牟岐線 全線全駅完乗の旅 12日目(浅川〜海部)

今回の乗車区間を記した地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2020年7月2日、牟岐線の旅もいよいよ最終日である。これで当分徳島を訪れることもないのかなと思うと、嬉しいような寂しいような複雑な気持ちで朝を迎えた。

今宵は夜行バスで徳島を離れるので荷物をまとめて宿を発つ。街路に出るとさわやかな朝日が差しこんでいて眩しい。見上げれば青空が顔を出していた。

余分な荷物をコインロッカーに預けて身軽になってから、乗りなれた車両による、乗りなれた始発列車、徳島5時43分発の海部行きに乗りこむ。乗客には覚えのある顔がちらほら。牟岐線は数えきれないほど利用したことで、旅というより日常の延長になりつつあり、居心地はいいけど熱気や新鮮さは薄れつつある。この路線の旅を終えるには頃合いだなと思う。

日和佐駅で特急むろと2号と交換する、普通列車の海部行き 4523D。
日和佐で特急列車と交換

目的地は終点ひとつ手前の阿波海南で、乗車時間にすると2時間21分という長丁場。まどろむのにちょうどいいけど、次はいつ訪れることができるか分からない路線なので、しっかり車窓を目に焼きつけていく。

牟岐線というのは末端に近づくほど利用者が減っていくのだが、この列車は特別で、ちょうど通学時間に走るため徐々に学生で混んでいく。牟岐からは立ち客も出た。ローカル線が通学利用で維持されていることがよくわかる光景だ。

そうして混雑したまま目的の阿波海南に到着。終点まであとひと駅なので乗り通したい気持ちに駆られながら席を立つ。高校の最寄りでもあるため学生も席を立つ。牟岐から海部にかけての区間はJR四国でも屈指の閑散区間なのだが、通路にできた行列を見ると本当にそうなのかとすら思えてくる。

阿波海南あわかいなん

  • 所在地 徳島県海部郡海陽町四方原
  • 開業 1973年(昭和48年)10月1日
  • ホーム 1面1線
路線図(阿波海南)。
阿波海南駅ホーム。
阿波海南駅ホーム

海辺に広がる平野のなか、その名も四方原という開けた土地に置かれた駅である。周辺は海陽町のなかでも中心的な地域で、公共施設や家屋が田畑と混ざり合うようにゆったり配されている。町の玄関口としては海陽駅を名乗るのがふさわしそうだが、開業当時は海南町の代表駅であった。また海の向こうの和歌山県に海南駅が存在したことから、阿波を冠した阿波海南を名乗っている。

ドアが開くと学生の波に流されるように降り立った。そのまま駅の外まで運ばれそうになったので隅に逃れてやり過ごす。人が多すぎて落ちつかないけど、忙しそうに学生も列車も去っていき、2〜3分もするとホームには私ひとりが残された。

それからゆっくり構内を散策して歩く。駅としてはホームと待合所があるだけの最小規模のものだけど敷地の広さが印象深い。開業の古い駅であれば交換設備や貨物設備などをひっぺがした跡地だろうけど、ここは新しい駅だけに将来ホームや線路を増設できるように土地を確保してあると思われる。もっとも現実的には増設どころか駅が更地になる可能性のほうが高いような赤字区間である。

阿波海南駅のホーム上に置かれた待合所。
ホーム上の待合所

ホームを下りて駅前広場に出ると、こんなに利用者があるのだろうかと思うほど大きな駐輪場のほか、瀟洒な木造平屋建ての建物があった。いかにも私が駅舎ですという顔をしているけど、出入口には阿波海南駅前交流館と記されていた。

観光案内所くらいありそうなので開け放たれたドアから立ち入ると、そのようなものは何もなく広々とした待合室と公衆トイレになっていた。ログハウスを思わせる木材を多用した暖かみのある作りで、地元産の木材を使用しているとある。展示ギャラリーともしてあるけど展示品というほどのものはない。実質的には阿波海南駅前待合室といえそうだ。

