目次
プロローグ
2018年3月28日、朝から雲ひとつない快晴であった。それだけによく冷え込んでいて、日なたであればほんのり温かいが、日陰に入ると手袋が欲しくなるほど寒い。朝でこのくらいの天気と気温だと、日中は汗ばむほどの陽気になることが予想された。
旅のはじまりは徳島駅。人混みをかき分けるようにホームに向かう。乗車するのは阿南行きの普通列車だ。すぐに入線してきたその列車からは大勢の通勤通学客が降りてきた。おかげで車内は空いていたが、発車時刻が迫るにつれて徐々に埋まっていき、ついには立ち客まで出る混雑となったところでドアが閉まった。
エンジン音も高らかに徳島駅を抜け出す。そしてすぐに減速して阿波富田駅に到着した。これ以上混雑されたらたまらないと内心思っていると、どんどん乗客は降りていき、とうとう乗り合わせた半分ほどが降りてしまった。ひと駅でこんなに降りるのかと軽く驚かされる。ちょこんとホームがあるだけの小さな駅だが、中心市街に近いだけに朝はここを目指してくる人が多いと見える。
次は下車予定の二軒屋駅だ。ゆとりのできた車内を歩いて運転席の後ろに移動する。前方には大勢の通勤通学客が待ち受けるホームが見えた。降りるから良いもののまた激しい混雑が始まるらしい。これだから朝晩の列車はなるべく避けるようにしているのだが、今朝は宿でもたついてしまい、この時間になってしまった。
二軒屋
- 所在地 徳島県徳島市南二軒屋町
- 開業 1913年(大正2年)4月20日
- ホーム 1面2線
駅名からは、わずかな住宅がある原野のような場所を想像するが、現実にはぎっしり隙間なく建物が並び、駅を見下ろすようにマンションまで建つ。地名にはそれなりの意味があることを考えると、昔は名前通りの寂しい所だったのかもしれない。今では徳島市街にすっかり飲み込まれ、千軒屋とでも名付けたくなるような街の中である。
降り立ったホームはローカル線とは思えないほど人が多い。ちょうど上下線の列車があるからだ。それはこの列車が去るとどちら方面もしばらく来ないことを意味しており、案の定というかエンジン音が遠ざかると、すっかり人気のない静かな駅に変わった。賑わっていたはずが誰もいなくなる、ローカル線の朝ではおなじみの光景だ。
構内は島式ホームの交換可能駅で、昭和23年の文字がある木造のしっかりした上屋や、今では過剰ともいえる5〜6両は収まりそうな長さに歴史を感じる。目の前には朝日を浴びて光り輝く上り線の線路と、保線車両が利用するのか錆の目立つ側線が並び、その向こうには大柄な木造駅舎が建っている。昔ながらの駅らしい姿をした駅に気分が高揚してくる。
構内踏切で線路を横断して駅舎に入る。これだけの街中にこれだけの立派な駅舎なのだ、有人駅を期待するが、窓口はカーテンで閉ざされていた。板で塞がれるところまでいっていないあたり、近年まで営業していたことが察せられる。券売機はあるので大部分の人に不便はないのだろうけど、閉ざされた窓口が駅全体を寂れた雰囲気にさせていた。
忌部 神社
駅からは街並みに遮られてほとんど姿は見えないが、直線距離にして500mほどの所に
時間的なものか道路は渋滞気味で騒々しく落ち着かない。歩道があるとはいえ学生が自転車で走り抜けていくので気も抜けない。林芙美子「放浪記」の舞台という標柱に気づくが、見たところ小さな駐車場があるだけ、しかも前述のような状況にあるので、横目に眺めただけで通り過ぎてしまった。
程なくして入口にどっしり太い石柱の立つ脇道が現れた。刻まれた文字に目をやると忌部神社とある。奥に視線をやると満開の桜に隠れるようにして、扁額すらない小ぶりな鳥居が佇んでいるのに気がつく。その手前にある観潮院という小さな寺や月極駐車場の方が目立ち、訪れる人のなさもあり、この石柱がなければ通り過ぎていたところだ。
