
目次
プロローグ

2017年3月28日、久しぶりに山陰本線の旅をしようと朝の京都駅にやってきた。在来線として日本最長の路線だというのに、たまに思い出したように訪れるこの状態では、完乗までに10年くらいはかかりそうだ。考えただけで気が遠くなるほど山口県は遠い。
空は雲ひとつない快晴で、昇ったばかりの太陽がビルの谷間から顔を出し、赤みを帯びた眩しい光が差し込んできた。見た目には暖かいけど春とはいえ早朝の冷え込みは厳しく、手や頬が痛くなるほどの寒さだ。早く暖房の効いた車内に逃げ込もうと足早に改札に向かった。

乗車するのは7時35分発の胡麻行き快速列車で、亀岡の隣にある並河という駅を目指す。時間的にホームは混雑していて通勤ラッシュの様相を呈していた。車内に入るともう窓側の席はことごとく埋まっていて、辛うじて通路側に空席を見つけた。

どれだけ混雑していても座ることさえできれば楽なもので、高架線の上から見慣れた京都の市街地や、日陰で青々とした保津峡の急流を眺めつつゆったりと先に進む。渓谷を抜けて住宅と農地が広がる穏やかな亀岡盆地に入ると、ほどなくして並河に到着した。この辺りは目まぐるしく景色が変わるから面白い。
並河
- 所在地 京都府亀岡市大井町土田
- 開業 1935年(昭和10年)7月20日
- ホーム 2面2線


盆地の中ほどで新しい住宅やアパートに囲まれるようにしてある駅だった。この様子だと朝は通勤通学で出ていく人ばかりで、降りる人は少なそうだと思ったが、意外にも大勢が降りて改札前には人だかりができていた。その後も到着する列車から続々と降りてきて、いったいなにがあるのかと地図を確認すると、宅地の向こうには工場や大型店がいくつもあった。
街並みだけでなく駅の設備も新しく、駅舎・ホーム・跨線橋、どこを見ても作られてそう間がなさそうな姿をしていた。周辺の宅地開発に合わせて開業したようにも見えるが、調べてみると戦前の開業で、既に80年以上の歴史を有していた。それを感じさせないのは平成元年に駅が移転したということが大きいようだ。

構内に興味を惹かれるような物はなかったけど、駅のすぐ裏手に展示してある、若干色あせた朱色のディーゼル機関車と、切断されて前頭部分だけとなった新幹線が目を引く。気になる存在ではあるが、駅裏に出入口がないので目の前にありながら手が届かない。
とりあえず駅を出ようと改札に向かうと、駅舎は小さいが有人駅で、みどりの窓口から自動改札機まで取り揃えられていた。必要なものをコンパクトにまとめた見本のような駅舎だ。
よくできてはいるが狭いことだけはどうしようもないようで、休憩スペースに関してはベンチが申し訳程度に置いてあるだけとやる気がない。もっとも忙しく通り抜けていく人ばかりで、立ち止まって休むような人は見かけなかった。

駅前に出ると小さなロータリーを広い歩道や街路樹が囲み、車の行き交う道路を挟んだ向こうには宅地が広がっていた。全体的に歴史の浅そうな街並みで、少し前までは農地が広がっていたが、近年になり開発が進んできたという印象である。
鉄道歴史公園
まずは駅裏に展示されていた車両を見に行くと、鉄道歴史公園と名付けられた公園になっていた。説明板によるとかつての並河駅はこの場所にあり、複線化に併せて現在地に移転したのだという。この場所から移転したとなると線路の向こう側、目と鼻の先に移動しただけで、大まかな位置としてはほとんど変わっていないような気がする。
説明板には桜に囲まれた趣ある木造駅舎のイラストが載っていて、公園入口にはその名残りか大きな桜の木が佇んでいた。それを横目に園内に進むと、駅跡だけに線路に沿うようにして細長い敷地が伸びている。元々の駅舎やホームを複線化用地に転用して、余った部分を公園にしたという感じだろうか。

