高山本線 全線全駅完乗の旅 2日目(長森〜蘇原)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2022年6月15日、小雨のぱらつく薄暗い朝だった。テレビすらない岐阜市内の安宿を抜け出し、旅の疲労感をひきずりながら岐阜駅に向かった。

時間が早いためか人影まばらな岐阜駅で、高山本線の始発列車、5時36分発の高山行きに乗り込む。2両編成でどちらの車両にも10人くらい乗っていた。山間に向かうローカル線の始発にしては繁盛していると思ったけど、県庁所在地駅であることを思うと寂しくも映る。ワンマン列車だったので手早く降りられる前より車両に腰を下ろした。

岐阜駅に停車中の高山行き1705C。
普通 高山行き 1705C

定刻通りに岐阜駅を抜け出した列車は、田んぼと住宅の広がる濃尾平野を勢いよく駆け抜けていく。車内はじっと足もとやスマホを見つめる人ばかりで、なんだか人形が並べてあるようだ。エンジン音だけが賑やかに走りまわっている。

揺られること約8分で那加駅に到着。高山本線の旅は序盤なので仕方がないが、乗車時間が短すぎてやや物足りない思いで席を立った。

那加なか

  • 所在地 岐阜県各務原市那加本町
  • 開業 1920年(大正9年)11月1日
  • ホーム 2面2線
路線図(那加駅)。
那加駅舎。
那加駅舎

陸軍の各務原飛行場を抱える軍需で栄えたところで、いまはそれを礎とした航空自衛隊の岐阜基地があり、県下有数の工業地帯にもなっている。当駅の開業当時は那加村であったが、昭和の初めに那加町、昭和の半ばには各務原市となり、広大な宅地と盛んな工業により、県下3位の人口を擁するまでに発展している。

出勤途中と思われる数人の壮年男性と降り立ち、あとを追いかけるように跨線橋に上がり構内を見渡す。上下のホームがあるだけで特筆すべきものは見当たらない。乗ってきた下り列車はすぐに去っていったが、まもなく上り列車もやってくるようで、眺めていると徒歩や送迎の車などで続々と人が集まってくる。

岐阜行きが停車中の那加駅ホーム。
那加駅ホーム

跨線橋を下りて向かった小さな駅舎は、各務原市の中心部が近いという立地からすると、駅員がいても不思議ではないが無人駅であった。それどころか申し訳程度の待合室があるだけで券売機すら置かれていない。狭い室内では旅行にでも行くのか、スーツケースを手にした老夫婦が時刻表を確認しているだけで、他の人たちは素通りにホームに出ていく。

駅舎内に貼り出された、頭上にあるツバメの巣に気をつけるように、とのメッセージ。
駅舎内にツバメの巣

駅前に出るとそこにあるのは商店でも住宅でもなく踏切である。商売敵ともいえる名鉄各務原線が横切っているのだ。そして近くには新那加駅が置かれている。新という文字が示すようにあとから開業したものだが、高山本線が単線非電化なのに、向こうは複線電化で頻繁に電車が行き交っており、当駅が無人駅である理由を見たような気がする。個人商店の前に大型店が進出してきたような趣であった。

手力雄神社てぢからおじんじゃ

那加駅は駅舎のある南側にしか出入口がないので、駅前を横切る名鉄線の踏切を渡り、そこから近くにある別の踏切まで移動、再び名鉄線とさらに高山本線を渡り、駅裏にあたる北側に出た。向かうのは駅から北西に1.5kmほどのところにある手力雄神社だ。織田信長が稲葉山城を攻めるにあたり戦勝祈願をした神社で、攻略後に岐阜城と改名して天下布武の足がかりとした歴史もあって、勝運・開運の神様として知られている。

小雨が降ったり止んだりするのに合わせて、傘を開いたり畳んだりしながら足を進める。沿道には新しい住宅が目立ちあまり面白みはないが、古びた家屋や田畑も散見され、かつては農地を主としたのどかな風景であったことが偲ばれる。