阿波海南駅前交流館。
駅前の交流館

駅前には国道が横切っているが、正面にはそれよりずっと広い、大通りともいえそうな道が伸びていた。しかしすぐ先で途切れている。沿道には細かな店舗が並んでいるが、営業しているのか判断に迷うような構えで、全体的にひっそりしている。鉄道開業に合わせて町の玄関口とすべく整備してみたものの、過疎化とモータリゼーションのなか、発展することなく終わったような佇まいである。

大里松原おおさとまつばら

この町の太平洋沿いには大きな弓形を描く海岸がある。幅は200〜300m、延長は約2.5km、ウミガメ産卵地としても知られる広大な浜と、それに寄りそう広大な松林からなる大里松原である。日本の白砂青松百選に徳島県から唯一選ばれ、牟岐線沿線に数多ある浜のなかでも屈指の規模であるなど、当駅で訪ねる名所としては欠かせない存在だ。

海岸に向けては住宅や個人商店の散らばる平野をゆく。約1.5kmの道のりだ。ご多分に漏れず商店は閉めたものや閑古鳥の鳴くものが目立つ。往来もほとんどないので郊外の閑静な住宅地を歩いている気分になる。

駅近くの街角。
駅近くの街角

行く手に壁のように立ち広がる松林が見えてきた。向こう側が見通せないほど厚みのある松林だ。植えられた大小の松は案内板によると約12万本で県下一の松原とのこと。なかには植林されたばかりの幼木もあり、長い歳月をかけて育て上げてきたものだと分かる。これはまさに町を風や潮から守る人工の壁といえよう。

松林のなかを縦横に伸びる小路に手近な入口から足を踏みいれる。木陰がたっぷりあるのはもちろん柔らかな潮風が吹いていて涼しい。町中は日陰が乏しいうえ風がなく、アスファルトの照り返しも加わり、じりじり焼かれるように暑かったことを思うと別天地だ。町に隣接していて、散歩やウォーキングでもするのに良さそうだけど、誰ひとり出会わない。

大里松原の松林。
大里松原の松林

視界が大きく開けると広漠とした砂浜と海原が広がった。視界いっぱいをこえて視界に収まりきらないほど広い。もはや遮るものはなにもなく暴れるような強風が吹きつけてくる。松林がいかに風を抑えこんでいたかが分かる。聞こえてくるのはそのような波の音ばかり。見わたす限り誰もいない。町に接しているとは思えない雄大な眺めだ。

遠目には滑らかで歩きやすそうな浜であるが、砂利や小石がほとんどで起伏もあるため、足を取られながら波打ち際まで下りていく。そこには活き活きとした波が打ちよせていて、巻きこまれた砂利がぶつかり合い、からから軽快な音色を奏でていた。目の前に広がるのは深く澄んだ紺碧の海で、美しさと同時に引きずりこまれそうな怖さも感じた。

これほど広大な浜はいかにして尽きるのだろう。それを間近に見たいと思い、ひたすら東に歩いていくと、ふいと崖や岩礁からなる岩の世界に変わってしまった。地形的にそうなるのだろうけど突然の終わり方である。相変わらず誰にも出会わないが、はるかに広がる海岸線を見通すように、法界万霊供養と刻まれた石仏が立っていた。

大里松原の海岸。
大里松原の海岸

駅に戻ると15分ほどで海部行きがやってきた。思いのほか乗車率がよくて10人くらい乗っていた。いかにも地元利用者という老人から、スーツケースを傍らに置いた女性、カメラを手にした鉄道ファンの姿などがある。

11時37分、発車すると間もなく海部川を渡る。流域は人影まばらな自然に包まれ、ダムのような大規模開発からも逃れ、いまでは日本屈指の水質として知られる河川である。考えようによっては開発する価値に乏しく、過疎化が著しい土地ともいえるのだが、なんにせよ手つかずの自然をよく残した清流である。

