牟岐線 全線全駅完乗の旅 9日目(木岐〜日和佐)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2020年6月29日、早暁の徳島駅に夜行バスから降り立った。

およそ1年ぶりとなる牟岐線の旅である。本来であれば春に訪れる計画であったが、コロナ禍でそれどころではなくなり、悶々とした日々を送っていたが、都道府県を跨いだ移動の自粛要請が解除されたことを受け、ようやく実行に移すことができた。外出すらままならない緊急事態宣言を経験した直後だけに、駅舎を見上げただけで感慨深いものがあった。

薄明かりのなかにある徳島駅舎。まだ往来は少なく静けさのなかにある。
徳島駅舎

乗車するのは5時43分発の海部行き。乗りなれた牟岐線の始発列車である。鉄道やバス会社の苦境を耳にすることが増え、どのような状況か気になっていたが、ぽつりぽつりと通勤らしき人から、お遍路さんまで乗りこんでくる。全体的な利用者数は減っているのだろうけど、この列車に限っては、昨年と変わりない雰囲気で少し安心した。

動きだした列車は徳島平野を南下する。広がっていた雲は徐々に散っていき、眩しい光が差しこみはじめ、梅雨の只中とは思えぬほどの快晴になっていく。爽やかな青空や、鮮やかな緑を目にしていると、気分まで晴れやかになっていく。

普通列車の海部行き4523Dの、車窓を流れていく緑。
海部行きの車窓

乗降客を見ているとマスクを着用していない人が意外なほど多い。しっかり着用しているのは学生くらいのものだ。徳島県は感染者が数人という状況だからだろう、都市部はマスクをしていないと出歩けない状況なだけに、なんとも平和な光景に映る。

車窓にはアジサイの花が流れていく。あっちにもこっちにもある。こんなにあったのかと思うほど目に留まる。そういえばこの季節に牟岐線を利用するのは初めてのことだ。コロナのせいでそうなったのだが、美しいアジサイを眺めていると、結果的にいい季節に訪れることになったのかもしれないと思った。

北河内きたがわち

  • 所在地 徳島県海部郡美波町北河内
  • 開業 1939年(昭和14年)12月14日
  • ホーム 1面1線
路線図(北河内)。
緑あふれる景色のなかに置かれた、北河内駅のホーム。
北河内駅ホーム

河内には川沿いの開けた土地のような意味がある。当駅を地図で見ると河口にある中心市街から北に位置する川沿いの平地にあり、まさに北河内という立地にある。この地域には西河内や山河内など河内の付く地名が多く、開業当時は村名まで赤河内村であった。その玄関口として駅名も赤河内であったが、昭和の大合併で日和佐町となり村名が消えると、ほどなく地名通りの北河内に改称されて現在に至っている。

列車を降りるとアジサイとウグイスが迎えてくれた。空は文句なしの快晴だ。直前にいくつものトンネルを通り抜けたことや、どの方角を見ても山と緑があるものだから、山間の盆地に来たような印象を受ける。もっとも現実には歩いていけるほど近くに海がある。

待合所裏手に咲くアジサイ。
待合所裏手に咲くアジサイ

駅はホームがひとつあるだけの簡素なもので、トイレを併設した待合所を載せていた。ホーム上にトイレがあるとはちょっと珍しい。そのドアに貼り紙がしてあり、閉鎖の案内だろうかと目を通すと、コロナ対策で利用自粛をお願いするものだった。こんなローカル線の小駅にまで影響を及ぼすとは、なんと厄介なウィルスかと思う。

嫌な文字から逃げるように駅前に出ると、小さな空き地を挟んで、見上げるほど大きく成長したカイズカイブキが2本と、電話ボックスが所在なげに佇んでいた。空き地には建物の基礎らしきコンクリートが頭を出している。駅舎が取り壊されて庭木と電話ボックスだけが取り残されたのだろう。配置からすると庭木の間に出入口があったのかもしれない。

庭木と電話ボックスだけが残る駅舎跡。
駅舎跡とホーム出入口

とても駅舎が必要とは思えない小さな駅だが、貨物ホームの残骸らしきものがあり、どうやら昔は貨物扱いもしていたらしい。近くに四国山地へと分け入る谷があるので、木材でも積み出していたのかもしれない。詳しいことは分からないが、残されたあれこれから往時の姿を想像するのは、遺跡を発掘するようで楽しいものがある。