名鉄各務原線の踏切を通過する電車。
名鉄各務原線

交通量が多くてやかましい主要道を避けながら宅地内の細道を歩いていると、正面に鮮やかな朱色の大きな鳥居が見えてきた。神社というと静謐さを期待するけど、ちょうど鳥居の真ん前を県道が横切っているため通勤の車列で騒々しい。加えて住民らしき人たちが賑々しく集まっていて、なにごとだろうかと思ったら分別ゴミの回収日のようだった。なんだか落ち着かないので足早に境内に逃げ込んだ。

朱色をした手力雄神社の大鳥居。
手力雄神社

しとつく薄暗い雨のなかに見えてきた拝殿は、黒ずんだ檜皮葺の屋根を、黒ずんだ木造の柱や壁が支える、直線を主とした端正な顔立ちをしていた。背後には木深い社叢を従え、得も言われぬ壮麗な雰囲気に満ちている。

織田信長はここで稲葉山城攻略の戦勝祈願をしたのだ。成就したのちには東京ドーム276個分にも相当する、1,300町歩という広大な社領に宝物まで寄進したというから、その喜びようが伺える。もっとも説明板に目を通していたら、本殿や拝殿は江戸時代に再建されたと記されており、信長が祈り願った当時の景色とは異なるようである。

手力雄神社の拝殿。
手力雄神社の拝殿

手を合わせてから散策していると、境内史跡めぐりという標識に気がついた。指し示す先には拝殿と隣接する社務所を結ぶ渡り廊下が横切っているが、その下をくぐり抜ける形で、ひとりがやっと通れる程度の小路が設けられている。どうやら拝殿裏手にある史跡への見学路として整備したらしく、看板にも小路にも新しい香りが漂っていた。

これを目にして行かないという手はなく、廊下をくぐり抜けてみると、そこには緑濃い小山を背景に古墳が置かれていた。口を開けた暗い石室を覗き込むと祠が収められている。さらに同じような古墳がもうひとつあり、両者で拝殿の背後にある本殿を両側から挟み込むような配置になっていた。古墳、本殿、古墳という並びは、なにか曰くありげで気になるが、詳しい説明は見つけることができなかった。

拝殿裏手にある古墳の、大きく口を開けた石室。
拝殿裏手の古墳

古墳のほかには秋葉神社や八幡神社といった境内社があり、表からは拝殿に隠れていた本殿も間近に観察できる。ここまで目立った装飾のない社殿だと思っていたけど、本殿の向拝の下にある左右の梁には、それぞれに巻き付くような姿態をした精巧な龍の彫刻が施されている。この龍には毎夜抜け出して付近の畑を荒らしたという伝説があるそうで、そんな話が生まれるのも頷けるような仕上がりであった。

いくつもある境内社をめぐっていると、ぽつりぽつりと参拝者がやってくるほか、掃き清める老人の姿も目にする。いかにも現場に向かってますというトラックがやってきたので、神社でなにか工事でもあるのかなと思いきや、忙しく賽銭を投げて去っていく。眺めるほどに地域の人々から崇拝を集めている神社なのだなと思う。

境内社のひとつ稲荷神社の前に佇む狐の石像。
境内社の稲荷神社

足早に駅にもどり8時44分発の美濃太田行きに乗車。岐阜に通勤通学客を運んできた帰りなのだろう、乗客はまばらなのに4両も連ねていた。さらに当駅で20人くらい降りたものだから、車内は貸し切りかと思うほどの空きようであった。

那加駅に入線してくる普通列車の美濃太田行き 709D。
普通 美濃太田行き 709D

ゆったりと腰を下ろして車掌がくるのを待つが、列車が動きはじめてもまったくやって来なくて気をもむ。那加は無人駅かつ券売機もなく、しかもこの列車はワンマンではないので運賃箱もないため、車掌から切符を購入しなければならないのだ。

そんなことなど知ったことかとばかりに列車は快走して、あっという間に蘇原に到着してしまった。切符を買いたいのにどこにも売ってないのだから仕方がないが、無賃乗車でもしているかのような居心地の悪さを感じながら席を立った。

