紀勢本線 全線全駅完乗の旅 4日目(六軒〜多気)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2018年4月2日、月曜日、まもなく8時になろうとしている。平日朝のラッシュを避けて少し遅めに津駅にやってきた。空には青空が広がり旅日和だけど、黄砂の影響なのかくすんだ青色ですっきりしない。

ホームに向かうと待つほどもなく8時2分発の伊勢市行きがやってきた。駅前のバスのりばには鉄道から乗り継ぐらしき人たちで長蛇の列ができていたけど、駅構内は狙い通りさほどの混雑ではなく、余裕で座ることができた。

普通列車の伊勢市行き 913D。
普通 伊勢市行き 913D

定刻通りに発車した列車は、津市街を抜け出し、田園風景のなか市境を越え、松阪市街に入り込んでいく。順調であれば松阪まで20分ほどなのだが、途中3駅あるうち2駅で列車すれ違いによる長時間停車がある亀の歩み列車だったため、34分も要してしまった。

松阪まつさか

  • 所在地 三重県松阪市京町
  • 開業 1893年(明治26年)12月31日
  • ホーム 5面7線
路線図(松阪)。
松阪駅舎。
松阪駅舎

江戸期より伊勢参詣者の往来する城下町として、また三井家に代表される商人の町として栄えてきた土地である。明治中期から昭和初期にかけては複数の鉄道路線が開業、当駅は松阪市の代表駅であると同時に、紀勢本線・名松線・近鉄山田線の交わる要衝となった。いまでは数少なくなった駅弁販売駅のひとつでもある。

活気ある駅を想像するけど、一緒に降りた人たちや列車が去ってしまうと、ホームは閑散としてしまった。通勤通学の時間帯を過ぎたせいもあるけど、三重県ではJRより近鉄のほうが便利であることが多く、当駅の利用者数にしても近鉄が圧倒しているので、JRホームに人影まばらなのはその辺の事情もありそうだ。

松阪駅ホーム。
松阪駅ホーム

並べられたホームを見渡せばそれぞれに長い上屋が載せられている。ねじ曲げたレールや木材を利用した古めかしい造りで、天井からは駅名板や時計のほか赤福の広告が吊り下げられていて旅情を誘う。国鉄型車両や駅弁の立ち売りでも置いたら似合いそうなホームだけど、出入りするのは現代的な車両ばかりだ。

半世紀くらい使用してそうな跨線橋を渡り、改札口までくると、脇には赤福を積み上げた売店や、牛肉の文字が踊る駅弁屋が並んでいた。汽笛亭なる立ち食いうどんもあるが、残念ながら閉店の貼り紙がしてある。記された日付はちょうど一週間前であった。

駅舎内では広い通路を挟んで、JRと近鉄、双方の窓口と券売機が向かい合う。互いに相手のことなど知らんという独自の構えをしているが、改札口はひとつしかなく、どちらの切符でも通ることができる。共同使用駅らしい面白い光景である。

券売機、窓口、改札口の並ぶ駅舎内。
松阪駅改札口

駅舎内をひと歩きしたのち駅前に出る。広い空間があるけどバス・タクシー・送迎車が占拠しているため、歩行者に与えられたのは通路くらいのものと、あまりくつろげるような環境ではない。周囲にはホテル・オフィスビル・駐車場などが並び、観光や遊興色は薄いが、商人の町らしい駅前風景ともいえそうだ。

松坂城跡まつさかじょうあと

松阪は見どころが多いのでどうしたものか悩ましい。そこで駅前の観光案内所で相談すると、月曜は大半の施設が休館日だそうで、歩いて楽しめるところとして伊勢街道沿いの古い家並みや松坂城跡を勧められた。松阪を訪ねるなら月曜だけは外すべきだったかと思うが、観光客が少ない日ともいえるので、これはこれでよかったかなとも思う。

観光案内所で手渡された蛍光ペンで道のりの記された地図を手に、駅前を伸びるアーケード商店街をゆく。往来が少なくシャッターが目立つのは全国共通だ。数少ない営業中の店舗のなかには駅弁を並べた店があり、昼飯用にひとつ欲しくなったが、カメラと駅弁の両方を手にさげて歩くのは厄介なので我慢する。