思いのほか小さな神社だと思いながら鳥居をくぐり石段を上がっていく。何の変哲もない石段であるが深い緑に包まれていて気持ちが安らぐ。やはり街中よりも自然の中を歩くほうが性に合っている。宿を出たときには寒いくらいだったのに、もう寒さは微塵もなく、こうして石段を上がっていると額に汗がにじんできた。
上りきると桜の華やかな明るく広い境内に出た。そこには入口周辺や参道の様子から想像していたより、ずっと大きくて立派な拝殿や社務所が並んでいた。それでいて参拝者の姿はなく、ふもとの喧騒が別世界に思えるほど静かで穏やかな時が流れていた。
この神社は延喜式にも名のある歴史ある神社で、阿波を開拓したという忌部氏の祖神、天日鷲神を祭神としていた。面白いのが建てられたのは明治時代と新しいことで、まるで謎かけでもしているような話である。どういうことかといえば忌部神社がどこにあったのかは不明で、しかも複数の神社がその系譜を主張していたため、社地をめぐる論争となり、結果として古代の忌部神社とはまるで関係のない、この地に新たに建てることで決着したという。
上がってきたのとは異なる参道を下っていくと、いつの間にか隣接する金刀比羅神社の境内に迷い込んでいた。目を引くのが色鮮やかな陶器で作られた灯籠で、他では見た記憶のない珍しいものだ。開けた所からは眉山のふもとに広がる家並みや、山上に向けてゆっくり上がっていくロープウェイがよく見えた。
ここは周辺住民の運動場にでもなっているのか、軽やかに通り抜けていく老人や、自己流ラジオ体操のような不思議な体操に興じるおばさんを見かける。それでいて誰ひとり参拝する人はいないものだから、神社にも関わらず参拝している私が異質に思えてくる。
参道を下っていくと先ほどの通りに戻ってきた。そこには鳥居を見下ろすほどに巨大な石灯籠が鎮座していて驚かされる。説明板には10.24mという高さと独特の威容から日本一の折紙つきとある。江戸時代のものというから作るのにも運ぶのにも莫大な手間と費用がかかったことは想像に難くない。それを誰が寄進したのか気になるが、台座に刻まれた「藍玉大坂積」の文字からして藍商人のようである。藍玉を船で大坂へと輸送することから、海上交通の守り神たる金刀比羅神社への信仰があつかったのだろうと想像する。
駅に戻ってくるとタイミングが悪く列車は出たばかりだった。幸いにして列車本数が多いので30分ほど待つだけで良い。この時間を利用して駅周辺を散策してみると、大通りから少し中に入っただけで古びた建物が並ぶ通りが残されていて、この辺り丹念に歩けば面白いものに出会えそうな予感がした。
乗車したのは牟岐行きの普通列車で、単行のワンマン列車なので利用者が少ないのかと思いきや、車内は満席を通り越して立ち客まで出ていた。お遍路さんが4〜5人混ざっているのが四国らしい。しかもその中には外国人の姿まである。きっと小松島にある十八番札所の恩山寺に向かうのだろう。牟岐線沿線にはいくつか札所があるので、この先も車内でお遍路さんを見かけることはありそうだ。
二軒屋を発車するといよいよ車窓に田んぼが姿を現しはじめた。のんびり眺めたいところであるが、混雑しているのみならず、わずか2分という乗車時間で、車窓を楽しむ余裕も時間もなくあっという間に到着。
文化の森
- 所在地 徳島県徳島市八万町弐丈
- 開業 1990年(平成2年)11月3日
- ホーム 1面1線
田畑や住宅がどこまでも広がる平野の中にある。駅名とは裏腹に文化や森を連想させるものは見当たらない。景色には似つかわしくない駅名がどこから来たのかといえば、2kmほど内陸にある「徳島県文化の森総合公園」からで、そちらは緑あふれる丘陵地に博物館・美術館・図書館などが並ぶという、文字通りの文化の森となっている。当駅はその公園の開園に合わせて開業したものである。
