば、歩行者専用や歩道部分だけに屋根がある形ばかりなので、なんだか新鮮に映る。
道の両側には種々雑多な店舗が並ぶが閉まっている店が目立つ。人通りも少なく時々やってくるのは車ばかり。これはまだ10時と早いせいなのか、それともシャッター街なのか…。
300メートルほど進むとアーケードは終わり、その先は建物の密集する通りが方々に延びていく。どちらに進めばいいのか悩ましい。とりあえずは路面が石畳風でいかにも観光エリアですという雰囲気を醸し出す通りを選んでみた。
通り沿いには住宅から店舗まで新旧様々な建物が並び、うだつの上がるかなりの歴史を秘めていそうな家も点在する。阿波池田はうだつの町並みが有名なところだ。とはいえそんな歴史ある建物ばかりが続くわけではないので統一感はなく雑然とした感は否めない。
そんな中の一軒に重厚かつ美しい外観をした「阿波池田うだつの家」がある。刻みたばこ業者の居宅で百年以上の歴史があるそう。たばこ資料館も併設しているが、たばこを吸わないことが災いして特に興味が湧くこともなく通り過ぎてしまった。だがせっかく来たことだし他に行く宛もないのだ、考え直して戻ってくる。
建物に入るとすぐ受付があり館長らしき気さくなおっちゃんに入場料を手渡す。310円と手頃な価格なのがありがたい。
入場券とパンフレットを受け取り奥にある資料館まで案内してもらう。途中には母屋の一室に展示された人形浄瑠璃だとか、これまた歴史がありそうな中庭や離れ座敷などもあり、それらの説明も聞きつつ奥へ奥へと進んでいく。そして一番奥にある、たばこ作業所の跡を利用したという資料館までやってくると、後は撮影も見学もご自由にと去っていった。
見回せば古い資料や道具がたくさん展示してあり想像していたより楽しめそう。しかも貸切状態で時間はたっぷりあるときたから、腰を据えてじっくり見学して周ることにした。
資料はこの地域におけるたばこ伝来や栽培から、それらを使った刻みたばこの製造、さらに輸送や販売まで多岐にわたり見応えがある。全体の歴史を見ていると、たばこによって町が発展していく様子がよくわかり、まさにここはたばこの町だったのだと実感させられる。
たばこに興味はなかったが逆にそれが幸いしたようで、知らないことばかりの展示内容はとても新鮮で飽きることがない。
小粒ながら濃厚という感じの資料館を出ると、せっかくなので中庭に面した離れ座敷にも立ち寄ってみる。この離れは明治の終わりころ、国がたばこを専売制としたため廃業することになり、その際に受け取った補償金で建てたそう。それだけに高価な建材と手の込んだ作りのようで、波打つ窓ガラスは明治時代の手作り品だろうか。
同じ時代に同じようにお金をかけたからか、となりの香川県は引田にあった讃州井筒屋敷を思い起こさせる雰囲気であった。
こうして館内を一巡して母屋の玄関まで戻ってくると、先ほどのおっちゃんが
この後どうするのか聞かれ特に予定もないことを伝えると、
教えられた道すがらにも、うだつの上がる家が点在しており、街中に何気なく普通の民家として残っているのはすごい。だが民家となると維持管理も難しいのか痛みが進行したまま放置状態と、痛々しい姿の建物も見かけるのは残念なところ。
やがて傍らに大木のそびえる神社が現れて、どうやらここが医家神社と思われる。思われるというのはどこにも医家神社の文字が見当たらないためで、近くまで市街地が広がるものの尋ねられそうな人の姿もない。念のため周辺を歩いてみるが他にそれらしい神社の姿もなく、やはりここが医家神社のようだ。
拝殿は最近建て替えたらしくまだ新しいが、境内の大きな木がその歴史を感じさせる。周囲を取り巻く木々がザワザワと風に揺れる音が心地よく、休憩スペースやトイレも整備されているので、ちょっとした憩いの場といった感じだ。