駅前のアーケード商店街。
駅前商店街

駅から15分ほどで歴史的な家屋が多く集まるという区画までやってきた。松坂城から伸びてきた大手通と伊勢街道が交わる、城下町の中心地ともいえそうなところだ。

まず足を止めたのが三井家発祥の地。江戸に進出して呉服店を開業、やがて三越や三井財閥へと繋がっていくあの三井家である。そこは見上げるように高い白壁と門に囲まれていて、内部をうかがい知ることはできない。近くには小津家という大商人の邸宅を公開した松阪商人の館というものがあるが、残念ながら月曜休館である。

隣の通りにくると国学者として知られる本居宣長邸の跡がある。建物は松坂城跡に移築されたそうで礎石だけが並んでいた。

向かいには松阪屈指の豪商であったという長谷川家の邸宅があり、連子格子にうだつの上がる佇まいはいかにもと思わせる。奥にはいくつもの蔵に回遊式庭園まで備えているという。内部は公開されているが休館日である。松阪が商人の町であったことを実感させられる地区であるが、月曜にくるべきではない地区だとも思った。

旧長谷川邸。
旧長谷川邸
街角に立つ丸ポスト。
街角の丸ポスト

豪商の家屋が集まる街道を折れて、汗を浮かべながら緩やかな坂道を上がっていくと、松坂城の表門跡に出た。広大な平野のなかでここだけ盛り上がり、すぐ脇には天然の堀ともいうべき阪内川が流れ、城を置くならここという立地である。

松坂城は1588年(天正16年)に蒲生氏郷により築かれ、服部一忠に古田重勝と短期間で城主が変わったのち、江戸時代になると紀州藩領となったことで、当地を統括する城代が置かれていた。そして明治を迎えて廃城となっている。

門も櫓も御殿もきれいさっぱり失われ、堀も埋められているため、往時の姿は残された石垣を頼りに偲ぶしかない。しかしその石垣というのが自然石を巧みに組み合わせた見事な野面積みで、小山を利用した城跡全体に複雑にめぐらされている様には、それだけで訪れてよかったと満足させるものがあった。

防御のためであろうが右へ左へと曲がりくねりながら天守跡にたどりつく。文字通りの跡でなにも残されてはいない。それを伝える石柱がぽつねんと立つのみだ。諸行無常の淋しさはあるけど、風が吹くたび桜の花びらが舞い上がり、平和ないい景色だなとも思う。

松坂城跡の石垣。
松坂城跡
桜の花びらに染まる足下。
城内の桜は散りかけ

城の遺構としては石垣があるばかりだけど、明治時代に図書館として建てられた風格ある木造建築を利用した歴史民俗資料館や、移築された本居宣長邸や同記念館など見どころはたくさんある。もっとも月曜休館なので外観や閉ざされた門を眺めるしかできない。

歴史民俗資料館。
歴史民俗資料館

城内を右往左往していると腹が減ってきた。時刻は11時半になろうとしている。ちょうど茶店があるので覗くと、軽食も扱っていたので早めの昼にすることにした。

おでん・うどん・三色団子などがあるが、伊勢にきたからにはと伊勢うどんをすする。思いきり太く柔らかな麺に、刻みネギを載せ、甘みの強い醤油を絡める独特なものだ。普通のうどんを想像していたら驚くこと請け合いである。太いだけにすぐ食べ終わり、太いだけに腹持ちもよさそうと、いにしえの旅人のファストフードという感じがする。

伊勢うどん。
伊勢うどん

城跡にはふたつの大きな神社が隣接していて、観光案内所の人は特に触れなかったけど、せっかくなのでどちらも参拝していく。ひとつは松坂城の鎮守であり千年以上の歴史を擁するという松阪神社、もうひとつは本居宣長を祀り受験時期には賑わうという本居宣長ノ宮だ。

最後に御城番屋敷のある通りを歩いて駅に向かう。ここは城を警護する紀州藩士とその家族が暮らしたというところで、石畳の両側に背丈ほどある生垣が連なり、そのまた向こうに大きな武家屋敷が構えている。これが復原ではなく幕末に建てられた本物だというからすごい。一部の屋敷内は公開されているが例によって月曜休館である。

とはいえ通りや建物の佇まいだけでも一見の価値はある。向こうから武士でも歩いてきそうな佇まいだ。ところがそこにウェディングドレス姿の女性が現れたから驚いた。混乱するような不思議な光景になにごとかと思えば、結婚式の前撮り撮影をしているようだった。