賑やかな家族連れと降り立ったホームは、築堤上にあるため見晴らしも風通しも良い。平野の彼方には眉山がよく見える。家族連れはどこに向かうのか足を止めて、あの辺りかと指をさしたりしていたが、いつしか姿を消していた。
平成生まれという新しい駅だけに簡素かつ近代的な姿をしている。線路脇にちょこんと置かれたホームは、全体に鉄骨とコンクリートで仕上げられ、無駄なものは何もないといった風である。当然のように無人駅で駅舎もないが、大きめの上屋と券売機が置いてあり、利用者はそれなりに多いのかもしれない。
階段を下りて駅前に出るといきなり目の前が畑で、狭い道路沿いには民家が点在し、辛うじてある駐輪場と公衆電話だけが駅前であることを主張している。何か面白いものが隠れていないかと周囲を歩いてみるが、これといって何も見つけられず、気温の上昇と日当たりの良さに汗をにじませただけに終わった。
文化の森
文化の森から行くとすれば、文化の森しか思い浮かばない。名前が同じで紛らわしいが駅から公園に行こうということだ。他にここに行きたいという所が見当たらないこともあるが、駅名の元になった場所がどんな所なのか訪ねてみたいというのもある。
どう向かうか思案していると列車が到着し、高校生くらいの女の子が2人降りてきた。そして駅前にある当駅から文化の森までの簡素な地図を見ながら話し合っている。どうやら目的地は同じらしい。楽しげに話しながら去っていく。
彼女らを追いかけるように出発すると、すぐに園瀬川というゆったりした流れに出会う。目指す文化の森はこの上流かつ対岸にあるので、迷うことなく橋を渡り、そこから右岸の川沿いにある道路をさかのぼっていく。道ばたの草むらには、お遍路さんが座りこむようにして休んでいて、四国らしい光景だと思う。
ここまでは順調であったが、この先で道路が自動車専用道になることに気がつき、愕然としてしまう。どうりで先行した女の子たちが見当たらない訳である。迂回路でもないかと探すが見つけられず、結局橋を渡るところまで引き返すことになった。
改めて左岸の堤防伝いに上流を目指す。この辺りは家並みが途切れることなく広がり、学校や集合住宅まであり、駅周辺よりずっと発展している。それは同時に面白みのない景色でもあるので足早に歩くと、初夏を思わせる陽気にのどが渇いてきた。
結局駅から1時間ほどかけて文化の森に到着した。緩やかな傾斜地に広がる樹林の中に、図書館や美術館といった施設に、大きな広場などが点在し、それらを結ぶように散策路が延びている。その規模といったら歩くだけでも相当な時間を楽しめそうなほどである。これはいいところだと思ったのも束の間、あちこちで大掛かりな工事をしていて、耳をふさぎたくなるほどの騒音を立てていたのには参った。
騒音から逃げるように高台に上がっていくと、満開の桜が取り囲む大きな芝生広場に出た。たくさん配されたベンチでは、親子連れから老夫婦までが思い思いに過ごし、木々の下ではレジャーシートを敷いて花見をする姿もある。空いたベンチに腰を下ろしてみると、涼しい風が吹き抜けていき何とも心地よい。木々のざわめき、子供たちの歓声、うぐいすの鳴き声、このまま昼寝したくなるほどの穏やかな時間が流れていた。
散策路を歩いていると広い斜面を埋め尽くすほどの紫陽花に足が止まる。まだ若葉が出はじめたばかりで地味な色合いだが、時期になれば鮮やかな紫色に染まるのだろう。
そこを抜けて山上に向かう小路には「あづり越」という標識が立ててある。何とか越という響きからもしやと思えば、やはり遠い昔に空海や源義経が越えたという古の遍路道だった。現在の整備された公園の姿からは想像もつかぬほど歴史ある土地のようである。
