目次
プロローグ
2019年4月4日、徳島市内の宿で朝を迎えた。おもむろに時計を確認すると5時を回っていて飛び起きた。5時44分発の始発に乗車予定だったのだ。急いで支度に取りかかるが、どう考えても間に合わない状況に動作は鈍くなり、最後は腰を据えての朝食となった。
のんびり宿を出ると、頭上には雲ひとつない青空が広がり、橙色をした朝日が街並みを照らしていた。なんて気持ちのいい朝だろうと思ったのも束の間、気温は低く、音を立てて吹き抜ける寒風に身が縮こまる。
寒さから逃れるように足早に徳島駅までやってくると、既に入線していた6時47分発の海部行きに乗り込んだ。時間的に通勤通学で混雑することが予想され、だからこそ始発に乗りたかったのだが、意外なことに空席すら見られる。暖房の効いた車内に腰を下ろすと、あまりの快適さに、このまま終点まで乗り通したい気分になってきた。
徳島駅を抜け出した列車は、広々とした平野を快調に南下してゆく。さえぎる物のない車窓からは眩しい朝日が差し込み、ブラインドを下げればもちろんのこと、上げても景色を楽しむどころではない。
行き違う列車は徳島への通勤通学客で通路までぎっしりである。唯一の例外は特急列車で、車内は見るも無残なほどに空いていた。各車両に数人といった程度でしかない。前回ダイヤ改正まで4往復もあったものが1往復に減らされてこれなのだ、そう遠くない日に特急全廃もあるかもしれないと思った。
こちらはといえば駅ごとに数人の乗車があり、少しずつ混みはじめるのだが、高校の近い駅でまとまって減るため酷いことにはならない。じわり増えてごっそり減るのパターンが、目指す見能林駅まで繰り返されていた。
見能林
- 所在地 徳島県阿南市見能林町
- 開業 1936年(昭和11年)3月27日
- ホーム 1面1線
徳島から続いてきた平野の広がる景色、それがいよいよ終わりを告げようかという、那賀川平野の南端近くに位置する駅。周辺には里らしい穏やかな海・山・平野が取り揃えられ、牟岐線ではおなじみの面子が勢揃いといった様子。現在は阿南市見能林町となっているが、開業当時この辺りは見能林村であった。
列車が停車すると車内を占めていた高校生が列をなして降りていく。ざっと20〜30人くらいだろうか。その人波に流されるようにして降り立つ。歓談する声・列車のエンジン音・忙しそうな車掌、目にも耳にも賑わしいが数分もすると静寂に包まれた。
構内はホームが1面に線路が1本あるだけで駅舎はない。線路の向こうには草むした農地と緑あふれる山がある。大柄な待合所だけが利用者の多さを匂わせるが、静かで人気のないホームは日当たり良好で暖かく、眠気を催すようなのどかさを漂わせている。
ここはJR四国の駅としては最東端に位置しているのだが、それを示すような標識や標柱の類はなにもない。日本最東端ならともかく四国最東端では仕方がないところか。
先ほどの喧騒が夢か幻のようだと思っていると、徳島行きの上り列車が到着、再び20〜30人の高校生が降りてきた。それが去るとすぐに下り列車が到着、またまた高校生が降りてくるのだが、よくこれだけ詰め込めたと思うほど延々降りてくる。100人くらい居たのではないだろうか。牟岐線の阿南から海部にかけては、JR四国でも屈指の赤字区間と聞いていたが、とてもそうとは思えない光景が繰り返されている。
ホームを降りると駅舎がありましたと言いたげな空地がある。折よく通りかかった爺さんに尋ねるとやはり昔は小さな駅舎があったとのこと。他にも待合所のすぐ後ろに貨物扱いのための建物があったそうで、見れば確かに何かあったらしき基礎が残されていた。
また自家用車どころか自転車がようやく一家に一台という時代には、自身も含めて大勢の生活利用者があり、この辺りの人は誰もが世話になった駅だという。駅前には商店があるなど賑わいがあり、村の中心部に向けては、桜の木がぽんぽんと並ぶのどかな道が伸びていたということだ。商店も賑わいもさっぱり消えてしまっているが、そんな話を耳に眺めていると、昔日の情景が浮かんでくるようだった。
北の脇海岸
駅から数分も歩くと広大な田園地帯に飛び出した。水が張られたばかりの田んぼでは、代掻きのトラクターが気勢を上げている。日差しをさえぎるものは電柱くらいしかなく、鏡のような水田からの照り返しもあり目に眩しい。