海部行き 4533D の車窓から海部川を眺める。
海部川を渡る

そこから短いトンネルをひとつ抜けたら海部駅である。牟岐線の旅ではこれが最後の未乗区間なのだが、乗車時間が短すぎて、全区間に乗車したという感慨にひたる暇はなかった。車内は冷房がよく効いて快適なのだが、汗がひく間もなく席を立った。

海部かいふ

  • 所在地 徳島県海部郡海陽町奥浦
  • 開業 1973年(昭和48年)10月1日
  • ホーム 2面2線
路線図(海部)。
高架上にある海部駅

徳島から南下すること79.3km、高知県を目前にした牟岐線の終着駅である。駅前から漁港にかけては旧海部町の中心市街で、家屋や小学校などがひしめき、それを見下ろす小山には城趾があるなど、歴史ある漁師町の香りを漂わせている。開業当時は海部町の代表駅であったが、平成の大合併を経て、現在は海陽町に数ある駅のひとつとなっている。

列車は終点なので好むと好まざるとにかかわらず乗客全員が降り立つ。そのうち約半分は駅を去っていくが、もう半分は向かい側のホームに移動していく。まもなく阿佐海岸鉄道の列車がやってくるのだ。当駅は牟岐線としては終点だが、第三セクターの阿佐海岸鉄道の起点でもあり、線路はさらに南下しているのである。

高架上には牟岐線と阿佐海岸鉄道のホームがある。
左が牟岐線、右が阿佐海岸鉄道

特徴的なのは駅が高架上にあることで、かつては四国唯一の高架駅であった。牟岐線は明治から昭和後期まで長い時間をかけて延伸していったので、徳島周辺のレンガ造りからはじまり、末端にいくほど近代的なコンクリート造りになっていく。この駅を見ていると終点の地でそれが最高潮に達したという感じがする。

阿佐海岸鉄道の駅であることや高架駅であることなどで、全体的にこれまでの駅とは造作が異なるのだが、なかでも珍しいのが徳島側に口を開けたトンネルである。トンネルといえば山にあるのが普通だが、ここは山がないのにトンネルがあるのだ。かといって道路や建物の下をくぐり抜ける訳でもない。無意味にトンネルだけが置いてある。まるで鉄道模型の世界だ。ではこれは何なのかといえば、当初は山があったが宅地造成で切り崩され、トンネルだけが残されたというものである。

徳島側に口を開ける山のないトンネル。
徳島方に口を開ける山のないトンネル

ひと通りホームを散策したら地上に向かう。エレベーターもエスカレーターもないため、老人の利用を阻むかのような長い階段で下りていく。そして無人駅で駅舎もないのでそのまま道路に出てしまう。近代的な装いはしていてもやはりローカル線の末端だなと思う。

昭和も後期になってから市街地の片隅に開業した駅のため、駅前にあるのは古くからの商店街や家並みではなく、現代的な住宅や飲食店に空き地である。阿波海南と同じで鉄道開業に合わせて土地を造成してみたけど、思うように発展しなかった感のある景色である。

愛宕山あたごやま

駅前の観光案内図に尋ねると、周辺には寺社や城趾が散らばり、河川にはホタルや天然記念物のオオウナギが生息し、山には遊歩道が設けられ、海では釣りやサーフィンが楽しめるなど、歴史と自然が売りの町だと教えてくれる。しかしそれよりこの港町に興味があるため、市中を散策してから、隣接する愛宕山からその全景を見渡す計画を立てた。

まずは漁港に向かいながら狭い通りや路地に入りこんでいく。押し込むように並べられた家屋は新旧様々な表情をしていて、なかには上下に開く雨戸が特徴的なミセ造りといわれる伝統的な造りをしたものまである。ほとんどは住宅ながら商店の面影を残したものも多くあり、書店や洋服店など残された看板にかつての活気が偲ばれる。そんな家並みに埋もれるようにして寺や神社も点在していた。