奥にはホームから見えた0系新幹線の前頭部と、少し前まで日本各地で客車や貨車を牽引する姿を見かけた、DD51形ディーゼル機関車が縦列に並んでいた。これが蒸気機関車だと懐かしさは微塵も感じないけど、現役時代を知るこれらの車両には懐かしさを感じる。車両は申し訳程度の柵に囲まれただけで屋根もなく、まるで駅の側線に停車しているかのような開放的な展示で眺めやすい。
管理はきちんとされているようで、雨ざらしで手も触れられるような展示にしては、比較的きれいな姿を維持していた。近くで見ると破損や劣化も見受けられたけど、屋外だと保存と言いながら朽ち果てているものも多く、それを考えるとよく維持されている方である。

車両のすぐ脇にはホームを模したらしき高台があり、待合所のような小さな休憩施設が作られていた。ここに腰掛けて車両を眺めるくらいしか過ごしようのない狭い公園で、滞在中も通路代わりに通り抜けていく人を見かけただけだった。
夜苗神社
周辺にはこれといって見どころはなく、次の駅に向かおうかとも考えたけど、二度と訪れることのないだろう駅だから街並みも少しは見てみようと思い直し、駅前を適当な方向に向けて歩きはじめた。
新しい住宅や商業施設が多いため、これといって興味を惹かれることもなく黙々と足を進めていく。やがて国道に出ると交通量が激しく渡ろうに渡れず難儀する。見つけた信号を長々と待ってようやく渡ることができた。こんな調子なのでいまいち気分は盛り上がらない。
どうしたものかと考えていると鎮守の森のような緑の塊に気が付き、近づいてみると思った通り小さな神社が鎮座していた。頭をぶつけるような小さな石造りの鳥居には、文政11年という江戸時代後期の年号が刻まれていた。きっと当時は農地や原野に囲まれた神社だったのだろうが、今では建物に取り囲まれてここだけ時代の波から取り残されたようでもある。

扁額は見当たらないが由緒書きから夜苗神社という名前が判明した。一夜にして稲の苗が竹になっていたという伝承があるそうで、夜苗という何か物語を感じさせる詩的な名前はそこから来ているようだ。伝承に出てきた竹とはこれのことなのか、境内には神社によくある杉や楠ではなく竹が生い茂っていた。
再び駅に戻ってくると混み合うほどではないが、次から次にどこからともなく乗客が現れてきて賑わっていた。ホームに向かうとすぐに9時12分発の園部行きがやってきた。この辺りは列車本数が多いので時刻を確認しなくてもすぐ乗れるので便利だ。車内は空いていたけどすぐ降りるのだからとドア横に立つ。

列車は亀岡盆地を真っ直ぐに進んでいき、車窓には田畑の中に新しい住宅が散見される単調ともいえる景色が流れていく。その様子にほとんど変化がないままに列車は速度を落とし、千代川駅に滑り込むと、珍しいことに木造駅舎が車窓を横切った。
千代川
- 所在地 京都府亀岡市千代川町今津
- 開業 1935年(昭和10年)7月20日
- ホーム 2面2線


周辺には整然と住宅が建ち並び、先ほどの並河で感じたのと同じ、新興住宅地を思わせる景色が広がっていた。とはいえ駅自体の雰囲気は大きく異なり、並河では跡形もなく取り壊されていた、開業当時からあると思われる古びた木造駅舎やホームが残されていた。
列車を降りてホーム上に目をやると思いのほかまとまった下車があり、ひとりずつしか通れない小さな改札口の前にはたちまち行列ができていた。京都を出てからというもの昭和初期の木造駅舎に遭遇したのは初めてで、こういう取り残されたような駅は往々にして無人駅であることが多いが、改札脇では女性駅員が切符の回収をしていた。
構内は2面2線でどっしりとした土盛りで作られたホームがあり、それに沿うように植えられた桜の中には、開業時に植えたのではないかと思える巨木の姿もあった。

