飯田線 全線全駅完乗の旅 4日目(長山〜野田城)

旅の地図。

目次

プロローグ

路線図(プロローグ)。

2023年4月3日、約1ヶ月ぶりとなる飯田線の旅に向け、名古屋5時29分発の豊橋行きに乗車した。早朝の始発列車にも関わらず、ほとんどの区間で相席になるほど混んでいた。

名古屋駅に停車中の豊橋行き100F。
普通 豊橋行き 100F

ここ数日足に合わない靴で旅をしてきたので足指が痛い。私の旅はとにかく歩くので悪化しないか気にかかる。なるべく指先が靴に触れないよう靴紐をきつく結び、多少の不安を抱えつつ明けゆく車窓を見つめた。

車窓を横切る豊川の川面。
車窓を流れる豊川

6時53分、豊橋に降り立つ。飯田線ホームに向かう途中に、いまや希少な存在になりつつある駅弁販売店があるので、通りがけに昼食用として名物の稲荷寿しを購入した。この時間から駅弁が手に入るのはありがたい。飯田線の訪問駅は徐々に山間部となり、食事難民になる可能性が高まってきたので、これからはお世話になることが増えそうだ。

飯田線ホームまでくると7時1分発の中部天竜行きが停車していたので乗りこむ。春休み中だし時間的にも早めなので空いているかと思いきや学生が目立つ。窓側はすべて埋まっていたので通路側に座り、稲荷寿しを傾かないよう慎重にリュックに詰めた。

豊橋駅に停車中の中部天竜行き505M。
普通 中部天竜行き 505M

豊川でまとまった乗降があり、三河一宮でもまとまった乗降があったが、降りた分だけ補充されてくるため車内はいつまでも混んでいる。

住宅と田畑の広がる台地が尽き、谷を渡り、車窓を緑がかすめはじめると最初の目的地となる江島に到着した。ドアに向かったのは私だけであった。

江島えじま

  • 所在地 愛知県豊川市東上町
  • 開業 1926年(昭和元年)11月10日
  • ホーム 1面1線
路線図(江島)。
江島駅ホーム。
江島駅ホーム

緩やかに下りてきた本宮山の裾野が、豊川の川面に向けて急激に落ちこむ、傾斜地の中ほどに置かれた駅である。山と川がせめぎ合うところで平地は乏しく、行き場を求める線路は地形なりに大きく曲がり、斜面下には同じく行き場を求めてきた国道が走り、わずかにある平坦地には家屋が詰めこまれている。

線路が曲がっているのでホームも曲がっている。線路1本にホームが1面があるだけの簡素な駅だけど土地がないのでそれでも窮屈そうだ。駅舎もないけどホーム上に待合所がある。柱や壁に天井からベンチまで木造で、白く塗られたペンキが剥落しつつある姿には、この駅の歴史ならすべて見てきたという古老の趣があった。

ホーム上の待合所。
ホーム待合所

ホームから下りると、ここで行き止まりの舗装すらしていない小路に出た。時を重ねた家屋がいくつか肩を寄せているのみで、駅前を匂わせるようなものは見当たらない。個人宅の私道に迷いこんだような気分にさせるところだった。

どうして隣駅までわずか1kmしかなく、なにがあるでもないこの立地に駅を設置したのかと思えてくるが、そもそも路線開業時にこの駅は存在しなかった。開設されたのはそれから30年近くもあとになってのことである。

その理由は当初の駅名である「江島渡」から推察できる。明治時代の地図によると近くを流れる豊川に渡船があり、それが結ぶ対岸には駅名と同じ江島地区があるのだ。恐らくは江島地区住民の請願により、渡船との接続駅として開設されたのだろう。やがて橋が架けられたことで駅名から「渡」の文字が取れて「江島」になったのではないだろうか。

駅近くの道路脇に並べられた8体の石仏と石灯籠。
駅近くに並ぶ石仏

炭焼古墳群すみやきこふんぐん

駅の北側に広がる本宮山の裾野を1kmほどさかのぼったところに、円墳を中心とした40基余りからなる古墳群がある。炭焼古墳群や炭焼平古墳群とよばれるそれは、1952年(昭和27年)に発掘されたもので、開発により大半が失われたそうだが、県の史跡に指定された5基が残されているという。江島駅に名所案内板はないが、もしあれば必ずや記載されたであろうところで、まずはここを目指してみることにした。