周辺には住宅がいくつか並んでいる程度で駅前らしさはない。当然のように往来する人も車も見当たらない。ところがどこからともなく談笑する声が聞こえてくる。見た目とは裏腹に人の集まる所でもあるのかと思っていると、正体は開け放たれた住宅の窓から漏れてくるテレビの音声であった。

タチバナ自生地

駅の内陸側には標高459mの大影山がある。直線距離にして約2.2kmである。ほかに宛もないので海まで見渡せそうなこの頂を目指そうと考えた。ところが道のりを調べていると、大影山の山腹に国内でも数少ないタチバナ自生地があることを知り、しかもそれが県の天然記念物だというので、俄然そちらに興味が湧いてきた。

そこで自生地と山頂の二兎を追う作戦を立ててみた。まずは駅のある大きな谷を国道や県道で2kmほどさかのぼる。すると左手に大影山に切れこむ小さな谷が現れる。地図上に徒歩道すら記されていないのが気がかりだが、この谷間にあるという自生地を経由しながら源頭まで1kmほど詰めていく。そして最後は尾根筋を500mほど登れば山頂である。机上の計画通りにいくか分からないが、細かいことは行ってから考えることにして出発。

駅前通りの先を横切る、県道脇に立つバス停。
駅前のバス停

近道になりそうな狭い脇道に進むと、道ばたに古びた石造りの道標が立っていた。読み取れないほど風化して、いぶし銀の佇まいである。このようなものは珍しくないが、傍らに立てられた標柱に文化財の文字、さらに真念の道しるべとも記されていてはっとした。

真念は江戸時代初期の人物である。四国八十八箇所を幾度も巡礼しただけでなく、現在でいうガイドブックのようなものを出版したり、遍路道に道しるべの標石を二百基余りも設置するなど、遍路の父とも称される存在だ。その標石の多くは失われているが、わずかに現存しているという。それがまさにこれという訳である。

初めて目にしたので思わずまじまじと見つめてしまう。300年以上も雨風に叩かれてきたのだから風化しているのも道理である。どうしてこんな所にあるのかと思えるが、こんな所だからこそ開発の波から逃れて生き残ってきたともいえそうだ。

真念の道しるべ。
真念の道しるべ

ほどなく現代の遍路道ともいえる国道に出た。普通であれば騒々しくて危なっかしくて歩きたくない道の代表格なのだが、四国にあっては歩き遍路の存在もあって、安全に歩けるよう整備されていることが多いから助かる。同じ理由で歩いていても不審に思われにくいという利点もある。自然歩道も充実していて歩き旅には実にいい土地だと思う。

駅から30分ほどで大影山に刻まれた小さな谷までやってきた。この先に自生地や山頂が待っているのだ。地図から想像するより流れは豊かで、苔むした谷底から涼やかな水音が聞こえてくる。イワナでも潜んでそうな渓である。気になるのは上流部の状況だが、細かな木々が目隠しするように枝葉を絡ませていて、まったく見通しがきかない。

本当にここかと思えるが大きな案内板があるから間違いない。そこにはタチバナが日本に自生する唯一のミカンであることや、当地が古来より群生地として知られていたことなどが記されていた。もっとも現在自生しているのは樹齢80〜90年になる2本だけのようだ。

国道にある、歩き遍路への配慮を呼びかける案内板。
国道をゆく

徒歩30分の文字を横目に道路脇の草むらをかき分けるように谷間に足を進める。微かな踏み跡があるだけで投棄されたゴミが目立ち、釘でも踏みつけそうで不安を覚える。天然記念物への道という雰囲気ではない。ただ幸いにしてすぐ歩きやすい山道に変わった。

そこからは左手に渓流を見下ろしながら谷を詰めていく。木もれ日のなか渓のせせらぎや鳥のさえずりが聞こえてきて心地いい。地形的に険しい箇所もあるが、山肌を削り取ったり、丹念に石を詰んだりして、平坦な道にしてあるので歩きやすい。仕事道として利用されていた名残りなのか、それとも自生地までの散策路として整備したものか、なんだか分からないが手間暇をかけて作られた山道である。