ひと通り乗客が居なくなると駅員は奥に引っ込んでしまい、窓口内にも見当たらないので、まるで無人駅のように勝手に改札を通り抜けていく。
待合室に入ると外観から想像したより狭く感じた。改札口に大きな自動改札機が鎮座し、ただでさえ狭い待合室を一段と狭くしている。室内にはベンチやゴミ箱の他に、券売機や運行情報ディスプレイといった機器類、それに様々な掲示物にパンフレットなどが所狭しと取り囲むように並ぶ。さらに時代とともに改装や改良が繰り返されたようで、統一感のないどこか雑然とした雰囲気が漂っていた。

古びた駅舎には古びた街を期待するが、駅前に出ると新しい住宅やアパートが、街路樹の並ぶロータリーを取り囲むように並んでいた。屋根付きのバスやタクシー乗り場まであり、なんだか駅舎だけが開発の波に乗り損ねたようにも見える。駅前広場の片隅には大型バスが止まっていて、遠足に出かけるような格好の親子連れが続々と乗り込んでいた。
新御殿門
案内板を見ると歴史ある街らしく寺社が多数存在していた。近くの山にはハイキングコースもある。だがそれより気になったのが近くにある小学校の校門で、これがなんと亀山城から移築された門だという。以前城跡を訪ねたときには石垣しか残されていなかったが、こんなところに建築物が生き残っていたのだ。旅先で知り合いに出会ったような親しみを感じる。
向かってみると校舎という飾り気のない鉄筋コンクリートの建物に隣接して、黒ずんだ柱と白壁のコントラストが美しい木造瓦屋根の古びた門が佇んでいた。どちらの建物を中心に見ても不釣り合いな対照的な姿をしている。門のほうを学校に移築してきたのだが、雰囲気としては城跡に学校を建てたように見える。
貴重な建築物とはいえ観光資源として門だけでは厳しいようで、周辺で観光客を見かけることはなく、春休み中だけに子供の姿も見当たらず、たまに前の道路を車が通り過ぎて行くだけの静かなところである。

門を間近にみると「旧亀山城新御殿門遺跡」と刻まれた石柱が立ち、簡単な案内板も設置されていた。元々は亀山城内に江戸末期に建てられた新御殿の門で、そこは藩庁や京都府の支庁などに利用されていたという。明治13年に移築とあるから、この地での歴史は軽く100年を超えていて、新御殿門とは言っても校門として過ごした時間のほうがずっと長い。
平の沢池
いったん駅に戻ると次は北東3kmほどのところにある平の沢池に向かうことにした。似たような距離に丹波国一宮の出雲大神宮や国分寺跡もあるが、街歩きが続いていたので自然を欲していたのか妙にこの池に惹かれるものがあり、一宮や国分寺に行こうとは思わなかった。
駅から数分も歩くと鏡のような水面をした大きな川に出た。水面には青空に浮かぶ雲がくっきりと映り込んでいる。この辺りでは大堰川と呼ばれる桂川だ。川幅はざっと200mはあるだろうか。大河のごとく悠々と流れていて、すぐ下流で荒々しい保津峡を作り出しているとは思えないほどだ。広々とした河川敷ではゴルフ練習をするおじさんの姿があった。
長い橋を渡り対岸までやってくると山々に囲まれた広大な農地が広がり、亀岡盆地の真ん中に来たという思いを強くする。農道には人も車も滅多に通らずとても静かで、近くからは鳥のさえずり、遠くからは高校の部活と思しきかけ声が聞こえてくる。

