飯田線 全線全駅完乗の旅 5日目(野田城〜東新町)

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2023年4月4日、6時ちょうど発の浜松行きで名古屋を発ったまではよかったが、心地よい揺れにとろとろしてしまい、気がつけば目的の豊橋を過ぎていて、慌てて下車したところは浜名湖を目前にした新所原であった。

やってしまったという思いとともに下り列車に乗りこみ、豊橋に降り立ったのは7時55分のことだった。気づいたときには冷や汗が出たが朝のうちに戻ってこれて安堵する。

売店で昼食用の駅弁を購入してから足早に飯田線ホームに向かい、8時11分発の天竜峡行きに乗車した。リュックを背負ったり駅弁を提げた老人が目立ち、そこに学生も加わって発車するころには概ね満席となっていた。

動きだした列車は豊橋市に豊川市と、町並みや田園を分けるように走り、徐々に山林が近づいてくると新城市に入った。青空から日差しがそそぎ、前から後ろから景色を肴にしての会話が聞こえてくる。和やかな行楽列車の趣である。

進むほどに減っていた家屋が増加に転じて、いよいよ沿線に建ち並びはじめ、山間の町という雰囲気になると新城に到着。時刻は8時50分である。

新城しんしろ

  • 所在地 愛知県新城市宮ノ西
  • 開業 1898年(明治31年)4月25日
  • ホーム 2面3線
路線図(新城)。

新城市の中心市街に面した市の代表駅である。鉄道やトラックが活躍をはじめる以前には、信州にまで至る中馬による陸運と、豊川を利用した舟運とを結びつける山の湊として繁栄したところで、飯田線沿線では愛知県内最後の大きな町だ。豊橋からくる列車は当駅を終点とするものも多く、特急も停車するなど主要駅のひとつとなっている。

各駅からこつこつ集めてきた十数人の生活利用者と降り立った。ホームにはしっかりした上屋とエレベーターを備えた跨線橋が載せてあり、利用者のざわめきもあって、地方の町の玄関口らしい駅だなと思う。

周りの人々はいつも通りといった具合に、足早に駅舎へと通じる跨線橋に消えていき、誰もいなくなったホームにひとり佇む。乗ってきた列車はすれちがい待ちのため止まったままで、窓越しに車内を眺めると、豊橋で目にした旅行や行楽といった装いの面々が並んでいる。

豊川以来となる有人改札を抜けて駅舎に入る。長い時を重ねた古い建物だけど、眩しいような白壁に大きな三角屋根を載せ、小さいながら車寄せも備えるなど垢抜けた姿をしている。建築当時は町の顔にふさわしい華やいだ存在だったことは想像に難くない。

待合室は天井の高いゆったりした空間になっていた。薄暗さはあるけど夏でも涼しく過ごせそうなゆとりがあって居心地はいい。中央にはベンチが並べられ買い物袋を傍らに休んでいる人がいる。周囲には窓口や券売機のほか自販機が数台にテレビまで置かれている。この様子からすると昔は売店もあったにちがいない。織田・徳川連合軍と武田軍がぶつかった設楽原が近いだけに、壁には両軍の配置を記した巨大な地図が掲げられていた。

誰もいなかった窓口に駅員が現れたので記念に入場券を購入していく。同じようなことをする人が多いのだろう、どこをどう見ても子どもなどいないのに、大人か子どもか確認したうえで手早く発券してくれた。

駅前には駅舎に負けず劣らずの長い時を重ねた家並みが広がっていた。駅前広場だけは近年に再開発されたようで、真新しいロータリーやバス乗り場が置かれている。きれいに整備はしてあれど往来は乏しく活気がない。退屈そうにこちらを伺っていたタクシー運転手も、脈がないとみたのか走り去ってしまった。

桜淵公園さくらぶちこうえん

新城市は県内でも2番目に広い面積を有しており、山間部でもあることから、歴史や自然にまつわる見どころが数多くある。とはいえ新城駅から徒歩圏内となると数はぐっと絞られてくる。数少ないそれが桜淵公園で徒歩20分ほどのところにある。

桜淵公園は新城市の観光名所を調べると必ずといっていいほど目にする名前である。江戸時代初期にこの地を治めていた新城城主が、豊川沿いに桜を植えさせたことにはじまるという桜の名所で、いまでは三河の嵐山とも称されているという。

ちょうど桜の季節ということもあり迷わずここを目的地として、商店や旅館などが軒を連ねる駅前通りを進んでいく。看板やシャッターを下ろした建物が散見され人通りも乏しいが、地方の町の商店街という風情が感じられるいい通りである。

車で煩雑とする大通りをゆき市役所をすぎると、新城という町名のもととなった新城城跡をかすめる。城跡といってもそこは小学校になっていて遺構のようなものは見当たらない。春休みの誰もいない校庭を一瞥したのみで先を急ぐ。