これは快適なものだと思ったのも束の間、進むほどに道の荒廃が目立ちはじめた。落石や倒木はかわいいもので、路肩の石積みが崩壊していたり、土砂で跡形もなく埋もれた箇所などもあった。もはや手入れをする気はないらしく荒れるに任せた状態であった。

整備はされているが荒廃している山道。
タチバナ自生地への山道

いつしか流れはひと跨ぎにできるほど細くなっていた。そんな所でも支流というものがあり、右手からいまにも消えいりそうな流れと、地図で気付かなかったほどの小さな谷が合流してきた。そこに少しだけ入りこんでみると、こんな所にと思うような黒々とした大きな岩壁が立ち上がっていた。そこをしたたるように流れ落ちる水は、打たせ湯にすら負けるような水勢でしかないが紛れもなく滝である。

名前すらなさそうな滝であるが、それでも滝は滝で、近づくにつれて肌寒いような冷気が漂いはじめた。谷間は風がなくて蒸し暑かったので気持ちいい。じゃばじゃばと落ちる水音にも清涼感がある。瞑想でもしたくなるような落ちついた空間であった。

支谷にある滝。
支谷にある滝

改めて本流の谷を進むと炭焼き窯が残されていた。何十年も使われていないのだろう、天井は抜け落ち、内部には落ち葉が積もり、周囲に作業をしていた痕跡も見当たらない。それでいて側壁の石積みだけは、城の石垣のような姿できれいに残っている。山中を歩いていると炭焼き窯の跡にはよく出会うが、それらの多くは大きな窪みがある程度のもので、これだけの石積みは滅多に見られない。過去に目にしたなかでは一二を争う美しさだ。

どんな人がいつ頃まで炭焼きをしていたのだろうか。そんなことを考えながら立ち止まって眺めていると、煙を上げる窯や、木炭を運びだす姿などが浮かんでくる。もしかしたら歩きやすく整備された山道は、こういった人たちが作り上げたものなのかもしれない。

きれいな石積みが残された、炭焼き窯の跡。
炭焼き窯の跡

炭焼き窯から数分の所でタチバナ自生地の標識に出会う。2本あるうちの1本は斜面を上ること20m、もう1本は山道をさらに進むこと100mとのこと。

まずは近い方からにしようと斜面に取りついた。斜面上は散乱する大小の石や、生い茂る草木でとにかく歩きにくい。踏み跡も見当たらないので上下左右とさまよい歩く。そこに朽ちかけた標柱があったので近づくと北河内のタチバナと記されていた。ということは傍らで枝葉を広げているのがそうなのだろう。時期的に花も実もないし、巨樹のような存在感もないので、これがそうなのかと見上げるばかりである。

もうひとつは探すまでもなく道沿いの分かりやすい所にあった。こちらの標柱は朽ちかけどころか土に還りつつある。タチバナは同じように枝葉を広げ、同じように花も実もないので、同じように見上げるばかりである。

斜面上にある北河内のタチバナ。
斜面上にあるタチバナ

次に向かうのは大影山の山頂だ。ところが列車時刻まで2時間を切っていて厳しい。ここから駅まで1時間として、山頂まで往復1時間とかけられない。道標だの炭窯だのと足を止めすぎたか。列車を1本遅らせるという手もあるが、そうすると午後までないので、こんどは次駅での行動時間が厳しいことになる。迷ったけど山頂と次駅を天秤にかけると、ほかに宛がないから登ろうとした山より次駅だと、引きかえすことに決めた。

駅に戻ったらまずはマスクを着ける。風邪でもなければ必要とする仕事でもないのに、晴れた夏の屋外でマスクをする日が来ようとは想像すらしなかった。ちょっと動くだけで汗ばむような陽気で、あまり着けたくはないが仕方がない。

やってきたのは10時59分発の海部行き。乗降客は私だけしかいない。車内は座席が半分くらい埋まっていて、平日日中のローカル線にしては悪くない乗車率である。暑いので冷房を期待したけど、効いてるような効いてないような微妙な室温だった。