蘇原そはら

  • 所在地 岐阜県各務原市蘇原瑞雲町
  • 開業 1942年(昭和17年)6月1日
  • ホーム 2面3線
路線図(蘇原駅)。
蘇原駅舎。
蘇原駅舎

高山本線の駅は大半が路線開業時からあるなか、当駅は数少ない追加された駅で、それは線路が敷かれて22年後にもなる1942年(昭和17年)のことであった。駅周辺には数々の軍用機を開発・製造した川崎航空機を前身とする川崎重工などの工場が並び、その向こうには陸軍飛行場を前身とする航空自衛隊の岐阜基地があるなど、太平洋戦争の最中に開設されたことが頷けるような立地にある。

列車を降りて改札前まで来ると無人駅だから困った。切符のない私がここを通ると無賃乗車になってしまう。一緒に降りた5〜6人がICカードですいすい通り抜けていくのを見て、ディーゼルカーの走る地方路線といえども現金を利用する時代ではないのだなと思う。

どうしたものかと立ち止まると列車後方から車掌が小走りにやってきた。そして那加からと告げると駅舎内の運賃表で金額を確認し、それを受け取ると切符を発券するでもなく、また小走りに去っていった。

蘇原駅ホームと停車中の回送列車。
蘇原駅ホーム

払うものを払って落ちついたところで構内を散策してまわる。追加で開設された駅というのは小さなホームをひとつ置いただけという姿が多いのだが、ここは2面のホームに3番のりばまであり、駅裏には貨物側線が並んでいたらしき空き地まである。路線開業時からある長森や那加より規模が大きいのが不思議に映った。

ホームをひと歩きしてから向かった駅舎はまだ新しい小柄な建物で、レンガアーチの眼鏡橋か高架橋を思わせる造形をしていた。高架下にあたる部分が簡素な待合室になっていて、那加と同じく窓口はおろか券売機すらない。室内では先ほど一緒に降りた数人が座っていて、どういう人たちだろうかと思うが、雨を避けて迎えを待っていたようで、ぽつぽつと車に収まり去っていった。

駅裏の貨物側線跡らしき空き地と、その向こうに広がる川崎重工の工場。
駅裏に広がる工場群

雨のしとつく駅前にはあふれるように大量の自転車が並んでいる。駐輪場になっているようだけど屋根もないのでみな雨ざらしである。見まわしても目に映るのは面白みのない住宅と工場ばかりで、長居をしたいとは思えない駅前風景であった。

岐阜基地ぎふきち

駅から南に数百メートルのところに日本最古の飛行場がある。開設されたのは高山本線より先で1917年(大正6年)にまでさかのぼる。飛行場といっても旅客機の発着するいわゆる空港ではなく、当時は各務原陸軍飛行場、現在は航空自衛隊の岐阜基地とよばれる施設だ。高山本線が周辺の関や犬山といった大きな街に向かわず、ここに敷設された一因として、軍の意向によるという話もあるほどの大きな基地である。

この基地を取り囲むかのように、西に戦国時代の城跡である三井山みいやま、南に航空宇宙博物館、東に縄文集落跡の炉畑遺跡と、気になる存在がある。どれかひとつと考えたけど、せっかくなので北にある駅から反時計回りにひとまわりしてみることにした。

まずは三井山を目指して出発すると、駅に隣接する踏切脇に大きな石碑があり、なんだろうかと見上げると蘇原驛開設記念碑と刻まれていた。大きな出来事だったことがうかがえる立派な造りであるが、草木に埋もれてひっそり佇み、それを横目に車がひっきりなしに走り抜ける様は、当時と現在の鉄道の立ち位置をそのまま表しているようであった。

蘇原駅開設記念碑。
蘇原駅開設記念碑

線路沿いの小路や、かつての中山道と思われる大きな道路から、西へ西へと3kmほど進んでいく。その途上に小さな神社があり、ちょうど雨が収まったので、傘を片付けがてら片隅に腰を下ろして朝食用に持ってきたパンをほおばった。

市役所のある各務原市の中心部を過ぎると、川べりに千本以上の桜が並ぶ、花見の名所として知られる新境川に出た。ここまでくると岐阜基地の西端をすぎているので、進路を変えて川沿いに1kmほど南下する。春には花見客で足の踏み場もなくなりそうなところだが、どんよりとした梅雨時とあって誰にも出会わない。車すら通らないので気楽に歩いていると、突然激しい雨粒がこぼれはじめて慌てて傘を取り出した。

