牟岐線 全線全駅完乗の旅 3日目(地蔵橋〜南小松島)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年8月6日、徳島駅にやってきたのは6時を少し回ったところ。ラッシュ時を避けて早めにやってきた狙い通り、人通りは少なく駅前を行き交う車やバスもまばらだ。これで涼しければ言うことなしだが、夏の盛りで風もないため、立ち止まっていても汗がにじみ出てくるほど蒸し暑い。太陽の周りに薄雲がかかり日差しが柔らかいことがまだ救いだ。

取り急ぎ中田までの切符を購入してホームに向かうと、そこから眺める景色がなんだか広々としていた。通勤通学客を迎えに行ったのだろう、日中は大勢の車両が寝ている側線上に、わずか1両しか車両の姿がないのだ。

まもなく入線してきた海部行きの普通列車に乗りこむ。混雑した状態で到着したが、幸いにしてほぼ全ての乗客が降りてしまった。ワンマン列車のようなので降りやすいようにと、選り取り見取りの座席の中から、先頭近くの座席に陣取った。

徳島駅で発車を待つ海部行き普通列車。
海部行き 527D

徳島を発車時点では10人程度の乗客だったが、駅毎に少しずつ乗客が増えていき立ち客も出はじめた。目的の中田に到着する頃にはざっと30人くらいにまで膨れ上がっていた。どうやら朝の牟岐線で混雑を避けるには、始発列車に乗るしかなさそうである。

中田ちゅうでん

  • 所在地 徳島県小松島市中郷町
  • 開業 1916年(大正5年)12月15日
  • ホーム 1面2線
路線図(中田)。
中田駅舎。
中田駅舎

小松島市の中心駅である南小松島駅の隣りにして、1985年(昭和60年)に廃止された小松島線の分岐駅であった事などから、市街地にある賑やかな駅を想像したが、駅裏のみならず駅前にまで田んぼの見られる静かな駅だった。中田という駅名を時刻表で目にしたとき、当たり前のように「なかた」と読んでしまい、後に「ちゅうでん」と知り驚いたことを思い出す。

クマゼミの合唱に出迎えられ数人の学生やおばさんと降り立った。気温は着々と上昇していて熱気がまとわりついてくる。たまに海からなのか山からなのか、冷たい風がふわりと吹いてきて、熱気を吹き飛ばしてくれるのが気持ち良い。

構内は1面2線の島式ホームと保線用車両が止められた側線が1本ある。どこにでもあるような途中駅だが、かつては全長1.9kmという国鉄で最も営業キロが短く、乗車時間にして4〜5分という小松島線が分岐していた。大阪や和歌山を結ぶ航路のあった小松島港に至る路線で、当時は四国と関西を行き交う大勢の人々がこの駅を通り過ぎていったのだ。

木造上屋が残る構内。
木造上屋が残る構内

ホーム上には見るからに古そうな木造上屋があり、開業当時のものだろうかと、取り付けられた建物管財表を見ると昭和24年3月とある。古いけれど思ったほど古くはない。隣接して比較的新しい待合所もあり、こちらも確認すると昭和60年3月という小松島線が廃止されたのと同じ年月が記されていた。面白いものでもないかと中を覗いてみるが、ベンチが並んでいるだけで特に興味を惹かれるものはなかった。

構内踏切で下り線と側線を横断して木造駅舎に向かう。待合室に入ると4〜5人が徳島行きの列車を待っていた。無人駅ながら窓口はきれいに残されていて、カーテンを開けるだけで営業再開できそうなほどだ。近年まで使用されていた様子から、それなりに利用者の多い駅であることが察せられる。それを裏付けるように列車がやってくると、10人くらいの学生がどやどや降りてきて、10人くらいの通勤通学と思しき人達が乗っていく。

中田駅の窓口と改札口。
窓口と改札口

大量の自転車がひしめく駅前に出ると、一緒に降りたおばさんが座りこんでタバコを吸っていた。目の前には長年この地で営業しているのだろう小さな商店があり、酒・タバコ・新聞、そして食料品まで何でもござれといった様子で並べてある。この手の駅前商店は開店休業という姿がおなじみなのだが、ここは車に乗って買いに来る人を何度も見かけ、意外と繁盛しているようであった。