普通列車の海部行き 4533D。
普通 海部行き 4533D

席に収まるとすぐ列車は動きはじめた。まもなく右手に薬王寺が見えてくる。そして門前町らしき大通りを横切ると早くも日和佐に到着。この区間は1.8kmという牟岐線でも指折りの短さで、乗車時間にすると2分ほどであった。

日和佐ひわさ

  • 所在地 徳島県海部郡美波町奥河内
  • 開業 1939年(昭和14年)12月14日
  • ホーム 2面2線
路線図(日和佐)。
日和佐駅舎。
日和佐駅舎

豊かな自然と歴史に育まれた港町で、美波町の中心的な街である。周辺にはウミガメ産卵地の大浜海岸や、四国八十八箇所の薬王寺、断崖の連なる千羽海崖など、全国的に知られた名所がいくつもある。牟岐線南部にあっては大きな駅で、開業当時は日和佐町、現在は美波町を代表する駅となっている。言うまでもなく特急停車駅だ。

老若男女の5〜6人と降り立つ。視界には列車に乗りこむ人たちの姿や、連続テレビ小説の舞台地と記された大きな標柱が飛び込んでくる。降りた人たちは木造上屋の下を通り、木造駅舎に吸いこまれていく。近年では利用者を目にしないホームだけの駅が増えたせいか、こんな当たり前のような光景に、どこか懐かしさを覚える。

日和佐駅ホーム。
日和佐駅ホーム
構内踏切。
構内踏切

あとを追うように駅舎に入ると意外にも無人駅であった。徳島からこのかた市町村の代表駅で駅員を目にしないのは初めてだ。窓口や券売機のスペースは板で塞がれ、待合室に併設された観光案内所は休業中、室内灯は消されて列車を待つ人もおらず、なんともいえない寂れた空気が漂う。駅前もまた同じような状況でシャッターが目立ち往来もない。数分前の賑わいが幻だったかのようである。

そんな薄暗さとは対照的に陽光を浴びた駅舎からは明るい印象を受けた。建物自体は開業当時からありそうな代物だが、内外とも大きく改装され、白系統で統一された外観に、ウミガメの甲羅を模したのだろう丸みを帯びた屋根を載せているのが特徴的だ。佇まいの美しさは牟岐線で目にした駅舎では随一だと思った。

窓口跡と改札口。
窓口跡と改札口
出入口上に掲げられた駅名板。
出入口の駅名板

駅舎内に貼られた掲示物を見ていると、切符は車内で購入するように記されているが、道の駅で販売しているとも記されていた。つまり無人駅ではあるけど駅舎外で切符を扱う委託駅でもあるということだ。

徳島で精算すれば済むことだけど、なるべく現地でお金を落としたいので、帰りの切符を求めて道の駅に向かう。道の駅があるのは駅裏だけどホームと直結する通路が用意されているので移動は簡単だ。駅前と駅裏の両方に出入口のあるホームは半ば自由通路と化していて、駅利用者よりも通り抜けていく人の方が目立つ。

そうして道の駅にある物産館のレジまでやってくると、特産品の買い物でもするように切符を注文して発行してもらう。ついでに入場券も所望すると、趣味目的で購入する人は珍しくないのだろう、安価な子ども用にしなくていいか確認したうえで手早く発行してくれた。

日和佐から徳島までの乗車券と、日和佐駅の入場券。
道の駅で購入した切符

それにしても「鉄道の駅」と「道の駅」の落差には驚かされる。鉄道の駅はひっそりして、駅前も閑古鳥が鳴いていたのに、道の駅ときたら数多の車が行き交い、大勢の人たちが往来し、コインロッカーや切符売場まで取り揃えているのだ。もはや鉄道の時代ではないことを見せつけられたようでもあり、鉄道で旅をする身としては複雑な気分である。