出発して坂道を数分ばかり上っていくと、黒々した杉木立に包まれた一角があり、内部に向けて赤い鳥居が並んでいた。丸塚稲荷神社という標柱が立っている。

雰囲気のよさに思わず立ちよると、古墳を思わせる小高いところに、狐の石像に守られた小さな拝殿があった。由緒など詳しいことは分からないが、掃き清められた境内から大事にされていることが伝わってくるし、それだけで気分はとても清々しい。

石段の先に佇むこじんまりした拝殿。
拝殿前に佇む狐の石像。
丸塚稲荷神社

足を進めるほどに傾斜は緩やかになっていく。景色も住宅・耕地・樹林などが混じり合うように広がり、行く手に本宮山が立ち上がる、裾野らしいものに変わってきた。通勤だろうか上に下にと車が走り抜けていく。庭で花の水やりをするおばさんと挨拶を交わす。ところどころにバス停が立つ。駅から受ける印象よりずっと開けたところだなと思う。

通学路の標識。
裾野にある柿木平地区とバス停。
沿道に咲くツルニチニチソウ。
裾野を上っていく

沿道にビニールハウスやバラ園の看板を掲げたガラスハウスが並ぶようになると、炭焼古墳群四号墳の標識があり、それに従いハウスに挟まれた細々とした道に入りこんでいく。一見すると農地に引いた作業用の私道で、標識がなければ立ち入るのをためらうような道だった。

炭焼古墳群の四号墳入口の看板。
炭焼古墳群の入口

四号墳は農地のなかにあった。柵で囲われて標石や案内板があるから迷うことなく分かったけど、周囲よりほんのり小高い程度で、むき出しの赤土に雑草と小石が散らばり、古墳というより荒蕪地のようだった。史跡として保存されなければ大半の仲間がそうであるように、開墾されて消え去っていたことだろう。

炭焼古墳群はほとんどが円墳であるが、この四号墳は小さいながら前方後円墳で、しかも発掘当時の状態を唯一留めるものだという。築造は6世紀後半と推定されるとある。

敷地内には形状を分かりやすくするためか前方後円墳らしき形に小石が並べてあり、そのなかを歩いてみると石材をきれいに積み上げた石室が残されていた。横穴式なのだが天井や覆土が失われているので上から見下ろすように覗きこむ。最初は荒蕪地のようだと思ったけど、徐々に古墳であることを実感してくる。

四号墳の傍らに立てられた石碑。
四号墳の全景。
四号墳の石室。
炭焼古墳群の四号墳

四号墳から裾野をさらに300mほど上っていき、往来激しい県道に入ると、歩道脇に柵で囲われた草地があり、そこが十五号から十八号まで4基の円墳であった。ほんのりとした土の盛り上がりと、存在を示す石碑や案内板があるだけで、石室のようなものは存在するかどうかすら分からない。足を止めて左右に見渡せばもうやることはなくなった。

旗頭山尾根古墳群はたがしらやまおねこふんぐん

炭焼古墳群とは豊川を挟んだ対岸にも古墳群がある。それは駅から南東に約1.5kmのところ、旗頭山という標高97mの小さな山の尾根筋に築かれている。名前はそれをそのまま文字にした旗頭山尾根古墳群で、こちらも県の史跡に指定されている。

両者似たような古墳群であれば片方だけで満足したところだけど、旗頭山のそれはあまり目にすることのない小石を積み上げた積石塚古墳で、しかも多数が残存しているというから見てみたい。それに駅名の由来と思しき対岸の江島地区も歩いてみたいので、炭焼古墳群から駅まで下ってきたら、そのままさらに下って豊川沿いの国道に出た。