小松島線

駅を出ると線路伝いに歩いていく。目的はもちろん当駅から小松島港まで伸びていた小松島線跡をたどるためだ。開業は1913年(大正2年)で、建設したのが阿波国共同汽船という船会社だったのが、路線の性格をよく現している。航路に接続するための短い支線だが、1961年(昭和36年)に徳島から中田までの区間が牟岐線に編入されるまでは、徳島から小松島港までの全区間が小松島線で、牟岐線の方が中田から分岐する路線だった時代もある。

1980年(昭和55年)の時刻表を開くと、小松島港には大阪や和歌山を結ぶフェリーが、早朝から深夜まで24時間体制で発着し、それに接続する小松島線も深夜こそないが、早朝から夜中まで運転されている。見るからに便利そうだが鉄道利用者は減り続けて廃止となり、残された航路も移転や廃止などで姿を消してしまった。

線路跡はどこまでも並木の続く遊歩道として整備され、道に迷うこともなければ藪をかき分けることもなく忠実にたどって行ける。街中の緑あふれる一本道とあって散歩する老人をよく目にする。鉄道の痕跡は見事なまでに残されていないが、周囲の入り組んだ道路とは無関係に伸びる直線や、緩やかな曲線に、線路の姿が浮かび上がってくる。

どこまでも並木の続く、小松島線跡の遊歩道。
遊歩道として整備された小松島線跡

小松島駅があった辺りまでくると広い敷地を利用した、小松島ステーションパークなる公園が現れ、蒸気機関車の動輪を模した車止めや、蒸気機関車そのものを模した水飲み場、さらには客車を従えた本物の蒸気機関車までが鎮座していた。ホームを模した建物には小松島駅の駅名板も取り付けられている。この車両はまだ小松島線が現役だった当時から近くの公園に展示されていたもので、廃止後にこの場所に移されたという。

小松島駅跡に展示される蒸気機関車と小松島駅を模したホーム。
小松島駅跡に展示される蒸気機関車

港まであと少しとなったが、景色からはどんどん鉄道の匂いが消えていき、近代的な道路や建物ばかりでつまらなくなっていく。そんな歩道上には新しく大きな石碑があり、横目に通り過ぎようとして刻まれた文字に足が止まった。それは与謝野鉄幹・晶子の歌碑で、四国初上陸の地と刻まれているのだ。

「阿波行きの船待つ人に時雨しぬ 兵庫のみなと夜の十二時 与謝野鉄幹」
「船室に我が身を起こしすでに踏む 阿波の港の朝じめりかな 与謝野晶子」

残された歌から神戸発の小松島行き、それも雨中の深夜便に乗船したことが伺える。碑文によると1931年(昭和6年)10月26日、小雨の降る早朝、この地に上陸したという。目的は講演や観光とあり、それを裏付けるように徳島、高松といった主要都市に、鳴門、屋島、琴平、善通寺といった名所をめぐりつつ松山に向かい、再び船で神戸に戻っている。

今では小松島から四国入りする旅行者はまず居ないだろうが、当時はここが四国を代表する玄関口のひとつだったことを物語るエピソードである。

与謝野鉄幹・晶子歌碑。四国初上陸の地、小松島港と刻まれている。
与謝野鉄幹・晶子歌碑

しおかぜ公園と名付けられた遊具や芝生広場など、先ほどの小松島ステーションパークよりも家族連れが楽しめそうな公園に入りこんでいく。遊具は取り揃えられているが子供の声は聞こえず、代わりにセミの声が響き渡り、木陰のベンチで数名の老人が休んでいた。その緑の中を奥へ奥へと進んでいく海に出た。かつてはここで線路が途切れると同時に、本州へと向かう航路が伸びていたのだ。

周辺では大きな石油タンクにタンクローリーが横付けされ、潮の香りではなくガソリンのような臭いが漂う。そして河口を挟んだ対岸にある造船所からは、ガンガンと思い切り金属を叩くような音が響いてくる。何だか工業地帯の緑地に潜りこんだような気分になる。

かつて小松島港駅があり、フェリーが発着していた岸壁のあたりまでやってくると、海上保安庁の船が静かに停泊するのみで、船はおろか人の往来もなくひっそりしていた。潮風を浴びながら突堤を歩くと、おじさんがひとり気だるそうに釣りをしている。往時の賑わいなど幻であるかのように、ゆっくりした時間が流れる港である。