御城番屋敷。
御城番屋敷
板張りの蔵。
城周辺には風情ある建物が点在

駅に戻ってきた足で13時3分発の鳥羽行きに乗り込む。列車は2両編成で、各車両に20人くらい乗っていた。空席は十分にあるけど、直前に同じ鳥羽行きの快速が出たばかりであることを考えると、なかなかの繁盛ぶりだ。

普通列車の鳥羽行き 925C。
普通 鳥羽行き 925C

近鉄線と仲良く並んで松阪駅を抜け出すが、2〜3分もすると、そっぽを向くように左右に別れていく。津から並走してきた近鉄線とはこれでお別れだ。

ほどなく車窓には田園風景が広がりはじめ徳和に到着。松阪は大きな街だと思ったけど、列車に揺られるとあっけなく抜けてしまう。

徳和とくわ

  • 所在地 三重県松阪市下村町
  • 開業 1894年(明治27年)12月31日
  • ホーム 2面2線
路線図(徳和)。
徳和駅ホーム。
徳和駅ホーム

新興住宅地と田園がせめぎ合う、松阪市郊外の広々とした地域である。全体的に若々しい町であるが、域内には伊勢街道が通り、古くからの集落や古墳が点在するなど、歴史の香りも漂わせている。駅があるのは街道と線路が交わる地点で、昭和初期の短い期間ではあるが関西急行鉄道とも交わっていた。

若者から中年夫婦に婆さんまで、さまざまな顔ぶれの人たちと降り立った。入れ替わりに大勢の学生が乗り込んでいく。向かいのホームには外国人を含む数人がベンチに並んでいる。大きな住宅地や高校があるだけに繁盛している。

特徴的なのがホームの真上を県道が横切っていることで、交通量が多くて走り抜ける車でやかましい。この道路は昭和初期に開業するも、わずか12年後の太平洋戦争中に不要不急路線として廃止された、関西急行鉄道の路線跡地を利用したものだ。当時は向こうにも徳和駅があったそうだが、長い歳月と道路建設により文字通り跡形もない。

石造りのホーム。
石造りのホーム

ホームを出ると駅舎はないけど駅前広場があった。そこに掲げられた駅名板の文字は、徳和駅の一文字ごとに、駅鈴と文字を組み合わせた凝った意匠で形作られていて、それを木製の看板に取り付けてある。駅鈴は律令時代に駅馬を利用する際に用いられた鈴だが、松阪はこの鈴と縁のある土地で、松阪駅前に巨大な駅鈴のモニュメントがあったことを思い出す。

隣接した土地には地方の小駅では珍しい有料駐輪場がある。木造トタン張りで納屋のような造りだけど、ちらりとのぞくと細長い室内の奥までぎっしり自転車が並んでいて、広がる平野にたくさんの人家があることを物語る。

徳和駅前。
徳和駅前

駅前広場の片隅には古びたトイレがある。コンクリートブロックと木材を組み合わせた、いかにも昭和半ば生まれという佇まいをしている。財産標を確認するとやはり昭和32年と記されていた。開業から百年以上にもなる駅なのに、歴史を感じさせるものは石造りのホームくらいしかないと思いきや、こんなところに半世紀もがんばっている建物が残されていた。

宝塚古墳たからづかこふん

日本各地に数多存在する古墳。この地方にもまたいくつもの古墳が確認されていて、なかでも最大級というのが当地にある宝塚古墳だ。国の史跡にも指定されている。近くには県指定史跡の久保古墳もあるので、両者を合わせて訪ねてみることにした。

まずは駅前を横切る伊勢街道を北に向かう。津からの長い付き合いとなる街道だ。江戸時代には伊勢神宮に向かう主要道として殷賑とした通りだったのだろうけど、いまはどこにでもあるような町中の道という佇まいをしている。

駅前を通る伊勢街道。
駅前を通る伊勢街道

すぐに街道をはなれて西に向かうこと約15分、規則正しく家屋の並ぶ閑静な住宅団地のなかに、緑に包まれた久保古墳が現れた。かつては農地や樹林に囲まれた、のどかなところだったのだろうけど、すっかり住宅に包囲されている。県指定史跡の威光で宅地化の波に耐えたという佇まいをしている。

説明板によると築造は4世紀後半で、直径52.5m、高さ6m、円墳としては県下有数の規模だという。明治45年に盗掘を受けており、その際に日本製と中国製の三角縁神獣鏡が出土、現在は東京の五島美術館に収蔵されているそうである。