盆地の縁ともいえる山すそにある集落を目標に早歩きに進んでいく。その近くに目的の平の沢池があるのだ。気温は上がり日差しを遮るものはなにもなく、徐々にじっとりと汗ばんできた。朝は冬を思わせる寒さだったのにいつの間にか春の陽気である。
曲がりくねった道路沿いに古びた住宅や土蔵の散見される、いかにも歴史の有りそうな集落に入り込んでいく。思わず通り抜けてみたくなるような趣のある路地も見られた。水害を避けてか山すその軽い高台のようなところには古い建物が目立ち、河川近くの平坦な土地には新しい建物が目立つ。
大きな石を積み上げた石垣や白塗りの塀に囲まれ、神社というより城を想起させる池尻天満宮に立ち寄ると、手入れの行き届いた清々しい境内には梅の花が咲き、中にはオガタマノキという聞いたことのない樹木もあった。どこにでもありそうな常緑樹で立札がなければ気が付かないくらいだが、魔除けとして植えられた御神木だという。

平の沢池が見えてきたのは駅から1時間以上も歩いたころだった。亀岡盆地の片隅で緑に囲まれるようにして佇む自然豊かな池で、上池・中池・下池という3つの池に分かれている。下池の土手に上がると数えきれないほどのカモが遊ぶ水面が視界に広がった。
土手には両手でも抱えきれないほどの大きな桜の木が並び、枝には開花間近のつぼみを多数付けていた。もう10日ほど遅く訪れればと少し残念な気持ちになった。
散策路や東屋などが整備され、自然観察やウォーキングなどによさそうなところだが、親子連れが散歩をしている程度でほとんど人を見かけない。上空では近くの山から飛び立ったパラグライダーがゆっくり旋回していて、静かでのんびりとしたところである。
かつては巨大な葉を広げるオニバスで覆い尽くされていたという水面を眺めながら、下池と中池を仕切る枯れ草に覆われた土手の上を歩いていると、草むらからガサガサと物音がするのに気がついた。なんだろうかと視線をやると黒っぽいものがもっさりと動いていた。なんだこれはと思いよく見るとヌートリアであった。近づいても我関せずといった様子で草をモグモグとやっていた。

下池を一周したところで駅に向かう。中池や上池もあるけど基本的には同じような自然環境のようなのでまあいいかという感じだ。それに今日は多くの列車が終点としていて、旅の区切りにちょうど良さそうな3駅先の園部まで行きたいと思っていて、すでに昼近くと時間が押してきているということもある。
腹が減るので食堂でもないかできるだけ賑やかそうな道を進んでいると、道端に小さな蒸気機関車と半ば朽ちかけた腕木式信号機を見つけた。場違いなヌートリアには驚いたけど、これもまた場違いで驚いた。説明板まであるので一応展示してあるらしい。劣化の進んだ説明板に目を凝らすと「コッペル C型機関車」と読み取れる。ただそれ以上の詳しいことは書いてなく、観賞用の機関車モニュメントという程度しか分からなかった。

ここまで快調に歩いてきたが、朝からの歩き通しが祟ったか、足の裏に痛みを感じるようになってきた。冬場ほとんど冬眠状態で長時間歩くことがなかったせいか体がなまっている。おまけに重いカメラバッグで肩がこったようで気持ち悪さが出てきて具合がよくない。
ようやく駅まで戻ってくると、待つほどもなく12時34分発の園部行き快速列車がやってきたので乗り込む。通勤通学時間も終わり車内はすっかり空いていて、一緒に乗車したのも2〜3人程度のことだった。

発車するとすぐに左手から山が、右手から桂川が迫ってきて進路が狭まり、両者のすき間を国道9号線と共に北上していく。対岸にはまだ平野が広がっているが、それが終わるのも時間の問題であり、亀岡盆地の最上流部にやってきたという雰囲気が出てきた。
八木
- 所在地 京都府南丹市八木町八木
- 開業 1899年(明治32年)8月15日
- ホーム 2面2線