線路沿いに咲く紫色のアジサイ。
線路沿いのアジサイ

目指す三井山は目前にどっしりとそびえている。標高わずか109mという低山だが、広く平坦な濃尾平野のなかにあるため、数字から想像する以上の存在感がある。城が築かれていたという話にも納得するものがある。

ふもとまでくると山上に向かう舗装路があったので上がっていくと、中腹にある水道施設で途切れていた。そこからはさらに上に向けて擬木で作られた幅広の階段が伸びている。一見すると単なる公園のようだけど、頂上まで287mと記された小さな標識が立ててあり、登山道で間違いないと安心して階段を上がっていく。

水道施設の上部は大きく開けていて東屋まで用意されていた。各務原市から岐阜市までが広く見渡せる景勝地だ。辺りではヤマボウシが数え切れないほどの白い花を咲かせている。これはいいところだと東屋でひと休みしていると雨が上がった。

傘を片付けて東屋を出ると、樹林のなかをぐねぐねとゆく山道になり、ようやく登山道らしくなってきた。十数万人が暮らす町にいることを忘れてしまいそうなほどの、豊かな自然と静けさに気持ちが安らぐ。

つづら折りに伸びる三井山登山道。
三井山登山道

たどり着いた山頂部には御井神社奥之院の祠が鎮座していて、辺りには展望台を兼ねた立派な東屋のほか、三井山や三井城に関する説明板などがあった。樹林の開けた眺めのいいところにはベンチまで置いてある。市民の憩いの山とでもいった整備のされようで、天気のいい日などは散歩がてら訪れる人も多いのかもしれない。

山頂からは岐阜基地の滑走路が一望でき、飛行機のひとつでも発着しないものかと見つめてみるが、待てど暮らせど静止画を見ているような状態で諦める。東屋からは金華山や岐阜市街を見晴らすことができ、掲示された好天時の写真によると遠く伊吹山に白山までも目にすることができるようだ。

山頂展望台から足もとの各務原市街、そして遠く岐阜市街と金華山を望む。
山頂展望台

山上に築かれていたという三井城は、織田信長の父である織田信秀に攻め落とされて失われているが、三層からなる曲輪の痕跡が草木に埋没しながらも残されていた。それを見学していると登ってきたのとは別な登山道があり、これが車でも走れそうなほど幅広で、真新しい丸太を用いた階段まであるなど、いかにもメインルートという趣がある。同じ道を戻るのも芸がないので下山はこの道からと決めた。

雨滴をまとう葉っぱ。
雨滴をまとう緑

快調に下っていると山腹に風穴のような小さな穴が口を開けていた。古墳時代後期のものという古墳で、かつては数十基もあったという。ここは千年以上の昔から古墳・神社・城・水道施設・登山道と、時代に合わせて人の手が入ってきた山なのだ。

さらにゆくと御井神社の旧社地と記された小さな標識が立っていて、そこから細々とした獣道のようなものが下に伸びている。気になるので行ってみると樹林のなかに社殿の名残りらしき石積みがあり、御井神社と刻まれた小さな石碑がぽつんと座っていた。詳しく探索してみたい気が起きかけたけど、飛び交うヤブ蚊に追い立てられて退散。

薄暗い樹林にある御井神社の旧社地を示す石碑。
御井神社の旧社地

のんびり20分ほどかけてふもとまで下りてくると、どんよりとした緑色の水面が、どんよりとした灰色の空を映す、なにものか潜んでいそうな池があった。傍らに据えられた祠に目をやると河童祠という文字があり、考えることは同じだなと思う。

隣接して小さいながら拝殿や社務所を備えた神社があり、行ってみるとこちらは河童ではなく龍神神社であった。ちょっとした観光地になっているのか、読みきれないほどに多数の歴史や由緒に解説などの記された看板や掲示物がある。それによるとこの池は三井池とよばれ、昭和初期に埋め立てられるまでは現在の約5倍もの面積があったという。きっとそのころは巨大な龍神でも現れそうな佇まいをしていたにちがいない。

どんよりとした水面を見せる三井池。
三井池

境内には赤い帽子を被せてもらった石仏群があるほか、立岩と名付けられた岸壁があり、見上げれば不動明王が祀られている。池が大きかった時代はこの岩の足もとまで水面があり、近隣の子どもたちは岩から飛び込んで遊んでいたという。