鞆奥漁港と背後にある愛宕山。
鞆奥漁港と愛宕山

袋小路のような街なので車にはほとんど遭遇しない。平日日中ということもあってか、たまに歩いているのも老人ばかりだ。そんななか自転車に乗った少年が通りかかり、元気よく挨拶して去っていった。若者の姿があるとそれだけで景色が明るく映る。

漁港近くでは細かな文字の刻まれた巨岩に出会う。石碑としては驚くほどの大きさだ。しかも岩肌にめり込むようにして大きな祠が併設されている。見るからに曰くのありそうな代物である。幸い説明板があったので目を通すと、江戸時代に発生した地震津波被害を後世に伝えるため、被災状況や教訓などを刻んだものであった。地震の文字がある石碑としては四国最古のものでもあるという。来たるべき南海トラフ地震に備えてだろう、高台への避難階段といったものも整備されていて、古来より津波と向き合ってきた土地であることを感じる。

鞆浦大岩慶長碑と宝永碑。
津波被害を伝える大岩の碑

街角でいかにも大衆食堂という佇まいの店を見つけた。どこか雑然とした飾り気のなさが実にいい。ちょうど腹も減ってきたところで、迷うことなくのれんをくぐった。

そこにはまず手書きのメニュー表が据えてあり、揚げ物から煮物まで豊富に並んでいる。単品かと思いきやいずれも定食だという。今更ながら定食屋らしいことに気がつく。こじんまりした店内には通路を挟んでテーブル席とカウンター席がいくつかあり、なにを食べようかと思い巡らせながらカウンター席に腰を落ちつけた。

迷いながらも港町ということでさしみ定食を注文。目の前で素早く仕上げられたそれは新鮮な刺身はもちろんのこと、甘辛い鯖の煮つけや味噌汁が暑いなか歩いてきた体には染みるようにうまい。ぽつぽつやってくる常連客と板前の世間話に耳を傾けながら食べるこの満足感は、どんな高級店でも得ることはできないだろう。気分がよくなり思わずハイボールまで注文しそうになったけど、後のことを考えて思いとどまる。

昼ごはんの「さしみ定食」
昼食の「さしみ定食」

腹が満たされたところで愛宕山に向かう。標高は百メートルに満たないが、街から海まで一望できそうな立地にある。地図によると山上には神社があり歩道が通じている。駅前の案内板によるとそれは遊歩道であり、四国のみち(四国自然歩道)のコースにもなっている。眺望を楽しみながら悠々と歩けそうな山である。

漁港を過ぎて家並みも途切れると、左手からは澄みきった海原が、右手からは緑に包まれた愛宕山が迫ってきた。海の美しさは特筆すべきものがあり、透明度が高くて海底まで見通せるものだから、深いのか浅いのかよく分からなくなってくる。瑞々しく揺れる水面もあって渓流のような清涼感だった。

透き通るような海。
透き通るような海

愛宕山のふもとまでくると遊歩道の入口があり、徐々に遠ざかる波音を背に、樹林のなか黙々と登っていく。コンクリートで幅広く舗装されて擬木の手すりまであるなど予算のかけられた道である。歩きやすいけど高温多湿と連続する坂道に汗がしたたり蚊がたかってくる。低山は涼しい季節にくるのが正解だなと思う。

いつしか舗装はなくなり山道らしくなってきたころ、カラカラと威嚇するような音に、ぎくりと足が止まり嫌な汗が浮かぶ。視線だけを慌ただしく動かして足下を探るとやはりいた、紛れもなくマムシだ。頭を上げてこちらを睨んでいる。気づかず足を踏み出していたら病院送りになっていたところだ。ちょうど道幅の広い所だったので、ゆっくり後ずさりして気持ちを落ちつかせてから、大きく迂回するようにして先に進む。