この先に待ち受けているのは、紀伊水道に面する白砂青松の海岸、日本の渚百選にも選ばれた北の脇海岸である。春から秋にかけては地引網体験ができ、夏ともなれば県下有数の海水浴場として知られる北の脇海水浴場が開設される。名称案内板に記されるべき海岸なのだが、駅には名所案内板自体がなかった。
足を進めるほどに田んぼが住宅に変わっていく。その中には民宿がいくつも混ざっていて海水浴場が近いことを匂わせる。海で民宿を見ると海水浴場を連想し、山で民宿を見るとスキー場を連想してしまう。もっともこの季節では用務客くらいしかないようで、わずかに社用車らしき車が止められているのみである。
宅地を抜けると松林や駐車場が現れはじめた。どこを見ても閑古鳥が鳴いているが、夏になれば活況を呈するに違いない。泳ぐわけではないので静かな春に訪れたのは正解だ。などと考えていると、松林だというのに花粉が飛び交っているらしく鼻がむずむずしはじめた。どうやら本当の正解は秋なのかもしれない。
駅から30分ほどかけて北の脇海岸に到着。視界いっぱいに砂浜が広がり、和歌山に向けて広大な紀伊水道が横たわっている。沖合に浮かぶ漁船を見つめていると、はるか彼方に紀伊半島らしき山並みがあることに気がついた。右手には四国本土から角のように飛び出した半島が横たわっている。あの向こうはもう太平洋だ。
休憩がてら日当たりのよい護岸のコンクリートに腰を下ろす。広々とした砂浜には散歩をするおじさんと、波とたわむれる親子連れがいるのみ。
さらさらの砂を踏みしめながら波打ち際まで下りていく。砂浜というから行ってみると、敷いてあるのは砂利ばかりということが間々あるのだが、ここは名実ともに砂浜で嬉しいものがある。しかしさっそく靴の中に砂が侵入してきて少々不快でもある。
とぼとぼ退屈そうに歩く猫がいるので、遊んであげようかと近づくと、飛び上がるようにして素早く去っていく。どうやら野良猫のようである。行方を追うと護岸のコンクリートに空いた穴に飛び込み、暗闇で目を光らせていた。
湿り気を帯びて歩きやすい波打ち際をたどっていく。海は穏やかに凪いでいて波が静かに寄せてくる。いつしか砂浜は磯釣りでもしたら良さそうな岩場に変わった。それでもなお岩から岩へと伝うように進んでいくが、もはや北の脇海岸ではないような気がするので、程々のところで引き返した。
気がつけば列車時刻が迫っていて、足早に汗を浮かべながら駅に向かう。これまでの徳島から阿南までの区間であれば、30分もすれば次の列車があったので気楽だったが、これからの阿南から先の区間は、2時間待ちもざらなので気が焦る。
焼き鳥店の香りに負けそうになりながらも、足を止めることなく駅まで戻ってくると、わずか数分で列車が現れた。10時28分発の海部行きだ。次は12時28分までないのだから、間一髪である。誘惑に負けていたら焼き鳥を手に呆然と見送ることになったかもしれない。
余白の多い時刻表から想像するに利用者は少なそうであるが、老人や子供など数人と乗り込むと、空席が見当たらないほどに混雑していた。午前中遅くに都市部を抜け出すとは、どこに何をしに行く人たちなのだろうかと不思議に思う。
すぐ降りるので運転席の後ろに立っていく。車窓はこれまでと大差なく、田園地帯の中に住宅をぶちまけたような景色が続き、2〜3分もするともう駅が見えてきた。
阿波橘
- 所在地 徳島県阿南市津乃峰町
- 開業 1936年(昭和11年)3月27日
- ホーム 1面1線
風光明媚な海・山・島への玄関口である。前方には阿波の松島とも称される橘湾が広がり、後方には阿波三峰のひとつ、観光用の道路やリフトの整備された津乃峰山がそびえている。沖合に目を向ければ豊かな自然を残す四国最東端の島、伊島が浮かび、近くの港から連絡船で結ばれている。
列車を降りた視界には、開業時から立ち続けているという佇まいをした、木造上屋と木造駅舎が飛び込んできた。ホームには数人の乗降客の姿があり、周辺には住宅や畑に満開の桜などが雑多に並んでいる。それらが暖かな日差しに照らされた様子に、いい駅だなと思った。
構内は1面1線と簡素なものだが、駅舎との間には撤去された下り線の跡が残され、元々は島式ホームの交換可能駅だったことが分かる。線路が剥がされて久しいらしく、跡地は完膚なきまで雑草に侵食され、プランターやドラム缶などが転がっている。