国道脇の商店。
国道脇の商店

耳を塞ぎたくなるほど交通量の多い国道とはすぐに別れ、豊川に架けられた江島橋という大きな橋を渡っていく。渡船があったのはどこだろうか、痕跡のひとつでもないだろうかと見下ろす川面は、幅は広いけど浅く穏やかで巨大な水たまりのようだった。

江島橋から見下ろす豊川。
豊川の流れ

江島地区ではまず集落内にある江島神社に向かう。当初はまっすぐ旗頭山に向かうつもりでいたけど、炭焼古墳群で目にした豊川市の観光案内板に、江島神社と境内にあるクスノキの巨樹が紹介されていて、遠まわりになるけど訪ねてみることにした。

江島地区の石仏。
江島地区の石仏

田園地帯を抜けて家屋や商店の集まる区画までくると、探す間もなく江島神社が現れた。鳥居の傍らには天神社という標柱が立っている。件の観光案内板によると古くは天神社であったものを、江島神社に改称した名残りのようだ。祭神はもちろん菅原道真である。

陽光そそぐ明るい境内を見わたせば、樹齢300年というクスノキが、拝殿の脇で大きな木陰を作っていた。江戸時代からこの地区を見守ってきた大木だ。吹き抜ける爽やかな風に揺れ動いている。子どもの遊び声でも聞こえてきそうな、のどかさにあふれたところで、いまが昼ならここで弁当を開いたところだ。

江島神社境内。
江島神社のクスノキ。
江島神社とクスノキ

賽銭を投げてから集落を抜けだし、田んぼのなかの県道を横断して、旗頭山のふもとに置かれた長慶寺までやってきた。満開の桜が美しく足を止めて見上げる。

標識を頼りに寺の裏手にまわりこみ、山裾を占める墓地のなかを上っていくと、古墳群の案内板と入口らしき小路を見つけた。あまり訪れる人はいないのだろう踏み跡は薄く、雑草に埋もれつつあり、本当にここだろうかと軽く戸惑いながら足を踏み入れた。

山頂まで木々のまばらな草地の尾根を登っていく。距離は250mほどある。約40基あったという古墳は散らばるように24基が残されていて、それぞれに何号墳と記された標柱が立てられているが、雑草に埋もれたり崩壊が進んでいて思いのほか目立たない。古墳の材料なのか草地のなかに黒っぽい石がごろごろ転がる独特の景観が印象深い。

草地の尾根に散乱する石材。
23号墳の標柱。
旗頭山尾根古墳群

標高100mにも満たない低山とはいえ山に登れば汗がしたたる。気温は20度近くまで上がっていて、ここにきて青空まで広がりはじめたからなおさらだ。日差しをさえぎる木々がほとんどないのでリュックから帽子を取り出す。

たどりついた山頂部には三角点といくつかの古墳があったが、見晴らしのよさに自ずと視線は近くより遠くに向かう。歩いてきた江島駅界隈から江島神社のクスノキまでが視界に収まり、列車の音に目を凝らせば飯田行きの特急が走っている。彼方に霞んでいるのは豊橋の市街地だろうか。立ちはだかる山がないので海までも見えそうだった。

旗頭山からの眺望。
旗頭山からの眺望

持ってきた行動食のパンを取り出し、いい風に冷やされながら休んでいると、時刻が10時半をまわっていることに気がついた。次の列車まで30分ほどあるけど、道のりが2km余りあるので余裕はないに等しい。

足指の痛みをこらえながら急ぎ下山し、早歩きと小走りを繰り返しながら駅に向かう。途中の信号待ちがもどかしい。逃せば1時間待ちになるのでどうしても乗りたいのだ。

汗をぬぐいながらホームに上がり、ひと息ついて呼吸を整えていると、11時6分発の岡谷行きがゆっくりと近づいてきた。この列車は豊橋を10時42分に出て、飯田線の全線を踏破したのち中央本線にまで乗り入れ、終点の岡谷に17時33分に到着するという、日本屈指の長距離ならぬ長時間鈍行である。所要時間は6時間51分にも達する。