そして気がつけば次の列車まで30分を切っている。当初はどこかで食堂にでも入ろうなどと考えていたが、移動時間も考えるとそれどころではなく足早に駅へと向かった。
再び有人改札を抜けると列車の待つ1番線にやってくる。このホームはバリアフリー化のため最近になり跨線橋を必要としない駅舎に接する形で新設されたそうで、先ほど降り立ったホームとはまるで別物の簡素で狭いホームなのが印象に残る。
乗り込む列車は高知行きの普通列車4231Dだ。ここまでの普通列車は琴平や阿波池田行きばかりだったので高知の文字が新鮮に映る。もっとも車両の方は1両ワンマン運転の見慣れた車両で変わり映えしない。車内も少しは活気が出てくるかと思ったがボックス席が軽く埋まる程度と、これまたいつもと同じ光景であった。
阿波池田を出発するとすぐに短いトンネルに入り、抜けたと思ったら手品のように街は姿を消し、車窓には吉野川と緑が広がる。そしてそんな吉野川を楽しむ間もなく、次の下車駅である三縄に到着となんとも慌ただしい。
三縄
- 所在地 徳島県三好市池田町中西
- 開業 1931年(昭和6年)9月19日
- ホーム 2面2線
吉野川にほど近い場所にあり、周辺には緑あふれる小高い山々が広がっている。駅舎は上から下まで板張りの木目を生かしたデザインで、駅に隣接する大きな製材所からは、木のいい香りや工作機械の音が風に運ばれてくる。まさに林業の街といった雰囲気だ。
列車は駅舎に接した1番線のホームに到着する。もうひとつ向かい側にもホームがあり、こちら側とは屋根のない簡素な跨線橋で結ばれている。この跨線橋が赤い足回りに白い手すりと派手な出で立ちで、木と緑をイメージさせる駅の中で浮いた存在になっていた。
その赤い跨線橋に上がってみると構内から周辺までよく見渡せ、阿波池田側には吉野川にかかる赤いアーチ橋が見える。そして反対側を向けば駅舎とその脇にある貨物ホーム跡、それに錆びついた側線などが視界に広がり、貨物輸送で賑わっていた往時が偲ばれる。
駅の一番外側にある線路は、雑草と錆に覆われつつもきれいに残っており、思わず近くまで行ってみる。近くで見ると思いのほか太いレールでしっかりした線路なので、その姿はどこかの廃線跡でも見ているようだ。
この線路は駅裏にある小さな畑への通路にもなっているようで、跨線橋を渡ってきたじいちゃんが現れると、そのままひょいと線路に降りて去っていった。
この駅には珍しく名所案内が立っているが、ホームの端という車窓からは気が付いても、駅利用者は気が付かなそうな場所にある。見ると
駅舎は改装のおかげで新しそうに見えるが、柱の補強用らしきレール表面を見ると1934(昭和9年)という文字が読み取れ、建物自体は相当に古そうだ。内部は外観に負けず劣らず木材を多用した作りで、壁面のみならず天井まで板張りとなかなか手が込んでいる。
例によって無人駅だったので窓口は閉まっていたが、窓口の前にはこれまた木製の投句箱が設置され壁面には句が並ぶ。他にもコケシや陶器の人形などが並び、花瓶には赤いケイトウの花が生けられてと窓口周りは実に賑やかだ。
そんな雰囲気に加えてきちんと清掃もされているからか、無人駅によくある寒々しさや薄汚れ感がなく、暖かみのある待合室であった。
駅前に出るとちょうど昼時とあって、乗用車の中で弁当を食べる人の姿がある。その一方で運転手に昼休みなどないのか、大型トラックが忙しく駅横の工場に出入りしていた。
三好橋
いくら名所とおすすめされても黒沢湿原は遠そうなので、少し阿波池田よりにあり駅の跨線橋からもその姿が見えた、吉野川にかかる赤いアーチ橋を目指してみる。まあ特にどこへ行こうという宛はなく、街中を散策ついでに食堂でもあれば昼飯にしようという考えだ。
周辺は山すそと吉野川に挟まれた小さな平地で、工場・住宅・商店などが密集するように建っている。駅のすぐ近くにあるスーパーの窓には、これでもかとアピールするように「手作りカツ丼」の文字が並ぶ。しかも258円と破格に安くて気になる存在だ。