線路の果てに広がる海。
小松島線の果てに広がる海

涼しい季節であれば腰を下ろしてのんびり海を眺めていたいが、とどまるところを知らない気温の上昇と、強烈な日差しに追い立てられ、逃げるように駅に戻った。

阿波の法隆寺

中田ではもうひとつ行きたい所がある。それは港に向かう小松島線とは反対方向、山側に3kmほど歩いた所にある丈六寺で、白鳳時代に創建されたと伝わる長い歴史を持ち、室町から江戸期にかけての文化財が多数残ることなどから、阿波の法隆寺ともいわれる。それほどの古刹がありながら素通りするという手はない。何々の小京都はいくつも訪れたが、何々の法隆寺というのはこれが初めてだ。

駅から30分ほど歩くと勝浦川に出た。この川をさかのぼると四国で最も人口が少ない町という上勝町に至る。町でありながら人口は1400人ほどと、隣接する県唯一の村である佐那河内村より少ない。そんな人口希薄な所を流れてきただけに水質良好で、橋の上から覗きこむと川底がよく見え、きらきら輝く水面と相まって暑さを和らげてくれる。

勝浦川と牟岐線の鉄橋。
勝浦川と牟岐線の鉄橋

勝浦川沿いにしばらく進むと牟岐線の下をくぐり抜ける。この辺りに戦前のほんの数年間だけ丈六駅があったというが、どこに位置していたのかそれらしいものは見当たらない。そもそもなぜ街もなければ隣駅にも近いここに開設したのか。そしてなぜわざわざ開設しておきながらすぐに廃止したのか。一時的に大勢の人をこの地に運ばなければならない何かがあったのだろうか。色々と想像をめぐらしながら歩いていく。

車を避けるように脇道へ脇道へと入っていくと、集落内の曲がりくねる小路に、滔々と流れる水路が寄り添う涼しげな所に出た。数多くの鯉が気持ちよさそうに泳ぎ、近寄ると餌だと思うのか一斉に集まってくる。案内板によると「丈六せせらぎロード」と名付けられ、遠く四百年もの昔から地域住民の生活に根ざした水路として親しまれてきたという。

丈六せせらぎロード。
丈六せせらぎロード

丈六寺は勝浦川のほとりで緑に包まれるように佇んでいた。駅からこの方まるで木陰というものがなかったが、ここにはそれを補って余りあるほどの木々が茂り、豊かな水の流れる水路と相まって涼やか。寺の周辺には田んぼや住宅が広がっているのだが、山間の寺院に訪れたような清々しい気分になってくる。そう感じるのは私だけではないらしく、休憩所では弁当を食べるおじさんの姿があった。

室町末期に建立されたという三門を眺めてから境内に進むと、本堂・経蔵・徳雲院といった室町から江戸時代にかけての建造物が、周囲を取り囲むように並んでいる。簡素であるが故に気品を感じさせる本堂や、血しぶきの跡が残る徳雲院の血天井、奥の墓地にある古格漂う観音堂など、あれこれ足を止めては眺めていると、みるみる時間が過ぎていく。

国や県の文化財がごろごろしていたが、行楽には渋すぎるのか最後まで他の拝観者に出会うことはなかった。唯一見かけた人が休憩所で弁当を食べていたおじさんだが、帰りがけにその脇を通ると、今度は気持ちよさそうに昼寝していた。

丈六寺本堂。
丈六寺本堂

駅に戻ってくるとまだ時間があったので、駅前商店でアイスを買って体を冷やしながら列車を待つ。当初は誰もいなかったが発車時刻が迫ると学生を中心に5〜6人が、どこからともなく現れてきた。学生など慣れたもので列車が近づいてきても待合室に座っていて、乗らないのかと思っていると、列車のドアが開くころになりようやく立ち上がった。

車内は15人くらい乗っていただろうか相席を嫌う人たちで立ち客も出ていた。私は立っているより相席の方が良いので車内をずんずん進んでいく。そして小学生くらいの男の子がひとり座るボックス席に腰を下ろした。冷房がよく効いていて気持ち良い。