山間を流れてきた桂川が亀岡盆地に流れ込む辺りで、山と川に挟まれた小さな平地に、家々が密集するように固まり、見るからに歴史のありそうな町である。そこに置かれた駅もかなりの歴史があり、開業から軽く100年以上が経過している。今でこそ優等列車は素通りするが、かつては一部の急行列車も停車した旧八木町の中心駅だ。
列車を降りてまず目を奪われたのが跨線橋で、細い鋼材を組み合わせた骨組みに、木材を隙間なく並べて壁とした古めかしいものだ。そして列車が去ると線路の向こうには、これまた年季の入った木造駅舎が現れた。隣りの千代川駅舎といい、京都から離れれば離れるほどに、国鉄を想起させるものが増えていく。

ホームは上下線それぞれに用意された相対式で、以前は上下線の間にもう1本線路があったらしく、向かい合うホーム同士が妙に離れていて広々として見える。利用者が少ない時間帯ということもあるだろうが、列車から降りた数人が去ってしまうと人気はなくなり、急速に空を覆いはじめた暗い雲と相まって、どことなく物寂しげな雰囲気が漂っていた。
駅舎に向かおうと跨線橋に上がると、幅の狭い通路沿いに板張りの壁が続き、外観同様に内部も趣ある代物だった。外部は白系の明るいペンキが塗られているのに、なぜか内部は黒系のペンキで塗られていて薄暗く感じる。
改札を抜けて待合室に入るとかなり広くて天井も高い。幅広の大きな窓口に、券売機を設置しただけでは場所を持て余し気味な、幅のある小荷物扱い所の跡、今では自販機置場と化しているキヨスク跡など、かつての賑わいが想像される空間だ。

駅前に出るとタクシーが数台暇そうに客待ちをしていた。その向こうには駅前広場を挟んで昔ながらの商店街が伸びていて、傍らには広告や観光案内地図の描かれた案内板が立つ。京都を出てから続いてきた、有名観光地やベッドタウンを思わせる近代的な駅前とは対照的な、昭和を感じさせるひなびた駅前風景である。
八木城跡
八木は亀岡盆地の中でも上流部に位置する町であり、線路はこれより徐々に山間部に入っていく。そこで盆地の見納めがてら全体を見渡せそうな眺めの良いところに行きたいと思い、駅裏にそびえる山の頂にあるという八木城跡を目指すことにした。キリシタン武将の内藤如安も城主を務めた、中世でも有数の規模を誇ったという山城だ。
城に向かうにあたり腹が減っては戦は出来ぬという訳で、食堂でもないかと駅前の商店街に向かうと、あっさり見つけたものの昼時とあって混み合っていた。他には見当たらないし仕方がないので後回しにして先を急ぐ。
近くの踏切から駅裏に回り込むと、農地のなかに住宅の点在するのどかな景色が広がり、駅前とは随分と雰囲気がちがっていた。つい先ほどまで快晴だったというのに、空はすっかり厚い雲に覆われ、それどころか小雨までぱらつきはじめた。
城趾の登山口はふもとの春日神社付近にあるというので春日神社までくると、想像していたよりずっと大きな規模で、手入れの行き届いた境内には大きな拝殿もあった。厳かな雰囲気を漂わせる拝殿には橙色の明かりが灯り、人の気配もするけど姿は見当たらない。

目的の八木城跡に登ろうと思うが、案内板や標識の類が見当たらないので、たぶんここだろうと神社前の道路を山中に向けて進んでいく。ところが予想に反して行き止まり。どうしたものか右往左往していると、神社のすぐ裏手に城山周辺の案内板や、城山登山道入口と書かれた標識などを発見した。
登山道に入ると薄暗い杉木立のなかを進んでいく。人気はないがよく踏み固められていて訪れる人は多そうに見える。谷底のようなところで水は流れていないが雨が降ると荒れるらしく、途中には砂防堰堤や大きくえぐられた山肌も見られた。
しばらくして2合目の標識が現れた。標識があることに整備された登山道との安心感を感じる反面、まだ2合目でしかないのかという何とも言えない気持ちも湧いてくる。