駅から10分ばかり歩くと目的の大きな橋が見えてくる。三好橋と名付けられたこの橋は、記憶の中にある姿は赤いアーチ橋だが、目の前にあるのは緑のトラス橋という、狐につままれた気分にさせるユニークな形をしている。
新しいような古いような年齢不詳のこの三好橋は昭和初期に造られ、かつては東洋一と謳われた全長200メートルを超えるつり橋だったという。その橋を吊っているケーブルが劣化した際に橋桁自体は問題がなかったので、上部のケーブルを撤去する代わりに下部にアーチを追加して、つり橋からアーチ橋に生まれ変わったという歴史を持つ。吊っていた橋桁を下から支えるという、上下逆さまにしたような形で解決するとは興味深い。
橋の上からはすぐ下流に池田ダムがあるため満々と水を湛えた吉野川と、その傍らを走る土讃線の姿がよく見えた。いつの間にか太陽も顔を出しており、広々とした眺めと相まって穏やかな秋の日といった感じだ。
ただ思いのほか高さがある上に歩道はなく、ときどき三縄駅の横にある工場に向かうのか、大型トラックが橋を上下に揺すりながら脇を通り抜けていく。これではいくら眺めがよくても、あまりのんびりしていたい気分ではなく、そそくさと対岸まで渡ってしまった。
やってきた対岸には琴平からずっと土讃線と並行している国道32号線が走っている。下流に池田大橋ができるまでは、この三好橋が国道の橋だったようだ。しかも高松・松山・高知・徳島からやってきた道路が交わるような場所で、どうりで立派な作りをしている訳である。
周辺には昭和を感じさせる商店や住宅が並び、背後に迫る山上には戦国時代、長宗我部元親が四国制覇の拠点にもした白地城跡がある。なかなか良いところであり、今度はこのあたりを散策することにして国道沿いを進んでいく。ところが国道の猛烈なまでの交通量に早々と嫌気が差してきて、気がつけばまた三好橋を渡っていた。
待合室であの安いカツ丼でも食すことにして駅前に戻ってきた。そして意気揚々と入店して店員に尋ねると「売り切れました」の無情な一言。これはまた前回に引き続き飯抜きになる予感がしてきた。
時刻を確認すると次の列車まで1時間以上あるので、気を取り直して今度は駅の上流側に向かう。先ほどの下流側へは2車線の道路が真っ直ぐに伸びていたが、こちら側は住宅が密集する中を狭い道路が曲がりくねり、いかにも昔ながらといった面持ちである。それでもバスは走っていて木製や錆びに覆われた鉄製という趣あるバス停が印象に残る。
途中で山すそに向けて玉垣の続く参道が現れ、入口の傍らには一宮神社と彫られたいう石柱がある。これは「いちのみや」「いっく」どう読むべきか迷うところ。
境内までやってくると傍らに大きなイチョウのご神木があり、足元にはたくさんの銀杏が散らばっていた。そのせいもあり境内に居ると風に乗って銀杏独特の臭いが漂ってきて、拝殿は入母屋造りだったなあ程度の簡単な印象しか残っていないのに、イチョウの木は強く印象に残っている。
神社を囲む森の中に、杉なのか檜なのか大きな木が幹をむき出しにした荒々しい姿を見せている。枝を落としたのか折れたのか、はたまた枯れかけなのか知らないが、その存在感ある姿に惹かれて近くまで行ってみる。しめ縄の巻かれた太い幹を見上げると、幹が途中で三方向に分かれた不思議な姿をしていた。
とうとう食事にはありつけなかったので、駅に戻ってくると今朝の琴平駅で買った菓子パンで腹ごなし。まさかこれが本当に役に立つとは思わなかった。
次に乗るのは高知行きの普通列車4237Dで、やってきた車両は琴平や佃で乗車したのと同じ車両で、本日3回目となる乗車である。
三縄を出発すると本格的に山が深まりはじめ、ゴツゴツした岩場が目立つ吉野川を見下ろすようにして進んでいく。このあたりはまだダム湖の範囲内なのか、川面の方は緑色にどんよりとしていた。