阿南行き 4549D。
阿南行き 4549D

発車するとすぐ右にカーブして直進する小松島線跡から離れていく。程なくして線路の両側に住宅が押し寄せはじめると、ゆるゆる速度を落としながら南小松島駅に到着。同時に大部分の乗客が一斉に席を立った。

南小松島みなみこまつしま

  • 所在地 徳島県小松島市南小松島町
  • 開業 1916年(大正5年)12月15日
  • ホーム 1面2線
路線図(南小松島)。
南小松島駅舎。
南小松島駅舎

小松島市は大型船の出入りできる良港を擁していたことから、古くから人や物資の輸送で活況を呈した所で、人口はおよそ3万7千人、南小松島駅はその代表駅である。南を冠しているのは開業時すでに小松島線に小松島駅が存在していたからだ。歴史ある街だけに駅から港にかけては、昭和感あふれる小さな住宅や商店が隙間なく広がる。

徳島を出てから初めての有人駅だけに利用者は多く、乗り合わせた大部分の乗客と共に、どやどやとホームに降り立った。大きな駅を想像していたが、第一印象は住宅街の中にある昔ながらの小さな駅だった。それというのも構内には狭い島式ホームがあるだけで、駅舎との間には跨線橋ではなく構内踏切があり、さらに側線の類も見当たらないと、牟岐線の途中駅としてはありふれた姿をしているのだ。

改札口に吸いこまれていく人波を眺めていると、全員が通り抜けたのに改札で中年の男性駅員が佇んでいる。どうやら私を待っているらしくこちらを見ているのに気が付き、急いで改札を抜けると駅員氏はどこかに消えていった。小さな有人駅はのんびりホームに滞在しにくいと同時に、切符があっても勝手にホームに入りにくいのが玉に瑕だ。

南小松島駅ホーム。
南小松島駅ホーム

帰宅する高校生で賑やかな待合室では営業中の窓口が目を引く。ひと昔前ならあって当たり前だったのに、今では絶滅危惧種でも発見したような気分になる。駅舎には焼き立てパンの店が同居していて食欲をそそる。市の代表駅だけに観光案内所まであったが、残念なことにそちらはシャッターが降りていた。

タクシーが暇そうに客待ちをする駅前には涼しげな緑地があり、海岸近くの平地にしては珍しく冷たそうな水が滔々と湧き出していた。案内板によると自噴ではなく地下30mから汲み上げているという。それにしてもかなりの水量で豊かな水脈があるとみえる。手を触れると思いのほか冷たくて、空になっていた胃袋とペットボトルを満タンにしておく。ある種の名水なのかポリタンクに汲んでいく姿を何度も見かけた。

駅前にある湧き水、のぞみの泉。
駅前にある湧き水

これからどうしようか考えつつ駅舎に戻ると観光案内所が開いていた。どうやら昼休みだったらしい。これ幸いと見どころを尋ねるも、歩いていける所となると先ほどの小松島線跡で見かけた、たぬきの銅像とそれを取り巻く公園くらいしかないという。どんな所が紹介されるかと期待しただけに残念。こうなれば自分で探すしかないとパンフレットや地図を頂くと、これもどうぞと、うちわを手渡された。

阿波のたぬき

どこに行こうという宛はないので観光案内所で一押しというか、そこしかないというたぬきの銅像に向かう。徳島はたぬきが有名な所で、たぬきに化かされたとか、たぬきに助けられたなど多くの伝説や逸話が残る。現実にもたぬきが多い土地で、きつねがほとんど生息していないというから面白い。中でも特に有名なのは、銘菓金長まんじゅうの名の由来となり、映画化もされた阿波狸合戦で知られる金長たぬきであろう。

駅前通りには商店の構えをした住宅がどこまでも続き、昔は引きも切らず人が行き交い賑やかだったのだろうと想像する。今では営業している店は少なく、人通りもほとんどなく、市内中心部とは思えないほど静まり返っている。駅前食堂にでも入ろうと思っていたが、それらしい食堂すら見当たらないまま先へ先へと進んでいく。

程なくして市街を二分するように流れる神田瀬川に出た。半分海のような河口部なので多数の小型漁船が係留されていて、川というより港の延長のようでもある。橋を渡ればついさっき歩いたばかりの小松島駅跡で、南小松島駅と小松島駅がいかに近い場所にあったかが実感としてよく分かる。