有人駅を思わせる立派な構えをした駅舎に入ると、窓口はカーテンで閉ざされ、切符は車内でお求め下さいの貼り紙がしてある。
それでも地域の方が管理しているのだろうか、壁や天井は眩しいほど白く、ベンチには座布団が並べられ、窓口跡には生花が置いてある。無人駅ではおなじみの薄汚れた壁やクモの巣などは見られず、きれいな状態が保たれているので居心地が良い。委託駅員が昼休みで留守にしているだけではないのかと思えるような雰囲気だ。
駅正面ではなく斜めに伸びた駅前通りは、すぐまた斜め左右に分かれ、その先でもまた分かれている。沿道には建物がぎっしり詰まり、営業しているものは少ないが商店の構えを残しているものは多い。遠くまで見通せないこういう通りは、進むほどに新しい景色が展開するので意味もなく歩くだけで楽しめる。
そんな中で見つけたラーメン店で早めの昼食を取った。駅が無人化されるような町では、見つけしだい食べないと飯抜きの憂き目に合うのである。
津乃峰山
駅に隣接する踏切を渡ると朱色の鳥居をくぐり抜ける。向かうは駅の裏手にそびえる津乃峰山で、鳥居は山頂にある津峯神社のものである。つまり登山道は参道でもあるのだ。千年以上の昔に創建されたというから、参道を登山道として利用させてもらうと表現すべきか。
この山は近隣にある日峰山・中津峰山と合わせて阿波三峰と呼ばれている。海上からは相互の位置関係を見ることで現在位置を知ることができるため、航海の目印として活用されてきたという。夜間も常夜灯によってその役目を果たす灯台のような山なのだ。それだけに津峯神社は海上交通の守護神として古来信仰を集めてきたという。海から山がよく見えるということは逆もまた真なりで、歴史と眺望を兼ね備えた登山には魅力的な山である。
室戸阿南海岸国定公園の文字を横目に、住宅や田畑を縫うように歩いていく。なんてことのない狭い通りであるが、津峰道と刻まれた道標が古くからの参道であることを匂わせる。
集落を抜けると薄暗い樹林の中に吸い込まれていく。車でも走れる道だけに林道に迷いこんだ気分になる。登山口や参道の標識がなければ不安になるところだ。
間もなく満開の桜が連なる明るく華やかな所に出た。頭上には青空が広がり、桜並木の向こうには複雑な形をした橘湾が見え隠れしている。先ほどまでの獣が飛び出してきそうな雰囲気はどこへやら、公園の散策路のような雰囲気である。
駅を出てから誰にも出会わなかったが、ここにきて登山なのか参拝なのか花見なのか、単独からグループまで人が行き交いはじめた。追い抜いたりすれちがったりを繰り返す。色鮮やかな登山用品に身を包んだ人から、普段着に木の杖をついた人まで格好は様々だが、年齢層だけは老人で統一されていた。
今朝の寒さはどこへやら、直射日光と照り返しの坂道に汗がにじみ喉が渇く。自販機があれば買っていくつもりが、見つからないままこんな所まで来てしまった。戻る気にはならず我慢するしかないかと考えていると、ちょろちょろ流れ出る水に飲料水の看板が立ててある。渡りに船とはこのことで、ありがたく水分を補給していく。
このまま山頂まで車道が続くかに思えてきたが、それは唐突に終わりを告げ、木々の茂る涼しげな歩道に変わった。ざわざわ音を立てながら冷たい風が吹き抜け、気温の高さと相殺されて暑からず寒からずでちょうどいい。近くには展望台が整備されていて、木漏れ日のベンチでは爺さんと孫らしき女の子が弁当を開いていた。
まもなく表参道と裏参道の分岐があり、どちらに行くべきか迷って立ち止まる。見たところ表は石段などで整備されていて参道らしさがあり、裏は自然そのままなといった感じで登山道らしさがある。標識に記された頂上までの距離は大差ない。どちらも歩いてみたいので、最終的には表から登って裏から下ることにした。
荒削りな石を並べた石段と木の根が絡み合う、いかにも古の参道という道を登っていく。沿道には古びた石仏や丁石が点在し、江戸時代の元号が読み取れるものから、もはや何が刻まれているのか分からないほど風化したものまである。
駅から1時間半ほど経過したころ、雑木林の中を右へ左へと登っていると、唐突に古びた木造家屋が並ぶ中に出た。昭和の半ばから時が止まったかのような佇まいをしている。なぜこんな所にと思うが、ペンキで記された文字によると茶店や土産物店らしい。休業しているのか廃業しているのか、いずれも雨戸やシャッターで固く閉ざされている。