公園の最深部まで上がってくると小さな東屋のある展望広場に出た。木々の隙間からは眉山の山並みと、ふもとに広がる徳島市街がちらりと見える。逆に言えばそれだけの場所なので訪れる人はほとんどない。鳥のさえずりくらいしか聞こえない静かな広場だ。登山道の休憩所にいるような気分になってくる。件のあづり越をする人が利用するのか、東屋には竹で作った杖がたくさん立てかけてあった。
やがて戦前の洋風建築を思わせる格式高そうな建物の前に出た。昭和初期に建てられた旧徳島県庁舎を移築したものだという。図書館を想像したが古い記録や公私文書などを収集管理する文書館であった。文書館らしく「高見家文書に見る吉野川中流域の産業」という企画展を開催中で、入場無料という文字に建物内の見学もかねて迷うことなく入館。文書よりも当時の写真の数々が印象に残る。
明治から昭和初期にかけて活躍した人類学者、鳥居龍蔵の博物館にも立ち寄る。徳島城跡にある貝塚でその名を見かけたのを思い出す。展示は東アジア各地での収集品や写真から、彼自身の生涯についてまで広い範囲に及ぶ。おかげで詳しくは知らなかった鳥居龍蔵だが、おぼろげながらその輪郭が見えてきた。小学校中退と学歴はないがやりたいことに突き進み、今なお色褪せることのない業績を残したその生き様は、同じく学歴はないが日本の植物学の父とまで言われた牧野富太郎の姿に重なるものがあった。
散策路では縦笛を思わせるどこか郷愁を誘う音色が聞こえはじめた。最初はスピーカーから流れているもの思ったが演奏中の中年男性が目に留まる。見れば長さの異なる縦笛を何本も横に並べたような、面白い楽器を操っているではないか。聞けばパンフルートというルーマニアの民族楽器だという。その懐かしさを感じる音色にしばし聞き惚れてしまった。
傾きはじめた太陽に急かされるように駅に向かおうとしていると、公園入口にある王子神社が気になり足が止まる。駅まで遠いのだから先を急がねばと頭では思いつつも、引っ張られるように高台にある社殿へと続く階段を上がっていく。
その先には拝殿や社務所がぎゅっと小さく凝縮されるようにして建ち並んでいた。境内はきれいに掃き清められ、参拝者と歓談する宮司さん、境内をかっぽする猫とそれを取り巻く笑顔の人々、あちこちに貼り出された手作り感のある説明文、なんだか明るく温かみがある。大きく荘厳な襟を正して参拝するような神社とは対照的に、足を伸ばしてくつろぎたくなるような雰囲気の神社である。
それにしても見れば見るほど猫ずくしである。神社自体が猫神さんの愛称を持ち、猫神さんと書かれたのぼりが立ち、さすり猫という大きな猫の像が鎮座し、奉納された猫の置物が並ぶ。御朱印や絵馬にも猫が潜んでいる。あらゆる所に猫が顔を出すと言っても過言ではない。極めつけはやはり境内でくつろぐ本物の猫だろうか。
それは三百年ほど前に起きた阿波の猫騒動にさかのぼるという。この話にはバリエーションがあるようだが概ねこのような内容だった。無実の罪で捉えられた庄屋の娘お松が処刑前に、愛猫お玉に報復するよう言い含めた。すると後を追うように亡くなったお玉の霊が、陥れた人々を次々祟ったため、それを鎮めようと、この地にお松とお玉の霊を祀ったという。それがいつしか願い事を叶えてくれる猫神さんになったということである。
そんな話を知ってか知らずか、トラとシロクロの2匹が自由気ままに過ごし、それを子供から大人までが賑やかに取り囲んでいる。猫の方はうるさいなあといった様子で、ときどき逃げるように場所を替えながらごろごろしていた。
神社をあとにすると駅まで一直線だ。往路こそ道に迷ったが同じ轍は踏まない。最短コースを選ぶように足早に進む。到着して時計を見ると30分とかかっていなかった。