小松島市内を流れる神田瀬川。河口が近いため漁船が並ぶ。
漁船が並ぶ神田瀬川

たぬきの銅像は先ほど訪れた小松島ステーションパークにあり、当然ながらその姿はすでに目にしているので迷うことなく到着。身長と胴囲が5mで体重は5tもあり、たぬきの銅像としては世界一大きいという。

手を叩くと背後の岩場が滝のようになると観光案内所の方から聞いていたので、さっそく試してみるが何の反応もない。叩き方が悪いのだろうかと何度か叩いていると、定年を迎えて暇を持て余しているといった風体のおじさんが現れ、ここにセンサーがあるからこの辺りで叩けばいいとアドバイスをくれる。ところが言われた所で叩いても相変わらず反応がない。首をひねりつつおじさん自らも叩くがやっぱり反応がない。ふたりして手を変え品を変え叩いてみるがどうにも反応がない。炎天下で何をやっているのかと可笑しくなってきた。

どうやら壊れているという結論を導き出し、諦めて立ち去ろうとした途端、たぬきの背後から勢いよく水が流れ落ちてきた。散々叩いている間は無反応だったというのに、たぬきのいたずらとしか思えないほど絶妙なタイミングである。

小松島駅跡に鎮座する、世界一大きな、たぬきの銅像。
世界一大きな、たぬきの銅像

たぬき繋がりでやってきたのが金長神社で、主祭神が金長大明神、つまり金長たぬきを祀っている神社なのだ。これは金長たぬきの活躍する阿波狸合戦を題材にした映画がヒットした大映の社長が、お礼にと寄付した資金で建てられたという。そのため創建は1956年(昭和31年)と新しく、実際の金長たぬきの伝説と直接的な関係はないようだ。

市街地の閑静な一角にあるこじんまりした神社で、他に参拝者の姿はなくセミがひたすらに賑やかな所だった。阿波八百八狸総本家の看板も誇らしげな鳥居をくぐり境内に入ると、さすが総本家だけに大小様々なたぬきが鎮座している。鳥居の先はすぐに拝殿という小規模なものながら、これほどたぬきが前面に出た神社は初めてで面白い。

様々な掲示物に目を通していくとこの神社は取り壊しの危機にあるそうで、保存に向けて住民による活動が行われているという。失われるには惜しい神社であり、何もないという観光案内所のためにも存続発展してほしいものである。

金長神社に集うたぬき。
金長神社には数多くのたぬきが集う

日峰山

時刻は15時とまだ早いが市内にはもう向かうべき所がないので、阿波三峰のひとつで小松島市を見下ろすようにそびえる日峰山に登ってみることにした。山上に向けてはいくつもの道があるが、市街地から稜線上にある日峰神社に直登するように伸びる歩道が、車が通らず距離が短いことから、これを利用することにした。

金長神社から地図を頼りに登り口にやってくると、周囲を草木に侵食されつつ、表面に落ち葉が降り積もる古びた石段があった。見るからに歩く人は少なそうで、市街から日峰神社に向かう歩道なのだから、よく整備されて参拝者が往来していると想像してきたので、それとは真逆の光景に少し戸惑う。

登りはじめるとすぐに金長神社本宮という小さな神社があった。立ち寄るとほとんど手入れされていないようでクモの巣がはびこり荒れ放題。金長というだけにここもまた金長たぬきに関連した神社で、戦前に阿波狸合戦の映画がヒットして持ち直した新興キネマ、その俳優たちの寄進により建てられたという。創建は1939年(昭和14年)と金長神社より歴史がある。倒れかかった玉垣には新興キネマと刻まれていた。

金長神社本宮。
金長神社本宮

参道は密林のような谷間を伸びていて、底にわずかばかりの水がちょろちょろ流れる、薄暗く湿った道である。風がまるで通らないため高温多湿で汗がだらだら流れ、飛びまわる蚊、行く手を阻むクモの巣、さらに空腹が重なり徒労感だけが増していく。駅前で汲んできた水は底を尽き、今や助けてくれるのは観光案内所でもらった、うちわだけとなった。