墳丘上は神社になっているようで、ふもとに立つ鳥居をくぐり、木立に囲まれた薄暗い石段を上がっていく。しっかりした拝殿があるのだろうと思ったけど、そこにあったのは大小の石祠のみで、こじんまりとした神社であった。人はもちろんのこと鳥や虫の気配もなく、ひたすらに静かなところであった。

久保古墳。
久保古墳

次は宝塚古墳に向かうが、その道のりは車の行き交う騒々しい主要道か、新しい住宅ばかりの脇道という二択でつまらない。おまけに乾燥した空気と高い気温でやたら喉が渇く。それらが相まって2〜3kmのことに5〜6kmくらい歩いたような疲労感を覚えた。

見えてきた宝塚古墳は公園として整備されていて、巨大な墳丘は牧草地の丘を思わせる草地となり、隣接して駐車場や芝生広場まである。牛馬を並べたくなるような草地では、家族連れがくつろぎ、子どもたちが走り回っている。

単体の古墳を思わせる名称だけど、全長111mの1号墳と、90mの2号墳があり、まずは1号墳に上がっていく。この前方後円墳のくびれ部分には、造り出しとよばれる無数の埴輪に囲まれた広場が横付けされていて、墳丘との間は日本初という土橋で結ばれているという。国の史跡に指定されるだけのことはあり、規模も造作も目を見張るものがある。被葬者はいったいどのような人物だったのだろうかと思う。

墳丘上からは伊勢湾まで見えるというが、黄砂のせいか遠景ははっきりせず、伊勢平野を埋め尽くすような住宅の海が広がるばかり。ピラミッドまで押し迫る家並みの写真を目にしたことがあるが、あれを想起させるものがあった。

宝塚古墳上からの眺め。
宝塚古墳上からの眺め

帆立貝式古墳の2号墳にも上がってから駅に向かうが暑さと疲労で足が重くなってきた。苔むした静寂の古道なら疲れも吹き飛ぶところだが、新興住宅地の混み合う道路では滅入るばかりだ。夕方のせいか往路でも多かった交通量がさらに増してきた気がする。

とぼとぼ歩いて駅に着いたのは17時近くであった。これで旅を終えるつもりだったけど、津に向かう上り列車は17時31分までなく、日没までは1時間以上あることから、思いきって逆方向に向かう17時10分発の多気行きに乗り込んだ。

普通列車の多気行き 933D。
普通 多気行き 933D

小さな町しかない隣駅が終点だからか、空気を運んでいるような列車だった。マイクロバスどころかタクシーでも代行できそうな乗車率である。

車窓には久しぶりに緑が流れはじめ、ほどなく櫛田川の長い鉄橋を渡ると、早くも終点の多気に到着する。そのような車窓と空席ばかりの車内とが相まって、ローカル線の風情が漂いはじめた。

多気たき

  • 所在地 三重県多気郡多気町多気
  • 開業 1893年(明治26年)12月31日
  • ホーム 2面4線
路線図(多気)。
多気駅舎。
多気駅舎

紀伊山地の山峡を流れてきた櫛田川が、伊勢平野に流れ込もうとする辺り、山地と平地の分かれ目のような所である。そのような立地から、山間に分け入る紀勢本線と、平野をゆく参宮線の分岐駅になっている。鉄道にとっては要衝であるため、田んぼの目立つ土地とは思えないほど駅の規模は大きく、すべての列車が停車する。

橙色の弱々しい光に照らされたホームに降り立った。乗り合わせたわずかな学生は駅前に待機していた迎えの車で去っていく。早くしないと暮れてしまいそうで気が焦る。

広い構内には4番のりばまで用意されていて、現役のものから錆びたものまで側線も何本か並んでいる。新宮行きと松阪行きの普通列車が発車待ちをしていて、そこに名古屋行きの快速列車が滑り込んでくるなど、列車のエンジン音で賑わしい。

多気駅ホーム。
多気駅ホーム

駅の南側を見やると線路が左右に別れている。左に行くのが参宮線で、右に行くのが紀勢本線だ。路線図では紀勢本線から参宮線が分岐するという形になっているが、先に建設されたのは参宮線のほうであった。

歴史をかいつまむと、1893年(明治26年)に参宮線の前身となる参宮鉄道の路線が開業したことにはじまる。伊勢参詣者の輸送を目的としたもので、区間は津から伊勢神宮を目前にした宮川まで、当駅はその途中駅のひとつであった。