列車は概ね30分に1本あるのですぐにやってきた。降りる人はなかったが私を含めて3人が乗り込んだ。車内は帰宅時間にはまだ早いこともあり空いている。各シートに1人か2人が座っている程度で空席もあった。牟岐線の旅でこれだけ余裕で座れるのは初めてのことだ。乗車時間は数分と短いが、久しぶりにのんびり車窓を楽しると嬉しくなる。
発車するとすぐに園瀬川を渡る。すると車窓には住宅よりも農地が目立ちはじめ、背後には文化の森がある向寺山から連なる山並みがそびえる。この景色にようやく徳島の市街地を抜けたという気がした。
地蔵橋
- 所在地 徳島県徳島市西須賀町
- 開業 1913年(大正2年)4月20日
- ホーム 1面1線
開業から百年以上が経過した駅で、牟岐線では最も歴史ある駅のひとつだ。一方で周辺の街並みにはそれほどの歴史は感じられず、どこか新興住宅地のような雰囲気が漂う。駅前にはそう古くもない住宅が整然と並び、駅裏にはのどかな田園風景が広がる。街があるから駅ができたというよりは、駅があるから街ができたという雰囲気である。
数人と一緒に降り立ったホームは花盛りだった。桜・チューリップ・菜の花と色とりどりの花が目に飛び込んでくる。まさに春らんまんである。日当たり良好で風はほとんどなく何もしなくても汗がにじむ。周辺は人通りも車通りも少なくひっそりとし、のんびりしたローカル線の小駅を思わせる。
構内はホームが1面に線路が1本あるだけという簡単なもの。数の上では文化の森駅と同じだ。しかし駅の前後で不自然に曲がる線路や、ホームの片面にある花壇と化した空地が、かつては島式ホームの交換可能駅だったことを物語る。撤去されたのはホームと駅舎の間にあった下り線で、現在は上り線だった方の線路だけが残されていた。
元々は構内踏切だったらしき通路で下り線の跡地を横切り駅舎に入る。小ぶりな木造駅舎が残されているが予想通りの無人駅だ。窓口の跡地は完全なる壁になっていて、そこに窓口があったという痕跡すら見られない。待合室にはわずかばかりのベンチと券売機があるだけで、他の無人駅と大差ないが、駅務室はきれいに改装されて地域住民の交流施設になっていた。
駅の内外を散策していると徳島行きの普通列車がやってきた。ホームに目をやると数人が乗降しているのが見えた。これで上下列車が去ったのでしばらく列車はない。当然駅には誰もいなくなると思ったが、どういう訳だか待合室には若い女性がひとり、ベンチに腰掛けてスマホをいじり続けていた。私が降り立った時からずっとそうしており、てっきり上り列車を待っているものと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
駅前に出るとそこは自転車で埋め尽くされていた。奥の方は取り出せないのではと思うような自転車の群れだ。広い範囲にたくさんの住宅があることは想像に難くない。朝晩ともなるとこれらが動きだして賑わうのだろうが、今は待合室の女性以外に人影すらなく、駅前広場を取り囲むように植えられた桜の枯木だけが静かに揺れていた。
弁天山
地蔵橋には有名な山がある。百名山のような意味で有名なのではない。自然の山として日本一低いことで有名なのだ。その名は弁天山で気になる標高は6.1mである。高さのみならず成り立ちにも興味深いものがあり、古くは海に浮かぶ小島であったが、室町時代に海岸線が後退したため、島から山に変わったという。
ちなみに人工的に作られた築山も含めて日本一低いのは、宮城県仙台市にある日和山で、標高は弁天山の半分以下という3mしかない。さらに国土地理院発行の地形図に載っていない山も含めると、香川県東かがわ市には自然の山でありながら弁天山より低い3.6mの御山があり、秋田県大潟村には築山ながら驚きの標高0mという大潟富士がある。町おこしの側面もあり低さをアピールする山は各地にあり面白い。