家並みを抜けだして薄暗い竹林のなかを下っていき、景色が明るく開けるとそこが豊川沿いに広がる桜淵公園だった。宣伝通り桜の木はたくさんあるけど散りかけで葉桜が目立つ。風が吹き抜けるたび残りわずかな花びらが舞い落ちる。

豊川に架けられた赤い吊り橋を渡る。大地を深くえぐる流れを覗きこむと、高さにぞわりとして腰がひける。澄んだ緑色をした川面には手こぎボートが浮かび、桜淵の由来かどうか知らないけど、まさに桜に囲まれた淵だなと思う。市街地のすぐ隣にいることを忘れさせるような自然の豊かさと静けさである。

吊り橋の先には少ないながら出店があり、賑やかな親子連れや、のんびり散策する老人の姿が目立つ。東屋にはハーモニカの練習をするおばさんがいて、春が来たのメロディーが聞こえてくる。平日だからか肝心要の桜が半ば散っているせいか、ごった返すようなこともなく、暖かな日差しに照らされてのどかな雰囲気が漂う。

川沿いから山間へと公園深くに足を進めると、桜も人も減っていき、色とりどりの新緑の世界に変わってきた。もえぎ色の木々が風にそよぐ様は目にも耳にも心地いい。濃緑色をした溜め池では爺さんがひとり退屈そうに釣り糸を垂らしている。草地でなにかを採取する人もいる。桜の公園というより新緑の里山といった趣である。

公園が山に変わってきたところで引き返し、先ほどハーモニカの音色を奏でていた東屋までくると、演奏していたおばさんたちが立ち去るところだった。もうすぐ昼になるので誰もいなくなった東屋に腰を下ろし、豊橋で仕入れてきた駅弁を取り出した。

円形容器を二段重ねにして縄で縛るという、手筒花火を模したらしき外観をした手筒花火弁当で、上段にはおかずがぎっしり詰められ、下段には巻きずしの断面を並べて花火の紋様が描かれている。見た目だけでなく味も食べごたえも満足のいくものだったけど、リュックに入れて持ち歩いたせいで多少暴れた痕跡があり、今度からは稲荷寿司やカップラーメンにするべきかもしれないとも思った。

駅に戻ると待つほどもなく13時21分発の本長篠行きがやってきた。この辺りの列車は本数が多いので便利だ。まとまった数の学生と入れ替わりに数人の老人と乗車。座席は埋まっていたので運転室の後ろに立っていく。

東新町ひがししんまち

  • 所在地 愛知県新城市平井
  • 開業 1914年(大正3年)1月1日
  • ホーム 1面1線
路線図(東新町)。

新城市の代表駅たる新城駅から約1kmという立地で、連続した市街地のなかに置かれた駅である。近くには伊那街道があり広範囲に家並みが広がっている。

列車から学生数人と降り立つと、減った分を補充するように同じくらいの人数の学生が乗りこんでいった。近くに高校があるだけに学生の利用が多いようだ。列車の去ったホームには豊橋行きを待つ人の姿もある。

駅の規模としてはホームがひとつあるだけで、列車のすれちがいすらできない最小限のものであるが、近年建てられたと思われる新しい駅舎があった。こじんまりした待合室に入ると、ベンチにはスマホをいじる学生が並び、窓口には切符を購入する人がいる。大都市や特急の停車する駅ですら窓口が閉鎖される昨今にあっては、このような地方の小駅で営業しているのはめずらしいなと思う。駅舎が駅舎として機能している姿がとても好ましい。せっかくなので窓口が空くのを待って入場券を購入していく。

駅前に出てみると歩道に街路樹を並べた明るい通りが延びていた。隣の新城駅前は狭い通りに古めかしい住宅や商店がひしめいていたので、同じ市街地で1kmしかはなれていないので似たような感じを想像していたけど、随分と雰囲気が異なっていた。

風切山かざきりさん

近くの見どころといえば桜淵公園なのだが訪ねたばかりだ。新町というだけあって新しい町なのか、地図を開いても目にとまるのは住宅ばかりで目的地が決まらない。そこで考えたのが山に囲まれた町なのだから、町を一望できる山に登るというもので、もっとも手頃そうな東南に約3kmのところにある風切山に目をつけた。調べてみると複数の登山道があるだけでなく滝や石仏などもあるそうで楽しめそう。風を切る山という名前もよくてここに決めた。

駅から10分ほど歩くと住宅地は農地や荒蕪地に変わり、ほどなく弁天橋という赤いトラス橋で豊川を渡る。川面は地面を垂直に掘り下げたような深いところにあり、これほど削るとは思えないほど穏やかな淵になっている。じっと真下を見つめていると美しさと同時に引きこまれそうな怖さを感じる。

風切山のふもとにある鳥原地区までやってきた。田畑のなかに家屋や寺社の散らばるのどかなところだ。ここから山頂にかけては石仏をめぐりながら周回する道が設けられていて、周回ということで登り口は2箇所あるのだが、それとは別に荒沢の滝を経由する登り口もあり、少し遠回りになるが滝の魅力にはあらがえずそちらに向かう。