愛宕山遊歩道。
愛宕山遊歩道

道のり半ばに手倉展望台と記された脇道があり、予定にはなかったけど150mという近さにつられて寄り道してみた。するとこれが廃道のような状況で、枝葉や小石の積もる路面に足を取られながらいくつも倒木をまたぎ、最後は腰まである雑草をかき分けながら進む。見通しの悪さにマムシを踏みつけるのではないかと気が気でない。

そうしてたどり着いた展望台は、東屋やベンチなどが取り揃えられていたけど、全体に雑草に埋もれたうえ木々に囲まれて展望はなかった。整備された当初は海から街までぐるりと見渡せたのだろうけど、いまは微かににそれらが見えるのみである。

再び山頂を目指していると沿道に石仏が点在しはじめた。風化具合からして相当古くに並べられたものだろう。それぞれ二十四番、二十五番、二十六番と刻まれていることから、ちょっとした四国八十八箇所になっていることは想像がつく。

愛宕山遊歩道に並ぶ石仏。
山中に点在する石仏

蒸し暑さと流れる汗に辟易としながら山頂近くまでくると、先ほどの展望なき展望台にあったのとよく似た東屋があった。幸い眺望までは似てなくて海原が広がる。海辺だけに標高から想像するより高くて見晴らしがいい。開けているだけに風通しもよくて気持ちいい。樹林の中だけで終わったらどうしようかと思いはじめていただけに、街は見えないけど海だけでも眺めることができてほっとした。

目の前には小さな島が浮かんでいる。地図によると小島という名前らしい。遠く沖合には大きな島も浮かんでいる。地図によると大島という名前らしい。

そうしてしばらく休んで汗が引いたところで立ち上がり、登ってきたのとは反対側に下りていく。自然歩道だけあって山を通り抜けるように道が整備されているのだ。しばらくすると那佐展望台なるものがあり、そこからは那佐湾という美しい湾を目にすることができた。

愛宕山休憩所から眺める太平洋。
愛宕山休憩所

ここにきて急速に雲が広がり薄暗くなりはじめた。低山とはいっても山中の暗さはなんともいえない心細さを連れてくる。もう夕方だし駅に向かう頃合いかなと思う。ちょうど町に向かう脇道があったので、マムシに気をつけながら下っていく。観光客の押し寄せるようなものはないけど、歩くほどに味の出てくるいい土地であった。

阿佐海岸鉄道あさかいがんてつどう

海部駅は牟岐線の終点であると同時に阿佐海岸鉄道の起点でもある。海部から甲浦までわずか3駅で、8.5kmしかない小さな鉄道だ。そのようなものが都市部や工業地域ならともかく自然豊かで人口希薄な四国のはずれにあるのだから、どうしてここにあるのか開業の経緯を知らなければとても不思議な存在に映ることだろう。

その歴史は牟岐から室戸を経由して後免に至る、全長113kmの阿佐線として着工されたことにはじまる。まずは1973年(昭和48年)に牟岐から海部までが牟岐線の一部として開業。さらに海部から先も建設が進められたが、開業しても赤字必至であることや国鉄の経営悪化もあり工事は凍結されてしまう。しかし鉄道を諦めきれない県や沿線自治体が出資、ほぼ完成していた海部から甲浦までの区間を開業させたのである。

海部駅前に立つ阿佐海岸鉄道の開通記念碑。
海部駅前の開通記念碑

ひとつの路線となるはずが、牟岐線と阿佐海岸鉄道に分断された格好だけに、両者はレールが繋がり、列車が相互に乗り入れていた時代もあるなど密接な関係にある。そのように牟岐線と縁があることや、17時とはいえ日の長い季節だけにまだまだ明るいこともあり、徳島から続いてきた鉄路の尽きる甲浦まで往復してくることにした。

駅前にある阿佐海岸鉄道の開通記念碑を横目に、階段を上がりホームまでくると、1番のりばには牟岐線の列車が止まっていた。疲れてきたこともあり、これに乗れば旅を終えられるかと思うと多少惹かれるものがあったけど、2番のりばに向かい阿佐海岸鉄道の列車を待つ。