隣接して中腹から伸びてきた観光リフトがあり、ひとりがけの座席が上へ下へと空気を運んでいる。きっぷ売り場にも人の気配はなく、スピーカーからは誰に聞かせるでもなく観光案内が流れている。突然人だけが消えてしまったかのようである。
どこを見ても閑散としているが、山上の土産物店や観光リフトのみならず、中腹までは有料道路の津峯スカイラインが通じており、かつては国民宿舎まであったというから、賑やかな時代もあったのだろう。
リフトや店舗より一段高い所に津峯神社は鎮座していた。桜で彩られた明るい境内に進むと大きな拝殿があり、華やかさと厳かさを漂わせている。見上げれば青空の中に桜まつりの提灯が並び、足下には奉納相撲があるのか土俵が置かれ、そして社務所に目をやれば宮司さんの姿がある。静かな神社であるが時期がくれば参拝者でひしめきそうな気配がある。
山頂らしさはないが、津乃峰山の標高である284mと記された標柱が立っているので、山頂で間違いない。平坦な山頂部であるが中でも拝殿付近がもっとも高そうなので、参拝することで自動的に登頂となる感じである。
境内の片隅には大きな常夜灯が立っている。航海の目印にしたという明かりに違いない。神社の常夜灯といえば古風な石灯籠を連想するが、これは火の見櫓を思わせる鉄塔で、先端に照明が取り付けられている。いまでも目印として利用されているのだろうか、飾りのようでもあり実用品のようでもある。
どこからともなく鶏が飛び出してきて意表を突かれる。神の使いとされる鶏だけに放し飼いにしているのだろうか。3羽までは確認したが他にも隠れているかもしれない。単独でぶらぶらしていたかと思えば、追いかけあったり、時には激しく突きあったり、喜怒哀楽が目まぐるしく切り替わっていく。
常夜灯の脇に立つと阿波の松島と謳われた橘湾を一望できる。複雑な形をしたリアス式海岸に囲まれた湾内には、大小の島々が浮かび、沖合には四国最東端の伊島がかすんでいる。ゴマ粒のようなものは漁船だろうか。沿岸には景色を壊しそうな火力発電所が座っているが、うまく調和して違和感を感じない。難点があるとすれば阿波の松島という二つ名で、つい本物と比較してしまい、ちょっと島が少ない、などと余計なことが頭をよぎる。
眺めの良いベンチで足を休めていると、暖かな日差しが心地良く、海からのひんやりした風が気持ち良い。周辺では先ほど目にした爺さんと女の子や、リフトで上ってきたおばさんが、思い思いにのんびり過ごしている。このまま横になって1時間ほど眠りたい気分だ。座っているだけで安らぐのだから良い所である。
帰りは予定通り裏参道を利用する。表参道と異なり石段が見えなかったので、近年になり開設されたのかなと思ったが、こちらにも古い道標や鳥居があり歴史は深そうに見える。木漏れ日の道と名付けられている通り自然豊かな道で、森林浴気分で快調に下っていく。
エピローグ
駅に戻ってくると時刻は15時になろうとしていた。時刻表を確認すると次の桑野に向かう列車は16時近くまでない。桑野では四国八十八ヶ所のひとつ太龍寺に向かいたいが、はるか山深くにあることを考えると遅すぎる。迷うことなく15時13分発の徳島行きに乗り込んだ。
乗客はさほど多くないが単行列車ということもあり座席は埋まっている。相席とするか補助席を利用するか、思案しながら車内をゆっくり進んでいくと、うまい具合にひとつだけ空席があるのを見つけた。思いがけず窓側に収まることができて得した気分である。
時間的にそろそろ帰宅する高校生が乗ってくるはず。そんな予想通り見能林には大勢の高校生が待ち構えていた。あとは徳島まで多少の増減はあれど混雑したまま、すれちがう列車も軒並み同じような状況だった。
阿波赤石では線路沿いの桜が満開で、誰もが思わず見つめてしまうほど美しい。春の牟岐線を旅してきた中で、桜はこの駅が一番きれいだった。そんなことを思い返していると、乗り合わせた爺さんが「ここの桜が一番きれいなんや」と、周囲の人たちに語っている声が聞こえてきて、意見の一致になんとなく嬉しくなった。
(2019年4月4日)
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