普通列車の岡谷行き591M。
普通 岡谷行き 519M

車内は立ち客もいるほどの混みようだったのでドア横に立つ。これまで利用してきた飯田線の列車は地元住民が目立っていたけど、この列車は旅行者が目立ちなんだか雰囲気がちがう。飯田線を踏破する列車は日に何本かあるが、始発から終点まで車窓を楽しめる明るいうちに走る下り列車となるとこれが唯一なので、乗り通すことを目的とした人たちなのかもしれない。

東上とうじょう

  • 所在地 愛知県豊川市東上町
  • 開業 1898年(明治31年)4月25日
  • ホーム 2面2線
路線図(東上)。
東上駅舎。
東上駅舎

豊川沿いの小さな平野にある駅で、南側の駅前には堤防に向けて集落が広がり、北側の駅裏には耕地を挟んで段丘崖が立ち上がっている。すぐ東側では豊川支流の境川という細流が線路と交差していて、名前通り豊川市と新城市の境となっている。

列車からは私のほかに婆さんがふたり降りた。ひとりは駅裏のフェンスにある隙間から出ていき、もうひとりは駅舎に消えていった。乗車する人はいなかったように思う。

遠ざかる列車を見送ってから向かい合う上下線ホームを見渡す。それぞれ申し訳程度の屋根しかなく、構内踏切で結ばれているため跨線橋もないため、まんべんなく暖かな日差しがそそいでいる。周辺には新緑の木々や花盛りの桜が散らばり、春らしい明るさと鮮やかさと穏やかさにあふれた光景であった。

東上駅ホーム。
ホーム駅名板。
東上駅ホーム

近年建てられたらしき鉄筋コンクリート造りのちんまりした駅舎に入る。無人駅なので窓口はないし券売機の類もなく、通路に沿ってベンチがひとつあるだけと狭い。そのベンチすら頭上にあるツバメの巣のため半分はビニールがかけられ使えなくなっている。まるでツバメのためにあるような駅舎だった。

駅前に抜け出ると生け垣の目立つ閑静な家並みが広がっていた。井戸端会議をするおばさんの声だけが賑わしい。商店のようなものは見当たらず駅前というより住宅地の一角に迷いこんだような雰囲気であった。

駅前に置かれた消火ホース格納箱。
駅舎と向かい合う消火ホース

牛の滝うしのたき

駅の傍らを流れる境川を1kmほどさかのぼると滝がある。古くから三河の名勝として知られ、夏には避暑地として賑わうという牛の滝である。これまで幾度も目にしてきた豊川市の観光案内図に必ずといっていいほど描かれていて、いかにも市を代表する滝という扱いに、東上ではここを訪ねてみようと前々から決めていた。

滝があるのは駅裏手にまで寄せてきている本宮山の裾野を上り詰めた辺りなので、まずは駅のある平野から裾野に向けて、両者を隔てる段丘崖を上っていく。明るく穏やかな駅とはがらりと雰囲気が変わり、密生する常緑樹で薄暗く、急勾配あり・つづら折り・落石のおそれ・幅員減少といった黄色い警戒標識が並び、冷たく湿った空気が漂う。

段丘崖を上る道路。
段丘崖の急坂を上っていく

山深くに連れていかれそうな道路で段丘崖を上りきると、畑や果樹園の広がる明るい裾野に出た。緩やかな坂道沿いにはビニールハウスやガラスハウス、それに住宅などが混じり合うように散らばり、行く手には緑濃い本宮山がどっしり座っている。庭先を彩る芝桜やムスカリが眩しいほどに鮮やかだ。

駅ではいい天気だったけど、ここにきて急速に雲が広がりはじめ、日が差したり陰ったりが目まぐるしく繰り返される。風が強まり台風が近づいているような様子になってきた。

裾野を緩やかに上っていく道路。
裾野をゆるゆる上っていく

裾野をさかのぼり本宮山のふもとまでくると、境川が深く削った谷があり、案内標識を頼りに谷底への階段を下りていく。辺りには駐車場や公衆トイレがあり、ちょっとした観光地として整備されている。車が止まっていたので先客がいるのかなと思っていると、階段のなかほどで見物を終えた親子連れとすれちがい、軽く挨拶を交わす。