祖谷口
- 所在地 徳島県三好市山城町下川
- 開業 1935年(昭和10年)11月28日
- ホーム 1面1線
吉野川もこのあたりまで上流になると両岸に急峻な山が迫り、すっかり平地というものが姿を消してしまう。そのせいもあってか周辺は川の近くのみならず、山のはるか上の方にまで住宅や農地が点在する傾斜地集落が広がる。駅も山すそのカーブ上に辛うじてホームがあるだけの窮屈そうな姿をしている。
見るからに山間の小駅とあって下車するのは私だけ、と思ったら意外にも女子高生がひとり下車した。慣れたもので駅前に出ることもなくホームの端からどこかへ消えていった。
ホームの中ほどには木材とレールを組み合わせた趣ある待合所があり、ホームの狭さを反映してか壁は背面にしかない。その壁は掲示板も兼ねていてポスターや時刻表が並び、赤いケイトウの花を生けた竹筒まで取り付けられていた。思い返してみると徳島県に入ってから訪れた駅には、いつも草花が生けてあった気がする。
遠く山の斜面上に広がる集落を眺めながらホームの端までやってくると、意外にも名所案内が立っている。木製だけに趣があると言いたいところだが、そんな状態はとうに通り越して半ば朽ちかけており、そう遠くない日に崩壊してしまいそうだ。消えかけた文字を読み取ると祖谷口という駅名にふさわしく「秘境祖谷」が案内されていた。
だがよく見ると片隅にバス60分の文字があり、三縄駅の名所案内にあった黒沢湿原と同じで、近くにそんな名所があるのかとホイホイ下車するとえらいことになる。
このあたりは全体が傾斜地なので、ホームから駅前の道路に出るだけで早くも20段近い階段を下りることになる。階段を下りた先にはコンクリートの基礎が残り、かつては駅舎があっただろう名残りをとどめる。その基礎の形を眺めていると、ここが待合室でこっちが駅務室かなと、見たこともない当時の様子が頭のなかに再現されてゆく。
思えばここまでの土讃線は無人駅であっても駅舎はしっかり残された所が多く、ホームだけの駅というのは黒川以来の2駅目だ。もっとも黒川は最初から駅舎のない駅だ。駅舎を取り壊した代わりなのか、駅前には小さなログハウス風の待合所が設置されていた。
その待合所に行ってみると、手入れのされたプランターや座布団が並び、しっかり管理されているのが伝わってくる。中にはオートバイに乗ってきた壮年の男性が休んでいて、私が駅の撮影をしていると出てきて、何か珍しい駅なのか、何かいわれがある駅なのかと質問が飛んできた。駅舎すらない駅の撮影とか周りから見れば奇異に映るんだろうな。
そこそこの広さで車くらいは停められる駅前広場を見回せば、待合所のほかに公衆電話やコンクリートブロック積みの小さなトイレなどが点在する。なんだか駅舎がバラバラになってしまった感じだ。
大川橋
駅を出るとまずは一段低い所を走る国道に出てみようと坂道を下っていく。狭い道路の両側には住宅が並び、駅の斜め向かいには近所のお年寄り相手のような小さな商店もある。店の前を通りながらガラス越しに中をうかがうと、ばあちゃんが2人おしゃべりに夢中であった。
坂道を下りきって相変わらず交通量の多い国道に出ると、その国道を挟んだ正面に吉野川をひと跨ぎする大きなつり橋があるのに目を奪われる。幅は2〜3メートル程度で、鋼製の橋桁にコンクリート製の主塔とガッシリしているが路面は木製という、まさに昭和初期といった風貌をしている。
この手のつり橋でよく見かけるのはコンクリートの主塔部分だけを残して跡形もなく、すぐ隣に新しい橋がかかっているという光景だ。こうして現役というのはなかなか珍しい。
これを目の前にして渡らないという選択肢はないだろうと、国道を横断してつり橋のたもとまでやってくる。橋の名前は大川橋といい主塔に大きくその名が刻まれる。その傍らには昭和十年十一月二十八日竣成の文字もあり、これは祖谷口駅の開業日と同じだ。