千羽海崖せんばかいがい

日和佐川の河口にある市街地から、南西に向けての海岸線には山々が迫り、海に落ちこむように急峻な崖が連なっている。人家はもちろん道路すらない荒々しい地形である。その核心部ともいえるのが千羽海崖と呼ばれる大岩壁で、高さは約200m、延長は約2kmにも及ぶ。地形図で見るとカーテンのように垂直の断崖がうねりながら伸びているのが確認できる。これだけの岩壁が駅から徒歩圏内にあるのは珍しく、豊富にある日和佐の見どころの中から、迷うことなく千羽海崖を行き先に選んだ。

駅前通りを数分ばかり進むと、大小の漁船が並ぶ日和佐港に出た。海上保安庁の巡視艇の姿もある。数だけは多いが人も船も昼寝の時間らしく、気だるく揺れる船体があるだけで、誰ひとりとして出会わない。

漁船の並ぶ日和佐港。
日和佐港

木々に囲まれた曲りくねる道で、街の南側で海に接する小山に上っていく。山頂部は室町時代に築かれたとされる日和佐城の跡地だ。もっとも江戸時代を迎えることなく廃城となり、遺構はほとんど残されていないという。

道路を上がりきると城山公園の駐車場に出た。数台の車が止めてあるが人の気配はない。ついでにいえば木々が茂って眺望もない。鉄筋コンクリートの模擬天守が座っていて、最上階からは海から街まで見渡せそうだが、工事中のため閉鎖されていた。外観も作業用の足場に囲われて檻のなかにいるようだった。

城山から眺める日和佐市街。
城山から眺める市街地

城山から南西に向けての海岸沿いには山々が連なり、海と山がぶつかり合うことで、岩と波の険しい海岸線を作り出している。まずは2〜3km先にある千羽海崖を目指して山の上に設けられた自然歩道をゆく。海岸の険しさとは対照的に山上は緩やかな起伏で歩きやすい。左手には波打ち際まで50〜200mも落ちこむ急斜面がありながら、右手には平凡な植林地が広がるという、へりをなぞるような道である。

いかにも海の眺めがよさそうだが緑が豊かなため見えそうで見えない。木々をざわめかせながら吹き上げてくる潮風と、それに運ばれてくる微かな波音で海を感じるのみだ。そんな所だけに四方から激しいセミの声が降ってくる。

それでもたまに視界が開けると、ウミガメ産卵地として知られる大浜海岸や、岩山に波の作りだした洞窟のある恵比寿洞、太平洋の大海原といった美しい眺望が得られる。

急峻な斜面上にある自然歩道。
急峻な斜面上の自然歩道

県が管理運営する四国自然歩道だけによく整備されていて、手すりや階段のほか案内板や標識が立てられ休憩所も点在している。平日のせいかこれだけ整備されているのに誰にも出会うことがなく快適なものである。全体を通しても遭遇したのはトレーニング中らしき走り抜けていく男性のひとりだけだった。

そんな誰もいない自然のなかを歩いていると、爆撃跡という思いがけない文字を目にして足が止まった。こんな所に攻撃すべき何があったのかと思う。気になるので説明板に目を通すと、終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日、近くの水産高校を軍需工場と誤認して爆弾が投下されたが、狙いがはずれてここに着弾したという。昔は大穴が空いていたそうだが、流入した土砂や落ち葉ですっかり埋まり、説明板がなければ素通りするような戦跡であった。

点在する休憩所。
点在する休憩所

木もれ日のなかを潮風が吹き抜け、休んでいるとそれほど暑くはないが、歩いていると徐々に汗が浮かんでくる。上りの階段や坂道ともなると顕著だ。それは夏の焼けつくような暑さとはまた違う、暖房の効きすぎた部屋のような息苦しい暑さだった。

なかでも長い階段と坂道を汗をしたらせながら上りきると、三角点とベンチの置かれた平坦地があり、千羽富士と記された山名板が下げられていた。こんな所に名のある山があるとは知らなかった。富士というだけあってどの方角も下り坂という三角の頂点のような所だ。いかにも眺めが良さそうだが、残念ながら樹林のなかで眺望はまったくない。

千羽富士の山頂。
千羽富士の山頂

千羽富士から数分ばかり下ると、視界の大きく開けた所に休憩所があり、そこに立つと目の前に千羽海崖の大岩壁が現れた。高さにして200mはあるだろう。山上から海面までばっさりと切れ落ちている。文字通りの断崖絶壁だ。その足下にはさらに削り取ろうとばかり荒波が打ちつけている。音をさえぎる木々がないため地響きのような波音が伝わってくる。街の近くにあるとは思えぬほど目にも耳にも迫力のある雄大な眺めである。