クサイチゴの白い花。
牛の滝に下りていく階段。
谷底の滝へと下っていく

足を下ろすほどに涼やかな水音が近づき、下りきったところには深々とした谷を作った主とは思えぬ小さな流れと、その水量にしては見応えのある滝があった。牛の滝である。落差は10mほどで迫力には欠けるけど、それ故に恐怖感とは無縁で、眺めていると心が癒やされるものがある。滝壺は広く浅い天然プールのようなもので、傍らには東屋が置かれ、子どものはしゃぎ声が聞こえてきそうなところだ。

牛の滝という名前の由来が気になるがよく分からない。案内板には黄牛の伝説によることや、常竜滝や黄牛滝ともいわれることまでは記されているが、肝心の伝説の内容が記されていないので、分かったような分からないような、もやもやしたものが残る。

牛の滝。
牛の滝

ちょうど12時になったので滝を望むベンチに腰かけ、豊橋駅で仕入れてきた稲荷寿しの包みを開いた。通常の稲荷に加えて、ちりめん山椒稲荷と、わさび稲荷を追加した三色稲荷である。

豊橋の名物駅弁というだけあって甘みの強い濃厚な味は文句なくうまい。そこに辛みとさっぱり感を追加した、わさびとの組み合わせも気に入った。稲荷寿しを持ち歩いたことはなかったけど、揺らしても崩れにくいし、酢飯で持ちはよく甘みは疲れに効き、行動食として優れたものだなと思う。これはまた手にすることになりそうだ。

三色稲荷。
三色稲荷

駅に向けて痛む足指をいたわりながら裾野をのんびり下っていると、早歩きにゆく中年男性と若い女性に立て続けに追い抜かれた。徐々に遠ざかる背中を追いかけながらウォーキングかなと思うけど、小さいながらリュックを背負っていたし、牛の滝から本宮山に通じる登山コースがあるので、下山して駅に向かっている登山者だったのかもしれない。

線路が見えてきたところで、籰繰神社わくぐりじんじゃに参拝することを思い立ち、進路を変えて駅に背を向けた。安産の神ということで私には関係ないからと見送るつもりだったけど、昼をまわったばかりで時間はたっぷりあるし、いまを逃したら二度と訪ねる機会もなさそうだと思うと、行ってみたい気持ちが湧き上がってきたのだ。

沿道のタンポポ。
沿道のタンポポ

そうして田んぼ沿いを10分ほどゆくと籰繰神社の看板があり、こんもりとした深い森に木造の鳥居が口を開けていた。読むに読めないような難しい文字の社名で、辺りにある看板に記されたそれはルビが振られるか、わくぐり神社と仮名表記になったものばかりだ。

薄暗がりのなかに石灯籠の並ぶ参道をたどっていくと、小さな石橋を境にして、角の丸い自然石を積み上げた石段に変わった。不揃いな石をすき間なく整然と並べた様は、野面積みの石垣に通じる美しさがある。自ずと背筋が伸びるような粛然とした空気にも満ちていて、この参道を歩けただけでも予定を変更して来てよかったと思う。

籰繰神社参道。
籰繰神社の参道

このような参道の先にあるのは、どのような古色蒼然とした重厚な社殿なのだろうかと期待するが、上がりきったところは車の轍がある明るい広場で、その向こうにある拝殿も木の香りがしそうな新しいものであった。なんだか意外な気持ちで全体を眺める。

境内に人の気配はなくひっそりしていた。看板によると祈祷は戌の日の決められた時刻に行われており、社務所は月曜休みとある。今日は戌の日ではないうえ月曜なのでもっとも参拝者のこない日なのかもしれない。きっと時期になれば安産・子育てのご利益を求める人たちで賑わうのであろう。

籰繰神社拝殿。
籰繰神社の拝殿

駅までくると列車時刻でもないのに踏切が鳴りはじめ、どういうことかと思っていると黄色い顔をした検測車が現れ、豊橋方面に向けてゆっくり通過していった。新幹線のそれがドクターイエローとして持てはやされているのに比べると、在来線のこれはあまり話題を耳にすることもなく、縁の下の力持ちといった風である。