細々とした道はまるで登山道のようだが、所々に石段が顔を出し、木造の電柱には裸電球が取り付けられ、さらには鳥居まであり参道であることを認識させる。しかし石段は落ち葉に埋もれ、電柱は傾き、鳥居に到っては扁額が落ちている。登山道であれば自然に囲まれて気持ち良さを感じるのだが、人の手がよく加わった道が自然に飲みこまれていく様子には、寂しいものを感じさせる。

日没を迎えたかのように暗い樹林をとぼとぼ歩いていると、橙色の明かりがぼんやり灯っていて驚いた。使われていないと思っていた裸電球だ。昼間とは思えないほど暗く人気のない山道に裸電球が灯る様は、たぬきに化かされているような不思議な光景だった。

昼間だというのに薄暗い参道。
昼間だというのに薄暗い参道

ふもとから30分ほどかけて到着した日峰神社は、参拝者も宮司もたぬきもいない、動くものは私だけというひっそりした神社であった。阿波三峰の仲間である津峯山にある津峯神社は、参拝用のリフトまであり、同じような賑わいを想像していただけに予想外だ。車で訪れる参拝者で賑わう中を参拝し、あわよくば茶店でひと休みしようかと考えていただけに、水分補給すらままならない状況には困惑してしまう。

のどの渇きに耐えながら拝殿に向かい参拝。ふもとのプールがちらりと見えて、歓声がかすかに聞こえてくる。向こうには冷たい水が豊富にあるかと思うと羨ましい。疲れたので日陰の石段に腰を下ろして休んでいると、さすが稜線上だけに風が勢いよく通り抜けていき、徐々に体が冷やされて活力が戻ってきた。

日峰神社。
日峰神社

神社からふもとに向けては車道が伸びている。それを少し下ると駐車場や東屋を備えた展望所があり、眼下には小松島湾を囲むように発展する小松島市街が広がる。そこから奥へと視線を移せば阿南市と思われる市街もあり、稜線上だけに反対側には徳島市街も望める。この付近は標高130mほどで山頂ですらない場所なのだが、そうとは思えないほど眺めが良かった。

ありがたいことに自販機まであるので、干上がった喉や体をうるおしながら下界を見下ろしていると、南小松島駅や小松島線跡など今日歩いた所に自然と視線が向かう。あそこから歩いてきたのかと感慨深いものを感じると同時に、またあそこまで歩かないといけないのかと多少げんなりするものも感じた。

日峰山から望む小松島市街。
日峰山から望む小松島市街

下山は緩やかで歩きやすい車道を利用する。小松島市民のウォーキングコースなのか、参道とは打って変わって老若男女が行き交っていた。元気のいい人ばかりで、前を歩く爺さんにすらなかなか追いつけない。健脚の人は日峰山に登り、そうでない人は小松島線跡の遊歩道を歩くといった風である。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

駅に戻ってくると窓口にカーテンが引かれようとしていた。観光案内所は既にシャッターが下ろされている。まだまだ日の照りつける夕方だというのに、最近の小さな有人駅は店じまいが早い。幸い券売機があるので徳島までの乗車券と特急券を購入した。うまい具合に徳島行きの特急があるので、最後はこれでゆったり帰ろうという算段だ。

窓口が閉じられ駅員が姿を消すと、待合室にいた子どもたちがホームに入りこんで遊びはじめた。そんな光景を眺めていると徳島行きの普通列車がやってきて、列車を待っていた大半の人たちはそちらに吸いこまれていく。続いてその普通列車を追いかけてきた徳島行きの特急むろと6号が、西日を浴びながら滑りこんできた。

徳島行き 特急むろと6号。
徳島行き むろと6号

南小松島から徳島といえば距離にして10kmほど、普通列車も続々やってくるので、ここから特急を利用する物好きは私くらいかと思ったら、意外にも他に2〜3人が乗りこんでいた。それでも車内は空席が目立ち、乗車率にすると25%くらいだ。運行する方はたまったものではないだろうが、利用する方としては冷房の効いた静かな空間でリクライニングシートに身を委ねられ、快適そのものである。

牟岐線は普通列車にしか乗ったことがなかったので、いつも丹念に止まる途中駅を軽快に通過していくのが新鮮だ。JR四国は25kmまでの自由席特急料金が320円、50kmまでが520円と格安なので、これからも旅の終わりには積極的に乗っていこうと思う。

(2018年8月6日)

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