集落外れにある田んぼのなかから山裾までいき、防獣用の金網に取り付けられた扉を抜け、植林地を数分ばかりゆくと荒沢の滝があった。案内板によると落差は13mあるそうだが、肝心の水が岩肌をしたたり落ちるような量しかないので、数字から期待するような迫力はない。苔むす岩肌や微かな水音を楽しむような風流な滝である。

傍らにある岩壁にはこちらを見下ろすように不動明王の石像が鎮座している。ここまでの道のりで不動明王の奉納のぼりをいくつも目にしたことを思い出す。昔はここで滝行などもしていたのだろうかと思う。

階段を伝って明るい高台までやってくると、なんてことのない道端の木に由来の気になる「だんご山」と記した山名板がくくりつけられていた。辺りには桜が植えられ、カタクリの群生地まであったけど、残念ながらいずれも花は散っていた。

荒沢の滝への小路から風切山山頂に至る登山道に移る。数多の人たちによって踏みならされた歩きやすい道で、沿道には苔をまとった古めかしい石仏が点在している。これらは江戸時代に整備されたもので280体余りもあるという。

次々と現れてくる石仏は3体で1組になっている。四国八十八ヶ所と西国三十三所の本尊に弘法大師像を加えた3体で、それを1番札所から順番に並べてあるようだ。弘法山八十八ヶ所という標識も立ててある。風切山には弘法山という異名があるのだ。

途中から気になってきたのが、八十八ヶ所だと四国はいいけど西国は足りないことで、どうなるのか興味を持って進んでいくと、途中から秩父三十四箇所に変わった。そうなると秩父の次は坂東三十三箇所になるのかもしれない。これらすべての霊場めぐりをしたご利益があるかと思うと、お得感のあるミニ霊場である。

ここまでひたすら樹林帯の山道を登ってきたけど、ここでいったん林道に出ると視界が大きく開けた。新城市街地から取り巻く山並みまでを一望できる景勝地だ。見晴台として整備されたところで、案内板のほかベンチに双眼鏡までが用意されていた。

駅を出てから歩き詰めだったのでリュックを下ろして10分ほど休んでいく。小腹が空いてきたので行動食として持ってきた羊羹も取り出した。

見晴台を発つとすぐにまた石仏の並ぶ登山道がはじまる。桜の木は見当たらないけど足もとのあちこちに桜の花びらが落ちている。姿は見えないけどウグイスの声がよく聞こえる。登れば汗が流れるけど立ち止まれば涼しい陽気。春の気配をそこかしこで感じる。

登るほどにヒノキ林が目立つようになってきた。眺望はないし新緑の鮮やかさもなく季節感に乏しいけど、整然と林立する様子には美しさを感じて嫌いではない。幸いにして花粉の飛散もはじまってないようで目にも花にも異常はない。

脇道があって「秋葉・愛宕・金比羅三宮」という標識が立っている。距離が書いてないうえ、夕方になりつつあるので先を急ぎたいしで迷ったけど、いまを逃したら二度と訪れる機会はないかもしれないので行ってみると、なんのことはない1〜2分のところにあった。

そこはちょっとした高台になっていて、標識にあったとおり秋葉・愛宕・金比羅それぞれの小さな石祠が置かれていた。江戸時代の文政や寛保などに建立されたもので、ふもとの鳥原地区の人々によるものらしく鳥原村中と刻まれている。火防の神様である秋葉や愛宕のみならず、航海安全の神様である金比羅があるのが興味深い。新城は豊川舟運で栄えた町だからそういった仕事に従事していたのだろうか。

山頂までもう少しという標識に励まされ、薄暗いヒノキ林を足早に登っていくと、六角形をした石幢の立てられた広場に出た。風切山と記された標識や板切れがいくつもあることから山頂でまちがいない。木々に囲まれて見晴らしがなく、町を一望するという目論見は外れたけど、道中が楽しめる山だったので満足だ。

特にやることも眺望もないけどベンチがあるので休んでいく。風切山というだけあって爽やかな風が吹き抜けて涼しい。登っているときは汗が流れたけど、なにもしなければ暑からず寒からずのほどよい陽気である。

気がつけば時刻は16時半になろうとしていて、暗くなる前にと駆け足で引き返し、30分ほどでふもとの集落まで下りてきた。最後まで誰にも出会うことのない山行であった。

どうにか日没前に駅まで戻ってきてホームに出ると、通勤らしき人たちで行列ができていた。列車を待っているあいだにも徐々に列が延びていく。学生や老人以外の生活利用者がこれほどいるとは思わなくて驚いた。

数分もすると17時42分発の豊橋行きがやってきた。遠く天竜峡から2時間以上かけてやってきた列車だけに、車内は行楽帰りといった装いの中高年で混んでいて、辛うじて開いていた通路側の席にリュックを抱えて座った。

列車はときどき顔を出す夕日を浴びながら走り、混雑が緩和することのないまま、夜を迎えようとする薄明の豊橋駅に到着した。

(2023年4月4日)

東新町から辰野までの区間は公開未定。

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