それから10分ほどしてやってきた13時40分発の新城行きに乗車。江島から当駅まで利用した飯田線を踏破する岡谷行きは混んでいたけど、これは3駅先が終点という短距離列車とあって旅行者の姿はなく空席が目立つ。

駅を抜け出した列車は小さな鉄橋を渡って、豊川市から新城市に入り、段丘崖の裾をなぞるようにくねくねと進む。右窓には豊川に向けて田んぼが広がり、左窓には河岸段丘の段差を利用した城跡や神社が流れていく。

車窓を流れる田んぼ。
東上から野田城へ
野田城駅への入線を運転室越しに眺める。
野田城に到着

野田城のだじょう

  • 所在地 愛知県新城市野田
  • 開業 1918年(大正7年)1月1日
  • ホーム 2面2線
路線図(野田城)。
野田城駅舎。
野田城駅舎

伊那街道に沿って古くからの家並みや寺院があり、それを取り巻くように田畑や新興住宅地が広がっている。駅があるのは街道から脇道をすこし入ったところだ。開業当時は千郷村ちさとむらであり野田という地名もあるが、駅名はそのどちらでもない、南西1km余りのところに築かれていた戦国時代の城にちなむ。

下校時間のようで数人の学生と降り立った。すれちがいの上り列車からは中高年が何人か下りてくる。足早に列車に向かう若者もいる。駅前に並んだ送迎の車からはドアを閉める音が聞こえてくる。小さな駅だけど思いのほか生活利用者が多く賑わしい。

構内踏切で結ばれた狭いホーム、歴史の染みこんだ木造駅舎、古めかしい鉄骨の架線柱、豊川鉄道の時代からあまり変わってなさそうな駅風景に見入ってしまう。いっぽうで昭和半ばまでの地図では桑畑になっている駅裏は様変わりしていて、横浜ゴムの工場がどっしり構え、求人の看板をホームに向けて掲げていた。

野田城駅ホーム。
野田城駅ホームと駅舎。
野田城駅ホーム

増築でもしたのか意図的な装飾なのか、三段に高さの分かれた瓦屋根が印象的な木造駅舎は、現代的に改装されることもなく黒ずんだ木柱や板壁を見せ、時の流れに身を任せたような佇まいをしている。

くたびれた駅舎を残しているのは駅員がいるためか、それともなにかに活用されているのかと待合室に入ると、ベンチがあるだけでなにもなかった。無人化されて窓口は閉ざされ券売機の類もない。吹き抜ける風に桜の花びらが舞いこんでいる。そこはかとなく物寂しさはあるけど木目と白壁からなる空間は好ましく映った。

野田城駅待合室。
待合室

利用者と送迎の車がいなくなり、ひっそりとした駅前に出ると、数軒の住宅のほか廃業したのか休業日なのかシャッターの下りた商店があった。散策していると新たな電車と送迎の車がやってきてひととき賑わいが戻る。利用者がそれなりにある割に辺りが閑散としているのは、送迎を要するほど広い範囲に家があるからなのだろう。

駅前商店の新聞自販機。
駅前商店の新聞自販機

野田城跡のだじょうあと

駅から歩いて約20分のところに野田城の跡がある。さかのぼること450年前の1573年(元亀4年)1月、武田信玄の率いる軍勢が、徳川方であったこの城を攻撃した。約1ヶ月の攻防を経て落城したのであるが、信玄はまもなく亡くなったため、結果としてこれが信玄最後の戦いとなった。病死とされるが城内からの狙撃で負った傷がもとだとする伝説があり、それをもとに作られた映画が黒澤明の影武者である。

そのような歴史的なあれこれにより小さな城でありながら駅名に利用されるほど有名だ。駅前には詳細な案内図が立てられ、野田城の戦い四百五十年と記されたのぼりが風にはためいている。そして私の目的地にもなっている。

線路や田んぼ沿いの小路を進んでいくと、地蔵堂・観音堂・庚申祠・秋葉祠といくつものお堂や祠の集まる一角があり、それを過ぎると伊那街道に入った。いまは地元住民しか利用しないような閑静な道で、歩行者どころか車にすら出会わない。