そんな弁天山は駅の裏手に広がる田園地帯を歩くこと10分ほどで見えてきた。平野の中にぽつんとあるのですぐにそれと分かる。おわんを伏せたような形は古墳だと言われたら信じてしまいそうだ。元々は島だったというだけに田んぼの海に浮かぶ小島のようでもある。こういう小山には往々にして神社があるのだが、ここもまた例外ではなく、ふもとには赤い鳥居が立ち、山頂に向けて参道が伸びていた。
目の前に山があるからには標高に関わらず登らないという手はない。さっそく登山道も兼ねた参道に足を踏み入れる。意外と急峻なのか山頂に向けて一直線ではなく、らせん階段のようにぐるぐる上がっていく。神社であると同時に観光地でもあるからか、足元はきれいに舗装され手すりまで設置されていた。意外と整備が行き届いているなあと考えていると、気がつけばもう山頂に立っていた。
山頂はちょっとした平地になっていて小さな祠が鎮座していた。市杵島姫命を祭神とする厳島神社だ。市杵島姫命は神仏習合において弁天様こと弁財天と同一神であり、弁天山という名前から想像する通りの祭神だ。周辺は平野だけに眺めは良さそうだが、木々が密生して展望が開けないのが少し残念。
登頂証明書を配布しているというので、下山した足で道路を挟んで隣り合う中華そばの店に向かう。まもなく店に辿り着こうかというところで、すっと中から爺ちゃんが出てきて、証明書ですかと尋ねてきた。証明書は店先に置かれた木製の棚にあり、名前や日付は自分で記入するなど、ひと通り説明すると店の中に戻っていった。その慣れた様子から私と同じような人がよく訪れるのは間違いない。
せっかくなので中華そばを食べようとのれんをくぐる。入口脇では先ほどの爺ちゃんが婆ちゃんと食材の下ごしらえをしていた。カウンターでは兄ちゃんがノートに向かっている。客の姿はなく準備中を思わせる。あれっと思ったら一斉に立ち上がり営業中の顔に変わった。窓側のテーブル席に腰を下ろすと、開け放たれた窓から弁天山がよく見え、気持ちの良い風が吹き込んでくる。穏やかな昼下がりという雰囲気が眠気を誘う。
しばらくして調理が終わり運ばれてくると、皆さん客などいないかのように先ほどと同じような作業に戻っていった。味はどうかといえば同じく中華そばと呼ばれる高山ラーメンに似ていて、細麺なのも同じだ。ただこちらの方が脂っぽい。具材は細いもやしに細いメンマ、そこにネギがたっぷりと載り、味も見た目もどこか懐かしさが漂う。安くて美味いというまた食べたくなる味であった。
山には登ったし空腹は満たされたし、もう思い残すことはない。迷うことなく駅に向かうことにした。なるべく車の通らない小路を選びながらのんびり歩いていく。雲ひとつない青空を見上げると、まだ日が照りつけているというのに月がはっきりと出ていた。
エピローグ
駅に戻ってくると待合室には先ほどの女性がまだ座っていた。姿勢もそのままに脇目もふらずスマホをいじっている。列車に乗るでもなく根が生えたように動かない。考える人ならぬスマホをいじる人だ。ここに住んでいるのかと尋ねたくなるような人である。
天気が良いのでホームでぼんやり徳島行きの列車を待っていると、おっちゃんが構内まで自転車で乗り込んできた。またおかしな人が現れたと思いきや花壇の手入れに訪れた人だった。そんな作業や桜を眺めていると徳島行きの普通列車が滑り込んできた。老夫婦に見送られた大きなスーツケースを持つ若い女性と一緒に乗り込んだ。
車内は満席で通路も立ち客でいっぱいだった。仕方がないのでドア脇に立っていく。そのまま徳島を目前にした阿波富田までやってくると、通勤利用者がどっと乗り込んできて押すな押すなの超満員になった。こうなるともはや景色を楽しむどころではなく、早く到着するのを待つばかりであった。
(2018年3月28日)
コメント