沖合に目を移すと大きな島影が浮かんでいる。牟岐町に属する大島のようだ。周囲は約8kmもあるという。集落のひとつでもありそうな大きさだが無人島とのこと。

しばらく眺めているとふと気がついた。この断崖は約2kmもの延長がありながら直線的に伸びているため、海からでなければ全貌を見ることができないということに。通りすぎていく漁船を目に、あそこからなら屏風のような岩壁を間近に見れるのにと羨ましく思う。

千羽海崖。
千羽海崖

自然歩道はまだまだ海沿いに伸びていて、しかも千羽海崖の上という面白そうな所でもあるのだが、困ったことに飲み物が尽きてしまった。これだけの暑さは想定外である。湧き水があるような所ではないし、進むか戻るか思案していると、すぐ近くに街に向かう脇道があったことで戻る決心がついた。先の区間はいずれまた訪れることにしよう。

そして駅に戻ってくると15時近かった。すっかり喉は渇いて腹も減った。ちょっと半端な時間だけど食事を取ることに迷いはなかった。駅前食堂はシャッターを下ろしていたので駅裏にある道の駅に向かう。そこに丼ものを扱う店があったので、早く食べたい私は、特に考えることもなく吸いこまれるように入店した。

なるべく地元の名産品にしようと期間限定のトコブシ丼を食す。トコブシはこの地方で流れ子とも呼ばれる肉厚の巻貝だ。その小さなアワビを思わせる形や食感は、いかにも食べたという満足感を与えてくれ、甘辛いタレは疲れた体に染みこんでいく。空腹と疲労のなかにあって、かきこむように食が進む。

トコブシ丼。
トコブシ丼

あまりに喉が渇いていたので出された麦茶もぐいぐい進む。すぐに飲み干してしまうが店主のおばさんがすぐに注いでくれる。そしてまた飲み干すとまた注いでくれる。とうとうおばさんは麦茶の容器ごと置いていった。

そうして食べて飲んで休んでいたら急速に気力体力が戻ってきた。入店前は食べたら帰ろうという気分でいたのだが、まだ日没まで時間もあることだし、もうひと歩きしようという気分で店を出た。

薬王寺やくおうじ

時刻は15時を回っているのであまり遠出はできない。そうなれば自ずと目的地は決まったようなものである。日和佐を代表する見どころのひとつで、四国八十八箇所の23番札所、厄除けの寺として知られる薬王寺が目と鼻の先にあるのだ。年始には参拝客輸送のため臨時列車が運転されるという、牟岐線とも縁のある寺院である。

道の駅から数分も歩くともう山門だ。周辺には道の駅よりはるかに巨大な駐車場が用意されているほか、飲食店も並んでいて参拝者の多さを物語る。しかも門前を国道が横切っているためひっきりなしに車が走り抜けていく。どちらを向いても人と車が視界に飛びこんでくる。良く言えば活気があるし、悪く言えば騒々しい所であった。

薬王寺。
薬王寺 山門

薬王寺の伽藍は山のふもとから斜面上に広がっているため、山門をくぐったら連続する階段を上がっていく。そのなかに男女の厄年と同じ数の段数からなる厄坂があり、最初に33段の女厄坂、次に42段の男厄坂を上がる。その1段1段には何枚もの1円玉や5円玉が置かれているのが目を引く。各段に置きながら上がっていくことで厄が落とせるという。

お金を踏むのは気分のいいものではないので、慎重に足を運びながら上がりきり、その先にある本堂や大師堂をめぐる。厄除けで有名な寺院とあって、白装束のお遍路さんだけでなく一般の参拝者も目立つ。賑やかな会話も聞こえてきて、これまで沿線で訪ねてきた静謐な寺院とはちょっと趣が異なっていた。