ほどなく国有化や路線延長などが行われたことで、明治時代末期には亀山から鳥羽までを結ぶ参宮線の駅となった。この状態は半世紀ほど続くことになる。

大正時代になると当駅から和歌山を目指す路線の建設がはじまった。少しずつ延伸開業を繰り返して、1959年(昭和34年)に全通すると、亀山から当駅までの区間も含めて紀勢本線となり、紀勢本線から参宮線が分岐するという現在の姿になったのだ。

駅裏手に並ぶ2本の側線。
駅裏に立つ参宮線の0キロポスト

参宮鉄道、参宮線、紀勢本線と所属路線が変わってきた駅であるが、駅名もまた何度か変更されている。開業時は相可町の代表駅として相可を名乗っていたが、建設のはじまった紀勢本線が、より町の中心地に近いところに駅を開設したため、相可は譲って相可口となった。あとはそのままで良さそうなものだけど、紀勢本線の全通時に現在の駅名に改称している。町村合併で相可町から多気町になったことと関係があるのかもしれない。

跨線橋を渡って駅舎に入り、みどりの窓口を横目に駅前に出ると、運転手が乗ったままの車が数台止まっていた。到着した列車から学生を拾うと去っていくが、空いた所にはまた新たな車がやってくる。平日の夕方らしい光景が繰り返されていた。

桜づつみ公園さくらづつみこうえん

ホームの名所案内にはいくつも並んでいて期待させるけど、車で10〜20分というものばかりで役に立たない。そのなかで一乗寺だけは徒歩15分と手頃だけど、アジサイやサツキの名所とあるので時期ではない。いまなら桜だろうということで名所案内のことは忘れて、近くを流れる佐奈川沿いにある桜づつみ公園に向かう。

住宅のなかに商店の点在する駅前通りをゆく。行き交うのは車ばかりで人はほとんど目にしない。いくつも残された廃業した佇まいの建物に繁華な時代が偲ばれる。昔はちょっとした商店街のようになっていたのだろう。

多気駅前通り。
多気駅前通り

日没に急かされながら数分ばかり歩くと佐奈川に出た。すぐ下流で櫛田川に流れ込む小さな支流だ。その堤防にあるのが件の公園で、若々しい桜が並べられ、駐車場や広場が併設されている。松坂城跡がそうだったので予想はしていたが半分くらい散っている。花びらで染められた草地には酒瓶が転がっていた。

夕暮れ時とあって園内には誰もいない。松阪や徳和は立っているだけで喉が渇くような蒸し暑さだったけど、すっかり日は傾いて、川べりということもあり過ごしやすい。

桜づつみ公園の桜。
桜づつみ公園の桜

どこか遠くで寺の鐘が鳴っている。なんとのどかな景色だろうかと思う。ちらりと時計に目をやると18時になろうとしていた。

沈まんとする夕日を追いかけて、古墳のように盛られた小山に上がり、遠く名も知らぬ山並みに消えていく姿を見送る。残光に照らされて名状しがたい色をした空は、しだいに夜空に変わり、地上は蒼暗く染まっていく。今日も終わったなと思う。

桜づつみ公園で迎えた日没。
桜づつみ公園の日没

刻々と暗くなる残照を頼りに駅に急ぐ。目立つのは家々の明かりと車のヘッドライトばかりになってきた。かちゃかちゃいう音に目をやると、畑で爺さんがクワを振っていて、ひとり歩く淋しさのなかにあって、なんともいえない頼もしい音であった。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

18時43分発の亀山行きで津に向かう。各駅に降り立つという旅では普通列車にしか縁がないので、最後くらいは特急か快速にと思ったけど、特急は19時31分までなく、快速に至っては19時50分までない。さすがにそれを待つよりはと馴染みの普通列車に収まった。

この列車は新宮から2時間近くかけて137.7kmも走ってきた長距離鈍行だけど、車内は通勤列車を思わせるロングシートで、旅情とは無縁の車両であった。

普通列車の亀山行き 334C。
普通 亀山行き 334C

ロングシートに並ぶ乗客のひとりとなり揺れに身を任せる。視界にあるのは向かい側の座席でスマホを見つめる人たちと、その背後を流れる街明かりのみ。なんだか通勤列車に揺られているようで、旅を終えたというより仕事を終えたという気分であった。

(2018年4月2日)

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