さっそく渡ってみると路面は木製といってもどっしりして微動だにしない。これはいいと意気揚々と手前の主塔部分までやってくると、その側面に橋の説明板が取り付けられていて土讃線との意外な関係を知ることになる。
それによると土讃線の建設時に祖谷口駅の設置を鉄道省に陳情した結果、この大川橋の架橋を条件に設置が許可されたとある。対岸を見れば山の斜面にへばりつくようにして多数の人家があり、ここに橋があればそれなりに利用者も見込めたのだろう。大川橋の竣成日と祖谷口駅の開業日が同じなのも納得である。
説明を読み進むと橋の建設資金を出したのが個人というのが驚きで、昭和37年に池田町に寄付したとあるから、実に30年近くも個人所有の橋だったのだ。
主塔を過ぎればいよいよ中央の長い桁に足を踏み入れる。すると重量を軽減するためか幅が少し狭くなっただけでなく、足元の木材も途端に薄くなり歩くたびにミシミシと音を立てはじめた。そして足元には隙間があるというレベルではなく、普通にあちこち穴が空いていて水面まで見えるという頼りなさ。思った以上に高さもあり恐怖心を煽ってくる橋だ。
踏む場所を選びつつミシミシと進んでいき、ほぼ中央まできた所で景色を眺めつつひと休み。そこへ後ろから買い物袋なのか大きな袋をサンタクロースのように担いだ、婆さんがやってきた。駅前の商店で話し込んでいた人のように思える。軽く挨拶を交わすと「危ない橋やねえ」と言い残し、穴を避けるようにジグザグと歩きながら去っていった。
ようやく対岸までやってくると商店だったらしき小さな廃屋が目に留まる。過疎化の進む山間の集落にやってくると、多くの人が否が応でも通ることになる橋や駅の近くには、必ずといっていいほど小さな商店があり、そして必ずといっていいほど廃業している。
一見して特に何があるという訳でもなさそうで戻ろうかと思うが、またこの危なっかしい橋を渡る気にもならなかったので、上流に見える水色の大きなアーチ橋まで散歩がてら行ってみることにした。
対岸のこちら側にも平地はほとんどなく、細々とした道路は山伝いに延びていく。道沿いには板張りの古びた家が並び、澄んだ水の流れる水場や、土台ごと川に転げ落ちるのではないかと思うような家も見かけた。たまにすれ違うお年寄りは人当たりがよく風情ある通りである。
途中には昭和初期に建てられた分校の木造校舎か、それとも古い公民館か診療所かというような形をした小さな二階建ての建物がある。板張りの外観を白っぽく塗装されているから余計にそんな感じに見えるのかもしれない。
近づいてみると入口には高橋写真館と書いてあり、この立地と建物で写真館をやるとか相当なこだわりを持った店主なんだろう。と思ったら「村の写真集」という映画のロケで写真館として使われた建物だそうで、元々は
目的の橋は2車線で歩道付き、全長は200メートルほどある大きな橋だった。駅と同じ祖谷口という名をもらった橋で、その名の通り対岸の国道から分かれて祖谷川をさかのぼっていく県道の入口になっている。橋の下が吉野川と祖谷川の合流点になっていた。
橋のたもとには川崎橋という四国交通のバス停と待合所があり、かずら橋方面へのバスも出ている。祖谷口橋の前にあるのになぜ川崎橋なのかと不思議な気がしたが、どうやら近く別な橋があるようで、対岸の国道沿いにはちゃんと祖谷口橋というバス停もあった。
待合所にはトラ猫がくつろいでいたので少し遊んでから祖谷口橋を渡る。さすがに先ほどの大川橋のように、足元がきしむこともなければ穴も空いていないので安心感は段違いだ。とはいえ高さは同じようにあるので、川面を覗き込めば同じようにゾクゾクっとするものがある。