本堂のすぐ近くには樹齢600〜700年という大きなクスノキがあった。こんな所に巨樹があるとは知らなかった。せっかくの存在なのに町の文化財という小さな標柱があるだけで、足を止める人すらないのがもったいない。巨樹の持つ存在感や美しさには、どれほど見事な堂塔もかなわないと思う。

境内の大クス。
境内の大クス

本堂の脇からさらに高台に向けて階段を上がっていく。これは61段からなる還暦厄坂で、やはり1円玉や5円玉が置いてある。それを上がりきった所にあるのが瑜祇塔ゆぎとうだ。その朱色の大きな塔は遠くからでもすぐにそれと分かり、薬王寺のシンボルともいえる存在である。

眺めるだけの塔かと思いきや、内部には暗闇を歩く戒壇めぐりや、仏教にまつわる書画などの展示室があった。具体的にどんな展示物があったかといえば、人間の死体が朽ちていく様子を描いた九相図の印象が強すぎて、ほかは全然覚えていない。

塔の上部は展望台になっていて、街・駅・城・海という、日和佐を構成する要素を見渡すことができた。いい眺めではあるが閉館時刻が迫ってくると、戸を閉める音などが聞こえはじめたから気が気でない。ほかに入館者がいないこともあり、私の存在を忘れてるのではないかという考えがよぎり、閉じこめられては大変だとばかり慌てて退出した。

瑜祇塔から眺める日和佐の町並み。
瑜祇塔からの眺望

時刻は16時半になろうとしている。そろそろ帰ろうかと思うが、次の徳島行きは16時38分発なので間に合いそうにない。そこで18時3分発に乗ることにしたが、結果として1時間半ほどの半端な空き時間ができてしまった。夕飯にちょうどいいけど食べたばかりだし、かといって遠出するほどの時間もない。近くでなにかと考えたらウミガメ産卵地で知られる大浜海岸しか思い浮かばなかった。

街の西側にあるのが薬王寺なら、東側にあるのが大浜海岸なので、必然的に街中を通り抜けていくことになる。沿道には個人商店が並んでいて、例によってシャッターが目立つが、土産物店、衣料品店、書店、玩具店、酒店、生きている店舗もまだまだある。

15分ほどで街は途切れ広々とした砂浜に出た。両翼には岩の目立つ海岸線があり、目の前には鳥居のある小島が浮かぶ。街の近くにしては風光明媚な砂浜である。ウミガメが産卵にやってくるだけのことはある。ちょうど産卵の時期でもあるが上陸するのは基本的に夜なので、いまはウミガメどころか人の姿すらなく、静かに波だけが打ちよせていた。

大浜海岸に向かい合う立島。
大浜海岸に向かい合う立島

午前中は眩しいほどの青空が広がっていたというのに、どんよりした曇り空になっていて急速に天候が悪化しはじめているのを感じる。明日も牟岐線の旅をする予定だというのに、なんだか不穏な空模様である。

海を眺めていると夕焼け小焼けのメロディーが流れはじめた。夕暮れのなか郷愁を誘うものがある。腕時計に目をやると17時だった。近くの突堤で釣りをしていたおじさんは、それが合図であったかのように切り上げると、自転車にまたがり去っていく。広々としたなかに私だけが残されて、なんだか寂しくなってきた。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

乗車するのは18時3分発の板野行きである。板野というのは徳島より向こうにあり、香川県を目前にした町である。夕方の列車だけあって利用者は多めで6〜7人と乗りこむ。これは相席になるかなと思ったけど、同じくらいの人数が降りたので余裕を持って座ることができた。

普通列車の板野行き 4576D。
普通 板野行き 4576D

進むほどに車内は通勤通学客で賑やかになっていく。途中の阿南で1両増結するほどだ。すれちがう列車も2両や3両にぎっしり詰めこんでいる。どの駅でも多かれ少なかれ降りていく人があり、薄明のなか家路を急ぐ背中に一日の終りを感じる。

コロナによる自粛で足を使うことが減るなか、久しぶりに歩きに歩いたので、くたくたに疲れてしまった。それは忘れかけていた心地よい疲れでもある。暮れゆく車窓をぼんやり見つめながら、列車の揺れに身を任せていると、いつしか眠りに落ちてしまっていた。

(2020年6月29日)

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