やがて登山道は谷底を離れて斜面上をうねるようにして標高を稼ぎはじめた。整備されて歩きやすいとはいえ、進めば進むほど険しさが増してきて汗が流れ息が上がる。3合目に4合目と少しずつ増えていく看板の数字に励まされつつ足を進め、7合目や8合目まで来るとあとひと息とばかり力が湧いてきた。
30分ほど登り続けたところで山頂らしき眺めのいい開けた空間に出た。周囲を取り巻くように桜の木が植えられ、複数のベンチや八木城の地図や沿革などを記した説明板も配されている。それによるとこの場所はかつての本丸跡だという。
縁に立てば期待通り亀岡盆地を一望でき、中央を流れる桂川から、遠く亀岡市街まで見渡すことができた。これで晴れていれば一段と映えるのだが、頭上には相変わらず黒ずんだ雲が広がり、いったん収まっていた雨までこぼれはじめた。そんなときのためなのか忘れ物なのか傘が1本地面に突き刺すようにして立ててあった。

周辺の山中には石垣や曲輪など多数の遺構が残され、中腹まで下れば妙見宮なる神社もあるようだが、疲労と空腹とが重なり歩き回ろうという気力はなく、しばらく山頂からの景色を楽しんだところで下山した。この眺望のために訪れたのだから目的は達成だ。
下山はひたすら下るだけなので体力的には楽なものだけど、つま先に余裕のある登山靴ではないので、勢いよく下るとつま先が痛くて仕方がなかった。
ふもとまで下りてくると道路脇に十字架の形をした石碑があるのに気がついた。目立つものだが往路は登山道を探すことで頭が一杯でまるで視界に入っていなかった。近づいてみると内藤如安ゆかりの地とある。八木城で生まれ国内における活動の後、徳川家康の禁教令でマニラに追放され、その地で没するまでの生涯が簡潔に記されていた。

駅に戻ってきて時刻を確認すると15時を迎えるところだった。疲れたのでこれで宿に帰りたい気持ちもあるけどそれには少し早い。かといって昼食をとるには遅くてなんとも半端な時刻である。迷ったけど次の吉富駅に向かってみることにした。
乗り込んだ15時3分発の園部行きは、帰宅時間のはじまる前ということもあり、空席の目立つがら空き状態だった。わずかな時間とはいえ楽に座っていけるのはありがたい。

八木を発車すると車窓から盆地らしさが姿を消し、山間の農村風景のような景色に変わっていく。そのまま町らしい町もないままに列車は速度を落とし、なぜここに駅があるのだろうというような場所に吉富駅が現れた。
吉富
- 所在地 京都府南丹市八木町木原
- 開業 1935年(昭和10年)7月20日
- ホーム 2面2線


近くを見れば農地が目立ち、遠くを見れば山並みが目立つ、並河や千代川のような新興住宅地のような印象とも、八木のような歴史ある町という印象ともまたちがう、のどかな農村という印象の眺めだった。民家もあるけど町というよりは集落というほうがしっくりくる。いかにも利用者は少なそうだけど私のほかにもぱらぱらと数人が降りた。
昭和初期の開業というそれなりに歴史のある駅だけど、ホームは鉄骨とコンクリートからなる飾り気のない簡素なもので、いかにも近年に作られたという姿をしていた。これはもともとの駅が数百メートルばかり園部よりにあり、30年ほど前に現在地に移転してきたからのようだ。
場違いに感じられるほど大きな駅舎に入ると、半分くらいは郵便局になっていて、もう半分くらいはコミュニティーセンターになっていた。肝心の駅は両者に挟まれた通路部分のようなところで、庇を貸して母屋を取られたような感じである。