知らなかったので適当な道から登ってしまったが、三井山の登山口はここにあり、北ルートと南ルートが左右に伸び、見どころなどを記したコース案内図まで設置されていた。登山者数を数えるためのカウンターが置いてあるのでひとつ進めておく。脇には集計されたデータが掲示されていて、それによると昨年の登山者数は約3.5万人で、1日平均100人近くが登っている。想像をはるかに上回る人気の低山であることに驚いた。

龍神神社境内に立ち並ぶのぼり。
龍神神社境内

三井山から東に2〜3kmほど歩くと、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の大きな建屋が見えてきた。これまでの自然に還ろうとするような渋い城跡や古墳とは対照的な明るく近代的な装いで、広々とした駐車場まで備えた巨大な博物館である。蘇原駅とは基地を挟んで向かい合うような位置なので、これで基地を半周したことになる。

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の正門ゲート。
航空宇宙博物館

構内に足を踏み入れるとチケットも購入していないのに早くも屋外展示場になっていて、屋内に収まらない連中なのだろうか、巨大な輸送機や飛行艇などが中古車販売でもするかのように並べてある。世の中には保存とは名ばかりの朽ちかけた醜い姿を晒しているものが多々あるが、ここは年中紫外線と風雨にさらされているとは思えないほど美しく、保存とはこうあるべきという姿をしている。これだけの巨体をよく維持管理できているなあと展示内容より展示状態に関心してしまった。

平日とあって人も車もまばらだけど、外国人の家族連れが楽しそうに大騒ぎしながら、あっちの機体からこっちの機体へと記念撮影に勤しんでいて賑わしい。じっくり眺める私と同じようなペースで先に進むためいつまでも賑わしい。

屋外に展示された、戦後初の国産旅客機のYS-11。
屋外展示のYS-11

館内はいくつかのエリアに分けられていて、順番に進んでいくと過去から現在、空から宇宙という具合に、航空機の進化の歴史をたどるような構成になっていた。

チケットを手に向かった最初の展示室は、航空機と航空機産業の始まりと題して、ライト兄弟の開発したライトフライヤー号と、大正時代に各務原で生産されたという乙式一型偵察機という、ふたつのクラシカルな複葉機が薄暗いなかで照らし出されていた。どちらもレプリカだけど実寸大なので見ごたえがある。

クラシカルな複葉機の乙式一型偵察機。
乙式一型偵察機

次なる展示室に移ると戦前戦中の航空機開発がテーマになっていて、軍用機を中心とした解説や資料のほか、エンジンや計器盤といった部品から飛行服までが並ぶ。工業製品の展示というとこれでもかと物を並べることに注力しがちだが、開発に携わった土居武夫と堀越二郎という2人の航空技術者にも光を当ててあるのが嬉しい。私は航空機に限らずどんな人がどのように作り上げたのかという見えない部分に強い関心があるのだ。

ふらりと奥に進むと陸軍戦闘機の飛燕が鎮座していて、巨大な生き物を前にしたような、言い知れぬぞくりとした感情を抱いた。蒸気機関車を目にしたときの感覚に似ている。もうひとつ零戦も展示されているがこちらはレプリカで、それがあまりにきれいなのに比べ、飛燕は表面の歪みや傷などが実に生々しい。必死に向き合ったであろう当時の技術者や職人の息づかいが聞こえてくるようで食い入るように見つめてしまった。

地上に置かれた飛燕と、天井から吊り下げられた零戦。
飛燕と零戦

飛燕ですっかり満足したところで次の展示室に向かうと、戦後の航空機開発をテーマに、実に20機もの航空機が並べられていた。もはや展示室というより格納庫と表現したほうがしっくりくる広い空間だ。大富豪のコレクションかと思うような壮観な眺めである。

それぞれの機体には解説も用意されているので、最初はじっくり目を通していたが、あまりに数が多いので頭に収まらなくなってきた。情報量が多すぎて新しい知識を頭に入れると前の知識が押し出されていく感じだ。これには途中で記憶することにさじを投げてしまい、機体を眺めて楽しむことに軸足を移した。