石仏の並べられた庚申祠。
田起こしのあとについた動物の足跡。
沿道の古民家。
錆びついたクレジットカード現金化の看板。
城跡への道のり

ねずみ色をした雲が広がり暗くなってきた。いまにもこぼれてきそうだと思っていると、冷たいものが顔に当たりはじめた。雨の街歩きは好きだけどそれは傘があればの話で、好天予報だったので持ってきておらず、本格的に降りださないうちにと足を速める。

右手に河岸段丘の段差が迫ってくると、そのふもとに鳥居があり、樹林に包まれた段上に向けて石段が延びていた。扁額には千郷神社とある。昭和の半ばまでこの辺りが千郷村であったことを思うと、村の総鎮守ともいうべき存在なのかもしれない。

先を急ぎたいけど石段の先が気になり上っていくと、広い平坦地になっていて、ご神木や狛犬の向こうに拝殿や社務所が並んでいた。その背後に隠れるように稲荷神社や本宮山遥拝宮といった境内社があり、それらひとつひとつをめぐり歩く。どこまでも人の気配はなく鳥のささやきと風のざわめきだけの落ちついた空間であった。

千郷神社の狛犬と拝殿。
千郷神社

神社を下りて再び伊那街道を進んでいき、脇道で小高い山に上っていくと、いくつも看板の立てられた城跡入口があった。観光地として公園のように整備されているかと思いきや、草木の茂る自然のままに残されていて、看板の類がなければ素通りしかねないところだ。案内図によると本丸から三の丸まであり、現在地は二の丸付近のようである。

空堀らしき窪みを横目に踏み跡をゆくと、スギの植林地と化した平坦地に出た。どうやら本丸跡のようだ。見まわせば野田城稲荷の赤い鳥居や祠があり、野田城址と刻まれた大きな石碑が座っている。誰もおらず生き物の気配もなく、時が止まったような静けさだった。

野田城址の石碑。
本丸跡の平坦地。
野田城稲荷の祠。
野田城跡

井戸の看板がある柵に囲われた大きな穴を覗きこむ。落ち葉と小石が散らばるだけで水はない。長い歳月に埋まってしまったのだろうか。石積みのような人工物もないので、財宝探しでもしたのかと思えるような素掘りの単なる大穴である。

武田軍に攻められた野田城は頑強に抵抗をつづけたのであるが、対する信玄は甲斐国から金掘衆を呼びよせ、本丸下に坑道を掘って井戸の水を抜いてしまったという。どれだけ気力があろうと水がなくては万事休すで決着がついた。これがその井戸なのか知るよしもないが、水のない井戸にそんな故事を思い起こす。

野田城跡の井戸。
井戸跡

本丸の片隅に「信玄公、狙撃場所」という看板がある。夜ごと城内より聞こえてくる美しい笛の音色に、誘われ出てきた信玄を狙撃したとされる場所だ。樹林に阻まれ見通せないが隣接する法性寺には、これと対になる信玄が撃たれた場所もあるという。信玄はそのときに受けた傷がもとで亡くなったとされる。使用されたとされる火縄銃まで現存しており、いかにも確定した事実のようであるが、あくまでこれは伝説の話である。

ひと通りの見学をしたところで駅に引き返す。法性寺にある信玄が撃たれた場所は気になるけど、それ以上に雨が落ちてこないかが気になる。

駅に戻り15時46分発の豊橋行きに乗車した。中央本線の上諏訪からはるばる6時間以上かけてやってきた列車で、飯田線に何本かある長時間鈍行のひとつだ。自然豊かな山地を抜けてきた列車だけあって、行楽帰りらしきリュックを持った老人で混んでいた。

野田城駅に入線する豊橋行き544M。
普通 豊橋行き 544M

立ちんぼうかなと思ったけど、わずかに空席があり窓側に座ることができた。これまで飯田線の旅では乗車時間が短く、ゆっくり車窓を楽しむことはできなかったけど、新城市までくると往来に時間がかるようになり、往復の車中も楽しみになってきた。

(2023年4月3日)

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