再び祖谷口駅ある左岸側へと戻ってきた。こちら側の橋のたもとには「祖谷橋」という手打ちうどん&そばのお店があり、体が冷えてきている上に阿波池田と三縄で食べ損ねて小腹が空いているので、渡りに船とばかりに迷わず入店した。店内は15時を回ったところと時間が時間だからか貸し切りだったので、眺めのよい吉野川と祖谷川を見下ろす窓際に腰を下ろす。
うどんもいいけど祖谷といえばやはり、そばかなと山菜そばを注文。こだわりの手打ち太麺というだけあって、出てきたそばは本当にうどんの如く太く、それでいて短いのが特徴的だ。
鉄道利用となぜわかったか店を切り盛りするおばさんに、鉄道の方は大丈夫なのかと尋ねられる。はて何のことかと思ったが、なんと島根県で震度6弱という大きな地震があったそう。そんな大きな地震があったとは全然知らなかった。
食べ終えると先ほどまで肌寒かったのが嘘のように温まり、窓を少し開けると吉野川を通ったヒンヤリした風が吹き込んできて気持ちいい。店を出て駅に向かって歩いていると、いよいよ汗が出てくるほどであった。
さて次の駅へ向かう列車は17時近くまでなく、夏場なら問題ないが今の季節はもう日没寸前だ。そんなわけで今日はここまでにして琴平に引き返すことにした。うまい具合に次の列車は琴平行きなので乗り換えることなく一直線に帰れる。
時計を見るとまだ30分近く時間があり、風の通り道のようなホームで立っていると、汗をかいたせいもあって瞬く間に体が冷えてくる。まだかまだかと待つが全然現れないので、もしかして地震の影響が出ているのだろうかと不安を感じはじめたころ、カーブの先から見慣れた顔が姿を現しホッとした。
琴平まで1時間以上の長時間乗車となるので、混んでたら嫌だなぁと思い乗車。すると車内はそんなことを考えるのがバカバカしくなるほど空いていて、なんと乗客はひとりしか乗っていないのである。
エピローグ
およそ半日ぶりに賑やかな阿波池田に戻ってくると、希少な乗客に加え運転手まで去ってしまい、文字通りの貸し切り列車となってしまった。
列車はここで23分も停車するので暇を持て余しホームに降りてみる。するとホームの発車案内には1時間近く前に去っているはずの、南風13号という表示が出たままで、ここにきて地震の影響で大幅にダイヤが乱れていることを知る。
誰もいない車内でぼんやりと向かいの1番線に目をやると、岡山行きの特急を待っているらしい人々でごった返している。中には大きな荷物を抱えた外国人旅行者の姿もあり、ここにいったい何の観光で来たのか、瀬戸大橋が不通のようだがこの後どうするのか、そんなことが頭のなかに浮かんでは消えていく。
そんな喧騒とは無関係なこちらの普通列車は、発車時刻が迫りようやく運転手や乗客がパラパラと集まる程度とのんびりしている。そして対向の特急が遅れていた影響で4分ほど遅れて阿波池田を後にした。
箸蔵ではまた列車行き違いでしばらく停車となり、ここで乗車してきた高校生が窓ごしに友人と身振り手振り楽しそう。そして次の坪尻は通過するので、今朝と同じように誰かいないか注視するが、今回もまた誰もいない。
県境を越えた讃岐財田でひとり降りていくと、前回この区間を乗車した経験からもう琴平まで乗降はないだろう。そう思ったが意外にも終点琴平ひとつ手前の塩入でひとり乗車してきた。さらに向かい側のホームにある待合所には、親子連れとおぼしき中高年女性の2人連れがいて息を切らしつつ大急ぎで跨線橋を渡ってくる。
なんでも琴平で逆方向の列車に乗ってしまい、ここで降りて待っていたそうだ。そして1番線で降りたから、逆方向の列車だからと反対側にある2番線で待っていたらこうなったそう。最初の列車は駅員に聞いて乗ったら間違っていたと相当におかんむりであった。
こうして帰ってきた琴平駅はまだ17時を少し回ったところだというのに薄暗く、秋の日はつるべ落としというのを実感する。
(2016年10月21日)