駅舎より局舎と言ったほうがよさそうな建物内には、簡易な自動改札機と券売機があるだけの無人駅だった。切符の販売をしていた時代もあったのか、改札脇には路地裏の景品交換所を思わせる小さな窓口があり、いまは薄汚れたシャッターで閉鎖されている。縁起のいい駅名なのでそれをアピールするなにかがあるかと思ったけどなにもなかった。
駅前には国道9号線と京都縦貫自動車道が横切り、両者を結ぶインターまであるので、人の姿はないけど車は嫌になるほど多く、普通車から大型車に至るまでひっきりなしに行き交っていた。道路の他は広々とした駐車場を持つコンビニがある程度でこれといってなにもない。
西光寺
空腹と足の痛みであまり歩く気にはならないが、下車しただけで立ち去るのはもったいないのでどこかに行こうと思う。どこに向かえばいいのか迷うような景色だが、幸いにして駅前には「やぎマップ」という、見どころの記された簡単な案内板が設置されていた。そのなかからもっとも近くにある西光寺という寺に向かうことにした。
駅前こそ交通量が多くて騒々しいが、少し歩いて国道と自動車道からはなれると、川の音くらいしか聞こえなくなった。山間を流れる川沿いには田んぼが広がり、所々に住宅が固まるように建て込んでいる。なかには茅葺きだったと思しき古びた家もある。自家用の小さな畑で作業するおばさんの姿も見られ、駅前よりずっと人の営みが感じられる。
集落のなかで荒井神社の前を通りかかり、境内の雰囲気に惹かれて立ち寄ると、板張りの簡素な社殿があった。一見してそう古くはなさそうだが説明板に目を通すと、室町時代後期の建立で京都府の文化財に指定されているという。とてもそうは思えないのだがとよく見たら、そこにあるのは社殿を風雨から守るための覆屋で、すき間からは意匠を凝らした檜皮葺の建物がちらりと見えた。

当初の目的だった西光寺は荒井神社のすぐ先にあった。正面に立てば中腹にある本堂に向けて長く緩やかな坂道がまっすぐ延びている。途中に竜宮城を思わせる朱色の鐘楼門があり、その向こうからは傾斜がきつくなり坂道が石段に変わっている。
中ほどまで上がってくると庫裏などが建ち並ぶ平場があり、掃除をする婆さんがひとり居るだけでひっそりとしていた。見上げれば両脇に石灯籠を従えた石段があり、入母屋破風の下に唐破風のある屋根が印象的な本堂が、こちらを見下ろすように佇んでいた。周囲には広葉樹が枝葉を広げていて秋に訪れれば美しい光景が見られそうに思う。
本堂は南丹市の文化財に登録されていて、説明板によると上棟されたのは江戸時代後期の文化元年とある。荒井神社の本殿に比べるとかなり新しいが、それでも軽く200年以上が経過している。さらに寺自体は奈良時代の756年に創建という古刹で、駅から受ける印象とは正反対の深い歴史をもった土地のようである。

西光寺からさらに先に進むと京都帝釈天があるのだが、これ以上歩く元気はなく、参拝を済ませると迷うことなく駅に向かった。
エピローグ

駅前のコンビニで食料を買い込んでから、どこからやってきたのか背広姿の会社員らしき3人ほどと、16時30分発の京都行きに乗車した。帰宅時間がはじまり車内はそこそこに乗ってはいたけど、空席も十分にある状態だったので買ってきたものを食べながらいく

亀岡までくると先ほどまで雨がパラついていたとは思えないほどの快晴に変わった。どうやら南丹市の界隈だけが天気が悪かったらしい。
八木、千代川、並河と各駅ごとに少しずつ乗客が増えてきたけど、思ったほどの混雑ではなく全員が座れる程度にしかならない。意外と混んでこないと思っていたら、亀岡を過ぎた馬堀でこれでもかという大量の乗車があり超満員となった。
保津峡や京都市街をウトウトしながら眺めているとあっというまに京都に到着した。少しとはいえ睡眠をとったからか軽い頭痛や気持ちの悪さがあったのが楽になっていて安堵する。列車を降りると足の踏み場もないほどの混雑で、こんなところにいてまた具合が悪くなったらたまらないので、さっさと帰って布団に入ろうと宿に急いだ。
(2017年3月28日)
コメントする