まもなく甲浦方面から当駅止まりの列車がやってきた。これが折り返し17時14分発の甲浦行きになる。乗車したのは私を含めて4人だけという寂しさだった。

阿佐海岸鉄道の甲浦行き 5547D。
普通 甲浦行き 5547D(左)

空席ばかりの閑散とした車内だけど華やかさがある。天井が藤棚さながらにヒマワリの造花で飾り立てられて、そこからたくさんの風鈴が下げられているのだ。さらに山側の窓にはすだれが掛けられ短冊やヒマワリで彩られている。ゆったりした座席や大きな窓も相まって、さながら日本の夏をテーマにした観光列車の趣である。

装飾は季節に合わせて鯉のぼりやてるてる坊主などに変更されるという。こういう遊び心はJRではなかなか見られないことで、小規模な第三セクター鉄道ならではの車内風景といえよう。

車内には風鈴が飾り付けられている。
車内には数多くの風鈴

発車した列車はすぐトンネルに入るが、それを抜けると美しい海岸沿いをゆく。自ずと視線は車窓に釘付けだ。牟岐線は阿波室戸シーサイドラインの愛称とは裏腹に、行けども行けども海を見せてくれなかったが、こちらは出し惜しみすることなく初っ端から海岸鉄道の名に恥じない景色を提供してくれる。

それだけに残念なのがトンネルの多さで、出たり入ったりを繰り返し、せっかくの眺望を長くは楽しませてくれない。建設されたのが古い時代であれば右へ左へ山肌に沿うように進むのだろうけど、ここは1970年代に着工された新しい路線なので、山があれば遠慮なく突き抜けていく。明るくなったり暗くなったり目まぐるしい。

トンネルの間に間に美しい景色が流れる。
トンネルの間に間に美しい景色

いつしか線路は海岸線から遠ざかり、唯一の途中駅である宍喰を経て、長めのトンネルをひとつ抜けたら早くも終点の甲浦である。わずか11分の旅路であった。

ホームには親子連れの姿があった。折返しの海部行きに乗るのだろうと思っていると、ほどなくして立ち去っていった。どうやら列車を見学にきていたらしい。そしてそのまま誰も乗ることなく列車は引き返していった。

目の前で線路は途切れている。その先には田んぼと山があるのみ。開業の経緯を知らなければどうしてここを目指して線路を敷いたのかと思うような立地である。鉄路の果てや終着駅という響きからくる情緒より、虫取りをする子どもでも現れそうなのどかさが漂う。

甲浦駅で途絶える線路。
甲浦で途絶える線路

周辺を30分ほど散策してからホームに戻ると、待つほどもなく先ほど見送ったばかりの列車が帰ってきた。都会であれば混雑を極める時間帯だというのに乗客は私ひとりだけ。空いているのは快適で嬉しいことだけど、毎日のようにこんな調子で行ったり来たりしているのかと思うと、暗たんたるものも感じずにはいられなかった。

エピローグ

路線図(エピローグ)。

阿佐海岸鉄道の列車に揺られて海部に戻ってくると、すでに徳島行きの列車が停車していたので忙しく乗り継ぐ。乗り慣れたいつもの車両だったけど、12日間に及んだ旅を締めくくる車両かと思うと感慨深いものがある。

左側に徳島行き 4580D、右側に宍喰行き 5751D。
普通 徳島行き 4580D(左)

18時27分、定刻通り列車は動きはじめた。達成感、充足感、疲労感、様々な感情が入り混じるように去来する。次はいつ訪れることができるか分からないので、沿線風景をしっかり目に焼きつけていこうと車窓を見つめる。

そうして穏やかに旅を終えるはずだったが、梅雨時とは思えない強い日差しで赤々と焼けた肌がうずき、それは車窓どころではないほど酷くなってきた。冷やしたいのだが車内ではそれは無理な相談で、ひたすら肌の熱と痛みに耐えたことばかりが印象に残った。

(2020年7月2日)

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