戦後の航空機がずらり20機も並べられた展示室。
並べられた戦後の航空機

ここは航空博物館ではなく航空宇宙博物館なので宇宙に関する展示も充実している。糸川英夫のペンシルロケット、純国産ロケットのH2、国際宇宙ステーションの実験棟きぼう、小惑星探査衛星はやぶさ2、日本の宇宙開発の歴史を俯瞰するような構成になっている。そしてそれをまた俯瞰するようにざっくりと眺めながら足を進めていく。

当日のチケットがあれば再入館できるということなので、いったん退館して併設されたカフェで遅めの昼にする。せっかくだから土地のものにしたいがそういうメニューは乏しい。各務原市といえば各務原キムチが有名であるがキムチ丼は売り切れで、仕方がないので同じ岐阜県という理由で高山ラーメンを注文。

メニューには高山ラーメンのほかに飛騨牛カレーがあったりして、なぜか美濃ではなく飛騨が主力になっている。岐阜の金華山にあるレストランでも高山ラーメンと飛騨牛が並んでいたことを思い出す。美濃にはこれという料理や食材がないのだろうか。

高山ラーメン。
高山ラーメン

空腹を満たしたところで再び入館するが、気がつけば16時が迫っていてあまりゆっくりはしていられない。暗くなる前に次なる目的地の炉畑遺跡に向かわねばならず、もういちど最初から最後までをかけ足でめぐったところで表に出た。

道路を歩きはじめると程なくして足裏が痛くなってきた。軽くしびれる感覚もある。ここ数日は朝から晩まで歩き通しの旅をしていて、いよいよ限界がきたかと思う。指にはマメができたらしき痛み、しかも雨で靴の中までぐしょ濡れでふわけていると思われ、相当ひどい状態であることは想像に難くない。とはいえ手の施しようもないので我慢して進む。

徐々に悪化する足の痛みをこらえながら東へ約2km、岐阜基地の東端を過ぎたところで北に約1km、緑あふれる炉畑遺跡に到着したのは16時半のことだった。

樹間にいくつもの復元された竪穴式住居が並ぶ炉畑遺跡。
炉畑遺跡

炉畑遺跡は約5千年前の縄文集落跡で、発掘調査では10基の竪穴式住居跡が発見されたほか、倉庫と思われる掘立柱建物に石囲炉の跡、それに土器や石器も多数出土したという。いまでは縄文集落を再現した公園として整備されていて、食料となるクリやクルミといった樹林のなかに、復元された竪穴式住居や掘立柱建物が並んでいる。

出土品はよそで展示されているということなので、地面に茅葺屋根を置いただけのような復元された竪穴式住居を見学してまわる。それぞれ内部にも入れるようになっているが、這いつくばらないと入れない小さな出入口と、その先にある何かが潜んでいそうな暗闇に、とても立ち入る気にはなれなかった。

なかには木材を円錐状に組み合わせた骨組みだけの展示もある。骨組みに雨風をしのげるものを被せただけという構造は、現代でいうところのテントのようなものだなと思う。

掘立柱建物の内部から広場を眺める。
掘立柱建物

入場料を払わなくていいのかなと思うような景観であるが、単なる公園なので通路や遊び場として活用されているらしく、縄文人が潜んでいそうな集落のなかを、制服姿の高校生が談笑しながら通り抜け、小学生が賑やかに走りまわって遊んでいる。それはどこかシュールさのある光景であった。

公園をあとにしたら北に1kmほど進み、そこから西に2kmばかり進むと、覚えのある蘇原駅が見えてきた。これでようやく岐阜基地をひとまわりしたことになる。夕方とあって工場帰りと思しき人たちが目立つ。それに混じるようにして黙々と駅を目指していると、なんだか私まで仕事を終えて家路を急いでいるような気分になってきた。

蘇原駅ホームに停車中の、普通列車の岐阜行き 748D。
普通 岐阜行き 748D

岐阜行きはおおよそ30分に1本あるのだが、タイミングが悪くて20分ばかり待たされ、ようやくやってきた17時55分発に乗り込んだ。

(2022年6月15日)

蘇原から富山までの区間は公開未定。

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